第一章 春と梅雨 1.都筑 颯太(1)
絶対に、手の届くことのない世界。
彼は、子供のころからアニメが好きだった。毎週その時間だけ、ここではない別の世界へ連れて行ってくれる魔法のテレビ番組。少し歳を重ね、観るアニメの時間帯が夕方から深夜帯に移ったあとも、それは変わることがなかった。
だが、歳を重ねていくなかで、自分がそのテレビ画面の向こうの世界に行けることも、今自分が踏みしめている地面がその世界と繋がることも永遠にないのだと知った。
ある意味、夢破れたといえるのかもしれない。
空を飛ぶことも、時を止めることも、サッカーで炎の出るシュートを放つことも、魔界でモンスターと戦うことも、ハーレム学園生活を送ることも、自分が生きる現実世界ではあり得ない。他の人には当たり前のことであったとしても、本気でその世界に憧れた彼にとっては、重い事実だった。
それ以来、彼には夢がなかった。追いかける夢のない日々は、そのまま死ぬまで続くのだと思っていた。
あの日までは。
画面の向こうに立つ彼女が、自分の隣に現れるまでは。
その日、彼は破れた夢の先が続いていることを知った。思い描いたものとは違っていたけれど、確実にこの世界は画面の向こうと繋がっている、そう確信できた。
だからこそ、その世界と繋がることのできた彼女に、はじめは嫉妬した。同い年の、自分と性別以外何も変わらないような女の子が、自分が諦めた夢を掴みかけている。
だが、いつしか、彼の思いは変わっていた。
自分と同等じゃなくていい。手の届かない存在でもいい。
それでも。
この人の隣にいれば、もしかしたら夢の続きが見られるかもしれない。
1.都筑颯太
「やれやれ」
そう肩をすくめて言ってはみるが、それで突然後ろの席に謎めいた美少女が現れるわけでも、奇想天外な高校生活が始まるわけでもない。
一応春という季節に分類される時期だろうに、生ぬるい風が少し開いた教室の窓から吹き込んでくるし、窓の外はといえばどんよりと暗い曇天が広がっている。
そのせいで、窓にははっきりと自分のパッとしない顔面が映っている。
パッとしないのは、近眼を発症した小2からかかけている眼鏡のせいだろうか。学校に来る以外は基本外に出ないせいで日焼けとは無縁な白い肌のせいだろうか。それとも、地元の床屋のおっちゃんにおまかせで切ってもらい、ワックスでセットすることも無い無造作な髪のせいだろうか。
「・・・全部、だよなあ」
こんなふうに自分の冴えなさに軽い自己嫌悪を向けてみるのも、そろそろ飽きてきている。
高校に入学して以来、理想と現実のギャップにはつくづくため息をつかされ続けられっぱなしだ。
そりゃ、誰だってキラキラ高校生活を夢見るじゃん?かわいいクラスメートの女子と甘い恋をして、気が合う男の友達と一緒にバカやってるような。一通り高校生活を堪能したら、推薦か何かでサクッと大学進学までしちゃったり。
でも、そんなこと起きないし、これからも起きない。もちろん、という副詞をつけたっていい。なんせ、俺は眼鏡かけてて、インドア派だから色白で、髪型含めオシャレとは縁遠いさえない男子高校生。極めつけに、静岡の端、浜名湖の目と鼻の先で生まれ育ち、湖畔の高校に通っているとかいう田舎者属性まで付与されている。正直、見渡してみても周りだってキラキラ高校生は多くないのだから、こんなところで垢抜けようと思っても、悪目立ちするだけでどだい無理なことかもしれない。
「都筑ー」
そう、さえない自分が送る平凡な日々も、この辺でクラスメートの美少女が「一緒に帰ろ♡」と声をかけてくることで、不満はありつつもそれなりに彩りのある日々になるのである。
「授業とっくに終わってんのになんで帰らんの?」
だが、これは都筑颯太というさえない男子高校生の、さえない人生というクソゲーなので、やはり目の前には美少女は立っているわけがない。
