三話 これは悪夢ですか?
──夢を見ていた。
あの頃の俺たちは、
ただの“家族”だった。
「颯茜〜!律〜!ごはんできたよー!」
母さんの声が庭に響く。夕焼けの光が芝生を照らして、空気まであったかかった。
「にいに!にいに!見て!!」
律が小さな足で駆けてくる。
転びそうになりながらも、満面の笑みで両手を広げて。
「ほらっ!虫つかまえた!!」
手のひらの上で、ちっちゃいダンゴムシが丸まっていた。
「おお、すげぇじゃん律。勇者かよ」
「えへへっ!にいにに見せたかったの!」
律は嬉しそうに跳ねる。
ほんとに跳ねる。
ぴょん、ぴょんって。
「ほらほら、二人とも手洗ってきなさい。律、颯茜にばっかりくっついてたら転ぶよ〜」
「やだー!にいにといっしょがいいー!」
母さんに抱えられながらも、律は必死に俺の袖を掴もうとしていた。
「にいに!にいに!!」
その声は、あたたかくて、まっすぐで、世界で一番無邪気だった。父さんも笑っていた。母さんも笑っていた。俺も笑っていた。
律は俺の手を離さなかった。
あの頃の律は本当に、ただの弟だった。
ただの、平凡な家族だった。
……なのに。
どうして、あんなふうに笑っていた弟が──
どうして、今は、あんな冷たい目で俺を見るんだろう。
どうして、もう二度と聞こえないんだろう。
どうして、あの手は俺を掴んでくれないんだろう。
「にいに!にいに!」
夢の中の律は、何度も何度も俺を呼んでいた。
その声に手を伸ばした瞬間、世界が、音もなく崩れ落ちた。
目を開けると、そこには誰もいなかった。
あの笑顔も、あの声も、あの温度も。
全部、夢だった。
(……もう、戻れねぇのかよ)
胸の奥が、じわりと痛む。
律はもう、あの頃の律じゃない。
“にいに”と呼んで笑っていた弟はどこにも居ない。
「……って、こんな時間かよ……」
見ると、時計の針は深夜一時を指していた。
思い出のせいか、もう眠気はなく、二度寝する気にもなれなかった。
布団から抜け出すと、家の中は静まり返っていた。
「……律は、いねぇか……」
廊下に出て、律の部屋の前で立ち止まる。
ドアの向こうは、いつも通りの沈黙。
ノックする気にもなれなかった。
返事が返ってこないことが分かっていたから。
ゆっくりと階段を降り、
玄関の鍵を外す。
外に出た瞬間、
冬の夜気が肌を刺した。
「……寒っ」
思わず呟く。
白い息がふわりと浮かんで、すぐに消えた。
夢の中の律の声が、まだ耳の奥に残っている。
「にいに!にいに!」
あの声はこんな冷たい空気の中には存在しない。
ポケットに手を突っ込みながら歩き出す。
街灯の光が、アスファルトに淡く落ちていた。
(……なんで、あんな夢見ちまったんだよ)
胸の奥がじんわり痛む。
あの頃の律は俺の後ろを追いかけて、笑って、呼んで、手を掴んでくれた。
今の律は俺を拒絶して、冷たい目で見て、“関係ない”と言ってどこかへ消えていく。
(……戻れねぇのかよ、もう)
呟きは夜に溶けていった。
コンビニの明かりが遠くに見える。
その光だけが、今の俺を照らしてくれる唯一のものみたいだった。
「……コンビニでも、行くか」
そう言って歩き出した足は少しだけ重かった。
コンビニに着くと、ホットココアの缶を片手に、会計を済ませ、早速とコンビニを出た。
夜風が冷たくて、思わず肩をすくめる。
「……寒っ。さっさと帰ろ」
そう呟いた瞬間、左右と背後から足音が近づいた。
「──見つけたぞ、“アザミ”」
颯茜は振り返る。
「……は?」
街灯の下に五人。
全員、目つきが悪い。
一人が吐き捨てるように言った。
「よくも俺らの仲間を殺してくれたな。クソ野郎がよ」
颯茜は完全に固まった。
(……なに言ってんだこいつら)
「いや、あの……誰?」
颯茜は本気で分からず、疑問符を頭に浮かべていると、男たちは“しらばっくれてる”と受け取ったらしい。
「変装しても無駄だぞ、“アザミ”」
「いやいやいやいや、待て。俺はアザミじゃねぇし、アザミって何だよ」
颯茜の声は本気で困惑していたが男たちは聞く耳を持たない。
「……やれ」
