失敗を恐れるな
男のナイフを奪い取った後のアンジェは水を得た魚のようだった。
予想外のアンジェの動きに思考が鈍った男の腕のなか、アンジェはにやりと笑う。
「お返し」
男に抱きしめられるように捕まっていたアンジェは、特に縛られることもなく、自由だった腕を大きく前へ突きだすと、男の鳩尾に肘鉄をくらわせた。
男が呻いてくずおれる。
アンジェは脱ぎ捨てるかのように崩れた男の腕から逃げ出すと、おまけとばかりに手刀をいれて、男の意識を完全に落とした。
そこでようやく一息つくと、助けに来てくれたユルバンの方に近寄った。
「団長、すみません。油断しました。団長が来てくれて助かりました。……団長?」
声をかけるアンジェだが、ユルバンが微動だにしない。
不審に思ったアンジェが首を傾げていると、ユルバンが面を上げた。
「……アンジェ」
「はい」
名前を呼ばれ返事をするアンジェ。
ユルバンは顔に手をやると、深く息をついた。
「アンジェは、女だ」
「そうですね。残念なことに女ですね」
本人は自分の性別に不満しかないようだが、ユルバンもまた、今ほどアンジェが女ではなければと思ってしまった瞬間はなかった。
アンジェが男だったら―――こんなにも切なく、矛盾した葛藤を抱くことが無かっただろうに。
「アンジェ」
ユルバンがアンジェの名前を三度呼ぶ。
アンジェがユルバンの顔を見上げれば、ユルバンが切なそうな、苦しそうな、もどかしそうな顔をしていた。
無防備な姿で首をかしげるアンジェの頬に、ユルバンは触れた。
不思議な顔をしながらも、猫のように目を細めてユルバンの手へとすり寄るアンジェ。ユルバンはその顎をすくいとる。
きょとんとするアンジェに苦笑いしながら、いさぎよくユルバンはその唇を奪った。
口内を切っているのか、アンジェとの口づけは血の味がした。
ユルバンの予想外の行動に、アンジェが固まる。
目を見開いて、微動だにしない。
ユルバンはそんなアンジェに困ったように笑いかけると、自分の騎士服のジャケットをアンジェの肩へとかけた。
「お前は嫌がるだろうが、少しは女としての自覚を持ってくれ。俺はお前に惚れているんだ。今回のようなことが続けば、お前が騎士になりたがっていると知りながら、俺はお前を閉じ込めてしまうだろう」
アンジェにジャケットを羽織らせたユルバンは、彼女の頭を優しく撫でると背を向ける。
「戻るぞ」
アンジェは無意識にジャケットのあわせを握るようにして、切られた服を隠す。
残されたアンジェの頭には疑問符が沢山浮き出ていた。
ユルバンの奇行の意図が読めなかった。
(キス? 今キスされた? 団長が? 私に? なんで? 女としての、自覚って?)
混乱するアンジェの頬に熱が宿る。
わけがわからない。
気絶した男を拘束し、担いだユルバンの背を見つめる。
立ち上がったユルバンが振り向いた。
「行くぞ」
何事もなかったかのように澄まし顔をするユルバンに、アンジェは戸惑いながらもうなずいた。
北の渓谷の魔物襲撃の概要は、どうやら野盗の集団による作為的なものだった。
魔物で商人を襲わせ、どさくさに紛れて積み荷を盗んでいたらしい。
この野盗の賢かったところは、魔物を操ることができる笛を持っていたことだろう。スハール王国では見かけないものだが、遠方の国では魔物避けとして使われることもあるという。魔物が嫌がって避けるのを逆手に取った手口は騎士団の目を自分達から反らすには充分だった。
ただしそれが慢心に繋がった。
騎士団が来るのを知って山から離れていれば見つからなかっただろうに、大事な商売道具である魔物を丁寧に囲いこもうとした結果、アンジェ達に見つかることとなったのだから。
とにもかくにも、北の渓谷への遠征の結果はこのようなものだった。
騎士もほぼ全員が無傷で帰還した―――とはいえ。
その『ほぼ全員』に含まれなかったアンジェは一人、家で数日の療養が必要になってしまったのだけれど。
賊の男によって顔を殴られ、首を絞められ、腹を殴られ、岩から落ちて……と、本人としては痛みさえ引けば問題ないと思っていたものの、周囲がそれを許さなかった。
