第1章 6話 都の匂い
「……なあリリィ、俺もう人型だよな?」
「ええ、たぶんね」
「たぶんてなんだよ!」
王都・学院の地下実験室。修一は今日も観察される側だった。
───
朝の王都は、川霧の名残を抱いたまま冷え込んでいた。
石畳には夜露がまだ白く残り、遠くの運河を跨ぐ橋の上では、
金色の尖塔が薄曇りの空に淡く輝いている。
リリィは白衣の上に淡いマントを羽織り、修一を連れ学院の門を出た。
彼にとって初めて見る外の景色だった。
「ここが王都。魔法文明の中心よ」
「中心って割に……意外と泥臭ぇな。鼻の奥がツンとする」
リリィは少し笑って、東の方角を指差した。
「それは発酵区のほうからね。パン焼きや薬草精製の工房が集まってるの」
風が吹くたび、冷たい川風にパンと薬草の蒸気が混ざる。
路地裏では子どもらが魔力球を蹴り、露店商が声を張り上げた。
雑多で生々しい──けれど、どこか荘厳な街だった。
「ほら、あれが中央水脈。王都の水をろ過して全市に流してるの」
「へぇ……魔法って、意外とインフラっぽいな」
二人はそのまま中央区へ向かう。
リリィは淡々と説明を続けた。
「この地下には祝福炉があるの。腐素を発酵させ循環させる装置よ。
教団の管理区域だから、一般人は立入禁止」
修一は足を止め、鼻をひくつかせた。
「発酵炉って……この柑橘系の匂い、やっぱそれか?」
「そうね。空気を通して微量の祝福酵素が拡散してる。
街の清潔さも、食料の保存も、全部それで保たれてるの。
だから誰も文句は言わないの」
「便利すぎる仕組みほど、怖ぇもんはねぇな」
「あそこに並んでる小屋群、なんか雰囲気暗くないか?」
「あれは……まぁ、今はいいわ」
リリィはほんの一瞬だけ、目を伏せた。
その反応に、修一は何かを察したが、それ以上は聞かなかった。
───
昼の市場。
屋台のパン屋に立ち寄ると、職人が笑顔で焼きたてを差し出した。
「学院さんにおまけですよ。祝福種を使った最高の生地でね!」
リリィが銀貨を払いながら説明する。
「祝福種は教団の専売特許よ。
王都の水は濃度が高くてね、普通の酵母じゃ発酵すらしないの。
だから市民は、こうして教団から買うしかないのよ」
修一は焼きたての香りを嗅ぎながら、小さくつぶやいた。
「……いい匂いだな」
「でしょ?」
風が吹き抜け、粉の香りを運んだ。
───
宿舎に戻ると、リリィはテーブルにスープを置いた。
皿の上から、白い蒸気がふわりと上がる。
「……飲めるの?」
「多分な」
修一は匙を手に取った。
「味覚はある。前より少し鈍いけど」
一口すすぐ。温かさが喉を通り、腹の奥で広がった。
それが食べているという感覚に似ているのか、自分でもよく分からない。
「体が受け入れてる……変な感じだ」
「拒絶反応は?」
「ないな。むしろ、空腹が少しやわらいだ」
リリィは安堵の息をついた。
「よかった。少なくとも、食べられるなら生きられる」
「人間に近い形に作られてるってことだな」
「ええ。でも、完全に同じじゃない」
リリィは彼の手元を見ながら、小さく呟いた。
「血じゃなくて、別のものが流れてる」
修一は黙ってスープを見つめた。
───
夜。
学院寮の一室。机の上に開かれたノートに、リリィは静かにペンを走らせていた。
観察記録。
対象個体、摂食可能。拒絶反応なし。
代謝過程において微弱な魔素の循環を確認。
酵素変換率、予測より安定。
彼女は一度手を止め、インクの染みを指でなぞった。
精神状態、概ね安定。
人間的反応が多く見られる。
しかし「人間である」ことへの執着は、依然として強い。
リリィはペンを置き、しばらく窓の外を眺めた。
街の灯が遠くで瞬き、風が夜の匂いを運んでくる。
小さく息を吐き、彼女は最後に一行だけ書き足した。
観察者、少し情緒的になっている。
原因は不明。
ペン先の音が止み、静かな夜が戻った。




