四話 夢の終わり
サクラと別れてから三日。
颯茜の日常は、表面上は何も変わらなかった。
学校に行き、授業を受け、友達と他愛もない話をし、家に帰る。
──ただひとつを除いて。
(……誰かに、見られてる)
その感覚だけが、ずっと消えなかった。
振り返っても誰もいない。
気のせいだと言い聞かせても、背中に刺さるような視線は消えない。
サクラの言葉が、ふと蘇る。
『……三日もすれば、何かが変わる』
(変わるって……これのことかよ)
颯茜はため息をつきながら、家の鍵を開けた。
「ただいま……」
返事はない。
律の部屋も、あの日からずっと静まり返ったままだ。
颯茜は制服を脱ぎ、リビングに向かおうとした、そのとき。
──ピンポーン。
家の中に響くインターホンの音。
(……誰だよ、こんな時間に)
颯茜は玄関に近づき、覗き穴を覗く。
「…………っ」
そこに立っていたのは──
黒いスーツをバシッと決めた、無表情の青年が二人。
律があの日見せた“冷たい目”と同じ類いの無表情だった。
(……これ、絶対に普通じゃねぇ)
颯茜が息を潜めていると、インターホン越しに淡々とした声が響いた。
『九条颯茜さん、迎えに上がりました』
(迎え……?誰のだよ)
颯茜の心臓が跳ねた。
青年のひとりが胸元からカードを取り出し、
カメラに向けて掲げた。
そこには、黒い文字でこう刻まれていた。
──《特別公安警備局 第零課》
通称《秘密警察》
(……秘密警察……!)
颯茜の喉が乾く。
青年は淡々と続けた。
『サクラ様より指示を受けています。九条颯茜さんを“保護”し、指定の場所までお連れするように、と』
(……サクラの、差し金……)
あの柔らかい声が脳裏に蘇る。
『君はもう、“こちら側”に足を踏み入れた』
その意味が、ようやく理解できた。
これは“迎え入れ”だ。
律が選んだ世界へ。
颯茜が追うと決めた世界へ。
青年は無表情のまま、もう一度だけ静かに告げた。
『九条颯茜さん。
準備は整っています。
どうか、ドアを開けてください』
その声には脅しも怒りもない。
ただ、淡々とした“事務的な冷たさ”だけがあった。
颯茜は、震える息を吐いた。
(……サクラ。お前、本気で俺を……)
スマホが震えた。
画面には短いメッセージ。
『大丈夫。彼らは君を傷つけない。これは“君が選んだ道”の最初の一歩だよ』
送り主──サクラ。
颯茜はゆっくりと玄関の鍵に手を伸ばした。
(……律。俺は、お前のいる場所まで行く)
カチリ、と鍵が外れる音が響いた。
青年たちは微動だにせず、ただ静かに頭を下げた。
『お待ちしておりました。九条颯茜さん』
颯茜は一歩、外へ踏み出した。
その瞬間、日常が音もなく崩れ落ちた。
■■■
──車はすでに走り出していた。
颯茜は後部座席に座り、シートベルトを握りしめる。
隣には誰もいない。前の席には、迎えに来た秘密警察の青年が二人。
車内は静かだった。
エンジン音もほとんど聞こえない。
(……なんで俺、こんなことになってんだ)
窓の外には、見慣れた街並みが流れていく。
でも、いつもより遠く感じた。
「目的地までは二十分ほどです」
助手席の青年が淡々と言う。
声に感情はないが、威圧感もない。ただ事務的だ。
「……どこに行くんだよ」
「第零課・外郭施設です。詳細はサクラ様より」
(サクラ……やっぱりあいつの差し金か)
颯茜はスマホを取り出す。
ちょうどそのタイミングで、画面が光った。
『乗ってくれてありがとう、颯茜』
サクラからだった。
(見てんのかよ……)
続けてメッセージが届く。
『緊張しなくていいよ。これは“君が選んだ道”の正式なスタートだから』
颯茜は息を吐いた。
(……選んだのは俺だ。文句は言えねぇよな)
車は街を離れ、郊外へ向かっていく。
信号はスムーズに抜け、渋滞もない。
運転席の青年が、ふいに口を開いた。
「九条颯茜さん」
「……なんだよ」
「あなたがこちら側に来ることは、アザミ様には伝わっておりません」
「そうなのか?」
「はい」
颯茜の胸がざわつく。
(律……知らねぇのか。俺が来るって)
青年は淡々と続けた。
「サクラ様は、“兄が来ると知ったときのアザミの表情が楽しみだ”と仰っていました」
「……楽しみってなんだよ」
「さあ。私たちには分かりません」
車はさらに速度を上げる。
街灯が少なくなり、外は暗くなっていく。
颯茜はシートに背を預け、目を閉じた。
(……お前のいる場所に、俺は本当に行くんだな)
車はまっすぐ、秘密警察の施設へ向かっていた。
「それから、ここからの全ては秘匿主義でお願います」
■■■
車が止まる。
颯茜はシートベルトを外し、外の様子をうかがう。
窓の外には、街灯もまばらな広い敷地。
無機質な建物がひとつ、ぽつんと立っていた。
(……ここが、秘密警察の施設……?)
