④ 第四話
ルーシアは気疲れから疲労困憊な他のスタッフを先に帰らせ、厨房で一人、後片付けを行っていた。
結果として、今回のシュハイゼン男爵家の視察は、成功に終わったと思う。
何よりもの目的であり、この<銀の旋律>の伝統だとルーシアが信じている、『どの料理店よりも美味なる料理を提供し、至福の時間を過ごして頂く』ということはできたはずだ。
今回、ルーシアの指揮で作られた料理は、昨日まで出されていた料理とはまるで異なる料理。しかし、リドル卿はそんな料理を絶賛し、あのライナス卿も文句は言わなかった。
更にそこで、ルーシアは賭けに出た。
今後は流行を取り入れるということも考慮し、大規模な改革を行いたい旨をライナス卿に伝えたのだ。
貴族に平民が意見をする。
そのような無礼は本来許されることではない。
だが、自分はこの厨房を現在預かっている者であり、今晩の料理でその力を示したはずだ。
美味なる料理に人は抗いがたい。そして、今晩出した料理は、どれもがこの国で一番の料理であると自負をしている。ゆえに、貴族に意見をするような生意気な小娘と思われても、その事で処罰をし、みすみす美味を食べられなくなるという愚行は行わないだろうと考えていたのだ。
「……今頃になって、震えが止まらないわ」
結果として、ライナス卿から、「いいだろう。君の思うようにするといい」という言葉を頂けたが、いくら勝算が高かったとは言え、この行いは間違いなく命を懸けたものに他ならなかった。
ルーシアは自らの肩を両手で抱きしめるようにし、震えを落ち着かせる。
支配人はもとより、ガーランド達を帰らせたのは、彼らを気遣ってというよりも、こんな弱い自分を見せないためという理由が主だった。
ライナス卿とリドル卿が家路に就かれ、二人を乗せた馬車が見えなくなった瞬間、安堵感から緊張の糸が途切れそうになったのだが、ルーシアは懸命に堪えてここまで持たせたのだ。
(情けないわね、ルーシア。それでも、『厨房の冷血女王』と陰口を叩かれている人間なの?)
心の中で、まだまだ未熟な若輩者である自分を嘲笑いたくなってくる。
しかし、自分は副料理長だ。近いうち、遅くともここ数年で、最年少で料理長の座を手中に収める予定の女だ。であるのならば、弱い姿など他人に見せることなどあってはならない。
たとえどんな状況下であろうと、上に立つ人間が慌てるのは禁忌だ。そうでなければ、他の人間に示しがつかないし、そんな頼りにならない人間に誰がついてくるというのだ。
(……許可は頂いた。後は、腐れきった今の体制を……)
ルーシアが決意を新たにしようとしたところで、それは聞こえてきた。
トントン、と一定の間隔で裏口の、厨房スタッフの出入り口のドアを叩く音が。
きっと見習いの誰かが忘れ物でもしたのだろうと思い、ルーシアは一度深呼吸をして気持ちを落ち着けてから裏口に向かう。
「どなたかしら? 厨房に忘れ物でもしたの?」
「……ああ、そうだな。忘れてしまったんだ」
念のための用心にと、誰何の声をかけたルーシアの耳に聞こえてきたのは、スタッフのものではない男性の声。けれど、この声には聞き覚えがある。
それもそのはずだ。少し前に聞いたばかりの、この低くて威圧感のある声を忘れるはずがない。
「そんな、まさか……」
ルーシアは信じられずに息を呑んで固まってしまう。
けれどそれも数瞬のこと。すぐに冷静さを取り戻し、解錠する。
ドアを開けると、そこには予想通りの人物が立っていた。
金色の髪で長身。そして、二十代半ばくらいの若さであるにも関わらず、ただそこに立っているだけで畏怖を覚えそうになる迫力を持つその人は、家路に就いたはずの、ライナス=シュハイゼン男爵だった。
◇
「……ライナス卿。何故、このようなところに?」
思わずそんな言葉が口から漏れてしまったが、ルーシアは貴族を立たせたままにして置く無礼を理解し、一先ず厨房の中にライナス卿を招き入れようとする。
まだ春は遠く、風は冷たいのだから。
「いや、ここで構わない。私は調理については門外漢だが、厨房に外套のまま入るような愚行を起こすつもりはないのでね」
「では、表にお回り下さい。すぐに……」
そう提案したが、ライナス卿の射抜くような強い視線を向けられ、ルーシアは言葉に詰まってしまう。
「いや、それも必要ない。先にも言ったように、忘れてしまっただけなのだから」
「お忘れ物ですか?」
先程、店の掃除も行ったが、忘れ物の類は一切見た覚えはない。
戸惑うルーシアに、ライナスはそれまで背中に回していた右手を前に出してくる。その手には、真っ赤な薔薇の花束が握られていた。
「君に告白をしていなかったことに気が付き、居ても立ってもいられなくなってしまった」
ライナスは顔色一つ変えずに、しかし真剣な声でその言葉を口にしたかと思うと、その場に跪く。
「ルーシア、私と結婚を前提にお付き合いをして欲しい」
鉄仮面を彷彿とさせる無表情で、ライナスは突然ルーシアに求婚をしてきた。
「……えっ? えええええっ!」
ルーシアは普段の冷静沈着な姿が嘘のように取り乱した。だが、それも仕方がないことだった。
求婚されるなど、ルーシアがこれまでの人生で、初めて経験する事柄なのだから。