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無垢に徒花  作者: 摂氏
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第一話 -萌葱旅館-

中編小説です。十数話を予定しております。

 新緑の季節。春の梢に芽吹く命は、車窓に流れる刹那の情景を織り成す。尻骨が刺さる薄い棉の入った椅子に腰を据えて、眺める世界は絶え間なく流れる。乗り合い自動車の寂しい空間に、砂利道に揺れる車体が軋む音のみ響いていた。

 数十人は居られる広い車内に、ふたつの空蝉の影。俺と運転士。吊革は、虚しく虚空に揺れる。時おり、運転士の機械的な停留所案内の声が鳴る此処で、俺は俗世と隔絶された世界に浸っていた。

 車窓に人の姿が消えて、何時間が経ったのだろうか。辺鄙な山奥とは言え、此処に住む人間は居ないのだろうか。然う思っている間に、埃の溜まった降車信号装置に暗い赤が灯った。


「次は終点。旧萌葱村」


 案内に在った地名を聞いて、俺は降車信号装置を反射的に押した。

 だが、鳴らない。当然の話だった。

 椅子の背面に、浮いた背を寄り掛けて、俺は溜息を吐いた。

 死んでも要領の悪い性分は変わらないのだろうな。

 俺は、然う自嘲した。

 然して、バスは速度を落とす。ブレーキが擦れる耳障りな音を合図に、俺は腰を上げた。

 脚を前方に投げた瞬間、バスは喧しく停まる。突如として訪れた静寂も束の間、質の悪い音響装置が吐き出した扉開閉の音を耳に、俺はリュックサックの外袋から万券を取り出した。


「釣りは要りません」


 然う一言だけ呟いて、俺は回収装置に札を突っ込んだ。

 次いで、ほんの瞬き程度の一瞬、運転士と目が合ったのだが、彼は軽く会釈した後に、俺から顔を背けた。

 山間自殺者とでも思われているのだろうな。

 其の態度に腹が立つ理由は無く、俺は急ぎ足で段差を降りた。

 間も無く閉まる扉。無駄の無い挙動で、バスは早々に征く。其の背を見送って、俺は排気の残り香が漂う周囲を見渡した。

 徐々に薄れる文明の残り香。澄んだ視界を埋め尽くす新緑と見上げる大海原。純粋な白を纏う白雲の清涼感。広大な虚空を穿つ隆然たる大地と、抉られた谷間が、荘厳な自然を魅せる。数刻前まで寄り添った文明の姿は、何処にも無かった。

 然して、俺は大きく息を吸い込んだ。


「良い場所だ」


 透き通った内懐を蒼穹に重ねて、俺はリュックサックを背負い直す。旅先の案内に依れば、目的地まで然程に離れていない筈だ。

 然う思えば、勇んで前へ進める。舗装の甘い砂利道さえ厭わず征ける。砂利道を抜けて、荒れ果てた獣道さえ快調に辿れる。常しえの様な刹那の旅路に、最高の終幕を呉れて遣る為に……。

 暫く道なき道を征けば、遂に目的の場所は見えて来た。

 膝を超えて茂る立派な草を踏み締めて、辿り着いた其処には、上天を覆う日が差し込んだ開放的な空間が在った。

 人の手で整地された田畑と、木製の円卓、長椅子。然うして、荘厳たる佇まいの建造物が、俺を出迎えて呉れた。

 其の名は、萌葱旅館。嘗ては、数多の旅人が訪れた旅館だったと聞く。遥かな昔の話だが……。

 昨今の文明の発達が、ヒトに備わった脚を奪い、名所として知られていた日々は色褪せた。

 此処は、忘れられた秘境。遥かな距離を歩いて旅する時代を忘れた現代人に忘れ去られた憩いの場の跡地だった。

 俺は殊更に近寄り、旅館の外観を望めば、栄枯盛衰の影が見て取れる。古き時代の二階建で、技巧を凝らした装飾が散見される外観は立派だ。だが、玄関の両脇に組まれている立派な大木は、黒く煤けていて、二階の顔である全面硝子も、所々が割れて、時おり荒ぶ涼風に軋んでいた。

 隆盛と衰退は表裏一体。盛れば廃れる運命だ。俗世と隔絶された此処も、例外では無かった。

 斯くして、俺は旅先の軒先に辿り着いた。

 長い旅路だった様に思う。思い返せば、数え切れない苦難の日々が脳裏を巡った。

 過去の追憶に思い巡らせて、俺は両開きの玄関の敷居を超えた。


「お邪魔します」


 俺は、開口一番に挨拶を投げる。小さな凹凸が無数に散った土間に、空蝉の気配は無い。其の中央に備えられた囲炉裏は、地面より盛り上がって、四人が囲める様に座布団が敷かれていた。

