③ 第三話
<銀の旋律>の厨房に、ルーシアの声が響き渡る。
「ガーランド、貴方がベーススープを作りなさい!」
「はい!」
すぐに調理を始めるガーランドの動きに迷いはない。
「キィ、ファル、リィーカ! 悪いけれど今回は貴方達に料理を作らせている時間はない。未熟な貴方達に作らせていたら、手直ししているだけで開店の時間になってしまうからね」
ルーシアの言葉に見習い三人の表情が曇る。しかし、
「ただ、仕事を与えないわけではないわ。今日のお客様、シュハイゼン家御一行への給仕は、貴方達が交代でやりなさい!」
その言葉に、三人とも信じられないという顔をして目を大きく見開いた。
「それと、邪魔をしない限りは私の仕事を自由に見ていていいわ。そこから少しでも盗めそうなものがあれば、遠慮なくそうしなさい。他人の慈悲に縋ろうとするのではなく、自分が努力をして力をつけるの。そんな程度のことができないほど、未熟ではないでしょう?」
その言葉は、まだ成人年齢である十八歳にすらなっていない子供には過酷だと捉える者もいるかも知れない。だが、そんな甘い環境で育ってきた人間ではないのだ、この三人も。
この店の見習いになっているという事は、大人の手助けはあったものの、この店の系列の大衆食堂である、<銅の調べ>という料理店で、部門シェフまで上り詰め、若手料理人がひしめくコンテストで優勝を勝ち取ってきたということに他ならない。
ならば、どうしてそんな優れた人物が集まっているこの店が腐敗し始めていたのか?
それは、五十歳半ばの現在の料理長、キカールの怠慢がきっかけだ。
常人とは比較にならないほど、キカール料理長も才能はあるのだろう。だが、才とは磨き続けていかねば輝きを失うもの。
厨房での派閥作りにばかりに力を入れ、出資者にのみ媚を売っていた彼の腕は、錆びていく一方だったのだ。
だが、ルーシアは違う。
若くして副料理長を任されたのは、類まれなる調理技術の裏打ちがあったからこそ。
そして、腐りきった今の体制を打破するために、牙を隠し続けて、キカール料理長の派閥に入り込んだ。
けれど、それももうお終いだ。今日、この日をもって、この店に不要なものは全て切り捨てるのだから。
やがて調理が終わり、ルーシアがすべての料理を確認してお墨付きを出したことで、ようやく準備が整った。
本来であれば、来店時間近くまで小休止となるのだが、質問があれば受け付けるとルーシアが言ったのを皮切りに、ガーランド達はルーシアを質問攻めにした。
彼らは飢えていたのだ。
自らの調理技術を磨くことができる機会に。
「そう。そこは貴方達の考えているとおり。だから、ポワレにはしなかったの。だけど、気がつくが遅いわ。貴方達見習いは、皿洗いを担当しているのだから、その事実に真っ先に気がつくべきだったはずよ」
「はい。すみませんでした」
見習いの若者たちは謝罪しながらも、目を輝かせている。
「これも忘れがちになる事柄だから、敢えて言っておくわ。お客様に貴賤はないの。今回、わかりやすいようにシュハイゼン卿御一行様と呼称しているだけで、お客様それぞれが別の人間よ。私達料理人がすることは、全てのお客様にご満足頂くこと。それを肝に銘じなさい」
「はい! 以後気をつけます!」
ルーシアの言葉はキツイが、全てが的を射ていた。そして、調理を行う料理人には厳しい反面、お客様に対しての心配りが行き届いていた。
今までは、とっつきにくくて、その上、キカール料理長の仲間だと思っていた若者たちは、その考えが間違っていたことを痛感し、同時に喜んだ。
この人の元でならば、解雇に怯えるあまり、料理長に気に入られることに腐心しなくてもいいのだと。思う存分、料理人としての道を歩めるのだと。
そして、それは若幼いとも言える三人だけでなく、ガーランドも同じだった。
調理の手際を見て、考え方話を聴いて、よく理解できた。
今、この店に必要なのは、このルーシアという若き天才なのだと。
◇
部屋に近づいてくる支配人の、精一杯媚びた声が聞こえる。
指定時間ぴったりに、ライナス男爵を乗せた馬車が店に到着したようだ。
「ほらっ、何を緊張しているの! 言ったでしょう。お客様がどなたであろうと、私達は何時もと同じ様に、最高の料理と時間を提供するだけよ!」
緊張でガチガチになっている見習い三人とガーランドに、ルーシアは力強い笑みを向ける。
その効果で、僅かだが皆の緊張が軽くなった。
間もなくドアが開かれ、まず支配人が、そして、温和な笑みを浮かべた六十代の老齢な白髪男性――リドル=シュハイゼン卿と、その息子であり、まったくニコリともしない金色の髪を短く纏めたライナス=シュハイゼン卿が入店された。
「いらっしゃいませ。<銀の旋律>に、ようこそお越しくださいました」
まだ表情が堅いガーランド達に代わり、ルーシアがいの一番に会釈して挨拶をすると、ガーランド達も慌てて頭を下げる。
「ほっほっほっ。そう言えば、キカール料理長は入院をしているのだったな。ということは、今日は副料理長であるルーシア君が料理を担当してくれるということだね」
そう言って穏やかに笑うリドル卿は、前回まで二十年以上も視察を続けていた。
そんな彼は、貴族に見られる選民意識を感じさせない人格者で有名だ。だからこそ、料理長以外の料理人の名前すら覚えてくださっている。
「父上……」
「ああ、すまん、ライナス。今回から、お前の仕事だったな」
ライナスに声をかけられ、リドル卿は口を噤む。
「顔を上げたまえ」
端的な命令を受けて、ルーシア達はそのとおりにする。
すると、ルーシアの視界に、金髪の男性の姿が入ってきた。
確か、年はルーシアの三つ上で、二十五歳になったばかりのはずだ。だが、実年齢以上の迫力というか、凄みを感じる男だった。
親子ということもあり、リドル卿と同じように顔貌は整っているのだが、その顔には一切の表情というものが浮かんでいない。そしてその事が一層、ライナスという男性の威圧感を増幅している。
「……支配人から話は聞いている。君が今晩の料理をすべて仕切ったと」
ライナスの声は冷たく低く、重いものだった。そして、彼は言葉を続ける。
「料理長が病で倒れていることは考慮しない。今晩、私の前に出される料理と接客態度で、この店の今後を考える。……発言を許す。何か言いたいことはあるかね?」
平凡な人間であれば、相手が貴族であることを考え、その瞳をまっすぐに見ようとはしない。
けれど、ルーシアはその枠に収まる人間ではなかった。
「発言をお許しくださり、ありがとうございます。ですが、私から特別に申し上げることはございません。どうか、素敵な一時をお過ごしくださいませ」
ルーシアは怖気づくことなく、穏やかな笑みさえ浮かべてまっすぐにライナスを見つめ、決して目を離さない。
「……そうか。楽しみにさせてもらおう」
ライナスは、言葉とは裏腹に眉一つ動かさない。まるで鉄仮面を被っているかのように。
その後すぐに、見習い達に案内をされ、ライナス卿とリドル卿が席についた。
そして、給仕が始まる。
ルーシアという稀代の料理人の作品の給仕が。
……この晩を境に、<銀の旋律>のルーシアの名前は、このプレリスの街に響き渡ることとなる。
だが、それは天才料理人としてではない。
彼女の名が響き渡ったのは、
『かのライナス=シュハイゼンから、可哀想にも求婚を受けたうら若き女性』
としてだった。