申し訳ないのですけれど、聖女といえども人間ですもの。
「あーあ、あたしも聖女さまになりたかったわ」
「本当よね。聖女さまってだけでとりたてて何もしないで暮らしていけるのだから、羨ましいわ」
「わたしはちょっと嫌だけどなあ。だって、何をしても『聖女』なんだから当然って言われるんでしょ。王族みたいに贅沢ができるわけじゃないのに、みんなの税金で暮らしているくせにって毎日言われるのはちょっと疲れそう」
「まあ、確かに。ずっと期待されるのも大変よね。なんだ、こんな感じなのか。ショボいって言われたくはないわ」
「それって、あんたが聖女さまのことをショボいって思ってるってことでしょ!」
「だって、聖女さまって地味じゃない?」
「そりゃまあ、言いたいことはわかるけどさあ」
きゃははははと楽しそうな笑い声が通り過ぎていく。護衛騎士が前に出て行こうとするのを、クレアはそっと手で制した。仕方がない。だって彼女たちが口に出したのは全部本当のことだったのだ。だから、クレアには怒る権利がない。本当のことを言われて怒るのは、狭量なことではないか。いまだ響くおしゃべりを、クレアは物陰に隠れたまま静かに聞き続けた。
***
クレアは真面目なだけが取り柄の平凡令嬢だ。「将来、世界を救う聖女になる」なんて神託が下りてしまったせいで、貴族というのもおこがましい辺境の貧乏男爵家から神殿に引き取られた。持参金を用意するのも難しかった両親は、聖女に選ばれたことを大層喜んだ。何せ、聖女は基本的に王族に嫁ぐのが一般的なのである。最高の玉の輿が約束されたも同然だった。
神殿はクレアを聖女として粛々と育て上げた。彼女に教えられたのは、神殿の理想とする聖女としての生き方だ。清く正しく美しく。すべてに対して平等に、公平に、愛を分け与える。決して怒らず、相手の心を受け止める。迷える者を導き、教え諭す。常に柔らかな微笑みを浮かべるクレアに、かつての田舎娘の面影などどこにもなかった。
クレアは慣例通り、王太子の婚約者に据えられた。実はクレアは王太子と話したことがほとんどない。婚約が決まった際に少しばかり会話を交わしただけ。それ以降は、誕生日の際にちょっとした贈り物が届くばかり。それでも、頼れるものが何もないクレアにとって、王太子の存在は何よりも大きな心の支えだったのだ。王宮など初めてで右も左もわからないクレアのことを馬鹿にすることなく、柔らかな声で労わってくれた。それだけで好意を抱くに十分だったのだから。
住まいが神殿から離宮に移ったところで、クレアの暮らしは静かなものだ。つい先日まで貴族らしからぬ庶民的な家庭で暮らしていたクレアにはどうしても寂しさが募る。それでも彼女は涙をこらえて必死に頑張った。それもこれも、婚約者となった王太子に迷惑をかけないためだ。
とはいえ世界の危機も起きないままクレアが年齢を重ねていくと、周囲も次第に腫れ物を扱うように変わっていった。さすがに女神の神託が間違いであったとは思わないが、既に危機は乗り越えられたのではないか。それならば聖女に予算をかける必要はないと少なくとも王家には思われたのだろう。離宮にあったクレアの部屋はなくなり、神殿に戻された。クレアの扱いは年々悪くなり、今ではたったひとりの護衛騎士がいるばかりである。護衛騎士が身に着けている骨董品のような鎧を新調させてやることさえ、クレアにはできなかった。
今のクレアのあだ名は、「穀潰しの聖女さま」だ。それならば自分の食い扶持くらい自分で稼ごうと神殿で働くことを申し出たが、聖女としての格が下がることを恐れたのか、はたまた逃亡防止のためか、クレアが神官たちに交じって働くことは許可されなかった。それどころかさらに神殿の奥深く、かつて不治の病に侵された高貴なる人々が隔離された北の離れに閉じ込められてしまったのである。