 誰も居ないのか。予約の書簡は、随分前に出したのだが……。

 斯く状況を思えば、廃屋と化している可能性は否めなかった。


「お邪魔します」


 先程より僅かに語調を強めて投げる。其の次の間に、向かって左側の上がり端の引き戸が開いた。


「はいよ。聞こえて居りますよ」


 嗄れた声音が響いた後、引き戸の奥から姿を見せたのは、僅かに腰の曲がった老婆だった。


「鈴鹿様で、宜しかったか?」

「ええ。ひと月ほど世話になります」


 然う言って、俺は深く頭を下げた。

 次いで、頭を真っ直ぐに戻した時、主人と目が合った。


「お手紙。拝読させて頂きましたよ」


 真面目な口調で告げる老婆の言葉に、「ええ」と、俺は言葉を区切る。


「無事に届いた様で……」


 尚も真摯な視線を呉れる彼女の真意を、俺は辛うじて汲み取った。

 然すれば、俺は再び腰を折った。


「諸々、世話になります」


 俺の言葉を受けて、老婆は大きく頷く。


「ゆっくり休んで行きなさいな」


 其の言葉を最後に、老婆は引き戸の奥に下がる。数瞬の間を置いて、「此方です」と、老婆の声が響いた。


「鈴鹿様は、久しい御客人で御座いますので……」


 上がり端から奥を覗けば、老婆が居る部屋は、普通の客室の様に見受けられた。

 質素な部屋に、質素な調度品が並べられた和室。閉まり切った障子は、縁側に差し込む陽光を映していた。


「お部屋は用意して御座いますが、家の隅々まで御自由に……」

「良いのですか?」


 然して、「はい」と、老婆は此方に背を向けた儘、端的に肯定した。

 なんとまあ。確かに他の客は居ないのだろうが、主人の居住区には流石に入れまい。

 諸々を憂慮した儘、俺は上がり端に腰掛けて、草臥れた靴を脱ぐ。脱いだ靴は其の儘、俺は上がり端に膝を突いて、不揃いな靴を正した。


「其れでは、お部屋の方へ参りましょうか」


 斯くして、俺は老婆の背に続いた。

 辿る客間に通路、縁側の諸々が感性に触れる。古き良き時代の産物は、郷愁さえ想起させた。

 全体的に煤けた柱。煤けた木製の扉の上枠に貼られた障子。色褪せた美麗な絵画は、此の家のスケッチ画なのだろう。目に入るもの全てが、俺の心に触れた。


「階段が急になって居ります故、お気を付けてお上りくださいな」


 狭い廊下を抜けて、左側に伸びる階段は、言われた通り急勾配だった。

 老婆は、其の階段を確かな歩調で、一段一段ゆっくり登る。俺は、其の三段下を目安に追従した。


「良い場所ですな」


 俺は狭い階段の土壁に触れて、其の懐かしい感触に浸る。本当に世辞を抜いて、良い場所だと思えた。

 然して、段差に手を突いて登る老婆は、「有難う御座います」と、軽い会釈に合わせて呟いた。


「然う言って頂けて、先代も喜んでおります」


 先代。彼女の父親か。恐らくは、遠い世界に逝って仕舞った人なのだろう。

 然う思えば、俺は口を閉ざす他に無かった。


「頭上が低くなって居ります故、お気を付けて……」


 言われた様に、階段の低い天井部に留意して階段を登り終えた刹那、唐突に視界に眩い光が射し込んだ。

 先を征く老婆の後に付き従って進む廊下の先には……。


「おお」


 思わず感嘆の声が漏れた。

 新緑が揺れる木々を奥に見る硝子扉。左側は障子に遮られているのだが、右方と前方には、全面の硝子に新緑と蒼穹のコントラストが映える風光明媚な世界が広がっていた。


「いやいや。尚更に良い場所ですな」

「然うでしょう」


 老婆は誇らしげに胸を張って、三人が擦れ違える程度の幅の廊下を進む。俺は眼下の眺望に惹かれた儘、ゆっくり其の背を追った。

 太い支柱が伸びる角を曲がって、温かい陽光が差し込む廊下を少し征けば、老婆は立ち止まる。然うして、此方に向き直った。


「此方を御用意させて頂きました」


 然して、「有難う御座います」と一言、俺は開け放たれた襖障子の奥を覗き込んだ。

