⑨ 第九話
折角の連休も、特に予定はないはずだった。
だが、ルーシアは今、シュレンダ王国でも一、二を争う劇場の席に座っていた。
幼い頃から親元を離れて料理に邁進してきたルーシアは、まったく知らなかった世界に、建物の荘厳さに度肝を抜かれそうになった。だが、そこは今では名店の厨房を預かる身である彼女は、表情にはそれを出さずに平然を装う。
この劇場を厨房に見立て、厨房においては、シェフは誰よりも冷静沈着で在らねばならないのだ、と自分に言い聞かせ続けていた。
「ルーシア。バレエを鑑賞するのは初めてなのかな?」
「ええ、初めてよ。ただ、ずっと興味はあったから嬉しいわ」
前から十席以上後ろの席に案内されたが、隣のライナスが言うには、この辺りが一番バレエを楽しめる特等席なのらしい。
「そうか。それはよかった」
ライナスは相変わらず無表情で淡々と言うので、ルーシアは嘆息する。
「ねぇ、もう少し楽しそうにできないの?」
「そう見えてしまうかな? だが、私は今、天にも昇る気持ちなのだ。美しく着飾った君の隣に居られるということを何度でも神に感謝したいくらいに……」
ライナスの言葉は、やはり淡々としていて本気だとは思えない。
昨日、結局二人で大衆食堂で飲んでいたのだが、その際に、ライナスが改めてルーシアをデートに誘ってきたのだ。
「ルーシア。結果として今日は君にエスコートされることになってしまった。そんな情けない私に、汚名返上の機会を与えてはくれないだろうか?」
ライナスは大衆食堂ならではの味を楽しんでいたようだったが、やはり自分が主導権を握れなかったことが悔しいのか、そんな事を言いだしてきたのだ。
ルーシアはどうしようかと少し迷ったが、男性のメンツをこれ以上潰させるのは悪いと考え、翌日の彼との逢瀬を受けることにした。
内容は、午後からバレエを鑑賞し、それから昨日行こうと思っていたレストランで食事をするというシンプルなものだったが、午後からというのが、疲れが溜まっている自分の体調を気遣ってくれたであろうことを感じ、少し嬉しく思ってしまった。
そして、デートの当日、ルーシアは一張羅のドレスを身に着けてライナスが訪ねてくるのを待っていたのだが……。
(そうよね。貴族様が徒歩で移動するわけなかったわよね)
馬車で劇場まで行くという経験まですることになったのだった。
「さて、そろそろ開演時間だ」
ライナスのその言葉に、これまでの事を思い出していたルーシアは慌てて眼の前の舞台に集中することにする。
初めてのバレエ鑑賞。
それがどれほどのものか、ルーシアは固唾を呑む。
頭の片隅で、何か料理のアイデアに繋がるかもしれないと考えてしまったときに、自分は根っからの料理人だと苦笑してしまったが。
そして、始まったバレエはルーシアの予想を遥かに超えたものだった。
◇
ライナスにエスコートされるままに、彼が言う変わったレストラン、<柔らかな岩盤>に足を踏み入れたルーシアは、しかし呆然としていた。
ウエイターに勧められるままに席に座り、ルーシアは気持ちを落ち着けるために息を吐く。
「その様子だと、バレエは気に入ってもらえたと考えてもいいのかな?」
ライナスの言葉に、ルーシアは堪えきれずに、満面の笑みを浮かべて口を開く。
「素晴らしかったわ! 本当に素晴らしすぎて、他になんと言い表したら良いのか分からないくらいよ!」
ルーシアは興奮しすぎている自分に気が付き、コホンと咳払いをして、居住まいを正す。
「君に楽しんでもらえたのなら、これに勝る喜びはない」
ライナスはまた無表情でそう言うと、ウエイターを呼ぶ。
食前酒を何にするかということで、ルーシアは迷った。異国の料理店ということで、その国のお酒を頼んでみるのもいいが、いかんせん今回の料理との組み合わせがそれでいいのか分からない。
こういう場合、ソムリエと言われる、その店のワイン専門の給仕人に頼るのが一般的だ。そうすれば、まず間違いのない品が提供される。