なぜ今さらになって、この離れへ隔離されたのかクレアには理解できなかった。しかもおしゃべりで噂好きな使用人たちに加えて、王家の近衛騎士たちまで配置されている。今までとは雲泥の差だ。一体、何が起こっているのか。不思議に思いつつも、これまでとは異なり自由に神殿内を歩き回ることのできなくなったクレアは、確認することができなかった。そんなクレアに答えを教えてくれたのは、おしゃべりな使用人たちだ。
「それにしても聖女さまもお気の毒よね。婚約破棄されたことも知らないまま、こんなところに閉じ込められて」
「そりゃあ、穀潰しの聖女さまかもしれないけどさあ。『念のため』なんて理由で、一生飼い殺しにされるなんて、あたしはまっぴらごめんだわ」
「大体、王族は中央神殿で結婚式を挙げるのが習わしだからって、聖女さまがいるところで結婚式を挙げなくたって……」
「あんたたち、滅多なことを言うもんじゃないよ。不敬罪で死にたいのかい」
ああ、なるほどと妙にクレアは納得した。突然、待遇が変わって疑問に思っていたことが全部理解できた。急に増えた使用人も、厳重な警備も、クレアのために用意されたものではない。隣国の王女を娶る王太子を、クレアから守るためのものだった。嫉妬に狂ったクレアが凶行に及ぶとでも思われたのだろうか。
ころころと聖女教育の賜物たる声で、クレアは笑った。王家の心配も、神殿の対応も、使用人たちの同情もすべてが滑稽で仕方がない。護衛である神殿騎士が差し出したハンカチなど受け取らぬまま、涙が止まらなくなるまで笑い続けた。そしてその夜、クレアは自室の窓から転落して死んだのである。享年17歳。早すぎる死だった。
***
「ねえ、そこのあなた。ちょっとの間、私の代わりに祈りを捧げてもらえないかしら?」
道端の使用人を捕まえて、クレアはにこやかに微笑んだ。先ほどまでかしましくさえずっていた彼女たちは、顔を青くして口をつぐむ。今までのクレアならば自分の噂話を耳にしたところで、静かに微笑んでやり過ごしていたはずだ。突然のクレアの行動に、一同驚きを隠せなかった。
「聖女さま、ご冗談を……」
「あら、大丈夫よ。そんなに難しいことではないの。もともとショボくて地味な聖女なのだもの。特に難しい仕事なんて頼まれたりしないわ。少し、息抜きをしたいだけなの。そうね、この中のみんなで毎日交代してくれたらよいわ。私の代わりに部屋に座って聖女の振りをしていてちょうだい。王太子殿下がいらっしゃることもないから大丈夫よ。どうぞよろしくね。私から連絡があるまでは、そうしてくれないとダメよ。約束はちゃんと守ってちょうだいね」
くすくすと笑いながら、クレアは立ち尽くす使用人を置き去りにする。そんな生活をしばらく続けたクレアは、ある日許可がなければ通れないはずの門をくぐり神殿の外へ出た。必要なものは既に準備できている、何も心配はない。彼女の隣では、いつもの護衛騎士が所在なさげに立ち尽くしている。
「……聖女さま、これは一体。もしや聖女であることを捨てると?」
「まさか。私は、私らしい聖女の道を進むのです。この国の庇護はなくなってしまいますが、一緒に来ていただけますか?」
「聖女さまが望んでくださるならば、喜んで」
「では出発です!」
必死になって止めてくるかと思いきや、護衛騎士はこれまで通りクレアに従ってくれるらしい。いくら辺境出身の田舎娘とはいえ、若い娘の一人旅は危険すぎる。たとえ、巡礼者だと一目見てわかる質素なローブを頭からかぶっていたとしても、不心得者はどこにだっているものだ。何より、護衛騎士はクレアにとって特別な存在だ。ありがたい旅の連れを得て、クレアは意気揚々と足を踏み出した。
***
クレアは真面目なだけが取り柄の平凡令嬢だった。「だった」、そう過去形なのだ。なぜなら彼女は、婚約者である王太子に捨てられたその日に命を落としたのだから。そんな彼女がどうして生き返ったあげく、神殿を出て行くなんていう聖女とは思えない行動をしているのか。それは、彼女が死んだ後に起きた出来事に起因している。