五人が一斉に動いた。
颯茜はホットココアを握りしめたまま、心底めんどくさそうに呟いた。
「……はぁ、マジでなんなんだよ……」
颯茜が構えた、その瞬間。
──コツ、コツ、コツ。
夜の路地に、軽い足音が落ちた。
「……随分と騒がしいね」
柔らかい声だった。
けれど、その柔らかさの奥に何かがあった。
五人が振り向く。
街灯の下に立っていたのは細身の少年だった。
微笑んでいるのに、瞳だけが冷たい。
「なんだテメェ……関係ねぇなら引っ込んでろ」
男の一人が吐き捨てる。
男は、まるで子どもの喧嘩を見ているかのように、穏やかな物言いでこの場を制す。
「関係ない……か、それはどうだろうね」
声は柔らかい。
だが、言葉の選び方が妙に丁寧で、逆に怖い。
颯茜は思わず言った。
「おい、あんた。巻き込まれんなよ。こいつら、なんか勘違いして──」
男は颯茜に向けて、微笑みを深めた。
「ああ、勘違いだ。“彼らは君を間違えている”」
男たちの表情がわずかに揺れる。
男はゆっくりと五人のほうへ歩み寄り、まるで日常会話のように軽い声で続けた。
「君たちは選んだ相手が悪かった。そう思わないかい?」
その瞬間、空気が変わった。
柔らかい声のまま、男は淡々と告げる。
「君たち、“アザミ”に手を出すつもりだったんだろう?」
男たちの顔色が一気に青ざめた。
男は微笑んだまま、まるで優しい相談でもするように言う。
「さて……どうする?このまま続けるかい。それとも
──ここでやめておくかい?」
声は穏やかだった。
五人の男たちは、男の言葉に一瞬だけ固まる。
「な、なんだよ……お前……」
先頭の男が声を震わせた。
男はその怯えを、まるで観察するように見つめる。
「僕のことは気にしなくていいよ。ただ──」
そこで、男はゆっくりと微笑んだ。
柔らかい。けれど、その奥には冷酷さが垣間見えてしまった。
「“アザミ”に手を出すのは、あまり賢い選択じゃない。そう言っているだけだよ」
男たちは固唾を飲んで、男を見る。
「……アザミの仲間か?」
「仲間か、どうだろうね。少なくとも──君たちよりは、ずっと近い立場にいるよ」
その言い方が、妙に引っかかる。
颯茜は思わず男を見た。
(……なんなんだ、この人)
細身で、華奢で、声も柔らかい。
なのに、五人の男たちよりも“圧”がある。
男は軽く肩をすくめた。
「さて、君たちがどうしたいのか、僕は興味があるんだ。続けるつもりなら──止めはしないよ?」
その言葉は、優しい。
けれど、優しさの形をした“脅し”だった。男たちは顔を見合わせた。
「まさかッ……ちっ、やめだやめだ!こいつがいるなんて聞いてねぇ!」
「撤収だ、行くぞ!」
五人は逃げるように走り去った。
足音が遠ざかり、路地に静けさが戻る。
颯茜はホットココアを握りしめたまま、
ぽかんと立ち尽くした。
「……助かった、のか? 俺」
男は振り返り、柔らかく微笑んだ。
「助けたつもりはないよ。ただ──君が“アザミ”じゃないことくらい、僕には分かる」
「……なんでだよ」
男は少しだけ目を細めた。
その瞳は、どこか寂しげで、どこか冷たい。
「“アザミ”は、あんな顔をしない」
「……あんな顔?」
「嗚呼、君の顔は──迷っている人間のソレだ」
颯茜は言葉を失った。
男は一歩だけ近づき、颯茜の手にあるホットココアを見た。
「温かいものを持っているのに、手が震えている。……君は優しいね」
「は? 何言って──」
「優しい人は、よく迷う。そして、傷つきやすい」
男は微笑んだまま、颯茜の横をすり抜けた。
颯茜の心臓が跳ねた。
「…………お前の名前は?」
冬の風だけが、静かに吹き抜けていく。
静寂が、場を包んだ。
「───サクラ、ただのサクラだよ。アザミ、君でいえば、律の上司かな?」
その瞬間、戦慄が走る。
「上司って……お前何歳だよ!?」
「そこかなぁ!?いやもっと他にあるでしょ!?」
気を取り直したらしいサクラは、颯茜の言葉にツッコミを入れる。
「年齢なんて、そんなに重要かな。立場というのは、必ずしも年齢順じゃないんだよ」
「いやいやいや……いやいやいやいや……!」
