芽生える心
「私、男に生まれたかったです。夢が叶えなられない女の私は、嫌いです」
そう言って笑ったアンジェ。
その笑顔が、ユルバンの胸を妙にしめつけた。
ユルバンはアンジェに騎士でいて欲しい。
それこそまだまだこれからなアンジェは、きっと将来的にはユルバンの背中を越すだろう。
だが、アンジェの言う通りに、アンジェが女では規律に違反して騎士にはなれないのだ。
実感がなかった。
アンジェが女だという実感がなかった。
ワンピースを着ていたって、髪を下ろしていたって、ユルバンの目の前にいる人間はアンジェなのだ。
ユルバンの中で女というものは、男と同じくらい臭いものだった。
香水臭かったり、化粧臭かったり。
どうしてもユルバンは、女性の装う香りと言うものが苦手だった。
普通の人なら分からないだろうが、ユルバンは風に乗る血の臭いすらかぎとるのだ。
そんな彼は、人間の体臭に加えて香水や化粧の匂いすらかぎ分ける。
それが意味するところのつらさはきっと誰に言っても伝わらない。
だがアンジェは違った。
幼い頃から男として騎士団に入っていたアンジェは、女だと自覚した後も、色気づいて香水をすることも、化粧もすることもなかった。
かといって汗臭い男達に混じっても、その汗の匂いが男達と同じに嫌だと感じたこともない。
アンジェの汗の香りは、ユルバンにとってはかぐわしい花のようにさえ感じられたのだ。
特別だ、と思った。
ユルバンがどんなに近づいてもつらくはない人間がアンジェなのだ。
だからアンジェを手元に置いた。
これまでも。
これからも。
ずっとアンジェが傍にいると思っていた。
だが、退職届けを受理しないと言ったところで、ユルバンの理性的な部分が「どうするんだ」と訴えてくる。
その具体的な方策をどうするかを考えた時、ふとどうして前騎士団長であるヒューゴーがアンジェを連れてきたのかと思った。
ヒューゴーなら規律違反を犯していることを知っていただろう。
それなのに、なぜアンジェを騎士団に留めたのか。
ヒューゴーがきっと鍵を握っていると思った。
だから、ユルバンがアンジェにかけてやれる言葉は。
「……俺は好きだ。男だろうと、女だろうと。男であれば騎士になれるだろうが、お前の剣はきっと女でなければ洗練されることはなかった。俺は、努力のできるアンジェが好きだ」
つまりはこういうことなのだ。
匂いがつらくないから、一緒にいても苦がないから、アンジェの努力を一番間近で見ることができた。
それだけは事実だし、誰しもがきっと理解してくれるユルバンの心境だ。
「お前が自分のことを嫌っていようが、俺は好きなんだ。覚えておけ」
真っ直ぐアンジェの目を見ながらそう言えば、アンジェはわずかに目を見開いて、照れたように笑った。
「ありがとうございます」
先程のように何もかもを諦めたような笑顔ではなく、心から嬉しそうな笑顔にユルバンは安堵した。
「さぁ、気が晴れたのなら村へ戻るぞ。魔獣の処理も進めねばならん」
「はい!」
昔のように元気よく返事をするアンジェに、ユルバンは笑った。
アンジェは笑っている方がいい。
純粋で、素直で、努力家なアンジェ。
ユルバンは剣の腕がなくたって、そんなアンジェを好ましいと思っているのだから。
ユルバンに引き続き到着した騎士団が事後処理をしてくれたようで、村人たちも恐る恐るとだが外に出て互いの無事を喜んだ。
森から戻ったアンジェも例外ではなく、マリーとカール、マルコの三人がすぐにアンジェを取り囲んだ。
「まぁまぁアンジェ! 血だらけじゃない! 怪我はない? きれいな髪にも血がついて! まぁまぁまぁ……!」
「おねーちゃん! おねーちゃん! 心臓に悪いよ! 心配、したんだからな!」
「アンジェ、ほんと、一人でやるにしろ無茶はするなって……全然帰ってこないから心配したぞ」
詰め寄るのは三人だが、村人や孤児院の子供達まで遠巻きにアンジェの様子を伺っているようで、アンジェは居心地悪そうに肩をすくめた。
「心配かけた、ごめん。でも、私は大丈夫。着替えるついでに水でも浴びてくるよ」
「それなら孤児院に来なさいな。必要だろうと思ってお湯を沸かしてあるわ」
「ありがとう、先生」
アンジェがちらりとユルバンの方を伺ってくる。
「団長、報告は」