あの夜、彼女はすんなり自分の死を受け入れて天の国へと昇るつもりでいた。早死にしたかったわけではないが、死んでしまったものは仕方がない。死に方にいろいろと文句をつける人間はいるかもしれないが、言いたい奴らには言わせておけばいいのだ。所詮、歴史は生きている人間のもの。先に死ねば、好き勝手に言われるのは理解している。それでも自分は真面目に働いてきた善人だ。人生最後の失敗と比べてみても、帳消しになるくらいの善行を積んでいるという自信はあった。
「クレア、今まで本当にご苦労さまでした」
「とんでもございません。もったいないお言葉でございます」
不意に現れた神々しいまでの美女に声をかけられたが、クレアは驚かなかった。風もないのに薄布のドレスをはためかせている目の前の女性が誰であるのか、自己紹介などされずともクレアには理解できる。神殿に飾られている女神像そのままの女神を前に、淑女の礼をとった。
「女神さまじきじきに、天の国へご案内いただけるとは光栄の極みでございます」
そんなクレアの言葉に、女神は困った顔をした。はて、一体どういうことなのだろう。首を傾げるクレアは思いもよらない言葉を聞くことになる。
「あなたは、天の国に行くことはできません」
「……救国の聖女としての役目を果たせなかった者は、地獄行きですか」
「いいえ。あなたは、どちらにも行けないのです」
「女神さま、それではまるで私が……。そんな、まさか!」
自分の死を知ったときには取り乱さなかったクレアが、甲高い悲鳴を上げた。女神は憐れみのこもった眼差しを彼女に向ける。
「あなたの葬儀は、諸事情により行われませんでした」
「そんな! それでは、私は! 一生、どこへも行けないではありませんか! 生きていても籠の鳥、死んでからもいつか魂ごと消滅するのを待つだけだなんて!」
この世界では誰かに悼まれることで初めて、魂は天の国へと入ることができると言われている。逆に言えば、どんなに雑でもその死を弔ってもらわなければ魂は永遠にこの世をさまよい、いつか擦り切れて消えてしまうのだ。
「もしや、王太子殿下が……」
クレアは王太子に疎まれていた。彼は自分の結婚にケチがつくような事実を決して許さないだろう。本来ならば、弔事は慶事よりも優先されるが、あの王太子が自分たちのお披露目や新婚旅行などの予定を変更するはずがないのだ。
「けれど、それでも誰かひとりくらい私を悼む方はいたはずです! 実家の家族……いいえ、報せは届かない……。そうです、私の護衛騎士! 彼ならば私の死を悲しんでくれたのでは? 正式な葬儀はできなくとも、冥福の祈りを捧げることくらいは」
「本来であれば、もちろんそうだったでしょうが……」
女神は悲し気に首を横に振った。あの寡黙な護衛騎士が死んだ? まさか、自分が死んだ責任を取らされたとでもいうのか。今までいろんなことを諦めていた彼女の中に、初めて悔しさと怒りが湧いてくる。いつの間にか護衛騎士は、誰よりも大切な存在になっていた。かつての心の拠り所だった婚約者なんかよりもずっと。
「大切なひとひとり守れない聖女なんて、何の意味もありませんね」
「……あなたの祈りは、とてもあたたかく心地よいものでしたよ」
「そんなことをおっしゃられても、ちっとも嬉しくありません」
「ええ、そうでしょうとも。ですから、一度だけあなたの時間を戻します。聖女であるあなたが死んでしまうと、やはり世界は滅ぶのだと見せつけられましたから」
なんとクレアは、神託通り救国の聖女だったらしい。それでも彼女は、もうすっかり自分のお役目が嫌になってしまっていた。今さら生き返ったところで、きっと昔のように無心に祈りを捧げることなどできはしない。救国の聖女が何だと言うのか。けれど、女神はそれでもいいのだと笑った。