ドアが開き、青年のひとりが言う。
「降りてください。サクラ様がお待ちです」
颯茜は深呼吸して車を降りた。
夜風が冷たい。
建物の中はもっと冷たそうだった。
案内されるままに無言で歩く。廊下は白くて静かで、足音だけが響く。
(……病院みたいだな)
そんなことを考えていると、青年が立ち止まった。
「こちらです」
無機質な扉がひとつ。
ノックもせず、青年は静かに開けた。
中は広い部屋だった。机も椅子もあるのに、生活感がまったくない。
そして──
部屋の中央に、サクラが立っていた。
「来てくれて嬉しいよ、颯茜」
いつもの柔らかい声。
でも、ここではその声が妙に浮いて聞こえる。
「……勝手に連れてきたくせに」
「うん。勝手だね」
サクラは微笑んだ。
怒っている様子はまったくない。
「でも、君は来るって分かってた」
「……なんでそんな自信あんだよ」
「君は律を追うって言った。なら、ここに来るしかないでしょ?
それに、僕は言ったよ。もう、戻れないと──」
颯茜は言葉に詰まった。
(……確かに、そうだけど)
サクラはゆっくりと近づいてくる。
距離が近い。
颯茜は思わず一歩下がった。
「そんなに警戒しなくていいよ。僕は君を歓迎してる」
「歓迎って……あれがか?」
「嗚呼、言葉通りさ」
サクラは軽く手を広げた。
「ここは第零課の外郭施設。君がこれから踏み込む世界の“入口”だ」
颯茜は息を呑む。
「律は……ここにいるのか?」
「いい質問だね」
サクラは微笑んだまま、目つきが少しだけ鋭さを増す。
「いるし、会わせるよ。ただし、順番がある」
人差し指を立てて、目の前に立つサクラはそういった。その言葉に首を傾げる。
「順番……?」
「まずは、君が“こちら側”に立つこと。それが最初の条件だよ」
(……やっぱり簡単には会わせてもらえねぇのか)
サクラは軽く颯茜の肩をポンポンと叩く。
「大丈夫。君ならできるよ、颯茜」
有無を言わせぬ圧が、そこにはあった。
「そして、次に君は律……ここではこの組織の規律に従ってアザミと言おう。」
(アザミ……)
心の中でオウム返しもよろしく、言葉を繰り返していると、サクラはこちらを見ながら言う。
「アザミに会うの、禁止だ」
「ッな────」
冷徹なソレは、声にならない声を漏らすのに、十分過ぎるほどだった。虚をつかれた颯茜は、目を見開いて言葉を失う。
「ああ、勘違いしないでくれよ?なにも、一生という訳じゃない」
「……どういう意味だ?」
補足情報に、冷静さを取り戻した颯茜は真剣な面持ちでサクラを見つめる。
「アザミは、この組織のNo.2とも言える存在。第零課のトップ戦力、ホイホイ会わせる訳にも行かないんだ」
「……な、No.2……?」
「そうさ?アザミは、幹部の中でも頭一つ抜けているからね、無理もない」
「……頭一つ抜けてるって、お前……」
颯茜は喉の奥がひりつくような感覚に襲われた。
律──アザミがそんな存在だなんて、想像したこともなかった。
「じゃあ……なんで俺には、あんな……」
言いかけて、言葉が途切れる。
あの日の律の目が、脳裏に焼き付いて離れない。
サクラは、そんな颯茜の表情をじっと見つめた。
「君はまだ知らないことが多い。アザミが何を選び、何を捨てたのかもね」
「……捨てた?」
「うん。でも、それを知るのは“まだ早い”」
サクラは軽く手を叩いた。
すると、部屋の奥の扉が静かに開く。
白い廊下が続いていた。
無機質で、冷たくて、どこまでも静か。
「颯茜。君にはまず、“こちら側”の基礎を知ってもらう必要がある」
「基礎……?」
「そう。アザミに会うための“最低限の資格”だよ」
サクラは歩き出す。
颯茜は一瞬ためらったが、結局その背中を追った。
廊下を歩くたび、靴音がやけに響く。
(……なんだよ、資格って)
サクラは振り返らずに言った。
「アザミはね、君が思っているよりずっと遠い場所にいる。でも同時に、君が思っているよりずっと近い場所にもいる」