 先ず目に入った硝子窓が、俺を出迎えて呉れる。抉られた谷底と、斜面に生え揃う新緑、大海の如き蒼天に白砂の様な白雲の何と美しい事か。


「素晴らしい部屋だ」

「自慢の御部屋で御座います」


 俺は敷居を超えて、色が褪せて黄色がかった畳を踏み締めた。


「お茶をお持ち致しますので、ゆっくり寛いで下さいな」


 然う言って、老婆は膝を折って襖障子を閉めた。

 其の様子を見終えて、背負ったリュックサックを下ろした俺は、広い和室を窓際に向かって歩く。質素な調度品で彩られた古き良き空間で、俺は窓際に片手を突いて、軋む硝子窓を開け放った。

 頬を撫ぜる涼風に孕んだ自然の息吹。自然の便りが呉れる清々しさに思い巡らせて、眼下に広がる芝生と広大な自然を眺めた。


「良いな。只管に良い」


 無味無臭で色気も無い感想だが、心の底から湧き上がる感情だ。此処は、旅路の終着地に相応しい。然う思えた。

 暫くの間、俺は窓辺に腰掛けて、自然の織り成す眺望に意識を向けていた。

 然して、階段を足踏む音が規則的に鼓膜を叩く。軽快な旋律は、徐々に其の音を勇ましく強めて、此方に近寄って来る。其の音は、老婆が閉めた襖障子の前で止まった。


「お客様」


 だが、聞き慣れない人間の声音が鼓膜に触れる。


「失礼しても宜しいでしょうか」


 小鳥が囀る様な声音。落ち着いた声音だった。

 其の主人が何者か分からない儘、「どうぞ」と、俺は端的に告げる。間も無く、衣が擦れる音に追従して、襖障子が開いた。


「失礼いたします。お茶をお持ちしました」


 機械的な口調で揺蕩う旋律。揺れる黒髪。其処には、見目麗しい女の子の姿が在った。

 幾分か俺より若いか。


「お客様?」


 然して、我に返った俺は、「ああ」と、口を開いた。


「有難う。机の上に頼むよ」

「承知しました」


 言うや否や、床に据えてあった盆を持ち上げて、彼女は腰を上げた。

 整った面相。幼さの残る顔に嵌め込まれた微かな赤を織り込んだ褐色の双眸。眉の上で揃えられた前髪は揺れて、絹の様な黒髪は畝る。腰まで伸びる繊細な黒髪は、艶々と光を宿して、虚空を裂いた。


「君は?」


 俺は問い掛ける。此処に来て初めて見た娘だが、別の間に居たのだろうか。

 茶の載った盆を運ぶ彼女は、此方を見据えて頷いた。


「此処の娘です」

「おお。然うだったか」


 次いで、彼女は膝を折って、卓上に盆を据える。流れる様な所作で茶を置いた少女は、盆を胸元で抱えて此方に向き直った。


「此方で宜しいでしょうか」

「有難う。後で頂くよ」


 窓辺から腰を下ろして、俺は謝辞を述べた。

 然うして、彼女は徐に立ち上がる。弧を描く背筋を伸ばして、彼女は開け放たれた襖障子の奥に立った。


「失礼いたします」


 彼女の機械的な口調は終始かわらず、膝を折り、盆を置いた後、彼女は襖障子を静かに閉めた。

 徐々に遠ざかる足音を聞いて、階段を打ち鳴らす音を聞いて、俺は樫の机の前に据え置かれた座布団に胡座を組んだ。

 斯くの如き娘が居たのか。

 可愛らしい娘だった様に思う。何処か機械的な印象で、話し掛け難い雰囲気だったが……。

 然して、俺は部屋の中央に投げたリュックサックまで這い寄った。

 此の旅路に入り用の品々を詰め込んだ財産だ。俺はリュックサックの口を開けて、平たい保護鞄を取り出した。

 其の鞄を開いて、俺の人生の大半に寄り添った命の化身を取り出す。次いで、当の文明の利器を開いて、スリープ状態だった此奴を叩き起こした。

 今日の出来事を記して置こう。此の為に、俺の人生を語る為に、此奴は在る。

 早々に備忘録を開いて、俺は指で語り始める。等間隔に並んだ四辺形を叩いて、口に出さず語る。有限の人生を只管に語る。

 然うして、時間は過ぎて行く。

物語を書き紡ぐ合間に、俗世の歯車に頸木を嵌め込んで生きています。其の産物を、長編小説の更新の合間に投げる予定なので、お付き合い下さい。

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