「大事なことは、あなたが生きる希望を失わないこと」
「それならば私は、今まで教えられてきた聖女とは真逆の生き方を目指します。神殿の中にいては望みを抱くことすらできませんもの」
「それでも構いませんよ。よく見極めて生きるのです」
自分の幸せを願ってくれるのならば、聖女なんてものから解放してくれるのが一番だ。けれどどうやらそれはできないらしい。仕方なく死に戻ることを受け入れたクレアだったが、彼女は自分らしく生きるため神殿での生活を捨てることを決めたのだった。
***
「まさか聖女さまが、聖地巡礼の旅に出られるとは……。正直、驚きました」
「あら、私、もともと平民同然の男爵家出身なのです。質素な生活には慣れております。むしろ、働かざる者食うべからずの精神で生きてきましたから、神殿での生活はなかなかに居心地が悪うございました」
屋台で食べ歩きをしながら、クレアは護衛騎士に微笑んだ。フードも被らずに顔を出し、大口を開けて肉の串にかぶりついている姿は上品とは言い難い。けれど、美味しそうに食べる彼女の様子はしっかり広告塔の役割を果たしているらしく、屋台には行列ができ始めていた。
「さてせっかくの旅ですが、これからどちらに向かいましょうか?」
「これが私のやりたいことリストですわ」
「なんだか、食べ物関係のことが多いような……?」
「当然ではありませんか! せっかく旅に出るのです。その土地の文化を知るには、その土地の食べ物を食べるのが一番。美味しいものを食べて、世の中のためになるなら最高の巡礼になりますとも」
「聖女さま、ずいぶんとお変わりになりましたね。まるで、神殿にいらっしゃったばかりの頃のようです」
「私は、私らしく生きた上で、聖女の役割を全うしたいのです。それは我儘なことでしょうか?」
王族は、国のため、民のために生きることを求められる。聖女とて、似たような立場ではあるのだ。けれど、クレアの質問に護衛騎士は小さく首を横に振った。
「まさか、滅私奉公など必要ありません。聖女さまが、聖女さまらしくお過ごしいただければそれで十分です。わたしは王族とて、自分の責任を果たすことができるのであれば自分らしく生きる権利があると思っておりますよ」
「まあ、嬉しい。それでは、私のやりたいことリストのひとつ目をまず叶えましょうか。わたしのことは今後、クレアと呼んでくださいませ。私もあなたのことは、今後名前で呼ばせていただきます」
「承知しました、クレアさま。わたしのことは、デズモンドと」
「クレアと呼んでいただいて構わないのですけれど。でも、しばらくはこのままでいきましょうか。デズモンドさま」
大陸を西へ西へと進む巡礼の旅は終わらない。ひとつの町でリストの願い事がいくつも叶うこともあれば、複数の町を越えても願い事が叶わないこともままあった。
「ちなみに、リストには他にどのような願いが書かれているのですか?」
「難易度順に書いてあるので、上位には結婚、出産などがありますね。何せこれらは、私の希望では通らないものですから。神殿の権威を振りかざして、ごり押しするなど絶対に嫌ですもの」
「王家でもあるまいし、ということですね。とはいえ、聖女さまの夫になることを嫌がる者などおりましょうか。むしろわたしは、王家からの横槍の方が心配です」
「諸国漫遊に出た聖女を今さら取り返そうとするなんて」
「要らないと自分が捨てたものであれば、自分が求めればいつでも喜んで戻ってくると思っているのですよ」
「あら、私は自分の意思で出て行ったのですけれど。見解の相違というのは恐ろしいものですわね」
しかし残念ながら嫌な予感ほどあたるもの。デズモンドの心配は的中し、クレアたちの前にかつてクレアを捨てた王太子が姿を現した。ああ、こんな顔だったなとしみじみ反芻する。
「久しぶりだな、婚約者殿。俺の気を引きたいのは理解できるが、国を出奔するのはやり過ぎだ」
