⑫ 第十二話
リーナス=デルネスの名前は、平民のルーシアでも知っている。
ある意味ではライナス=シュハイゼンと同様に彼女の名前が有名だからだ。
ただその二人が話題に登るのは話題が異なるだけで。
後者であるライナス=シュハイゼンの名が、敢えてフルネームで呼ばれるほどの恐怖、畏怖、怖いもの見たさの話題に上がるものだとすると、前者であるリーナスは、憧れ、羨望、そして彼女が欲しいという渇求で話題になるのだ。
リーナスはデルネス公爵家の三女であり、まだ十代後半の若さで、その美しさは吟遊詩人の歌にもされているほどだ。
絹糸のように美しい金色の髪と白い肌。そして細くも出るところは出た女性らしい体つきを持ち、その性格も淑やかで淑女の鑑とまで謳われている。
そんなリーナスとあのライナスが同じ話題で、貴族だけでなく平民の口からその名前が上がる。これはまさに青天の霹靂としか言えない話題だった。
「なんで、リーナス様があのライナス=シュハイゼンなんかと……」
「もしかして、デルネス家はライナス=シュハイゼンに弱みを握られているのだろうか?」
「しかし、ライナス=シュハイゼンは杓子定規で冷静冷酷と言われていたが、やはり男なのね」
ゴシップが大好きな者たちが、好き勝手な事を井戸端や酒場なので騒いでいる。しばらくこの話題で何処も持ち切りであろうことは間違いないだろう。
ルーシアはそんな状況の中で、長期の休みに入った。
仕事をしていれば、それに集中している間は余計な考えを持たなくてもすむ。けれど、今のルーシアはそれができない。
これで、ライナスが訪ねて来てくれて、今回のことを説明してくれればルーシアも少しは安心できたのだが、彼女の元を訪ねてきたのは、シュハイゼン家の執事だという老齢な男性だった。
その男性は、ライナスからの手紙を届けるためだけにルーシアの元にやってきた。
ルーシアがそれを受け取ると、「どうか、ライナス様を信じて下さいませ」との言葉だけを言い、すぐに帰って行ってしまった。
そして、ルーシアはまた一人でもんもんとした日々を送ることになってしまったのである。
ライナスからの手紙には、まずは謝罪と、今回の醜聞が根も葉もない事柄であることが書かれていた。そして、公爵家とのトラブルであるため、解決は容易ではなく、しばし本腰を入れてこの一件の終息に努める関係で、君としばらく会うことはできないと告げる内容だった。
ただ、ライナスは、どうしても自分に伝えたいことがある場合の緊急の連絡方法も最後に記載してくれていたのだが、それも人伝いの手段であるため、ルーシアの心は晴れない。
「こんな事になるのなら、休暇なんて取らなければよかった……」
何もする気になれず、ルーシアは、休暇の初日を日がな一日自宅で過ごしていた。
食事も特に食べたくなかったが、適当に料理を作って胃におさめた。何かをしていた方が気が休まるからだ。
ルーシアはベッドに横になり、ライナスから送られた婚約指輪を見る。いつの間にか心を落ち着けるルーティーンになっていたその所作も、しかし今は心をざわつかせるばかりだ。
「本当に、ライナスは、あの人は、私に好意を持ってくれているのかしらね……」
思えば、彼の一目惚れで始まった付き合いだ。その根拠となるものは目にも見えなければどのようなものかも分からない不確かな存在に過ぎない。いや、存在しているのかさえ怪しい。
恋愛経験が皆無なルーシアには分からない。
世の他の同性達は、一目惚れや容姿に惹かれたなどという不確かな事柄で寄ってくる相手とよく平気な顔をして付き合えるものだと思う。いや、それは自分も同じだとルーシアは苦笑する。
自分に一目惚れしたと言われ、優しくされ、男性との交際経験がない馬鹿な女が、その気になってしまっただけだったのではないだろうか?
少し考えてみれば分かりそうなものだ。だって、自分に好意を寄せてきたのはあの、悪名高いライナス=シュハイゼンなのだ。彼ならば、平民の娘の一人や二人の気持ちを踏みにじることなど簡単にしそうではないか。
それに、噂が本当であれば、ライナスのお目当ての人物はあの<白の淑女>。当然自分のような女など比較にならない。それならば、自分はリーナス=デルネスとの恋路をカモフラージュするために利用されていた? いや、それはないと思う。だって、そんな事をしても意味はない……はずだ。
けれど、自分などが考えもつかないことをライナスは行っているのかもしれないではなだろうか?
そんな不安と下卑た考えばかりが頭をよぎり、ルーシアは泣きたくなる。
そして、そんな地獄のような日々が一週間も続くと、ルーシアの心は病んでいった。
何故かその後、それまで最低限の外出しかしていなかったルーシアが意気揚々と出かけることになる。
ただ、それは決して彼女の心が晴れたからではない。彼女の心は限界になっていた。だから、彼女はとんでもない行動に出てしまう。
……それは平民が、いや、料理人が、決して行ってはいけない事柄だった。




