#吹奏楽部の午後
**──午後4時15分。**
吹奏楽部、放課後の音楽室。
西村美鈴、高校1年生。
クラリネットを担当する彼女は、特に目立つタイプではない。
小柄で、いつも制服の着こなしは控えめ。
けれど、音を鳴らせば、誰もが自然と耳を傾ける。
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「ね、美鈴ちゃん。ここ、どこでブレス入れてる?」
同じパートの2年生が、ふと譜面を覗きこむ。
彼女は手元を見たまま、指でリズムを刻むように小節を追う。
「……ここ。4小節目の裏。音が詰まりやすいから、先に息を抜いておくといいかも」
「ありがと。ほんと、細かいとこよく聴いてるよねー」
美鈴は軽く微笑んで、また黙る。
それが、彼女の日常だった。
必要なことだけを話し、あとは音に任せる。
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**午後4時30分。**
全体合奏の前、個人ソロの音合わせ。
「クラリネット、1年、西村いける?」
部長の声に、少しだけ迷いながらも頷く。
足元で譜面を持ち上げ、ゆっくりとクラリネットを構えた。
吹き始めたのは、来年のコンクールの課題曲。
顧問が“試してみたい”と言ったパートだ。
美鈴は、演奏中ほとんど表情を変えない。
けれど音には、微かな揺らぎがある。
それは、“自分が吹きたい音”ではなく、
“どこかで誰かが聴いてくれていたら嬉しい”と、
そんな願いのようなものを含んでいた。
誰がその音を受け取るかは、わからない。
けれど、彼女はその音を“日々に置いていく”。
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**午後4時45分。**
準備室でひとり、譜面に軽く書き込みを加える。
「少し、やわらかく」
誰に説明することもないが、意味は自分だけが知っている。
顧問がふと顔を出す。
「西村。コンクールのあれ、ソロいけそうか?」
「……やります」
言葉は短く。けれど、力はあった。
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**午後6時ちょうど。**
日が落ちる前の、淡い光の中。
クラリネットケースを閉じながら、美鈴は一度だけ窓の外を見る。
誰かが走っていく足音。
昇降口のあたりで、自転車を引いてる影。
特に誰とは、言えない。
けれど、**その音もまた、風に紛れて耳に残る。**
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彼女は、まだ恋をしていない。
でも、**“誰か”を思って音を鳴らすようになった。**
そんな午後だった。
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