第2章 6話 泥の王と最初の命令
外。
雪の上で、泥がじわりと広がり、泥人形たちの群れに溶けこんでいく。
彼らの胸に、淡い光がともった。
意識の底で、ざらりと何かが動く。
(……いま、わかった。)
修一は、誰かが自分の声を使って話しているような錯覚を覚えた。
(あいつら、修一を王さまだと思ってる。)
( 王様?)
(うん。見えたんだ。あんたと同じ形をした主が、ここにいた。
よごれたものを受け入れて、また生まれ変わらせる……そういう力持ってた。)
雪の向こうで、泥人形たちが一斉に頭を垂れている。
信仰というより、記憶に従うような仕草だった。
(……つまり、俺はその主の名残を引き継いでるってことか。)
(たぶん。あいつら、待ってる。命令が下されるのを。)
修一は小さく息を吐いた。
(命令、ね。……従うのか?)
(うん。ボスがそう決めれば。)
声ではない。
それは、脳の奥に染み込むような返答だった。
炉の火がぱちりと弾けた。
修一の胸の奥では、泥のざわめきが静かに広がっていく。
リリィが首をかしげた。
「どうしたの?」
「……外の連中が、俺を王って見てるらしい。」
リリィは目を瞬かせ、かすかに笑った。
「どんな悪夢見たのよ、それ。」
修一は炎を見つめた。
「悪夢かどうかは……使い方次第だな。」
炉の炎がぱち、と音を立てて弾けた。
その瞬間、外の風が強くなり、木の壁がわずかに軋む。
地の奥から、かすかな唸りのような響きが伝わってきた。
リリィが肩をすくめる。
「……地鳴り? こんな凍土で?」
修一は耳を澄ませ、わずかに顔を上げた。
「いや、違う。あいつらが……動いてる」
《ボス、あいつら、ならんでる。形をかえてる。》
ブゥの声が、低く静かに響く。
《……まってる。つぎのかたちの指示を。》
修一はしばらく言葉を失った。
リリィが訝しげに近づく。
「なにが起こってるのよ」
「……建造物の、ようなものを作ってる。
外の泥人形たちが、並んで……土を積み上げてる」
リリィは息を呑んだ。
「命令なんて、出してないでしょ?」
《ボスの心が動いた。
それをきいた。》
「心……?」
《ここ、ぼくのなか。ちいさな波がたった。
守れって。》
修一の胸の奥が、冷たくなる。
(……思っただけで、伝わるのか)
外では、泥人形たちが積み上げた壁が形を成しつつあった。
それはまるで、古代の城塞のように、静かに村を囲い込みはじめている。
その中心でブゥが脈動し、まるで王の心音のように鼓動していた。
修一は苦く笑った。
「……勝手に守れなんて思っただけで、これか。
なら、次はもう少しマシな命令を出す。」
リリィが眉をひそめる。
「マシなって……どういう意味?」
修一は炉の炎を見つめた。
燃えさしが崩れ、ひとすじの煙が天窓から立ちのぼる。
「……まず、食料だ。
このままじゃ、守るものも飢え死にする。
畑を、いや、育つ土地を作らせる。」
《うけた。命令を伝える。》
外の唸りが、再び低く地を這った。
泥人形たちがゆっくりと動き出す。
凍土の地表に小さなひびが走り、そこからぬるい蒸気が立ち上る。
まるで、死んだ土地が眠りから目覚めるように。
リリィが息を呑む。
「……ほんとに、命令が通るのね」
修一は静かに答えた。
「通るだけじゃない。……責任も、全部、こっちに返ってくる。」
村人たちは、恐怖した。
湿原の空気が、日ごとに変わっていったのだ。
腐臭の底に、どこか甘い香りが混ざりはじめた。
それは花の匂いにも似ていたが、どこか湿り気を帯びて、舌の奥をざらつかせる。
「……また、何か混ぜてやがる」
骨の浮いた頬を引きつらせながら、老村長ベルガが唸る。
この地〈バクフン湿原〉は、もともと罪人達らが送られる流刑地だった。
働けぬ者、戻るあてのない者。
生き延びるためには、腐った水でもすすぐしかない。
泥の民は、夜ごと畑に集まった。
手には、折れた枝や獣の骨、発酵しかけた残飯を抱えて。
それらを腐土に混ぜ合わせ、まるで儀式のように泥をこねていく。
「やめとけ……触るな」
若い男が近づこうとすると、老婆が杖で地を叩いて止めた。
「見たろう? あの泥の胸の中、光ってるんだよ……生き物じゃねえ」
だが、奇妙なことに
泥人形は誰も襲わなかった。
むしろ、夜明け前には静かに消え、朝には畑の形が変わっている。
凍りついていた地表が、わずかに柔らかくなり、
泥の中に、温かい蒸気のようなものがこもりはじめた。
そこから、まるで息を吹き返すように、白い霧が立ち上る。
やがて村人たちは気づく。
腐りきった大地の一角に、
小さな芽が、ほんのりと蒸気をあげて生えていたのを。
ベルガは、その光景を見つめながら、震える声で呟いた。
「……呪いか、それとも、赦しなのか……」




