表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/39

10話 バクフーン湿原:腐生の胎動

車輪が泥を跳ね上げ、風が窓を揺らした。

湿原にはまだ冬の名残が色濃く残り、霜が溶けてできた水たまりを跳ねる。

遠くで、季節を間違えたようにカエルが鳴いていた。

その声に、春の兆しがわずかに混じっている。


「ボス、ついたよ」

どこからか、鼻にかかったような声が響く。

「……ああ、わかってる。お前らも生きてたか」

「二十四、全員ピンピン。みんな元気」

「……ならいい」



修一はぬかるんだ地面を踏みしめ、深呼吸した。

「……酸っぱい空気だな。鼻が曲がるのに、なんか落ち着く」


リリィは皮肉っぽく微笑む。

「まるで、初めて訪れた場所を見つけた子供みたいな顔ね」

「王都から隔離されたのに、なんで嬉しそうにしてるんだよ」

「……まあ、喜んでるわけじゃないけど」

「発酵勇者、土地を賜る、聞こえはいいけど、実際は臭いごと押し付けられた感じだ」

「……よかったじゃない。湿原まるごと、あなたの実験場よ」

「やめろ、その言い方。響きが物騒だ」


リリィは静かに笑った。

けれど瞳の奥には、うっすらとした憂いがあった。

この追放任務が、どこまで命を保証されているのか

彼女自身、知らされていなかったからだ。


遠くで稲妻が一閃する。

その瞬間、湿原の底から泡が上がり、微かな発酵臭が広がった。

リリィは思わず眉をしかめ、修一はその匂いを吸い込み、満足げに目を細めた。


『ボス、匂いが濃いねぇ』

「……ああ。ここが、俺たちの発酵地だ」




風が止み、馬の足音だけが湿原に響いた。

空には雲の切れ間がのぞき、薄い陽光が泥に反射して鈍く光る。

どこまでも灰色で、どこまでも静かな土地

修一はしばらくその景色を眺めていたが、やがて小さく息を吐いた。


「……長い旅だったな」


リリィが隣で頷く。

「二週間、止まらずに進んだものね。退屈すぎて、夢まで乾きそうだったわ」


修一は皮肉げに笑い、肩をすくめる。

「さすが高価な幻影馬だけあって、乗り心地だけは良かったけどな。

 皮肉なもんだ。流刑馬車にしては、ちょっと上等すぎる」


馬車を降りた修一とリリィは、湿原の外れにぽつんと残る村「スィレン村」の入り口で立ち止まった。


ふと、リリィが鼻をひくつかせた。

「……そういえば、あんた。最近、臭わなくなったわね」


「臭うって……前はそんなに?」


「前は歩くだけで王都の門兵が逃げ出すレベルよ。

発酵勇者の二つ名、伊達じゃなかったじゃない」


修一は苦笑し、掌を見つめた。

指先に淡く光る泥のような膜がうっすらとうねっている。


「ブゥたちと試してたんだ。発酵を抑えず、流れを変える方法をな。

栄養と匂いを外に漏らさず、体内で循環させる。そうしたら」


「人間的な匂いしかしなくなった、と」


「まあ、言い方を選べば内発酵型人間だな」


リリィは額を押さえた。

「あんた、ほんとに自分で新種作ってるのね」


そのやり取りを包むように、湿原の風が冷たく吹き抜けた。

雪解けの土の匂いの中に、もう発酵の匂いはなかった。



馬車を降りた修一とリリィは、村の入り口で立ち止まった。


目の前に広がるのは、もはや村と呼ぶのもためらわれる光景だった。

傾いた小屋。屋根の藁は半ば溶け、壁は湿気で崩れ落ちている。


「……ここが、王都の終着地ね」


馬車を降りた修一とリリィは、村の入り口で立ち止まった。 目の前に広がるのは、もはや村と呼ぶのもためらわれる光景だった。


「……人気がないわね」 リリィが囁く。


「誰も出てこねえ。俺ら、歓迎されてねえらしい」 修一は肩をすくめた。


そのとき、藁葺き屋の影から杖を突いた老人が現れた。 背は低いが、目の奥に濁りのない光がある。


