第2章 1話 封じられた勇者バクフーン湿原へ
腐敗の果てに芽吹いた命は、やがて王都をも揺るがす。
これは、ひとつの馬糞から始まった世界の続き。
馬車が王都の門を抜けたとき、
リリィは窓の外をじっと見つめた。
「……遠い地ね」
朝霧に沈む城壁の上には、教団の使徒たちが整列していた。
その視線は、見送るというより、封じ込めるもののようだった。
「近かったら行きたくねぇよ」
退屈そうに欠伸をしながら、修一が言った。
彼の手首には淡く青い光を放つ腕輪、祝福監査印がはめられている。
表向きは神の加護だが、実際は発酵活動を監視するための枷だった。
リリィは視線を伏せた。
「……あれがある限り、王都の連中はあなたを実験体扱いするでしょうね」
修一は、自分の手首に淡く青い光を放つ腕輪を見下ろした。
「……これ、なんだ?」
リリィがちらりと視線を向ける。
「祝福監査印。神の加護って建前だけど、実際は教団の監視用よ。
生命反応も発酵活動も、ぜんぶ王都に送られてるわ」
「発酵活動て。……枷じゃねえか」
「まあ、実験体扱いってことね」
修一はしばらく腕輪を見つめていたが、ふいにぼそりと呟いた。
「……外せるぞ、これ」
「は?」
次の瞬間、彼は腕輪をぐい、と引き抜いた。
青白い光がパッと弾け、皮膚がわずかに浮き、まるで腕の表面がほんの少し削ぎ落とされたかのように見えた。
リリィは一瞬、息を呑んだ。
「ちょ、ちょっと……あなた、正気!?」
修一は腕をぶらぶらさせて、平然とした顔。
「ん、あんまり痛くねえ。どうせ俺、疑似生命体なんだろ? 便利なもんだな。でもまあ、首切られたり刺されたらどうなるか分かんねぇけどな、想像もしたくねぇけど」
リリィは額に手を当て、顔をしかめる。
「……縁起でもないこと言わないで! ほんと、クソ仕様だわあなた」
「でもこれ、外しても平気じゃん?」
「平気じゃないわよ! 監視が途切れたら教団が騒ぎ出すに決まってる。
はい、もう一回つけて!」
「えー……」
「えー、じゃない!」
仕方なく修一は、抜け殻のような腕輪を腕に押し戻した。
瞬間、光が再び灯り、何事もなかったかのように腕に馴染む。
「……自然すぎて気づかなかった」
「でしょうね。最初からそう設計されてるのよ」
一瞬、馬車の中に静けさが落ちた。
魔石灯の光が、彼の腕輪の青をやわらかく照らしている。
その光をぼんやりと眺めながら、修一は小さく息を吐いた。
「発酵勇者に土地と報奨を授ける、とか言ってたけどさ。
要するに、異質な俺を王都から追い出したいだけなんだろ」
リリィは答えなかった。
その沈黙が、何よりも雄弁だった。
修一はしばらく窓の外を見ていたが、ふとリリィに視線を向けた。
「なあ、ひとつ聞いていいか」
「なに?」
「……誰がこれ、操ってんだ?」
リリィが瞬きをする。
「操ってる?」
「馬車だよ。王都から出てきたけど、御者いないだろ。
俺、馬も触ったことねぇし、そもそも馬車に乗るのも初めてなんだが」
リリィは小さく笑った。
「この馬、実体じゃないのよ。魔導車輪と幻影馬、王都の運搬術式。
行きはよいけど、帰りは魔力が切れて、馬も車体も霧みたいに消えるわ」
「……つまり、片道きりの送迎ってわけか」
「そう。
発酵勇者殿を安全に流刑地までお届けするための、ね」
修一は鼻で笑い、窓の外を見やった。
「安全って言葉、便利だよな。
要するに二度と帰ってくんなってことじゃねぇか」
リリィは軽く肩をすくめる。
「察しが早いのは長所でもあり短所でもあるわね」
修一はしばらく黙っていたが、やがて低くつぶやいた。
「……それにしても、よくこんなもん用意できたな」
「こんなもんね」リリィはわずかに口元をゆがめる。
「幻影馬の心臓には魔石が一つ必要なの。上級のやつ。
一つで城一つを動かせるくらいの」
「そんな燃費悪い馬、よく動かす気になったな」
「今回は発酵勇者への報奨って建前よ。
王様も、さすがに国民の前ではケチれないでしょ」
修一は短く笑った。
「……報奨ね。ずいぶん高くつく見送りだ」
リリィは視線を前に戻し、窓の外を指でなぞるようにして言った。