「魔獣の討伐数だけ教えろ。怪我人の把握とかは他のが動いているだろうしな」
アンジェが討伐した魔獣の数と、騎士団が見つけた。死体の数が合えさえすれば問題はない。
ユルバンが促せば、きちんと把握をしていたらしいアンジェはざっと数を述べた。
「孤児院の裏手、北西の森との境付近に四匹、村の中で二十一、森の奥の七を合わせて、合計三十二です」
「ご苦労。休んでいい」
「ありがとうございます」
アンジェが頷いて歩きだすが、孤児院に向かうというのに孤児院の院長であるマリーが動かない。
ユルバンもアンジェも不思議に思っていれば、マリーだけでなく、カールもマルコも唖然とした表情でアンジェを見ていた。
「……どうしたの? なにか変?」
「いや……お前、強い強いとは思ってたけどさ……」
「アンジェ、やっぱつぇーな! 三十匹も魔獣を倒すなんて! すげー! やっぱ弟子にしてくれ!」
マルコが引きつった顔をし、カールが興奮したように騒ぎだした。
ユルバンからしてみれば、これくらい普通だ。
確かに女の身であるアンジェが魔獣を三十、正確には三十近くではあるが、それに応戦したという事実は物珍しいだろうが、「騎士アンジェ」ならば至極当然の結果だと思ったのだ。
「アンジェが強いのは知っている。いいから着替えさせてやれ。血の臭いで鼻が曲がりそうだ」
眉をしかめたユルバンに、三人がわたわたと動き出す。
アンジェはまだ何か言いたいことがありそうな様子で名残惜しそうにユルバンを見たが、マリーに連れられて去っていく。
ユルバンは一息つくと、気を引きしめた。
やることはまたまだ沢山あるのだ。
ユルバンは近くにいる騎士達に、死骸の始末と血を吸った地面の処理を指示していく。
安否確認を終えた騎士からの報告を聞き、さらには別の村にいる騎士に伝令を走らせ、カヤック村で魔獣との交戦があったことを伝えさせる。
後は。
「団長、戻りました」
「早かったな」
森で見つけた水流調査をさせていたロランドが戻ってきた。
ロランドはそわそわと周囲に気を散らしていたけれど、ユルバンが咳払いをするとすぐに姿勢を正した。
「報告します。例の水流ですが、魔獣のなわばりにて源泉らしきものを発見しました。源泉付近がため池のようになっていたんですが、決壊し、そこから届いていたようです。決壊部分は三ヶ所あり、三方向に分かれて水が流れていました」
「なるほどな。飲み水を求めて縄張りを広げていたのか……。源泉の溜め池部分の修理はしたか?」
「はい」
「よくやった。それで人里まで降りてくるのがかなり減るはずだ」
魔獣とはいえ獣だ。
食糧も水も当然必要となる。
繁殖期で水不足も重なれば、当然縄張りは人里近くまで広がるだろう。
「ご苦労。集合まで休め」
「はい」
ロランドは頷くと、そうっとユルバンの様子を伺った。
「団長、あの」
「なんだ」
「アンドレア、居ませんでしたか? 数日前にカヤック村に行くと言ってたんですが」
ロランドの言葉になんだかユルバンはムッとした。
自分はアンジェがここに来ることを知らなかったのに、どうしてロランドが知っているのか。
「……いるが、それがどうした」
「あっ、いや、休憩もらえるなら無事かどうか会いに行こうかなって思っただけです」
ロランドの言葉にユルバンは不本意ながらも渋々答える。
「孤児院だが、今はやめておけ。取り込み中だ」
「そうなんですか?」
不思議そうにロランドは目を瞬くが、すぐに彼はにこりと笑った。
「孤児院には顔を出すつもりだったので、ちょうどいいですね。では、失礼致します」
ロランドはそう言うと、ユルバンの前から去っていく。
その足が正しく孤児院の方を向いていたのが、なんとなくユルバンは面白くなかった。
「……ロランドはアンドレアと旧知の仲だったな」
ロランドはアンジェと同じ孤児院の出身だったはずだ。
ロランドはどこまで知っているのだろうか。
騎士のアンジェとアンドレアが同一人物だということを知っているのだろうか。
なんだかもやもやとする。
もやもやとするが、今は魔獣のことに専念する時だ。
人里に降りてくる大部分の理由が分かった今、直ちに対応し、少しでも魔獣の被害を抑えなければならない。
ユルバンは、胸のなかにわだかまる感情に蓋をすると、今一度騎士へと指示を出すべく歩きだした。