遠征翌日も休みを返上し、他の第四騎士団の団員たちの様子を見るために出勤したところ、すれ違った第三騎士団の団員に即帰って安静にしてほしいと懇願された。
それを無視したアンジェだったけれど、誰が言いつけたのか、同じく非番のはずのユルバンが現れ、連行。
家に連れ戻され、今に至る。
「アンジェ、口の中が切れているのなら刺激物は避けろ。しみるぞ」
「え、あ……はい」
細やかな気遣いを見せ、自分は台所に立つユルバン。
アンジェの家を自由に動くユルバンに、アンジェはひどく困惑した。
手っ取り早く栄養が取れるからと、小腹を満たすために手に取ったオレンジはユルバンに取り上げられる。
椅子に座らされたアンジェは、そわそわと落ち着きのない様子でユルバンへと視線を送る。
あの後から、アンジェはユルバンに対してどう接していいのか分からなくなっている。
賊を捕まえた後、アンジェに口づけをしたユルバン。
ユルバン自身は何事もなかったかのようにさらりとした態度だが、アンジェはどうもそうはいかなくて、ぎこちなくなってしまう。
「あ、あの、団長」
「なんだ」
「あの……その……」
「腹が減っているのは知っている。もう昼時だ。食事まではこれで我慢しろ」
そうだけど、そうじゃない。
アンジェはもどかしく思いながら、ユルバンの差し出したカップをすごすごと受け取った。
中身はバナナをどろどろに溶かしてミルクと和えた飲み物だ。アンジェは甘く優しい味のするそれを、こくこくと少しずつ喉の奥へと流し込んでいく。
親しんだその味は、ユルバンが時折、訓練の後にアンジェに作ってくれたものだった。皆が哨戒任務などで出ている間、ユルバンと手合わせした後に疲労回復のために飲ませてくれた。
懐かしさに目を細めたアンジェは、ユルバンへの緊張をようやく解いた。
大人しくお手製のバナナミルクを飲んでいると、しばらくしてユルバンが出来上がった食事を片手に戻ってきた。
「待たせたな。これでいいか」
「すみません、色々とさせてしまって」
「いい。怪我人は大人しくしていろ」
焼いたベーコンは細く切られ、チーズリゾットに乗っている。茹でてしんなりしたキャベツのサラダも、柔らかくなっていて食べやすそうだった。
ユルバンはアンジェの前に食事を置くと、先に食べろと指示した。アンジェは申し訳なく思いながらもスプーンを手にとってリゾットを一口いただく。
「おいしいです」
「それは良かった」
ユルバンも自分の分の食事を持ってくると、ようやく食卓に腰を落ち着けた。
「そういえばヒューゴー様はどうした」
「もう出られましたよ。来年の、第四騎士団のお披露目前には戻ってくるそうです」
「忙しないな」
「今のうちに、見込みのある人材を集めておきたいそうですよ」
第四騎士団が本格的に始動すれば今の人数では到底賄えない。来年以降、登用試験も稼働させていくのなら、人を集めないことには試験もできないため、ヒューゴーが積極的に第四騎士団の宣伝を担うのだそうだ。
ヒューゴーの話をするうちに、アンジェの食事をする手がだんだんと鈍くなっていく。
やがて、食事の手を完全に止めてしまったアンジェに、ユルバンは視線をあげた。
「どうした」
「あ、いえ。なんでも……」
「なんでもなければそんな顔はしないだろう」
ユルバンに指摘され、アンジェは困ったように笑う。
ヒューゴーのことを思い出したアンジェは、少しだけ自分に自信を無くしていた。
「……試験期間も終わって、いよいよこれからだっていうのに、賊に連れ去られかけるという失態をしてしまったのが恥ずかしくて。私なんかが騎士団長だなんてやっぱり無理なんじゃないのかなって思ってしまったんです。私の失敗が、女性騎士の未来を閉ざしてしまわないか、心配で」
ヒューゴーはアンジェのことを試金石だと言った。
リオノーラはアンジェをこの国の女騎士の先駆けだと言っている。
シェリーもヒルダも、アンジェを認めてくれていた。
そんな彼らにの期待に、アンジェは応えられるのだろうか。
昨日の失態以来、そんな不安がアンジェの中に生まれていた。
思い詰めたようにうつむくアンジェ。
そんなアンジェに、ユルバンはゆっくりと口を開いた。
「なんだ、そんなことか」
「え?」
