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第3章 2話 勇者 現実に殴られる

森の中で魔物に遭遇した修一とリリィ。生き延びる術を学ぶため、修行が始まる。


───



木陰から、ぬめった毛並みをもつ獣が姿を現した。灰色の背、赤く濁った目、小型だが牙の鋭さは尋常ではない。修一は反射的に後ずさる。


「う、うわっ……やっぱり出るのかよ!」

「落ち着いて。動かないで」


リリィが一歩前に出た。構えもなく、獣が飛びかかる。その瞬間、彼女の身体が風のように動いた。一閃。気づけば、獣は地面に崩れ落ちていた。


「……こういうときのために、鍛えておくのよ」

彼女は淡々とそう言い、髪についた血を払った。修一はただ呆然とその背を見つめた。


修一はまだ固まっていた。

「……剣と魔法の世界って、言葉だけ聞くとロマンあるけど……実際こえーな。いや、なんかテンプレ的なやつかと思ってたけど、命かかってんのかよ」


(リリィ つよい…)


リリィがちらりと横目で見た。

「テンプレが通じるなら、苦労しないわ」

「だよなぁ……」


修一は苦笑して深く息を吐いた。獣の身体は、糸が切れた人形のように微動だにしない。それが死んでいると理解するまで、しばらく時間がかかった。


「……今の、何をした?」

やっと絞り出した声は情けないほどかすれていた。


リリィは振り返らずに答える。

「重心をずらしただけ。あとは自分の勢いで首が折れたの」

まるで朝のゴミ出しでも済ませたような口調だった。


「ずらしたって……あんな速さで?」

修一は呆れと恐怖の入り混じった目で彼女を見た。彼女の足跡は浅く、草もほとんど乱れていない。それなのに魔物の胴はぐにゃりとねじれ、骨の軋む音が残っていた。


リリィは腰の袋から布切れを取り出し、手を拭う。

「魔法使いは派手な技に頼りすぎるの。あれじゃ隙だらけよ」

「……まさか、魔法なしで戦ってるのか?」


修一の声には驚きが混じっていた。リリィは肩越しにこちらを見て、ほんのわずかに唇をゆるめた。


「……そうよ」

「でも、安心して。あなたを魔法使いにする気はないわ」

彼女は腰の短剣を鞘に収め、淡い息を吐いた。


「魔法は、習おうと思って習えるものじゃない。生まれつき持ってるかどうか、それだけの話」


修一は言葉を失った。

「……つまり、俺には無理ってことか」

「努力で届くと思うなら、努力してみなさい。ただし、期待はしないことね」


リリィの声は冷たいが、不思議と突き放すようではなかった。修一はごくりと喉を鳴らした。彼女がもう一度、森の奥を見やる。風が止まり、木々のざわめきが沈む。


「群れね。……今日は、運が悪い」


その一言に修一の背筋が凍る。リリィは手を広げ、静かに息を整えた。祈りのような仕草。しかし次の瞬間、地を蹴った。灰色の影が三つ、四つ。獣たちが一斉に飛びかかる。


修一の目には、それがまるで時間が止まったように見えた。リリィの姿がぶれる。音もなく踏み込み、肘、膝、掌が流れるように繋がる。肉が裂け、骨が砕け、獣たちが次々と地面に叩きつけられた。


そして、静寂。


リリィは荒い息ひとつせず、視線を修一に戻す。

「次は、あなたの番よ」

「……は?」


「動かないでって言ったのに、後ずさったでしょ。あれ、命取りになるわ」

「お、おれの命より、あの動きのほうが命取りだろ……」

「なら、今日から少しずつ慣れなさい」


リリィは血のついた手を草で拭いながら微笑んだ。その笑みは穏やかで、しかしどこか容赦がなかった。修一は膝が笑うのを感じながら、ようやく息を吐いた。


「……マジかよ……。ゲームの中ならチュートリアル終わったくらいの難易度だろ、これ」

「現実では、ここが死ぬ場所よ」


リリィは淡々と言い、倒れた獣の牙を折り取った。

「素材は使える。腐る前に処理しておきましょう」

「そ、素材って……」


修一の視線が地面に散らばる肉片をなぞる。胃が反応する。

「……や、やっぱり化け物か?」

リリィは横目で見て、微かに笑う。

「失礼ね。生き残るほうが大事でしょ?」

「いや、そりゃそうだけど……。てか、その袋、まだ背負うの? 重いだろ?」

「あなたより軽いわ」

「……はいはい、無敵かよ」


「今なんて言った?」

「なんでもないですすみません!!」


短いやり取りに、ようやく緊張がほどけた。空気が戻り、鳥の声が遠くで鳴いた。リリィは刃を拭い、剣を鞘に戻す。


「修一、歩くときは足の裏の重心を意識して。音を殺すこと。呼吸は、相手の動きに合わせる」

「……あの、いきなり修行モード入るのやめてくれません?」

「今、死にかけたばかりでしょ?」

「ぐっ……言い返せねぇ」


リリィは微笑んだ。

「なら、よく聞きなさい。今日から、あなたの命はあなたの責任。私の影に隠れるのは、ここまでよ」


その瞳には冷たさと、確かな慈しみがあった。修一は息を呑む。

この人、本気なんだ。


リリィが背を向け、森の奥へ歩き出す。木漏れ日が髪に触れ、白く光った。


「行くわよ。日が暮れる前に街まで出たい」

「……はいよ、師匠」

「師匠って呼ぶな」

「すんません!」


そして二人は、血の匂いの残る森を抜けて歩き出した。風が静かに通り過ぎていった。


朝日が昇る。森の霧が晴れ、リリィは自信満々に地図を広げた。

「さて、森を抜けるわよ」


リリィは地図を広げ、進む方向を指差した。

「街までは三日って聞いたけど、最短で行けるはず」


修一は、道が違う気がしても言い出せなかった。森の中じゃ方角もわからないし、魔物が出るかもしれない。リリィの背だけが唯一の安全圏に思えたのだ。

それが、三日も迷うことになるとは知らずに。

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