第一章 春と梅雨 1.都筑 颯太(2)
大森が学校を休むことが増えたのは、去年の夏休み明けからだった。
そのときはまだ出会って半年程度ではあったが、それでも彼女が何か問題を抱えて学校に来れなくなるようなことはないと思っていた。生徒たちのまとまりもないが、そのせいで結託していじめが起きるようなこともない学校だったし、学校内で比較的明るい方である彼女を見ている限りでは、なんの問題もないように見えた。
なら、家庭に問題が?と思っていたころ、ちょうど大森に家に招待された。ものすごく気になっていたわけでもないが、度々の欠席の背景がわかるのではないかと思い、二つ返事で承諾した。
しかし、約束していた日に彼女の家に向かう段になると、女子の家に上がり込むという事の重大さに我に返って気付き、変な汗が噴き出して仕方がなかった。駅の反対側にある彼女の家まで、やけに長く感じたのを今でも覚えている。
しかし、指定された場所についてみると、別のことが颯太の心を激しく動揺させた。
「でっか・・・」
テンプレの豪邸、といった感じではないが、颯太の住むアパートの近くに並ぶ分譲の一軒家より、3倍くらいは大きな家が待ち受けていたのだった。
今まで気軽に話していた奴がこんな家に住んでいる事実を認めたくなかった颯太は、場所を間違えたのだと思い込もうとした。しかし、携帯のマップアプリはここが目的地だと示しているし、目の前の家には「大森」と書いてある表札が掲げてあるし、その家のドアが開くと見知った顔がのぞいたのだった。
「遠いところ悪いねー」
玄関から出てきた大森は来客者へのもてなしのつもりか、颯太のかばんを持とうとする。
「お前んち、でかくない?」
かばんをつかむ大森の手をはらいながら、素直に戸惑いを口にする。
大森は、少し困ったような顔を浮かべる。
「あー・・・うちがこの辺の地主の一族だから、さ」
どう考えても裕福な家庭の娘なのはわかるのだが、どうやらそれは彼女にとってあまり触れてほしくはないことのようだ。まあ、露骨に金持ち感を出して、壁を作りたくないのだろう。
何やら価値のありそうな絵画がかけられ、下駄箱の上にもやはり高そうな女性像が飾られている玄関で靴を脱ぐと、廊下の先の部屋から品のある女性が出てくる。
「あなたが都筑くんね。いらっしゃい。汚いけどゆっくりしていってね」
大森の母だった。若作りをしているでもないが、自分の母親とは違う品のある中年女性。もはや、中年という語すら失礼な気がしてくる。
しかし、塵ひとつ見当たらないくらい磨かれた廊下を見てしまうと、その謙遜もやり過ぎな気がしてくるが、それより緊張でガチガチだった。
「ほ、本日はおまねきありがとうございますっ」
思わずうわずった声に大森娘はくすりと笑ったが、大森母は笑うこともなく、最初に浮かべた微笑みを崩さない。
これが、来客者に恥を欠かせない大人の対応というものだろうか。それとも、娘の彼氏候補の品定め?
ふっと浮かんだどうしようもない推理を引っ込めて、お辞儀をして大森娘についていく。これから彼女の自室に連れて行かれるようだが、大丈夫ですお母様、何もしませんから。
女の子の家に来慣れていない、うぶな男子のルーティンを心のなかで一通りやりおえて彼女の部屋に入る。
すると、それまでの緊張が吹き飛ぶような光景が待ち受けていた。
壁一面に備え付けられた大きな本棚には、大量の漫画とライトノベルが納められている。ただ、それだけではない。本棚をよく見ると、本だけではなくフィギュアや小物も置かれている。どうやら、漫画やラノベのそばに、その作品のグッズを配置してあるようだった。
勉強机のそばにある棚もグッズ用らしく、クリアファイルやアクリルキーホルダーが大量に、だが整然と収納されている。
決して無造作に好きな物を散らかしているのではなく、秩序を持って全ての物が飾られ、保管されていた。本にもグッズにもほこりが払われており、保管状態へのこだわりを感じる。その裏にあるのは、自分が愛するものへの純粋な愛情に変わりない。
オタク以外には引かれること間違いないだろう。だが、“どこに出しても恥ずかしくないオタク部屋“だった。アニメグッズの性質上、置くと部屋がごちゃごちゃした印象を与えがちだが、そんなこともなくインテリアと趣味の完全なる融合が果たされている。
「すごい、この部屋すごいわ」
嘘偽りのない感想だった。
「さすがの都筑も引いてるんじゃない?」
「いや。引くもんか。俺もこんな部屋持ちたい。理想の部屋だ」
食い気味に断言すると、大森は少し恥ずかしそうな、でも嬉しそうな顔を浮かべた。
「テレビもあってアニメ好き放題観れるし、本当最高の部屋だ」
もう一度見回し、完成された大森由珠季のオタク部屋を堪能する。
「あれ?」
見回していると、一カ所気になるところを見つけた。
