第3章 4話 魔道水道
修一とリリィは森で三日間迷い、水も食料も減る中で出口を探す。ぶぅの声に導かれ、二人は月明かりに照らされた水辺に辿り着く。
───
夜の湿原を、川が静かに流れていた。
壊れた木橋の下、水面が月を反射しかすかに青白く揺らめいている。
修一は足を止め、眉をひそめた。
「……光ってる?」
橋脚の影で、淡い光が水の中を走っていた。
光はまるで血管のように、川底を這うように流れていく。
ただの月明かりの反射ではない。一定のリズムで脈打っている。
隣でリリィが杖をかざし、静かに息を吸う。
杖の先から微光が溶けるように散り、水面をなぞった。
「これは……自然の魔力じゃない」
その声には、はっきりとした警戒が混じっていた。
「腐素が濃すぎるわ。流れが一定方向にまとまってる……」
修一はしゃがみこみ、水面を見つめる。
川底の泥がわずかに泡立ち、腐った鉄のような臭いが鼻を刺した。
「上流だな。あっちに何かある」
彼は視線を森の奥へ向ける。木々の影が風に揺れ、黒い波のようにざわめいていた。
「川の流れに沿って進めば、原因が見つかるかもしれない」
───
リリィはわずかに首を傾げ、周囲を見渡した。
「……魔物の気配が薄い。こんなはずない」
「薄い?」修一が首をかしげる。
「ええ。森の入口を越えてから、ほとんど気配がしないの」
「ベルガのじいさん、冬明けは魔物が減るって言ってたけどな……ここまでいないのは変だな」
修一は辺りを見回しながら、苦笑した。
「せっかくお前の戦闘訓練に付き合ってやろうと思ってたのに。相手がいねぇ」
リリィはじろりと横目を向ける。
「……シゴいてやろうと思ってた、の間違いじゃない?」
「……聞かなかったことにしてくれ」
「都合いい耳ね」
彼女は軽く杖を振り、周囲の気配を確かめた。
けれど、本当に何もいなかった。
風の音だけが、湿った森を抜けていく。
リリィは口を結び、わずかに顔をしかめた。
「……でも、上流は森の中心よ。今の時間帯に入るのは危険だわ」
「分かってる。でも、森の外に出たいなら─」
修一は立ち上がり、手にしたランタンの灯を少し強めた。
「逆らって進むしかないだろ」
風が冷たくなり、草むらがざわりと鳴った。
ふたりの影が橋の残骸を越え、川沿いに伸びていく。
まるで出口を求めて歩き出したその道が、
皮肉にも、森の最も深い場所、この世界の核心へと続いていることを、
その時の修一はまだ知らなかった。
───
川を遡るうちに、空気が重くなっていった。
息を吸うたび、喉がひりつく。
腐素の濃度が、目に見えるほど濃い。
「……霧か?」
「違うわ。腐素の霧よ。ここまで濃いのは……異常ね」
リリィは杖を取り出し、光をともした。
青白い光が、霧の中でゆらめく。
「少しだけ浄化する。息をするのもやっとでしょ」
「それは助かる……けど、森ごとやるつもりか?」
「範囲は抑えるわ。ほんの少し」
杖の先に光の輪が広がる。
空気が静まり、霧が引いていく……その瞬間。
カチリ。
どこかで、鍵が外れるような音がした。
リリィの顔色が変わる。
「……今の、なに?」
地面が低く唸り、足元の土が沈む。
修一が思わず叫ぶ。「おい、なに踏んだんだ!?」
「違う、私じゃ─!」
次の瞬間、足元の土が崩れ、光の柱が地中から噴き上がった。
風が渦を巻き、腐素の霧が吸い込まれていく。
《……うわ、まぶしい……!》
修一は腕で目を覆った。
光の中から、石造りの塔のようなものが、ゆっくりと姿を現す。
表面には複雑な紋章、そして、刻まれた文字。
「魔道水道……中継施設……?」
リリィは呆然と呟き、肩を落とした。
「なによこれ...森にこんな施設があったなんて...。」
「つまり、今のって……」
「うーん...私の浄化術が、結界を破った……?」
リリィは沈黙ののち、小さく肩を落とした。
「……悪気はなかったのよ。ただ、空気を少し澄ませたかっただけなのに」
修一は眉を押さえ、深くため息をついた。
「……仕事でもいたな、そういうちょっとやってみたら爆発したタイプ」
《でも、きれいになった》
(成果だけ見りゃな。)
リリィはじろりと修一をにらみ、軽く顎を上げた。
「うっさいわね。文句言う前に、状況を確認しに行きましょう」
「……はいはい。まったく、上司みたいな言い方だな」
「あなたよりは経験あるもの」
そう言いながら、彼女は杖を構え、露出したそれの方へと歩き出した。
霧の奥、装置の内部で、かすかな光がまだ脈打っていた。
───
霧の奥に、半ば地中に埋もれた石造りの塔のようなものがあった。
表面にはびっしりと古い魔法陣が刻まれている。
リリィが杖を掲げ、微かに光を当てた。
「……やっぱり。王国式の魔道封印ね」
修一は壁際に寄り、扉らしき部分を押してみた。
「開かないな。これ、鍵穴もねえぞ」
「魔法コードが必要なの。王都の学術師でもなきゃ解除できないわ」
リリィの声はどこか冷たく、表情もかすかに曇っていた。
修一がふと問いかける。
「そういえば、リリィって……魔法、使えないんだっけ?」
「...え?」
「前にもそんなこと、言ってなかったか?」
彼女は少しの間、沈黙した。
「……使えるわよ。でも、こういう封印は別。
国の機密に関わる術式だから、誰でも教わるわけじゃないの」
彼女の視線が、前方の封印に向かう。
修一もつられて顔を上げた。
淡く光る封印を見上げながら、修一は小さく息を吐いた。
「……つまり、手出し無用ってことか」
「ええ。触らぬ神に祟りなしってやつよ」
霧が流れ、ふたりは無言で施設を後にしようとした。
ただ、その背後で、魔道装置の奥の光が一瞬だけ強く脈打つ。
封印に触れずに離れようとした瞬間、
低い「カチッ」という音が響いた。
地面がわずかに震え、それが、ゆっくりと地中に沈んでいく。
腐素の霧が立ちのぼり、あっという間に視界を奪った。
「おい、これ……!」
「霧が濃すぎる、魔法式が作動したわね!」
(ここに時間制限があるのかよ……!)
息を吸い込む間もなく、視界が完全に白に沈んだ。
声を出しても、すぐに白に飲まれる。
方向感覚すら曖昧なまま、二人は反射的に前へ進んだ。
そして次の瞬間、足元の感触が変わる。
風の抜ける音。
気づけば、森の外れに立っていた。
修一は息を吐きながら振り返った。
「……今、転移したか?」
「たぶんね。人がうっかり近づいても、施設の秘密に触れられないようになってる。
でも、私たちにとっては都合がいいわ。街までのショートカットになったもの」
「勝手に追い出されて、得した気分ってのも変な話だな」
「それでも歩く距離が減ったでしょ?」
リリィが軽く微笑み、霧の晴れた先を見やる。
その先には、遠く街が霞んでいた。