「……意味わかんねぇよ」
「わからなくていいよ。今はまだ」
サクラは立ち止まり、横の扉に手をかけた。
「ここが、君の最初の部屋だ」
「部屋……?」
「うん。今日から君は“保護対象”じゃなくて──」
サクラはゆっくりと微笑んだ。
「──《第零課の内部者》になる」
颯茜の心臓が跳ねた。
「ちょ、待てよ。俺、そんなつもり──」
「あるよ」
サクラは即答した。
「君は“追う”と言った。なら、ここに立つしかない」
颯茜は言葉を失った。サクラは扉を開ける。
中は簡素な部屋だった。
ベッド、机、ロッカー、まるで寮の一室のような雰囲気がある。
「ここでしばらく生活してもらう。もちろん、外には出られない」
「……監禁じゃねぇか」
「違うよ。“保護”だって言ったでしょ?」
サクラは軽く笑ったが、その目は笑っていなかった。
「安心して。君がアザミに会える日まで、僕が全部面倒を見るから」
「……サクラ」
「なに?」
「お前……本気で俺を、この世界に引きずり込む気なんだな」
サクラは一瞬だけ目を細めた。
その表情は、優しさとも、冷たさともつかない。
「引きずり込んだんじゃないよ。君が自分で来たんだ」
颯茜は反論できなかった。
サクラは部屋の前から離れ、廊下の奥へ歩きながら言った。
「ゆっくり休んで。明日から、君に“最初の任務”を言い渡す」
「任務……?」
「うん。アザミに会うための、最初の一歩だよ」
サクラは振り返り、柔らかく微笑んだ。
「おやすみ、颯茜」
扉が静かに閉まる。
颯茜はしばらく動けなかった。
(……お前、どんな世界にいるんだよ)
部屋の静けさに、感傷に浸る。
ベットに寝転がると、ふかふかなことに驚くも、自然とすぐに眠りにつく。
──暗闇の中で、誰かの気配がした。
(……律?)
意識は沈んでいるのに、その気配だけは妙に鮮明だった。
布団の重みも、部屋の冷たさも消えていく。
代わりに、あの日と同じ“息づかい”が耳元に落ちた。
『……兄さん』
低く、静かで、どこか苦しげな声。
(……律……?)
振り向こうとする、でも身体は動かない。
夢特有の、あの重さ。
それでも、律の顔だけは、はっきりと見えた。
近い。
触れられるほどの距離で、
律はじっと颯茜を覗き込んでいた。
その瞳は、あの日と同じ“底の見えない黒”だった。
『来たんだね』
責めるでもなく、喜ぶでもなく。
ただ事実を確認するような声。
(……お前……)
言葉にならない。
律はゆっくりと手を伸ばし、颯茜の頬に触れようとして──パチン、と音がした。
蛍光灯の白い光が、瞼越しに差し込む。
颯茜は跳ね起きた。
「……っ、は……!」
息が荒い。
心臓が痛いほど脈打っている。
部屋は静かで誰もいない。
夢のはずなのに、頬に残る感触だけが消えなかった。
(……律……)
胸の奥がざわつく。
そのとき、部屋のドアが、コン、と軽く叩かれた。
「颯茜、起きてる?」
サクラの声だった。
いつもの柔らかい調子でも、颯茜は一瞬だけ背筋が冷えた。
「……なんだよ」
「“最初の任務”の時間だよ」
扉の向こうで、サクラが微笑んでいる気配がした。
「準備はいいかい?これは、アザミに近づくための、一歩目だ」
颯茜は拳を握りしめた。
(……行くしかねぇだろ)
律の幻影が、まだ瞼の裏に残っていた。
「っと、その前に、君には隊に所属してもらう」
「……隊?」
「そうだよ。歩きながら説明するから、こっちについてきてくれないか?」
颯茜はコクリ、と小さく頷くと歩き出したサクラの隣を歩き始める。
「アザミから聞いてることは?」
「……ない」
「そうか、わかった」
サクラは歩きながら、颯茜の横顔をちらりと見た。
「じゃあ、まずは“隊”の話からしようか」
「……隊って、何だよ」
「第零課はね、表向きは“課”だけど、実際は複数の小隊で動いてる。アザミはその中の一つ──《第五戦闘隊》の隊長だ」
(……律が、隊長……?)
