僕って何
むかし書いた短編を少し直して分割投稿します。
連載中の長編が再開するまでの場つなぎです。
目が覚めると青空が広がっていた。どうやら原っぱの真ん中で寝ていたらしい。
視界の右はじに山が見えた。山から顔を出した陽の光がわたしの顔に差し込んでいた。そのまぶしさで目が覚めたのだ。
日差しが強いわりに空気が爽やかなのは、夜が明けて間もないからだろう。
やけに耳鳴りがすると思ったら蝉の声だった。それに気付くと急に暑くなってきた。背中がじっとり濡れているのは汗のせいだろうか、それとも朝露のせいか。
蝉の鳴き声はだんだん大きくなっているようだ。
(蝉は鳴くのが上手い。セミプロ級だ。蝉が風呂に入るとセミブロだ。とにかく蝉の鳴き声を聞くと勉強になる。蝉鳴ールというぐらいだ。ちなみに『;』はセミコロンだ。よくみると蝉が転んだかたちに見え……ないか。うーん、いまいち駄洒落のキレが悪いなあ……)
などと愚にもつかない事を考えていると、
「おっさん、死んでるの?」
小学生のガキがのぞきこんできた。
「誰がおっさんだ。この場合お兄さま、できれば王子さまぐらいの事を言えないようじゃ、将来の出世はのぞめないな」
「へー、原っぱで野宿してる男にお世辞を言うと将来の出世につながるんだ」
「生意気なガキだ」
わたしはうるさいガキを追っ払うために、上体をムックリ起き上がらせた。
しかしここで大変なことに気がついた。
わたしは裸だったのだ。正確にいえば上半身裸で、ズボンとパンツが膝までズリ下がった状態である。そして朝だから親より先に息子が起きていた。
「へ、変態だー!」
わたしは機先を制して、ガキがいうべき言葉を先取りして叫んだ。
「なななな何だこれはどどどどどうして裸なんだ!」
「そんなのこっちが聞きたいよ」
ガキは元気いっぱいの息子を指ではじいている。
「やめんか!」
わたしはあわててズボンとパンツを引きずり上げた。
ガキのせいで、寝起きのボンヤリした状態から強制的にアドレナリン噴出のハイテンション状態に移行したわけだが、まわりを見渡してみて驚いた。
わたしの寝ていた原っぱが想像以上に広いのだ。誇張ではなく東京ドームが何個も納まりそうな感じである。
周囲は山に囲まれており、北には富士山が見える。ということは、ここは静岡だろうか。
そしてわたしは重大なことに気付いた。自分が寝ていた原っぱの広さを知らなかった。つまり自分が現在どこにいるのか分からないのだ。
わたしは必死に昨夜の記憶を思い出そうとした。なぜ原っぱの真ん中で野宿するにいたったのか。そもそもここはどこなのか。何も思い出せなかった。
次に自分のパーソナルデータを記憶から引っ張り出そうとした。名前、年齢、職業、住所、電話番号、メアド、家族、友人……どれも何ひとつ思い出せない。
ズボンのポケットを調べてみたが、身分を証明するものは入っていない。財布も携帯もない。あるのはむき出しの硬貨が三百二十五円だけだ。
わたしは絶望的な気持ちでガキに顔を向けた。これから陳腐でありきたりなセリフを言わなくてはいけない。その悔しさからくる絶望感である。
「わたしは誰? ここはどこ?」
〇
「つまり記憶喪失、われわれが言うところの記憶障害というわけですな」
医者はタレ目を見開いて、無遠慮な視線をあびせながら言った。
「ひとくちに記憶障害といっても、さまざまな症例があります。ひどいのになると言葉がしゃべれなくなったり、歩き方を忘れてしまったりもする。ほとんど赤ん坊のような状態になるのです。まあ、あなたの場合はそこまでではないようですけど」
医者のくちもとは押さえ切れない笑みをたたえていた。珍しい症例にあたって嬉しくてたまらないという感じだ。
「壁のポスターに書かれている字が読めますか?」
「えーと、平成28年度今冬のインフルエンザ総合対策……って今は令和でしょ? あのポスターはだいぶ古いんじゃないですか?」
「うん、社会常識は失われてないですな。言葉遣いも正常、体も普通に動かせる。これは全生活史健忘といって、発症以前の自分に関するすべての記憶が失われる症状です。ただし失うのは自分に関する記憶だけで、社会的な記憶は覚えている。ドラマなんかでよくある、世間一般でイメージされる、いわゆる記憶喪失そのままの症状ですな」
言いながら医者は小走りで壁に駆け寄ると、ポスターを丸めて捨てた。
「するとわたしは何者なのか、まったく分からないのでしょうか? 何か手がかりはないんですか? 持ち合わせもないし、このままでは不安で……」