「よそ者が、こんなところまで来なすったか。  ……この先は忌み地だ。祈っても腐る土地よ」


低く湿った声だった。だが敵意よりも、疲れと諦めが混じっている。


「お前さんらは何者だ? えらく上等な馬車で来とったが、貴族のお使いかね?」


「旅人みたいなもんですよ。金にもならねえ仕事で歩き回ってるだけです」 修一が答えると、老人はふっと笑った。


「旅人ねえ……まあ、好きにするがいい。  この村にゃ、宿も店ももう残っとらん。  村長に話は通しといてやるから、今日は沈み屋を使うといい。  村外れの湿地に半分沈んだ家がある。もう誰も寄りつかんが、雨風はしのげる」


そう言って、老人は湿った風に背を向けた。 「夜になる前に行くんだな。ここは……暗くなると、地の底が鳴く」


そう言って、男は湿った風に背を向けた。

「夜になる前に行くんだな。ここは……暗くなると、地の底が鳴く」


修一とリリィは顔を見合わせた。

「……あの人、なんか隠してたわね」

「村の空気が、もう隠しきれてねえ感じだけどな」


二人は案内された方角へ歩き出した。

村の奥へ進むほど、土の色は濃く、ぬかるみが深くなっていく。

家々の間には人の気配がほとんどない。


「これが……沈み屋、か」


村外れにぽつんと建つ家は、半分が地面に沈み、

屋根の一部だけが湿原に突き出していた。

壁には苔が生え、戸口からは冷たい匂いが漏れている。


リリィが息を潜める。

「誰も使ってないみたいね」

「その方がありがたい」


修一が足を踏み入れようとした、その時

ぬかるみの中の泥が、ぐにゃりと動いた。

最初は風かと思ったが、次の瞬間、泥が人の形を成し、

膝をつき、静かに頭を垂れた。


「……いま、見た?」

「見た。勝手に生まれたな」


修一には何も聞こえない。

ただ、その泥人形が何かを言っていることだけは、

体の奥がざわつくように感じ取れた。


(ボス、泥が……呼んでる)

(呼んでる? 何を?)

(仲間って。たぶん、混ざりたいんだと思う)


(おい、ブゥ。お前、話してんのか)

(話してる……菌同士で。音じゃなくて、匂いの波で)


リリィが息をのむ。

「じゃあ、あれはあなたの……」

「違う。俺じゃない。俺の中のやつが話してる」

リリィは息をのんだまま、目を見開いた。

「……中の、やつ?」

それだけ言って、言葉を失う。


修一はうなずきもせず、ただ前を見つめていた。

泥の中から響く声が、確かに自分の内側と共鳴している。



泥人形はゆっくりと立ち上がり、二人の前に跪いたまま、

まるで忠誠を誓うかのように静止していた。


(ボス、土地、喜んでる。匂い、広がってる)

(……そうか。腐るだけじゃなかったんだな)

(ボス、土地が応えてる)


その瞬間、湿原の奥で微かな蒸気が立ちのぼり、

どこからともなく、甘い匂いが漂ってきた。


湿原の脈動に見とれていた修一が、ふと手首に目をやった。

淡く青い光を放つ腕輪、祝福監査印は、もう微かにしか反応していない。


「……リリィ、もう反応してないな」

「ええ。ここまで来たら、王都の監視なんて届かないわね」


修一は腕輪を軽く握り、視線を上げる。

「じゃあ、もういいや。捨てる」

そのまま腕輪を手から外し、湿った泥の中に投げ入れた。

青白い光が一瞬だけはじけ、土に吸い込まれる。


「……あっさりね」

リリィは鼻で笑った。

「ほら、邪魔者はさっさと手放すのが正解よ」

「そうだな。これで王都も森の里も関係ない。俺らだけの土地だ」


二人は視線を交わし、再び湿原の奥を見据えた。

腐る土地と、呼吸する泥と、発酵の鼓動すべてが、自分たちのものになったと感じながら。


【スキル:発酵共鳴】 → 【進化:腐生創造】

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