6話 王都泡立つ 暴走スライム発酵事変
発酵と魔法で成り立つこの街が、今異様な匂いに包まれていた。
昨夜、祝福炉に異常が発生したと報告があったが、
まさか翌朝になって街そのものが泡立ち始めるとは、誰も思っていなかった。
───
学院区の一角。
朝の露に濡れた石畳を、生徒たちが慌ただしく行き交っていた。
薬草を抱えた少年が足を止める。
「……あれ、地面、泡立ってないか?」
「なにこれ、墨汁? いや、動いて―─」
ぼこっ。
黒い泡が弾け、鼻をつく酸臭が広がる。
通りの向こうで悲鳴が上がった。
「ひっ、人が……溶けた!? いや、服だけ残ってる!!」
「誰か、王都防衛隊を呼べ!!」
その瞬間、石畳の隙間から黒い液体がじわりと滲み出した。
それは瞬く間に泡立ち、ぬめつく塊となり、形を持ち始める。
「おいおい……なんだこれ……!」
黒い塊が呻くように蠢き、触れた壁が泡立って崩れ落ちた。
リリィの顔色が一気に青ざめる。
「っ……走れ!! 今説明してる暇ない!!」
二人は全力でその場を離れ、角を曲がって物陰へ飛び込んだ。
背後で、ずるり、と巨大な粘塊が路地へ溢れ出す音が響く。
修一は肩で息をしながら叫ぶ。
「スライム!? いや俺の知ってるゼリーのやつじゃねえだろこれ!!」
リリィも額の汗を拭いながら、息を整えつつ答える。
「……研究室の地下で昨夜、微弱な異常反応はあったの。
でも、ただの腐素の揺らぎって報告だった……!」
修一が眉をひそめる。
「それで放置してたのか!?」
「普通は一晩であそこまで肥大化なんてしないのよ!
文献でしか見ない暴走スライム……私だってはじめてみたわよ……!」
修一の指先についた黒液が、じゅっと音を立てて煙を上げる。
甘い匂いが鼻を刺した。
(……あれ、この匂い……)
脳裏にスキル一覧の断片が浮かぶ。
(発酵……爆発……なんかあったよな、あれ!)
『思い出したなら十分。でも下手にやると街全体がヨーグルトの香りになるわよ』
(今さらだ! やるしかねぇ!)
修一の身体から湯気のような蒸気が立ち、空気が泡立つように揺れ始める。
「ちょっ、なにその湯気!? やめなさいってば、物理的に臭そう!!」
「臭いで済めば安いもんだろ!」
腐素の塊が悲鳴を上げ、
次の瞬間――白い閃光が弾けた。
「……中和反応が……起きてる……!?」
「へっ。発酵は腐敗の上位互換なんだよ」
『ふん、クソの誇りね』
「クソの誇りかよ、ハハハ」
「誰と話してんのよ!!」
「……俺の腸内会議だ!」
スライムもろとも、王都中に甘酸っぱい衝撃波が走った。
空気が震え、乳白色の蒸気が渦を巻いて空へ立ちのぼる。
静寂。
風が、ほんのりヨーグルトの香りを運んだ。
「……空、泡立ってねぇか!?」
「うわっ! 鼻が! 鼻が幸せで苦しい!!」
「ママー! ミルクの雨ぇぇぇ!!」
「パンが……勝手に膨らんでる!? 焼いてねぇのに!?」
「ぐえええ!! これ、鼻の奥にくるぅぅ!!」
「……成功、なのか?」
『ええ。街の菌バランス、安定。あと芳香剤化、完了よ。』
「言い方を変えろ……」
───
翌朝。
王都の掲示板には新たな英雄の名が記されていた。
『発酵勇者、王都を救う』
通りを歩く人々の鼻が、どこか誇らしげに光っていた。
「……勇者ってより、公害じゃね?」
「でも、人は救ったわ。ついでに嗅覚も鍛えられたし」
「……次は、鼻じゃ済まねぇ戦いになりそうだな」
リリィはくすっと笑い、研究ノートを閉じた。
風がふわりと吹き抜け、街の甘酸っぱい匂いがまだ残っていた。
ふと、隣に立つ修一を見つめる。
白い蒸気の残滓が彼の周囲でまだ微かに揺れている。
「……あなた、本当に人間なの?」
その声には、恐れと興味が入り混じっていた。
その日の午後、市場は大混乱だった。
パン屋の主人が頭を抱えて叫ぶ。
「勇者様のおかげで、生地が寝かす前に起きやがる!
こいつら、夜中に勝手に発酵してパンになっちまうんだよ!!」
通りでは誰も怒っていなかった。
むしろ、みんな笑いながら鼻をすすり、
「今日も平和だなぁ……」と呟いていた。
リリィはその光景を見ながら、
「……平和って、案外...変な匂いがするのね」と小さく笑った。




