32話 初めての名前交換
ソトカと修一は倉庫に踏み込み、囚われたギルガを救出。
魔物たちを安全に外へ脱出させ、町長派の警備隊に引き渡しに成功。救出を終えた三人は、町の問題が続く中、それぞれ決意を胸に夜の道を歩き出す。
───
リリィは淡い朝靄の中、魔獣たちの後を歩いていた。
森はすでに街の喧騒から遠く、湿った葉の匂いが濃い。
先頭を歩くのは三体。
いずれもサナトラ町を襲撃したときにいた魔獣たちだ。
あのとき。
街を炎と叫びが包む中、
怒り狂った魔獣の拳を、
リリィは反射的に素手で受け止めた。
あれ以来、魔獣たちは彼女を「町の女の戦士」だと思っている。
(実際は研究者であって戦士ではないのだが)
だからこそ、彼らの横を歩く今も、不思議な緊張と尊敬が混ざっていた。
森の奥へと続くなだらかな獣道を進んでいると、
先頭の魔獣がふいに振り返った。
「……リリィ」
低い声。
呼ばれた名に、リリィは軽くまばたきをする。
「なに?」
「お前の名……合っているか?
あの時の戦士よ。名を呼ぶべきか迷った」
「……あら。名前、まだ言ってなかったわね」
魔獣は耳を揺らし、少し恥ずかしそうに目をそらした。
「町を襲ったときも……
昨日の会談のときも……
誰も名を名乗らなかった。
礼を欠いたと、ずっと気になっていた」
リリィは少しだけ笑って肩をすくめた。
「気にすることじゃないわよ。
あのとき名乗る余裕はなかったでしょ?」
横の魔獣がうなずく。
「お前が拳を止めた時……
名を言うより先に、腕が折れると思った」
「折れなかったけどね」
「それが恐ろしいのだ」
魔獣たちが真面目な顔で言うので、リリィは吹き出しそうになる。
───
森の木々が濃さを増し、
日差しがまだら模様に落ちてくる頃。
案内役の魔獣が歩く速度を落とし、横に並んだ。
「俺はガルドだ。右はスーロ、左はぺドだ。」
三体はしばらく黙り、森の匂いを吸い込んだあと、
静かに続けた。
「リリィ。街の者でありながら、俺たちを獣ではなく誰かとして見た。
だから今回の案内、誇りに思っている」
リリィは少し驚きつつ、素直に頷いた。
「そう言ってくれるなら嬉しいわ。
私もあなたたちの里を、正しく見たいと思ってる」
ガルダは前を向いて歩きながら、小さく呟いた。
「森の奥はもうすぐだ。
ここから先に俺たちの村だ。」
目の前の木々の影が、ゆっくりと濃くなっていく。
声を張り上げるでもなく、緊迫するわけでもない。
ただ、違う世界へ足を踏み入れる前の、静かな緊張だけがそこにあった。
───
森の中は、日が沈むのが早い。
バクフーン大森林の外縁を越えるころ、薄闇がすでに漂っていた。
「森の奥はもう暗い。客人を外に寝かせるわけにはいかん。今日はうちに泊まるといい」
ガルドが言った。
短く、ぶっきらぼうだが、その声にはどこか気遣いがあった。
「家族も多くて狭いが……まあ、我慢してくれ」
「いえ、本当に助かります」
リリィが頭を下げると、ガルドは照れたように鼻を鳴らした。
集落に入ると、狼の耳を持つ魔獣たちが一斉に振り返った。
「……人間だ」
「ガルド、連れてきたのか?」
張りつめる空気。
ガルドは片手を軽く上げるだけでそれを鎮める。
「俺の客だ。傷つける気はない。落ち着け」
その一言で場が静かになる。
彼がどれほど信頼されているかが伝わった。
───
ガルドの家は、木を組んだ温かな家だった。
扉を開けると、煮込みの香りがふわりと満ちる。
ガルドの家は、木を組んだ温かな家だった。
扉を開けると、煮込みの香りがふわりと満ちる。
「おかえり……あなた? え、人間!?」
ガルドの妻は一瞬だけ目を丸くしたが、驚きを飲み込むように小さく息を整えた。
その動きには、場をまとめる力というか、さすがガルドの妻と思わせる落ち着きがある。
「......ようこそ。どうぞ入ってください。寒かったでしょう?」
「突然すみません。一晩だけお世話になります」
家の奥でのぞいていた子供たちも、リリィの丁寧な挨拶に緊張を緩めた。
「人間って……こんな感じなんだ……」
「思ったより細い……!」
「こら、失礼なこと言わないの!」
叱る妻の横で、ガルドは肩を震わせて笑った。
夕食は森の食材を使った素朴な料理だった。
香草蒸しの肉、甘い根菜、紫茸の煮込み。
リリィは一口食べた瞬間、反射的にノートを取り出した。
「この根菜……熱で糖度が上がる?
香草は……森特有の精油成分か……」
「そ、そんなに真剣に味を分析されたの初めてだよ……」
ガルドの妻が苦笑する。
「す、すみません。癖で……」
だが家族は、次第にその真剣さに興味を持ち始める。
「お姉ちゃん、人間はなんで勉強ばっかりするの?」
「そうね。知らないものを……知りたいから、かしら」
リリィは淡々としているのに、どこか柔らかい。
その調子に子供たちは目を輝かせ、食卓には温かい賑わいが生まれた。
家族の笑い声が近い場所で交わされるのを聞きながら、リリィは胸の奥が少しだけ熱くなる。
食後、子どもが声をひそめて言う。
「ねぇねぇ、知ってる?
森の奥には、でっかい遺跡があって……透明な人間が出てくるんだって!」
「おい、やめておけ」
ガルドが眉を寄せる。
「ほんとだよ! 夜になると」
「その話は続けるな。
旅の者を怖がらせるだけだ」
子どもが口をつぐむ。
しかしリリィは、胸の奥で何かが引っかかった。
(透明な人間……? 残滓の過剰発露……?)
炎の揺らぎの中で、彼女だけが小さく息を呑んだ。
夜は静かに、更けていく。