「ええ。でもそのぶん、あんたの帰還は派手に映るわ。幻影馬が走れば、誰だって注目する」
その足元には、干し肉と黒パン、乾いたチーズの袋が並んでいる。
「粗末だが、一月はもつ量ね」
修一は鼻を鳴らした。
「一月か……王都も保険のつもりなんだろ。死んでも責任逃れできるだけの」
馬車の外から、かすかに太鼓の音が響いた。
鐘の音と歓声が混じり合い、まるで祝祭のようだった。
窓の外には、王国の通りに詰めかけた人々が見えた。
春の光が霧の合間からのぞき、まだ冷たい石畳の上を淡く照らしている。
芽吹き前の匂い、冬と春の境目の匂いがした。
「勇者様、ばんざい!」
「発酵の加護を!」
「我らの英雄に祝福を!」
修一はその光景を、どこか他人事のように見つめていた。
それでも、道端の子どもが小さな花を掲げたのを見て、
気まぐれに手をひらりと振った。
群衆がいっせいに沸き、歓声が一段と高まる。
リリィがわずかに目を丸くした。
「……サービス精神、あったのね」
「いや、虫を払っただけだ」
「ふふ。なら、その虫はだいぶ人気者ね」
修一は肩をすくめ、
それでももう一度、無表情のまま手を振った。
今度は、まるで葬列に別れを告げるように。
《すごいね、ボス。みんな、あんたのこと大好きみたい》
頭の奥で、ブゥの声が響いた。
修一はわずかに眉をひそめる。
(……やめろ。お前に言われると気持ち悪い)
《でも本当だよ。みんな笑ってる。
けど、その笑いの匂い、ちょっと酸っぱくて苦い》
(……発酵してるってことか)
《うん。どこかで腐り始めてる。
それでも、まだ祝福の味がする》
修一は群衆を見下ろしながら、
乾いた声でぽつりとつぶやいた。
「……栄転、ね。いい冗談だ」
リリィは笑わなかった。
ただ静かに頷き、馬車の奥で両手を組んだ。
《行こう、ボス。
ここから先は、きっとあんたの匂いで満ちる》
馬車が王都の最外門を抜けた瞬間、音が途絶えた。
まるで世界そのものが切り替わったようだった。
「……静かね」
リリィが小さくつぶやく。
「魔力膜が展開されたの。外の世界から完全に遮断されているわ」
修一は窓の外を見やった。
そこには霧のような光が漂い、音も風も届かない。
「これが、魔物にも盗賊にも見えないってやつか」
「ええ。王都の最高位運搬術式。魔力膜が展開している間は、存在そのものが認知されない」
修一は苦笑する。
「……至れり尽くせりだな。で、どのくらいで、着くんだ」
「この速さで二週間。二十四時間、止まらずに進む」
「止まらないって……寝る時とか、ようを足す時は?」
「個室があるわ。清浄魔石で処理される。貴族用だから、不便はしない」
「食事は?」
「自動給餌盤がある。魔法食だけど、味は悪くないわ。飢えることはない」
「至れり尽くせりだな。報奨金も出るのか?」
「ええ。王命の依頼だから当然よ。出発の時、鞍の箱に金貨が入っていたでしょう」
修一は思い出したように外を見た。
馬車の外殻に埋め込まれた金属箱の中、確かに重みのある革袋があった。
「……そういや、あったな」
「その金で現地の人員を雇うこともできる。好きに使えばいい」
リリィの声にはどこか乾いた響きがあった。
馬車の内部には、柔らかな光を放つ魔石灯と、かすかに温もりを保つ空気。
揺れもほとんどなく、外の世界が遠ざかっていくようだった。
「外は?」
「魔力の膜で覆われているわ。
魔物にも、盗賊にも、存在を感知されない仕組み。
王都の運搬術式の中でも最高位の防護術よ」
修一は鼻で笑った。
「安全第一、ってやつか」
「そうね。少なくとも着くまでは、ね」
修一は窓の外に流れる白い地平を見つめながら思った。
二週間、止まらず、眠らず、ただ進み続ける。
その旅の終わりに、何が待っているのかも知らぬまま。
修一は目を細め、遠ざかる王都の塔を一瞥した。
その瞳の奥で、ほんの一瞬、炎のような光がきらめいた。
馬車の中に漂うのは、磨かれた革と乾いた薬草の匂いだった。
清浄魔石が空気を絶えず循環させ、温もりと静けさを保っている。
リリィはその整いすぎた環境の中で、ふと胸の奥がざらつくのを覚えた。
(……これが勇者の扱い、ね。見た目だけは丁重に)