「勉強机はずいぶん殺風景だな」
少ない小遣いを貯めに貯め購入した虎の子のフィギュア一体を、目の保養として勉強机に置いている颯太にとって、教科書類と時計しか置かれていない彼女の机は不思議に感じられた。
「本当は色々置きたいけどさ、勉強に集中できなくなっちゃうでしょ?」
高卒就職がザラの、どう考えても進学校とは言えないところの生徒とは思えない発言に耳を疑う。
実際、自分を含めうちの高校の生徒は、テスト前以外は一切勉強などしない。もちろんテスト前だってユーチューブを観たり、ゲームしたりする時間の方が長いし、もちろん、俺は深夜まで起きてアニメのリアタイ視聴も欠かさない。
「真面目なんだな・・・」
「今はね、少しも時間を無駄にできないの」
さらに意識の高いことを言い始めたので、意味がわからず大森の横顔を凝視してしまう。どうしちゃったんだ、こいつ。
言葉を失って硬直している颯太に気付いた大森は、颯太が何を思っているかわかったようだった。少しにやりと笑って、何も言わずテレビの前に座るよう手招きし、彼女はテレビの電源を入れた。
「なんで芸能人ばりのハードスケジュール生きてますよ感だしてるの、って思ってるね?」
大森はリモコンを操作し、録画リストを呼び出して4月から始まったファンタジーもののアニメを流す。もう既に観たものなのか、番組の半分も過ぎたところから始まる。
ちょうど主人公とおぼしき勇者が、転んだ少年を助け、少年がありがとう、と礼を言うシーンだった。
「これあたし」
「は?」
「この、少年Aの声優、あ、た、し」
大森が画面の中の少年を指さし、ゆっくり言い直す。
「は?」
「わたくし、今年の夏から声優をやっておりますので、れっきとした芸能人です」
あのときの衝撃は、今でも思い出せる。というか、今ですら信じられていない。
同じ教室で一緒に授業を受けて、何でもない話をして笑いながら帰っていた同級生が、いつの間にか画面の向こうに立つ存在になっていた。
しかも、画面の向こうから聞こえてきた“彼女の声”は、いつも教室で友達とげらげら笑い転げている大森由珠季の声でも、帰り道、今期アニメの出来を早口でまくし立てている大森由珠季の声でもなかった。まさしく、職業声優のプロの演技、もっと言えば物語世界の中に生きる少年の声そのものだった。
「すげえ・・・」
だから、語彙力が自身の感情を表現するには足りなくなるのも当然のことではあった。
「なに、マジで感動されるのは照れるからやめろって」
リモコンを奪い、巻き戻して何度も彼女の出演シーンを口をあけて観ている俺の肩を叩きながら、大森は本気で照れていた。だが、巻き戻して再生、の無限ループをやめることはできない。
心からすごいと思った。だから、すげえ、の三文字しか出なかった。
それは、声優になっていたこと自体がではない。しっかり声を作り、かつ「こいつ下手クソだな新人だろ」とか「典型的なモブ声だな」などと心の中の批評家がボヤキ出さないレベルには、演技はいいし没個性的な声でもなかったからだ。そう、この少年Aの声優、誰だっけな、とスタッフロールを確認したくなるくらいに。
それに、思い返してみれば大森は地声も悪くない。この声変わり前であろう少年Aの声より彼女の地声は低いイメージだが、やはりこちらも耳に残る。
つまりこの段階で、二種類視聴者の耳をひきつける声を持っていて、もしかしたらそれ以外にも声を持っているかもしれないということだ。言うまでもなく、それは仕事のとれる声優の資質に違いない。
観ているアニメに出演していたら間違いなく名前を覚え、歌やキャラソンを出していたら買ってしまうだろう有望若手声優が、こんな近くにいたなんて。世界中のテレビの前にいる人の鼓膜を震わせ、そのうちの何割かは名前を覚え、“推す”だろう声優が、今自分の隣にいるという事実が、全く信じられない。
こういうとき、はじめにどうするのが正解なのだろうか。とりあえず、お決まりのやつをやっておけばいいのだろうか。
「サインください」
「だからやめろって」
その翌日から週末にかけて、大森は学校を休んだ。仕事で東京に行くのだと聞いていたので、気にすることでもないのだが、自分の隣の彼女の席が空いていることがなぜか気になってしまう。
何でもない平日の午前、俺は高校生らしく学校でつまらない授業をしっかり受けている。対して同時刻、自分の隣に座っているはずの同級生は、東京で録音マイクの前に立っている。だから、ここには彼女はいない。
そのことが、どうしても心をざわつかせる。ちょうど、全世界の無数のカップルが密室でまぐわっているクリスマスの性の6時間に、ひとり部屋でアニメ鑑賞をしている時のようなざわつき。
つまりそれって、童貞が世の恋人たちに対して思うように、俺は大森が声優であることに嫉妬や羨望、憧れを感じているってことか?
