⑩ 第十話
どうしてこうなったのだろう?
自宅に戻ってから自問したものの、答えは、『流れるまま押し切られてしまったから』としかならない。
「まさか、こんな指輪まで渡されるなんて……」
ルーシアは自分の左手の薬指に輝く、おそらくプラチナが土台のダイヤモンドが輝く指輪を凝視する。
「んっ? 考えてみたら、この指輪はぴったりだけれど、なんで私の指のサイズを知っているわけ?」
少し考えたものの、怖い想像をしてしまったので、ルーシアはその事を深く考えるのを止める。
「はぁ~。本気だって思って良いのかしらね? でも、貴族が平民の私に……」
ルーシアは指輪を目にしても信じられない。だが、宝石に対する審美眼はないが、この指輪が安物には思えない。
「せめて、もう少しゆっくりと距離を縮めようとは思わないのかしらね、貴族様って。……いや、その、確かにシチュエーションは最高だったと思うけれど……」
思い出すとまた赤面してしまいそうになり、ルーシアは「ああああっ!」と叫んで頭を振る。
多少騒いでも苦情が来ない一戸建ての住宅であることに感謝しながら、恥ずかしさに悶えたルーシアは、大きくため息をついた。
「まぁ、この指輪は大事に保管しておきましょう。職場につけていく訳にはいかないし」
指輪をケースに入れて、ルーシアは他の装飾品と同じ宝石箱に入れられた。
こうして、ライナスからもらった指輪は、宝石箱の肥やしになるかと思われたが、ルーシアは頻繁にそこから取り出して、手にとって見る事が多くなっていく。
春になり、季節柄、店が忙しくなったが、未だに料理長が不在は続いている。だから、ルーシアは休みなく働き続けることになったのだが、疲れて家に帰ってくる度に、それを見ることで心が休まるようになっていたのだ。
忙しいことを慮ってくれているであろう。ライナスは、手紙や贈り物をしてくれたものの、逢瀬に誘ってくることはなかった。
けれど、ルーシアの中で少しずつだが確実にライナスの存在が大きくなっていた。
ルーシアはこれまでの人生の半分近くを料理人として過ごしてきた。
幼い頃から、<銀の旋律>に入るために、系列店の大衆食堂<銅の調べ>でその腕を振るっていたのだ。
その状況は、周りは全てライバルだという状況に置かれていたということ。もちろんその中で多少仲良くなる人間もいるにはいたが、心から信頼できる友人にはほとんどがなれなかった。本質が、競争相手だから。
だから、ルーシアは嬉しかったのだ。
自分の味方だという存在が現れたことに。そしてそれが、困るところはあるものの、素敵な男性であったことに。
ゆえに、ライナス=シュハイゼンという男性に、ルーシアが心惹かれていくまでに、それが恋に変わるまでには、数ヶ月の時間があれば十分だった。
◇
春になって新しい年度となったが、料理長が不在の中も、ルーシアは順調に仕事をこなして行く。
各行事の取り仕切りは言うに及ばず、新たな取組も積極的に行っていった。
そんな取り組みの一つが、新作料理の品評会であり、これを月に一度開催することにした。
<銀の旋律>で働く料理人は全て参加する資格があり、それは見習いも同じだった。
「ふーん。悪くないわね。いいわ、合格よ」
まさに晴天の霹靂であった。見習いのキィの出した料理をルーシアが認め、その料理がメニューに載ることとなったのだ。
それは、見習いから料理人への昇格を意味する。そして、それぞれの部門での定数が決まっている以上、既存の料理人が一人、見習いの仕事である雑用に落ちることになる。
もちろん、降格された料理人からは不満が上がるが、ルーシアは冷静かつ冷徹に、料理人達を評価していき、その決定は決して覆らない。
キィに続けとばかりに、ファルとリィーカといった若手がそれこそ寝る間も惜しんで努力を重ねている事に対し、今まで怠け気味だった先輩料理人達も必死に腕を磨く。
この状況がルーシアの求める、新たな<銀の旋律>の料理人たちのあり方だったのだ。
その事を厨房で働く皆が理解した。
「私のやり方に不満があるのならば、私以上の腕があることを示してみなさい! それができたのならば、いつでも副料理長の座は譲ってあげるから」
ルーシアは不平不満を言う者たちに決まってそう言う。それは、この完璧な実力主義のあり方にルーシア自身も含まれていると宣言しているに他ならない。
絶対に自分は負けないという自負が彼女にはあり、そして、それが間違っていないことを彼女自身の料理が如実に表していた。
料理長が健在だった頃の、コネが重要視されていた体制に慣れきっていた、いわば、ぬるま湯に浸かりすぎていた料理人数名は、ルーシアのやり方についていけないと店を辞めたが、ルーシアはその穴を一人で完璧に埋める。
そのあまりの技術の高さに、人々を引き付けるカリスマ性に、揶揄の名称だった『厨房の冷血女王』の名は、畏怖の意味合いが強くなっていた。
……ここまでは、ルーシアの思い描いたとおりであった。
だが、彼女はあまりにもその素質を、輝きを、カリスマ性を前に出しすぎた。もっと言うのならば、生き急ぎ過ぎていることに気がつけなかった。
いくらルーシアが他の料理人よりも優れた存在であろうと、若いとはいっても、人間である以上、限界はあるのだ。
ルーシアは疲労を溜め込み続けていく。少しずつ、でも確実に。
そして、その事に最初に気がついたのは、彼女が恋心を抱き始めていた男性――ライナスだった。