よくわからないことを言い出した王太子を前にしつつも、クレアは聖女らしく柔らかく微笑んでみせた。
***
「まあ、ご機嫌よう。王太子殿下。このような場所で一体何のご用でございましょう?」
「久しぶりだからといって拗ねているのか。わざわざ迎えに来てやったのだ。手間をかけさせるな。さっさと戻るぞ。そこの出来損ないも、どういうつもりで聖女の逃亡を手助けしたのかは知らんが、それなりの落とし前はつけさせてもらおう」
「迎えなど、私には不要でございます。どうぞ、お引き取りを」
「まさか、護衛騎士なんぞと本気で夫婦になれるなどと思っているわけではあるまいな? よもや既に身体を重ねたか? 残念だったな。そいつは王家の犬だよ」
下卑た顔の王太子がクレアの手を掴もうとしたが、それよりも先にデズモンドが先に割り込んだ。斬りかかりそうになったのをクレアが止める。睨み合う男たちを尻目に、クレアは困ったとばかりに頬に手を当ててみせた。
「あら、隣国の王女殿下との婚姻はよろしいのですか? 結婚式の手配も済んでいたと耳にしておりましたが」
「より利のある相手と結婚するのは、政略結婚の基本だぞ」
「それは、王女殿下もお気の毒に。急に梯子を外されては、人生計画が狂ってしまいます」
「結婚の話は秘密裏に進めていたはずだ。なぜお前が知っている。そもそも俺と婚約していた身の上で、なぜ国から出られたのだ。誓約を破ることなどできぬはず」
詰め寄ろうとしたが、デズモンドの剣とクレアの結界によって王太子も連れてきていた近衛たちも動けない。忌々しげに王太子が顔をゆがめた。
「まあ、怖いお顔ですこと。王太子殿下、私には目も耳もありますわ。一緒に働いてくれる手足も、いろんなことを考えてくれる頭もね。今の私は、お飾りではないのですよ。殿下と違って」
「王太子である俺に向かってなんて口を!」
「申し訳ないのですけれど、聖女といえども人間ですもの。好みというものがございます。私にだって選ぶ権利くらいございますでしょう?」
「まさか、そこの護衛騎士を本気で自分の夫にするつもりか? はっ、誰がそんなものを認める。王家は婚約破棄には応じぬし、神殿は婚姻を認証せぬ!」
王太子が鼻で笑う。けれどクレアは焦ることはない。ころころと笑った後に、護衛騎士の手に自らの手を載せた。その手を護衛騎士は握りしめる。
「殿下、結婚に必要な条件をご存じでいらっしゃいますか?」
「まったく、お前は何を言っている? 神官と神殿騎士の揃った各地の神殿でないと婚姻が承認されないのは当然のことではないか。書類を出そうが、子どもを作ろうが、神の祝福のない婚姻などすべて無効だ」
「その認識は間違いではありません。けれど、正解とも言い難いのです」
「どういう意味だ?」
「必要なのは神殿ではなく、日々の祈りによって清められた場所。なぜなら雑念が多い場所では、女神さまへお声が届かぬからです。そして神官と同じように明瞭に声を届けられる者、神殿騎士と同じようにこの場所を守ることができる者がいればそれでよいのです。婚姻が政治と結びついた結果、根本的な教えが歪んでしまっただけ」
――病める時も 健やかなる時も 共に過ごし 愛をもって互いに支え合うことを誓います――
クレアと護衛騎士が淡い光に包まれる。ふたりの唇がゆっくりと重なり合うと、祝福の光が降り注いだ。
***
「生かして国に戻してしまってもよかったのですか?」
「身ぐるみは剥がしましたもの。それに、王太子殿下はそれなりに優秀な方です。せいぜい国のために働いていただかなくては。隣国の王女殿下も賢いお方だと聞いております。この件から自国の旨味を引き出しつつ、王太子殿下の手綱をうまく握ってくださることでしょう」
くすくすと笑いをこらえるクレアに、デズモンドが恐る恐る問いかけた。
「クレアさま。先ほどの誓いは白い結婚を三年続ければ解除できるはずです。緊急避難的なやり取りであったのですから、女神さまもお許しくださるでしょう」
