⑥ 第六話
重い足取りで、ルーシアは職場である<銀の旋律>の店からほど近い自宅に戻った。
そして、なんとか着替えを済ませると、ベッドにうつ伏せに倒れ込む。
「……なんなのよ、まったく……」
ルーシアの口から漏れたのは、文句の言葉だった。
体も心も疲労困憊なのだが、生来の気の強さが、ただ黙っていることを良しとしてくれない。
「そりゃあ私だって、素敵な男性との出会いがあればと思っていなかったと言えば嘘になるけれど、どうして人生で初めて私を口説いてきた男が、よりにもよって、あのライナス=シュハイゼンなのよ!」
もしも、先程のような口説き文句を、他の素敵な殿方に心を込めて囁かれたのならば、自分もときめいていただろうとルーシアは思う。
だが、ニコリともせずに、淡々と無表情で言うあのライナスという男は駄目だ。
けれど、そうは思いながらも、自分の作った料理に不満を抱いたと言われたので、ついつい話を受けてしまった。
「って! もう私、詰んでない? 詰んでいるわよね、これ! 平民が貴族の求婚を断るなんて許されるわけないし!」
ルーシアは、「あああっ、もう!」と口にしながら、髪を掻きむしる。
「何なのよ、何なのよ、これは? なんで今日一日でこんなことになったの?」
結局、あの鬼畜貴族が提案してきた、『私の抱いた不満に君が自らの力で気がついたのであれば、この求婚を断ってくれて構わない』という言葉に縋るしかないのだ。
ルーシアは嘆息し、ベッドの上で体制を変えて、仰向けになる。
「ああっ。もしもあの鬼畜貴族の求婚を受けざるをえなくなってしまったら、私は料理人を辞めなければいけないのかしらね……」
<銀の旋律>の大改革の許可をくれたので、すぐにはそうならないと思いたいが、相手は貴族様だ。いつ気まぐれで、店を、料理人を辞めるように命ぜられるか分かったものではない。
ただ、自分が料理人でなくなるなど、死ぬと同義だ。
ルーシアは顔を横にやる。
すると、鏡台の鏡が目に入った。そこには、疲れた自分の顔が映っている。
「……だいたい、何で私に一目惚れなんてするのよ? まぁ、私だってそれなり……いや、結構な美人だとは思うけれど……」
女のプライドからそう思ってしまったが、流石に美しさに特化しているであろう貴族のご令嬢やご婦人たちに敵わないということくらいは理解している。そこまで身の程知らずではない。
「それなら、どうして私のような平民に求婚なんてするわけ? 好意的に考えるのならば、私の料理に、調理技術に惹かれたので手元に置いておきたいと思ったから?」
そう考えたものの、それでは自分の料理に不満を持ったという事柄と矛盾してしまうだろう。
「って、まずは何よりも、私の料理に持った不安よ! それが分かれば求婚を諦めてもらえるんだから」
ルーシアは今日のメニューを思い出して、思考を巡らせる。だが、ただでさえ仕事を終えた後に疲れることがあったせいか、疲労が込み上げてきて眠気に襲われる。
「ふぅ……。とりあえず、明日ね」
ルーシアはそう結論をだし、明かりを消すことにしたのだった。
◇
翌朝、ルーシアは心地良い眠りから目を覚ました。
若いということもあり、昨日の疲れもすっかり消えている。
「よし! まずは朝食の用意。美味しい朝食は元気の源だから、しっかり食べないとね」
色々と悩む事はあるが、今日も元気に仕事に励まないといけない。
ルーシアは洗面等をすべて終わらせ、朝食作りをする。
「うんうん。我ながら美味しそうよね」
厚めに切ったハムが焼ける芳しい香りが鼻孔をくすぐる。これはルーシア自身が丁寧に作ったとびっきりの特製のハムなのだから、味は間違いなく最高なはずだ。
まぁ、この匂いだけでパンが進みそうなのだから、それは約束されている。
首都であるこのプレリスの市街地に住んでいる家庭での朝食と言えば、クロワッサンやバゲットに薄いサラミやチーズを挟むか、ジャムをたっぷり塗って食べる。そこにコーヒーやホットチョコレートなどの飲み物がついてくるのが一般的だ。サラダの一つもあればご馳走だと言える。
だが、ルーシアはそういった食事を良しとはしていない。
もちろん、ルーシアがまだ二十代前半なので食欲が旺盛なのもあるが、何よりも先に上げた料理では力が入らないのだ。
この街の近郊には、農業や酪農が盛んな村が多いが、そういったところに住む人々は、朝からしっかりとした食事を三食と、更に間食も何度もするのだという。
流石に仕事の都合上、間食の回数までは真似できないが、せめて三食だけはしっかりとした料理を、バランスよく作って食べることを大切にしている。心がけている。
これは、今の店に勤める前に働いていた店――<銅の調べ>で、同期であった腐れ縁の女に指摘されたこと。
美容のためにと野菜類と果物を多く摂っていた幼い頃のルーシアは、その同期と比較して、スタミナに難があった。
普通の人間であれば、<銀の旋律>に入るためのライバルが減る事を歓迎こそすれ、相手に塩を送ろうなどとするものはいない。……うん、居ないはずだ。
だが、あの腐れ縁の同期は違った。
同室なのを良いことに、「ルーシア、しっかり朝ごはんを食べていないでしょう? 私もこれから朝食だから、一緒に食べましょう!」と言い出し、無理やり、自分が作った今までとは比較にならない量の朝食を食べさせようとした。
同期が出してきたボリューム満点の料理に、最初こそ、こんなに食べられるわけないと思っていたが、まずはその素晴らしい料理の香りに、少しだけなら食べてもいいかなと思ってしまった。
そして、一口、更にもう一口と食べ進めていくうちに、あまりの美味に食べる手が止まらなくなってしまう。そして、気がつくと、絶対に食べきれないと思っていた量を綺麗に完食してしまった。
「ねっ、食べられたでしょう?」
同期は得意げにそう言うと、自分も最後に残ったハムステーキの一切れを胃におさめる。
悔しくて仕方がなかったが、あまりにもその時の朝食は美味しかった。そして、その日は一日、仕事に集中することができたのだ。
それ以来、ルーシアは食事を、特に朝食を大事にしている。
そして、その腐れ縁の女は、結果として<銀の旋律>には入れなかったものの、何故か、本当に何故かは分からないが、いまだにルーシアと交流がある数少ない幼馴染の一人だ。
「そう言えば、あいつは旦那さんと恥ずかしいくらいイチャイチャしてたっけ……」
ふと幼馴染の事を思い出し、ルーシアはため息を付いた。
先日、何度も遊びに来るように乞われ続けたため、仕方なく、その幼馴染の所まで旅行にでかけたのだが、あいつとその旦那は本当に仲が良かった。それこそ当てられてしまうほどに。
一方、自らの夢を叶えて<銀の旋律>に入った私には、どうして、あんな鬼畜貴族しか声をかけてこないのだろう。
贅沢な悩みだとは思いながらも、ルーシアは嘆息する。
ただ、そんな気落ちした気分の中での朝食もやはり美味しかった。
そして、前向きになれた。
「さて、今日を乗り越えれば明日は休みだし、今日も頑張るとしましょうか!」
恥ずかしいし、負けた気がするので口には出さないが、ルーシアは幼馴染に心の中で感謝し、今日の仕事に向かう活力を補充したのだった。