颯茜は頭を抱えた。
ホットココアの缶がカランと鳴る。
「律の……上司?あいつより年下みたいな顔してんのに……?」
「顔で判断するのは危険だよ」
サクラは微笑んだまま、どこか遠くを見るような目をした。
(……こいつ、本当に律の“上司”なんか?てか律、どんな仕事してんだよ……)
颯茜の混乱をよそに、サクラはふっと息を吐いた。
「君は、律とは違うね……とても、違う」
「そりゃあ双子でも性格くらい違うだろ」
「そういう意味じゃないよ」
サクラは、颯茜の胸の奥を見透かすように言った。
「君は“まだ人間だ”。律は──もう、そうじゃない」
颯茜の心臓が、ぎゅっと掴まれたように痛んだ。
「……どういう意味だよ、それ」
「言葉通りだよ。“アザミ”は、君が知っている律とは別の存在だ。君が知っている弟は、もうどこにもいない」
颯茜は息を呑んだ。
サクラは、まるで優しく諭すように続ける。
「でもね、君が迷っている限り、君はまだ“戻れる側”の人間だ。律とは違って」
「……戻れる側?」
「あぁ、君はまだ、選べる。律は、アザミを選んだ。だから、もう選べない」
サクラは微笑んだ。
その笑みは、優しいのに、どこか残酷だった。
「さ、そろそろ帰ったほうがいい。夜は、迷っている人間には優しくないからね」
サクラの言葉が、冬の空気より冷たく胸に刺さっていた。
──律は、もう人間じゃない。
その一言が、頭の中で何度も反響する。
(……そんなわけ、あるかよ)
否定したいのにサクラの瞳は嘘をついているようには見えなかった。
颯茜はホットココアを握りしめたまま、ゆっくりと息を吐いた。
白い息が、夜に溶けていく。
「……俺は」
声が震えた。
でも、逃げない。九条 颯茜は今日選択をする。覚悟を決める前の、ほんの小さな揺れだった。
「俺は……律を、見捨てねぇよ」
サクラが足を止めた。
振り返らない。
ただ、静かに立ち止まった。
「……そう言うと思っていたよ」
その声は、どこか嬉しそうで、どこか哀しそうだった。
「君は“戻れる側”の人間だ。でも──その選択をした瞬間から、戻れなくなる」
「構わねぇよ」
颯茜は夜空を見上げた。
星は見えない。
ただ暗いだけの空。
「律がどんな道を選んだとしても……俺は、あいつの兄貴だ」
サクラはゆっくりと振り返った。
その瞳は、さっきまでよりもずっと深く、颯茜を“人間として”見ていた。
「……君は、本当に律とは違うね」
「当たり前だろ。俺は俺だ」
「嗚呼……そうだね、君は君だ。そして──君は、律の“弱点”だ」
颯茜の胸がざわついた。
「弱点……?」
「その意味は、いずれ分かるよ。」
サクラはゆっくりと振り返り、颯茜をまっすぐに見つめた。
「歓迎するよ、颯茜。君のような人間が“選ぶ”のを、ずっと待っていた」
「……歓迎?」
「嗚呼、君がその選択をした瞬間
───君はもう、“こちら側”に足を踏み入れた」
颯茜の胸がざわつく。
「こちら側って……なんだよ」
サクラは微笑んだ。
柔らかく、けれど底が見えない。
「律が所属している場所。君が知らない世界。そして──君がこれから知ることになる世界」
颯茜は息を呑んだ。
「……律の、仕事のことか?」
「そう。君が“秘密警察”という言葉を聞いたのは、今日が初めてだろう?」
その単語が、夜の空気を震わせた。
颯茜の心臓が跳ねる。
「……秘密、警察……?」
「名前だけ覚えておけばいいよ。詳しいことは、いずれ嫌でも知ることになる」
サクラは颯茜の横を通り過ぎながら、小さく囁いた。
「君が選んだ道は、律を追う道だ。
そしてその道は──“秘密警察”の影を必ず踏む」
颯茜は言葉を失った。
サクラは歩きながら、最後に振り返る。
「さあ、帰りなよ。君の選択は、もう動き出した……三日もすれば、何かが変わる」
そう言葉を残して、サクラは闇に溶けるように消えていった。
颯茜はしばらく立ち尽くし、冷えたホットココアを見つめた。
(……律、俺はお前を追いかける)
夜風が吹き抜ける。
その冷たさの中で、颯茜は初めて“知らない世界”に足を踏み入れた。