「デズモンドさま、一体何をおっしゃっているのです?」
「クレアさまが、王太子殿下のことを慕っていらっしゃったことは存じております。先ほどの婚姻も、やむにやまれずであったことも」
「あらまあ、デズモンドさま、まだお気づきではありませんの?」
クレアは王太子が持っていた腕輪をくるくると手で弄んでみせた。ずっと腕につけていたクレアのものとは異なり、王太子の腕輪はあまりにも綺麗すぎる。身に着けることのないまま、しまい込まれていたのだろう。それをクレアは、デズモンドの腕に嵌めた。
「クレアさま?」
「やっぱり。腕輪は持ち主の腕の太さに合うように調整されているのですね。なるほど、よくできた魔導具です。あの日、私と婚約を結んだのは王太子殿下ではなく、あなたですね。影武者を務めていたのでしょう?」
デズモンドのローブを脱がせれば、王太子よりも柔らかく、より端正な顔立ちの美青年が姿を現わした。
「どうせ儀式の神聖さも知らず、安易に影武者を立てたはず。そしてそのことに、王家は何も疑問を持たなかったのでしょう」
「おっしゃる通りです。大変申し訳ございません」
「謝る必要はありません。だって、あなたは影になり日向になり私のことを守ってくださったでしょう。王太子からの贈り物として届けられるものは、全部あなたがくださったもののはず。違いますか?」
「……そうです。わたしにつけられた予算はほとんどなく、わたし自身の稼ぎで購入したものでしたから、やはり見劣りしましたでしょうか?」
「まさか。私は、好きなものや嫌いなものを、使用人たちを通していろいろな方にばらまいています。貴族らしいやり方を散々教え込まれましたからね。そして、私が本当に好きなもの、欲しいものはあなたにしか伝えていなかったのです。私の王子さまは最初からあなただったのですから、この婚姻を解消することなどありえません」
クレアの潤んだ瞳に喉を鳴らしつつ、けれどデズモンドは渋い顔をしたままだ。
「ではなぜ、自ら命を絶ったのですか?」
「え?」
「あの男を愛していたから、すべてに絶望して死を選んだのではありませんか?」
「あなた、記憶が……」
「クレアさま、答えてください」
真剣な顔を前に、クレアはそっとうつむいた。
「……言いたくない、というのは許してもらえないのよね?」
「やはり、王太子殿下のことが」
「違うわ!」
そこで一呼吸置き、クレアが頬を赤らめた。
「……一発、ぶんなぐってやろうと思ったの」
「は?」
「だから、一発ぶん殴ってやらないと気が済まないじゃない? 自分はとっとと別の女性と結婚した癖に、私のことは念のため扱いで神殿に縛り付けておくなんて。私だって、人並みの幸せを求めたっていいじゃない」
「……つまり、絶望してその身を投げたとわけではないと?」
「どうしてあんな馬鹿男のために、私が死ななくちゃならないのよ。確かに、死んだものは仕方がないと思っていたけれど、あの馬鹿男を許すわけないじゃない。ただ単に、自分のうっかりで死んじゃったから、仕方がないって思っただけよ」
思わず、素の自分が顔を出す。すっかり聖女教育を叩きこまれていたはずが、身体に馴染んだ言葉遣いは気を抜くとすぐに顔を出してしまうものらしい。
あの夜、クレアは確かに部屋の窓にその身を乗り出した。けれどそれは死ぬためではない。これからの人生をクレアらしく生きるために必要なことだったのだ。部屋の扉を開ければ、護衛騎士だったデズモンドだけではなく王家から派遣された近衛たちに外出を見とがめられるだろう。
何より、聖女として生きている自分に仕えているデズモンドにお転婆な一面を見せたくはなかったのだ。何せ、平民同様に暮らしていたクレアはかなり逞しい根性と身体を持っていた。そうでなければ、あんな清貧すぎる一度目の人生でしぶとく生き残ることなどできはしなかったのだ。後半は空腹のせいで、少々考えなしにはなっていたけれど。