アンジェは顔をあげる。
ユルバンの大真面目な表情が、アンジェを見ていた。
「昨日のことは失態に入らん」
「……そんなことはないでしょう。私、危うく賊に売られるところだったんですよ?」
「か弱い令嬢ならいざ知らず、お前がそう易々と連れ去られるものか。どうせあのまま連れ去られたところで、賊のねぐらから脱出するなり制圧するなり、お前ならなんとかするだろう」
ユルバンのそっけない一言に、アンジェは困った顔になる。
「それは、買いかぶりすぎでは?」
「いいや。きっとそれくらいするはずだ。お前はその時々で自分にできる最善策を選ぼうとするだろう。その判断力は、人を纏める長として必要な力だ。たとえ予想外なことが起きても臨機応変に対応できるのは強みだ」
「買いかぶりすぎですって」
「純然たる事実だろう」
アンジェがそんなことはないと否定しても、ユルバンは自信満々に言い切った。
それからふっと目元を和らげる。
「お前はいつもそうだ。無茶だとか無謀だと思ったことを、俺たちには思いつかない方法でやってのける。大剣を振れないなら、レイピアで突き刺せば良い。怪我をしたくないからと、一撃必殺の技を磨く。道を走るのが遅いと思えば、木々や屋根を飛びわたる。騎士服じゃなくとも、ドレスで戦う。お前のその柔軟さは立派な強みだと思う」
「……そんなの、普通ですよ」
「まず間違いなく、行儀の良い騎士ならば屋根の上には飛び乗らんな」
「……」
第三騎士団時代のやんちゃを指摘され、アンジェはいたたまれなくなった。
気まずくて視線をうろうろとさせていれば、ふっと気配が動く。
ユルバンがその長くて太くて力強い腕を伸ばして、アンジェの頭をわしゃわしゃと撫でた。
「えっ、あ、ちょ」
「まぁ、お前が不安になるのも分からんでもない。だがお前に第四騎士団の話が来た時、ヒューゴー様から言われなかったか? 『若い内の苦労は買ってでもしろ』と」
「……言われました」
アンジェはヒューゴーと語らったあの日の会話を思い出す。確かに、ヒューゴーはそんなようなことを言っていた。
こくりとアンジェが頷けば、ユルバンはアンジェの頭から手を離す。
「騎士は結果が全てだ。結果が良ければその過程で失態したとしても大きな問題にはならないし、荷が重ければ周囲の人間に甘えられる。多少の失敗はいつか経験となり、お前の将来で役に立つ。実際に、俺がそうだったからな」
「団長が?」
「そうだ。俺が騎士団に引き立てられたのは十八の時だ。お前が来る一年前だった。当時は俺も散々失態を犯していたが、ネイトやケヴィンに助けられながらなんとかやってきた」
目から鱗とでも言いたげなアンジェの顔に、ユルバンはニヤリと唇の端をあげた。
「人命を預かる以上難しいことだと思うが、失敗を恐れるな。周囲がお前をひよっこだと注目している内は誰かが手を貸してくれるだろうから、それに甘んじてしまえばいい」
すとん、と。
アンジェの不安が抜け落ちていくような心地がした。
肩の力が抜けて、胸のつかえが取れたような気がする。
でもそれでも、本当にそれでいいのかという不安はまだ少しだけ残っていて。
アンジェはおずおずとユルバンの赤い瞳を見る。
揺れるアンジェの緑の瞳に向かって、ユルバンはさらに言葉を重ねた。
「俺の横に立ちたいんだろう。今のお前ならそれができる。腑抜けたことを言っていないで、がむしゃらに突っ走ってこい」
その言葉がアンジェの視界を開く。
ユルバンの隣に立つ。
いつか夢見たことを現実にできる近道がある。
手を伸ばすのを諦めなくて良い場所にいることを、アンジェは忘れていた。
ユルバンの激励に、アンジェは元気良く返事をする。
男じゃなくたって、ユルバンの背中を追える。
そしてその隣に立つ権利がもらえる。
ユルバンの隣に立っても恥ずかしくない騎士になりたい。
そう、ありたい。
「―――はい!」
ようやくふっきれたアンジェは食事の手を再開した。
沢山食べて、英気を養って、さっさと業務に戻ろう。
アンジェはそう強く思って、リゾットを口いっぱいに頬張る。
……そんなアンジェを見ていたユルバンの表情が、ほんの少しだけ憂いを帯びたのことに気づかぬまま。