⑤ 第五話
ルーシアは頭が混乱してしまった。
普段、誰よりも冷静で、それが過ぎるがゆえに『厨房の冷血女王』とまで言われる彼女が。
だがそれは、ルーシアの周りに、彼女の人物をよく知らないものばかりが集まっているからだ。
本来の彼女は年相応の女性で、異性に興味を持っているし、幼い頃から働き続けてそんな暇が一切なかったために、よけいに素敵な逢瀬などにも夢を持っている。
もっとも、それを知っているのはごく一部の人間だけなのだが……。
「なっ、何を仰られるのですか? いくらなんでも冗談が過ぎますわ、ライナス卿。私はまだまだ若輩で浅学の身ですが、貴族様が平民の小娘に求婚することなどありえないことくらいは理解しているつもりです」
ルーシアは表面上はなんとか落ち着いたふうを装い、はっきりとそう告げる。しかし、ライナスは眉一つ動かさずに、
「なるほど。やはり君は、その類まれなる美しさと調理技術だけでなく、知識も兼ね備えているのだな。ふむ、私の目に狂いはなかったようだ」
そんなことを言ってくる。
これが称賛の言葉であるのは分かる。けれど、鉄仮面のような無表情でそんな事を言われても、ルーシアは微塵も嬉しくない。
いつか、こんな風に素敵な男性に口説かれて愛を囁かれたいという願望を持っていても、実際にそれを行う相手が、身分違いの貴族で、まして、平民の間でも鬼畜とまで揶揄される、あのライナス=シュハイゼンが相手では……。
「君が突然のことに混乱しているであろうことは分かるつもりだ。だが、私は嘘偽りを口にして、君を傷つける気もない。むしろ、君に危害を加えようとする者がいれば、どのような方法を用いても、そのような輩から君を守ると誓おう」
ライナスは真っ直ぐにルーシアを見つめてくる。
「私が貴族であることも、君が平民であることも私には一切関係ない。どのような障害があろうと、私はそれを乗り越え、克服する。だから、安心して私についてきて欲しい」
言葉だけを考えれば、それは情熱的な告白に他ならない。けれど、ライナスの言葉に熱意は感じられない。ただ淡々と、冷静に言葉を紡いでいる。だから、その言葉は途端に胡散臭く聞こえてしまう。
「……無礼を承知で発言させて頂きます」
「構わない。君の気持ちを聞かせて欲しい」
ルーシアの言葉にも、ライナスは微動だにしない。先程から、同じ様に薔薇の花をルーシアに向けたまま微塵も動こうとしないのだ。
「私には、ライナス卿がお戯れで私を誂っているようにしか思えません。今日初めて出会った小娘にそんな事を口にされることが、本心とは思えないからです。まして、そのような気持ちの込められていない言葉で言われても、私は戸惑うばかりで、ますます信用できません」
ルーシアは震えそうになる体に活を入れ、ライナスをキッと睨む。
「ふむ。この気持ちを上手く貴女に伝えられないのは、私の不徳の致すところだ。これは今後の課題として改善していく事を約束しよう」
ルーシアの精一杯の威嚇にも、ライナスは微塵も心を動かさない。
「それと、もう一つの疑問にも答えておこう。私が今日出会ったばかりの君に求婚した理由だが、これは至極単純だ。私は今日、君に出会い、君の料理を、歓待を受けた。その際に、一目惚れをしてしまったようなのだ」
「なっ! そっ、そんな事、ある訳が……」
「君の感想は至極もっともだと思う。昨日までの私なら、こんな気持ちを自分が抱くとは思っていなかった。だが、君を一目見たときから、更に君の料理を口にし、君の至高の料理を食し、その事を幸福に感じるのと同時に、それに不満を抱いてしまった際に気がついた。
私は君という人間に、ルーシア=レイリュースという女性に惚れてしまったのだと。そして、君を他の誰にも渡したくないと考えるようになってしまった。時間が経つにつれてこの気持ちは熱く、重くなっていく一方なのだ。自分で自分を制御できなくなってしまいそうなほどに……」
ライナスはやはり淡々と言う。
その言葉に、やはりルーシアは心を動かされることはなかった。たった一言を除いて……。
「ライナス卿。今、私の料理に不満を抱かれたと仰られたように聞こえましたが?」
ルーシアの声は低い。そして、彼女から戸惑いの表情は消えていた。
「……ああ。そのとおりだ。私は君の最高の料理に、不満を持った」
ライナスがはっきり断言したことで、ルーシアは突然の告白に戸惑う若き女性ではなく、老舗中の老舗料理店である、<銀の旋律>を任されている料理人の顔に変わる。
「ライナス卿は、私の料理をお認めくださったのではないのですか? だからこそ、私が一大改革を行うことを了承頂けたのだと認識していたのですが……」
「そのとおりだ。私は君の料理を認めている。だからこそ、この店の今後を君に懸けたいと思った。その認識は間違いない」
「では、どのようなご不満をお持ちになられたのでしょうか? そして、そのような不満を抱えながらも、私に懸けようと思われたのでしょうか?」
ルーシアの言葉に遠慮はない。
今の自分が作り出せる最高の料理をお出ししたと言うのに、それに不満を持たれてしまった。その事がルーシアの料理人としての矜持を傷つけたのだ。
自分はまだまだこれから進歩していく途中だという気持ちはあるが、同時に、今現在の全ての力を使って作った料理は今現在の至高だという自負がある。誇りがある。
そう思えるほどの天賦の才を有し、それを磨き続けてきた。誰よりも努力を続けてきた。そんな料理に不満を持たれてしまった。そのショックは決して小さいものではない。
「……ルーシア。卑怯なのは分かっている。だが、私は君に本気なのだ。その気持ちを分かって貰うためにも、交換条件を出させて貰いたい」
「交換条件。それは、どのような?」
ルーシアの声は低いままだ。
「先にも言ったとおり、私と結婚を前提に交際して欲しい。そうすれば、私という人間をよく分かってもらえると思う。そして、その事で君は、私が抱いた不満を理解する事ができると思うのだ」
「それが、私にどのような利点があるのでしょうか?」
もうここまできたら開き直り、ルーシアは無礼を恐れずに尋ねる。
「私は、今の君には、私の抱いた不満を察することはできないと考えている。だが、その予想を覆し、私の抱いた不満に君が自らの力で気がついたのであれば、この求婚を断ってくれて構わないというのはどうだろうか?」
ライナスはそこまで言うと、僅かにだが口の端を上げた。
ルーシアはその挑発に怒りを覚えたものの、何も分からずにいた眼の前の男が、意外と好戦的だと理解できたことで、彼も人間なのだと思うことができた。
「分かりました。その提案を受けさせて頂きます」
たとえそれがライナスの思惑とおりなのだと思っても、そこで初めてルーシアは、貴族としてではなく、店のオーナーとしてでもなく、ライナス=シュハイゼンという男性に少しだけ好感を抱いたのだった。