「あなたは北に富士山が見えるから静岡県だと推測しましたが、そのとおり、ここは三島です。つまり日本の地理的常識を持っている人物――おそらく日本人でしょう。目が覚めたとき原っぱの広さにおどろいた。これは普段の生活圏がここと離れていることを示しています。もう少し都会の人間でしょうね。そして原っぱを見渡したとき、即座に広さを東京ドームで換算しました。ひょっとしたら関東圏の人間かも知れません」
医者はデスクから手鏡を取り、わたしの前に向けた。
「さて、ご自分の顔に見覚えはありますか?」
そこに映っていたのは意外に若い顔だった。おそらく二十歳前後だろう。顔立ちは良くもなく悪くもなくだが、目に愛嬌があり鼻がズングリしてユーモラスだ。
「これが自分の顔か……まったく覚えがない」
「ごらんの通り、あなたはかなり若い人です」
「すると、一人称がわたしというのは変ですかね」
「一人称?」
「ええ、いままで自分のことをわたしと言ってたんですが、この年頃だとすこし硬いような気がします。もっと若者らしい……おれとかぼくの方がふさわしいと思うんですが」
「……まあ好きにしてください」
医者は患者の一人称には興味が無いようだった。
「ではさきほどの続きを……あなたは若い。まだ学生かもしれません。関東圏の学生が静岡に来る理由なんて、夏休みを利用しての一人旅、あるいは友人との旅行、部活動の合宿その他、いろいろ考えられます。親戚の法事ということもあり得ます」
そこで言葉を切り、医者は手元に丸めてあった布のかたまりを広げた。
「このTシャツに見覚えはありますか?」
ピンク色の派手なTシャツだった。♀マークに♂マークが突き刺さっており、その下にでっかく『I Just Had Sex』と書かれていた。
「知りませんよ、そんな下品なTシャツ」
「これはあなたが倒れていた現場のすぐそばで発見したものです。裏を見てください」
医者はTシャツをぐるりと回して背中側を見せた。すその部分から大きくえぐれるように穴があいており、穴のふちは黒く焦げたようなあとがあった。
「これは燃えてるんですか?」
「そのようですね。そして重要な点は、この穴の位置と符合するように、あなたの背中に軽いやけどの跡があるという事なんです」
「えっ!」
おれは思わず背中をさすった。
「す、するとこれはおれの物だという事ですか……この下品なTシャツが!」
「十中八九まちがいないでしょう。すなわちあなたは極めて特殊な服装センスのもち主ということになります」
医者はここで意味ありげにニヤリと笑い、ふたたび話を続けた。
「原っぱの真ん中でズボンを半脱ぎにする行為は野グソ以外に考えられません。あなたは野グソをしようとかがんだところを、背中から何者かに火をつけられた……」
「お言葉を返すようですが、何もない原っぱでそんな怪しい人間が近付いてきたら、ふつう気がつくでしょう。野グソしようとしてたなら、余計周囲を警戒するだろうし。それにズボンを半脱ぎしてたからって、野グソとは限りませんよ」
「ほかに何があるというんです!」
「たとえば……青カンとか」
「ありえなせん! 青カンなんて、まったくナンセンスです!」
「どうして?」
「こんなTシャツをきてる人間ですよ。童貞に決まってるじゃないですか!」
おれはこの医者に対してだんだん不信感がめばえてきた。
「先生、さっきから手がかりらしい事を並べてますけど、どれもあやふやじゃないですか。つまり、おれがどこから何のために来たのか、何も分からないという事ですか?」
「はっきり言って、そうです」
ここでおれはズッコケた。精神的にももちろんだが、物理的に体を大きく右に傾け、同時に両腕を左上方に振り上げ、頭をガクッと下げたのだ。
「あれ? 何だこの反応は」
おれはあわてて体勢を元に戻した。
「あなた、リアクションがかなり大げさな人らしいですね」
医者もおどろいてタレ目をまるくしている。
「自分でもよく分かりません。これは無意識の反応です」
「いや、いいんです。無意識のうちにとる行動が、あなたという人間を明らかにする手がかりとなりますから」
「では今の反応から何かおれの事について分かりましたか?」
「いや、別に」
おれは丸椅子からズリ落ちた。
ズルッと滑って尻餅をつき、バタンと体を倒すと右足を上げ、つま先をヒクヒクと震わせる。それはもう教科書的なまでに見事なコケ方だった。
「まるでコントですな」
医者は実験動物を観察するような目で見下ろしている。
「これも無意識でやっていることなんです」
おれは相変わらずつま先を震わせながら言った。
そこへ闖入者があらわれた。