認めたくないし、少しもそんなものを感じる資格のある人間だと自覚したこともない。
でも、おそらく。
おそらく、この気持ちは嫉妬や悔しさに分類される感情。それ以外、この胸の中にある思いに近い感情の名は知らない。
そもそも、平凡な人間たちに囲まれて生きる平凡な高校生活が嫌だったはずなのだ。だから、同級生の中に芸能人とか凶悪犯罪者とか、キャラの立つ奴がいても面白いのにと思っていたのだろう(後者が実際にいたら面白いではすまされないだろうが)。
そしてお望み通り、一番仲の良いクラスの女子が声優デビューしたにもかかわらず、喜びもワクワク感と同時に、心のざわめきも感じている。
けれど、周りにいる人が声優になったときそうした感情を抱いていいのは、自分自身も声優を目指している者だけだ。もちろん、声優になりたいと本気で思ったことなど一度もない。 なぜなら、あの仕事が声という才能、技術を磨く努力、運、加えて容姿など、多くのものを持っていなければ、まともに仕事も来ない厳しい職業であることを知っているからだ。
そう、誰にでもできるわけではない、一握りの選ばれた者ができる仕事。
そして、自分でもわかっていた。そこに嫉妬していることを。
おそらく、声優に限ったことではないのだろう。大森がなったのが、オリンピック選手でも、女流棋士でも、女子高校生社長でも。ただ、平凡ではない、類いまれで、抜きん出た仕事であれば、自分は同じような感情を抱いていただろう。要するに、自分が片田舎の高校の机に張り付く凡人であり、大森がなにか並々ならぬ存在である、という状況が原因なのだ。もちろん、よりにもよってそれが声優であったことは、嫉妬を加速させていることは間違いない。
そして、その裏にあるのは、醜い考えであることもわかっている。いつも隣にいる大森由珠季は、自分と同じような平凡な人間であり、ずっと、自分と同じようなレベルで、ずっとこの片田舎にへばりついて生きてゆく。そう信じていた。
その同病相憐れむというような状況を、無意識のうちに望んでもいたのかもしれない。お互い何者にもなれない普通の人同士、仲良くやっていこうぜ、という傷のなめ合いのような関係を維持していたかったのかもしれない。
だが、彼女が声優になった日から、大森は画面の向こうで物語の、美しく儚く幸福な世界の、選ばれし作り手の一人になった。対して自分は、画面の前で彼らの作った作品を享受するだけの大勢の中の一人でしかない。
もちろん、以前から自分自身は享受するだけではあったのだが、いざ対極の、画面の向こう側の存在と対面してしまうと、鏡で自分の矮小な姿を見せられたような嫌な気持ちになる。
週末が明けて、大森が隣の席で授業を受けている日々が再開した。
だが、あの自分の内にあるものに気付いてから、ずっと自己嫌悪にさいなまれるようになった。大森と帰っていても、申し訳なさや、劣等感が心の中に漂いつづけ、辛かった。
ただ、彼女が再び休んで、他の奴と帰ったり、一人で帰ったりしても「あいつは今頃仕事してるんだろうな」と考えて結局辛いことにかわりはなかったが。
何かを努力しているわけではなかった。それでも、自分には明るい未来が待っていて、誰かのヒーローになれると思っていた。いつか、自分が輝く日が到来すると。
しかし、16年生きてしまうと、何となくわかってしまう。
自分が何者にもなれない人間でしかないことが。
誰の物語でも主役になれないことが。
思い描いた高校生活がいつになっても始まらないように、この先も何の劇的な展開も起こらず、期待値を下回り続ける人生を送り、いずれおっさんになり、じいさんになり、死ぬ。
まだ十六年しか生きていないと言われるかもしれない。でも、もう十六年生きて、手のひらには何も乗っていないのだ。明るい未来の展望も、現状を打破する方法もないのだ。これから、何かが起きると誰が保証してくれるというのか。他力本願と馬鹿にされようが構わない。じゃあ、そういうお前はどうやってこの俺の人生を攻略するっていうんだ。教えてくれよ。いつもそうやって、誰かに問い続けた。
だが、やはり何の答えも出ず、何もかわらないまま4月が来て進級し、今に至る。