田舎の実家暮らしだった頃のクレアなら軽々と木に飛び移り、降りることができただろう。けれど、残念ながらクレアはすっかり大人になっていた。子どもらしいはつらつさも、軽やかな体重も、柔軟な身体もなく、野山を駆け回り培った筋力もなかった。そのため、かつてのクレアなら掴めたはずの木の枝に、その手は届かなかったのである。そうして、クレアは死亡した。正直、恥ずかしくて笑い話にもできない。
「復讐のために死んだら意味がないでしょう?」
「あなたが死んだ後、この世界がどうなったのかお聞きになったのですか?」
「そういえば、詳しい話は聞いていませんでしたね。あなたが亡くなったと聞いてしまって、頭が真っ白になってしまったから。でも、ろくなことにはならなかったのでしょうね。女神さまが介入されるくらいなのですし」
「いくらやりたいことリストに載っていても、今後は窓からの出入りは禁止ですよ」
「あら、あなたはやっているのではなくって?」
「そうですね。わかりました。必要なら、わたしが運びます。それならば構いません。それから、言葉遣いも戻してください。気取らないあなたが、わたしは何より好きなのです」
再び令嬢言葉に戻したクレアがつんと顔を背けてみれば、優しく抱きしめられる。その温もりがあまりにも心地よくて、クレアは彼の胸に頬を寄せた。
***
女神は寄り添って微笑みあうふたりの姿を満足そうに見つめていた。どうやら今回は、世界は破滅しなくて済みそうである。
前回、クレアの死後に聖女の葬儀が行われなかったのは、彼女が軽んじられていたからではない。もちろん、彼女のことを軽んじていた人間がいたことは事実だが、彼女は政治的に利用価値の高い存在だった。護衛騎士が亡くなった聖女の遺体を持って逃げていなければ、大々的に国を挙げての葬儀が行われていたことは間違いない。それは国にとって都合の良い時期にずらされただろうけれども、それでも彼女を弔わないということはあり得なかったのだ。
けれど、護衛騎士は聖女が死後まで利用されることを許さなかった。彼女の死を悼むのではなく、自分の好きなように利用する輩たちに心底絶望し、この国の全てを恨んだのである。その怒りは彼の姿を魔王へと変えたのだった。身分の低い女の腹から産まれたことで、彼は王族として名乗ることを許されてはいない。けれど、古の魔女の血を引く母を持つ彼は、異母兄である王太子よりもはるかに魔術の才に溢れていた。怒りのままに世界を焼き尽くす魔王を見て、女神は死に戻りの奇跡を行うことを決める。今度こそは、世界を滅びから救うために。
絶望のままに力をふるったあの時とは異なり、今の彼であれば正しくこの世界に君臨することができる。そうでなくても、国王や王太子を亡き者にしてこの国の王座を奪うことは簡単なのだ。けれど、それを彼は望まない。なぜならクレアが望んでいないからだ。
彼女の望みは実にささやかなもの。いくつも書き連ねられたやりたいことリストの中身は、驚くほど平凡な願いばかり。そこに世界の命運だとか、王位だとかは必要ない。だから護衛騎士は、何も言わずに微笑むのだ。彼女とともに、穏やかな暮らしを守るために。
そんなことなど露知らぬクレアの旅はのんびりと続いていた。美味しそうに各地の名物を頬張るクレアの姿を見て、護衛騎士は満足そうに微笑む。やがて、ふくふくとした子どもたちを連れて笑いあうクレアと護衛騎士を見ることができるようになるのは、もう少しだけ先のお話。クレアたちが腰を落ち着けた最果ての小さな町。その町の神殿にある女神像が微笑みを浮かべていること、女神像の前で愛を誓えば必ず幸せになれると評判になる頃のことである。
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