「……ライナス。料理の味を損ないたくないから、酒精が弱いワインが良いのだけれど、選んでもらえないかしら?」
しかし、ルーシアはライナスを頼ることにした。
「分かった。私に任せてもらおう。君、彼女に……」
ライナスは給仕に話しかけ、ルーシアの食前酒を選んでくれる。
こうして誰かに自分の事を委ねるのも初めての経験だ。
これまでずっと、一人で気を張って生きてきたのだ。全ては、夢であった<銀の旋律>で働くために。そして、それがかなった後は、幼かったときに憧れたあの頃の店のあり方を取り戻すために。
まだ、話すようになって数日だ。そんな短い時間でライナスという男性を心から信じるほど自分は単純な女ではない。けれど、異性に好意を寄せられ、大事にされる事がこんなに嬉しいとは思わなかった。
そしてこの店の食事も最高だった。
ルーシアが未だ経験したことがなかった味に、大いに創作意欲が指摘された。特に不思議なデザートには驚かされた。
そして、食事の合間にライナスは話をしてきた。
それは、楽しいひと時には水を差す話。彼がしたのは、今後の話。もしも、ルーシアがライナスと結婚をした場合の長所と短所の話だった。
けれど、ルーシアはそれを不快とは思わなかった。結婚の長所だけでなく、きちんと短所も説明してくれる事に、この人は誠実な人なのではと思ったくらいだ。
「ルーシア。今日、君に楽しんでもらったバレエだが、『グラン・パ・ド・ドゥ』と言うのだ」
「……そういう名前なのね」
「ああ。『パ・ド・ドゥ』は、例外もあるが基本的に男女二人の踊りのことだ。だが、『グラン・パ・ド・ドゥ』というものは、それに男女の主役を演じる踊り手がそれぞれ名人芸を誇示できるように構成されている」
ライナスはこちらを見つめてくる。その真剣な眼差しに、ルーシアは言葉を発せられなくなってしまう。
「そして、私は君とそういった関係になることを望んでいるのだ」
「えっ?」
もう求婚はされていたのだが、更にライナスは求婚の言葉を重ねてくる。
「私はこの国を愛している。私と君が住んでいる、この国を。我が国を。だからこそ、君と共にこの国を素晴らしいものにしていきたいと考えている。
私は国の治安を守る。それが多くの人々の幸せに繋がると信じているからだ。だが、それだけでは人々は幸せにはなれない。そこに喜びが必要なのだ。そして、それは私には与えられない物だという自覚はある。しかし、君ならばそれを人々に与えられと思うのだ」
ライナスの言葉は、信じさせる強さが合った。それは、彼自身が口にしている事柄を信じているからだろう。だからこそ、大言壮語とは思えない。
「この国という舞台を、私と君でより良い方向に変えていこう。……私と一緒になると言うことは、君に多くの我慢を強いる事になるだろう。だが、君の輝きを、君がこれまでの人生を掛けて来た料理人としての道を閉ざすようなことは決してしない。君をより一層輝かせることを誓う」
ライナスはそこまで言うと小さな箱をスーツのポケットから取り出した。
「時期尚早なのは理解しているし、重い男だと思われるだろう。だが、真剣なのだ。本気なのだ。私の隣に居て欲しい女性は君だ、ルーシア。君以外には考えられない。
これから、季節柄、店の仕事が多忙になるのは分かっている。こうして頻繁には会えなくなってしまうだろう。だが、これを見て思い出して欲しい。君のことを誰よりも思っている男がいるのだと」
そう言って、ライナスは小さな箱を開けて、その中身をルーシアに見せる。
それは指輪だった。婚約指輪。エンゲージリング。
ルーシアはあまりのことに、驚くと同時に胸が熱くなって来てしまう。
本当に時期尚早だ。そうは思いながらも、こんな素敵なシチュエーションで求婚される日が来るとは思って居なかったので、涙まで出てきそうになってしまう。
「ルーシア、受け取って欲しい」
ライナスは静かに立ち上がり、ルーシアの左手を優しく掴む。そして、薬指にその指輪を嵌めた。
あまりの事にボーっとして、ルーシアはなされるがままになるしかなかったのだった。