第3章 5話 ボンボンと魔物の夜
湿原の霧での騒ぎを抜け、ようやく森を抜けた修一とリリィ。
目の前には、遠くに街の灯がちらほらと見える。やっと一息つけると思ったその矢先、二人は何か異変に気づいた。
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湿原の霧での騒ぎを抜け、ようやく森を抜けた修一とリリィ。
夜気の向こうに、街の灯がぼんやりと滲んでいる。
「あー……ようやく着いたな。風呂入りてぇ……」 「あんた、まず食べ物でしょ」 「どっちもだ」
リリィは呆れたように笑い、杖の先で地面を突いた。
その仕草に、緊張が少しだけ緩む。
だが――街に近づくにつれ、空気が妙に冷たい。
灯りの数が少ない。人の声もしない。
「……なんか、静かすぎないか?」 「門番の影も見えないわ」
門前に立つと、木の大門は半ば崩れ、片側が外に倒れていた。
たいまつの炎が不安定に揺れ、黒い煤が壁を焦がしている。
中からは、呻き声とすすり泣き、鉄の軋む音。
「……なんだ、これ」
兵士らしき男が槍にもたれかかり、うつろな目で二人を見た。
鎧は血と煤に汚れ、息も荒い。
「止まれ……ここは立ち入り禁止だ……」 「俺たちは旅の者だ。何があったんだ?」 「……魔物の群れが、街を……」
兵士の声はかすれ、喉の奥で乾いた音を立てた。
風が吹き抜け、転がるたいまつの火がゆらめく。
「……魔物?」修一が眉を寄せる。
「まさか、街まで入り込むなんて」
「違う……流れ込んだんじゃない。運ばれたんだ……人間の手でな」
リリィが身をかがめ、兵士の目をのぞき込む。
「運ばれた? どういう意味?」
「街の……バカが……森の精霊の蛹を拾ったんだ。
高く売れるって……祭りの夜に見せびらかして……」
「バカね」リリィが小声で吐き捨てる。
「そういうものは、森が持って帰れって言わない限り、触っちゃだめなのに」
「そいつらはどうなった?」修一が問う。
兵士は声を出せず、ただ北の高台を指さした。
崩れかけた塔が、たいまつの光の中にぼんやり浮かんでいる。
「……あの聖堂だ。あの中にまだ……あの蛹が……」
リリィはため息をつき、肩をすくめた。
「どうせ街のボンボンが『神の加護だ!』とか言って持ち帰ったんでしょ?」
「リリィ……」
「いいのよ。止めても聞かない連中なんだから」
そのとき遠くの路地で、何かが蠢いた。
金属がこすれるような湿った音。たいまつの火が強く揺れ、影が走る。
兵士が槍を構え直し、悲鳴のように叫んだ。
「来るぞ! あいつらだ!」
黒い霧が地を這うように門を越え、夜気がひやりと凍りつく。
霧の中から、四つの赤い光それは、魔物ではなく誰かの目のようだった。
リリィは杖を構え、口元に皮肉な笑みを浮かべる。
「まさか、話し合いに来たわけじゃないわよね……?」
そのとき、門の奥からまるまると太った男、見るからにボンボンがが震えながら飛び出してきた。
「そ、それを返すのか!? 俺たちの利益が……!」
取り巻きたちもざわつく。
ボンボンは顔を真っ赤にして叫んだ。
「何してるんだお前たち! さっさとあいつを追い払わないか!」
周囲の兵士や民衆も慌てふためき、混乱がさらに広がる。
魔物の幹部は金色の瞳を細め、鼻先を鳴らした。
「……今の、誰が言った?」
低い声が響き、空気が一気に凍りつく。
男はびくりと体を震わせた。
だが虚勢を張り、一歩前へ出る。
「お、俺だよ! 魔物ごときが……!」
魔獣の幹部が、ゆっくりと目を細めた。
黒曜石のような瞳が、男を射抜く。
「……魔物ごとき、か」
低く響く声には、嘲りと静かな怒気が混ざっていた。
「我をあの下等な連中と一緒にするとは実に愚かだな、人間」
魔獣が唸り声のような低音で言葉を発した瞬間、
その場の空気が張りつめた。
「……喋った?」
兵士が目を見開く。
リリィも一瞬だけ驚きの色を浮かべ、すぐに杖を握り直した。
「……高位種ね。面倒なのが出てきたわ」
魔獣はわずかに顔を伏せ、低く続けた。
「貴様らは森の子らをさらい、弄び、殺した。
我らはそれを見過ごさぬ。
三日の猶予をやる。犯した罪を正せ。」
重く響く声に、兵士たちが息をのむ。
その言葉は怒りというより、裁きの宣告のようだった。
魔獣は静かにボンボンを見据えた。
その金色の瞳に、怒りよりも軽蔑の色が宿る。
だが、ボンボンはそれを怯みと勘違いした。
顔を真っ赤にし、怒鳴り返す。
「なんだよその目は! 魔物風情が人間様に口きいてんじゃねぇ!」
魔獣はわずかに顔を伏せた。
「……口をきくのも、もはや惜しい」
ゆっくりと拳を握る。
「敬意を知らぬ者に、言葉は無意味だ」
次の瞬間、風が弾け、地面がえぐれる。
拳が、雷のような速さでボンボンの顔面を狙う。
「ひぃ――っ!」
だが、その拳は届かなかった。
リリィがすでに前へ出ていた。
手のひらで拳を受け止め、音が重く響く。
「……落ち着きなさい」
低く冷たい声。
魔獣は驚きに目を見開き、腕を引こうとするが、動かない。
リリィは指先で軽く押し返しながら、静かに言った。
「ここはあんたたちの縄張りじゃない、引きなさい」
魔獣は鼻を鳴らし、腕を引いた。
ボンボンは汗をぽたぽた垂らし、挙動不審に後ろへ下がった。
ふと、リリィの横顔と、細い肩のラインに目が止まる。
華奢で、けれど芯のある体つき。
その瞬間、何かに導かれるように手が動き、そっと触れてしまった。
「……あっ!」
「ひゃっ──!?」
反射的に振り向いたリリィの拳が炸裂する。
ボンボンは宙を回って尻もちをつき、灰だらけの地面に転がった。
「……何考えてんの、サイッテー。生きてて恥ずかしくないの?」
冷たく言い放つリリィ。
魔獣も鼻を鳴らし、低く同意した。
「……さすがに、それは俺も同意だ」
兵士たちは苦笑し、場の緊張が少し和らぐ。
修一が腕を組み、冷ややかに言い放った。
「お前ら、今すぐ繭を持ってこい。それと、ちゃんと詫びを入れろ」
ボンボンは顔を真っ青にし、取り巻きと慌てて駆け出す。
魔獣は金色の瞳をリリィに向け、鼻先を鳴らした。
「......あんた、下手な魔物よりよほど怖いな」
リリィは杖を軽く握り直し、冷ややかに視線を返す。
「……魔物って、失礼ね。ん……まぁ、褒めてくれるのは勝手だけど、今日はこれで終わり。引き上げなさい」
魔獣は鼻を鳴らし、静かに背を向けた。
「詫びの件は、後で改めて片を付けよう」
その背中を、リリィと修一は無言で見送った。
夜風が通り抜け、焦げた門の匂いだけが残った。