颯茜の胸がざわつく。サクラは淡々と続けた。
「君が所属するのは《補助観察隊》。新人や、まだ“こちら側”に慣れていない人が入る隊だよ」
「……新人扱いかよ」
「当然だよ。君はまだ“何も知らない”んだから」
サクラの言葉は柔らかいのに、
刺すような冷たさがあった。
廊下の突き当たりに、黒い扉が見えてくる。
サクラはその前で立ち止まった。
「ここが、君の隊の部屋だ」
颯茜は息を呑む。
「……誰がいるんだよ」
「今は二人だけ。君と同じく“こちら側”に来たばかりの子と──」
サクラは少しだけ口元を緩めた。
「もう一人は、君の“指導役”だよ」
「指導役……?」
「嗚呼、君がアザミに会うために必要なことを全部教えてくれる人」
颯茜はごくりと喉を鳴らした。
(……どんな奴なんだよ)
サクラは扉に手をかける。
「颯茜。ここから先は、もう本当に戻れない」
その声は、いつもの柔らかさの奥に、ほんの少しだけ“警告”の色を含んでいた。
「覚悟はできてる?」
颯茜は拳を握りしめた。
(……律に会うためなら)
「……行く」
サクラは満足そうに微笑んだ。
「じゃあ──ようこそ、《補助観察隊》へ」
扉が静かに開く。
部屋の奥に佇んでいたのは、一人の男と同い年くらいの女の子だった。
「一人は、準幹部を務めるカランコエと、入ったばかりの飛鷹くんだよ」
飛鷹とカランコエ、この道中で聞いたのは準幹部・幹部になると識別名が与えられるとの事。
(識別名……)
いつの間にか、自己紹介をする流れになったのか、颯茜を含んだ三人は向かい合っていた。
「……まず、俺からだな!」
準幹部であろう男は、仕切り始める。
女の子はオドオドしているが、緊張しているように見える。
「えっ?!手筈では、わっ、私から……」
「細かいことえーやん!」
ずいぶんと勝手な奴だと思われ、強そうだが性格に難アリだと見受けられる。テキトーな人選しやがって、なんてここの中で唾を吐く。
「ワイは飛鷹 忠隆!関西出身や!よろしゅう!」
「えっと、そこまで喋る必要ありませんよ……?」
「かまへんかまへん!ワイらはこれからチームになんねんろ?んならば、なんも問題あれへんがな」
飛鷹と名乗った男はガハハハと高笑いをするが、女の子の方は全然笑えない様子だ。
「うぅ……勝手な人……」
「ってか、お前準幹部じゃねぇのかよ!?」
「ワイが準幹部?冗談やん!?ワイやなくてそっちの嬢ちゃんが──」
飛鷹が親指で指した先。
おどおどしていた女の子が、びくっと肩を跳ねさせた。
「わ、私……です……」
小さな声。
控えめで、震えていて、存在感が薄い。
だが──その胸元には、確かに“準幹部”の証である黒いバッジが光っていた。
(……マジかよ。こっちの方が準幹部?)
颯茜は思わず二度見する。
少女は深呼吸して、ぎこちなく頭を下げた。
「か、カランコエです。準幹部……一応、やってます……」
声は弱い。
でも、その目だけは不思議と澄んでいた。
「よろしくお願いします……九条さん……」
「颯茜でいいよ」
「あ……はい……颯茜さん……」
カランコエは小さく微笑んだ。
その笑みは控えめで、どこか影がある。
(……なんだ、この子。弱そうなのに、妙に落ち着いてる……)
飛鷹が腕を組んで笑う。
「嬢ちゃんは見た目こんなんやけど、実力はガチやで?ワイなんかよりよっぽど強いわ!」
「ひ、飛鷹さん!余計なこと言わないでください……!」
「ええやんええやん!事実やし!」
カランコエは顔を真っ赤にして俯いた。その様子を見ていたサクラが、軽く手を叩く。
「はいはい、自己紹介はそのくらいにして。颯茜、君の“指導役”は──」
サクラはカランコエの肩に手を置いた。
「この子だよ」
颯茜は思わず声を漏らした。
「俺より……年下じゃねぇのか?」
「年齢は関係ないよ。彼女は“こちら側”の基礎をすべて理解している。君に必要なのは、力じゃなくて“知識”だからね」
カランコエはおずおずと手を上げた。
「あ、あの……精一杯、頑張りますので……よろしくお願いします……」
その姿は頼りなさそうで、緊張をしているようだ。
(……この子が、俺の指導役……?)
颯茜の胸に、不安と期待が入り混じる。
サクラは満足そうに頷いた。
「じゃあ、颯茜。君の“最初の任務”を伝える前に──」
サクラの声が、少しだけ低くなる。
「まずは、この二人と“チーム”になってもらう」
飛鷹がニカッと笑い、カランコエは緊張したまま小さく頷いた。
颯茜は拳を握りしめる。
(……こいつらと、チームになるんだな)
サクラは静かに微笑んだ。
「さぁ、君達の最初の任務を告げる」