「は?なんでため息ついてんの」
怪訝そうな顔で目の前に立っているのは、大森由珠季。一応女子であるという点でかすってはいるが、美少女とは言いがたい平凡な容姿のクラスメートであり、今となっているとなっている。
「あの展開はないわー。原作改変はやっぱり罪」
湖沿いの道を一緒に歩きながら、大森が隣で怒り心頭といった様子で吠えている。
高校を右手に出て歩いていくとある、コンクリートの胸壁のむこうはすぐ浜名湖のこの道は、二人とも家まで遠回りではあったが景色がいいのでよく使っている。いつか、京アニに描いてもらいたい地元の道ナンバーワンである。
この(平凡な顔の)女友達は、一年だった昨年もクラスが一緒で、趣味が合うとわかると彼女の方から猛然と距離をつめてきたのだった。それから、しばらくしないうちに話しながら一緒に帰るようになり、今年もクラスが同じだったのでそれが続いている。昼休みもよく弁当を一緒に食べ(させられ)ている。
クラスの男どもは「お前は高望みしすぎだ、大森ちゃんは十分かわいい」とまったく彼女を女として見ていない颯太に憤慨し、笑ったときが特にかわいいだの、性格もいいだの礼賛を頻繁にはじめる。
だが、大森と一緒に帰っても何も思わないし、そのときに互いの手が触れたりしても一切ときめかない。ましてや付き合おうとは一切思わない。まあ、だからこそ普通に話せるのだが。本当にかわいかったら緊張してしまう。
「でも原作者も監修に入ってたんだろ?」
その二人の共通の趣味というのが、アニメを浴びるように観ることであり、今まさにそれの感想戦をしているところだ。もしかしたら自分の高望みは、アニメキャラと同じものさしで三次元の女子も品定めしているからかもしれない。
なぜ大森がご立腹なのかと言えば、彼女は前クールの人気タイトルの最終回をやっと昨日観たらしく、その出来にご立腹だからである。
「それがさー、最後の二、三話はスタッフロールから外れてたんだよね」
今話題にしているアニメは、原作が有名少年誌に連載されていた人気漫画であり、放映前からファンの期待値が高かった。
しかし、原作がどうであろうと一クールなら十二、三話でまとめなければならないのがアニメというテレビ番組、ひいては制作会社の宿命であり、そのために多少なりストーリーの改変が行われることはある。そして残念ながら、そのタイトルは大きく原作エピソードをカットして放送されてしまったのだ。
かくいう自分もそのアニメは観たが、大して気にはならなかった。原作は読んでいないので、比べるものがないからかもしれない。だが、原作にしっかり心をつかまれた大森にとって、そのアニメ会社の所業は、作品に泥を塗る行為以外の何物でもなかっただろうし、悔しかったのだろう。
「先生がどういう気持ちでアニメから降りたのか、考えたくもない」
言いながら大森は頭を振る。もはや泣きそうな勢いだ。
家がそこそこ貧乏なせいもあるが、基本漫画やラノベは買えず、テレビで放送されているアニメを観ることしかできない颯太に対して、大森は漫画、ラノベ、ゲームなど幅広く手を出し、もちろん金も落としている。
その点、颯太よりオタクとしてのランクは高いのかもしれない。コンテンツへの思い入れだって、見ての通りすごく熱くて、真剣だ。
それに、決定的に違う点がある。
「あたし、絶対ゆるさない」
雲間から差す光に照らされながら、涙目の大森がそう宣言する。
その言葉に、はっとしてしまう。
明瞭な滑舌。
伸びやかな発声。
ありふれているように聞こえて、どこにもない凛とした透き通った声質。
それはただの高2女子の言葉でなく、アニメの中の台詞のよう。
ああ、やっぱりこいつは俺とは違う。
大森由珠季は、筋金入りのオタクであり、そして、女子高校生声優だった。