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姥が火

作者: 丸山海馬

 平成二十七年の正月明けの夕暮れのことだった。

 神田界隈の喧噪から一歩入ったところに、昼間でも陽の当たることのない、寒くてさびしい、人の往来もほとんどない裏通りがあった。辺りにはカビ臭さが漂い、およそ表通りのにぎやかさとは無縁のさびしいその通りの中ほどに、「中原出版社」と書かれた錆だらけの看板の掲げられた、とても古びた二階建ての建物がひっそりと佇んでいた。

 こじんまりと童話だけを専門に扱うこの小さな出版社の一階は、車が三台も駐車すれば満杯になる、ガランとしたコンクリート塀むき出しの空間だった。営業室は二階にあり、天井から暗い蛍光灯が室内を照らしていた。一階と二階を結ぶのは、ひとつきりしかないギーギーと音擦れのするゆっくりとしたエレベーターと、二階の外から地上に直接降りられる非常用の鉄骨階段だけだった。吹きさらしの鉄骨階段の二階デッキの手すりには、タバコの吸殻が五つ六つ放り込まれた大きなカンカラが針金でぶら下げられていて、冷たい北風にあおられて、時折、カランカランと音をたてている。愛煙家は、たとえこんな真冬であっても、このデッキに出て、吹きさらしに耐えなければならない。

 

 けたたましい音でデスクの上の電話が鳴った。デスクの上には「社長兼編集長」と小さく書かれた下に「篠端」と表記された机上札がある。

「はい、篠端」篠端は電話の向こうの相手と話し始めたが、周囲の雑音がうるさくて、うまく聞き取れない。

「え? どなた? ……ああ、加納さん?」こりゃたまらんといった感じで、受話器を当てていない右耳を慌てて手のひらでふさぐ。「いや失礼しました、加納先生」篠端は言い直した。怒号のような騒音が相変わらず容赦なしに四方八方から耳を襲撃する。電話の向こうで加納が何か言っている。

「いやぁ、それがどうも、加納先生、……申しわけありませんが、あいにく、これからどうしても外せない用事がありまして……」周りがあまりにうるさいものだから、ついつい篠端の声もボリュームが上がる。

「あ、本間ですか? 本間ならおりますが……」ピクッと本間の手が止まった。本間は末席のデスクに腰掛けたまま、チラッと篠端の方を見た。幸い、篠端は足を組んで夕暮れになりかけた外を窓越しに見ながら話しているので、本間は目線を合わせないですんでいる。

 本間は、気忙しく動き回る周囲をよそに、四時半になると、いつものように定刻の五時に帰宅しようと、いそいそと帰り支度をし始めていた。書類ファイルを書棚に片付け、今はデスクの上のものを備え付けの引き出しにしまい始めている。今晩も、定時に会社を出て、まっすぐ家に帰り、妻と夕食を食べることを楽しみにしていた。定年まで、あと半年か。もう、面倒には関わり合いたくないな。

「はあ、そういうことならよくわかりました」加納が一言二言、また何か言っている。

「では、仰せの通り、本間を差し向けましょう。 ……じゃあ、どうも。加納先生、早速にありがとうございます」

 篠端はカノウセンセイの部分を、やけに強調して言って、電話の相手が受話器を置く音を聞いてから、静かに受話器を置いた。

 夕べの晩飯の時、何気なしに妻が本間に訊いた。

「ねえ、あなた。定年になったら、そのあと、どうするつもりなの?」

 他愛のない会話だった。

「そうだなあ。まあ、少しでも身体が言うことを聞くうちは、何かしら働こうと思ってるよ」

「そうねえ、家になんか籠ってないで何かして下さいね。年金とあたしのパートだけで細々と暮らそうなんて、そんな虫のいいこと考えてないわよね」本間の頬に、妻の放ったジャブが当たる。妻は人目を気にしてわざわざ数駅離れた駅まで行って、スーパーのレジを叩いている。

「でもあなた、健康が第一よ。健康でなくっちゃ、働くこともできないしね」妻は、ケロリと言いたいことを言って、味噌汁を口に持って行った。何をするか今のところ計画があるわけでもなく、明日の自分がどうなっているかわからないとさえ思っている本間は、ただ、

「うん、うん」と少し面倒臭そうに頷くだけで、ひと口、ご飯を口の中に入れた。いろいろあったけど、これでやっと俺も人並みになったということかな。そこへ、

「ねえねえ、本間さん」こう言いながら、篠端が、本間のデスクに近づいて来た。本間の片付ふけの音が、急に気忙しくなり始めた。俺はアウトローなんだから、もう、そっとしておいてくれよ。篠端は、心からすまなさそうなふりをして、本間に話しかけた。

「帰るところ悪いんだけどね、これから赤羽の加納京子のところまで行って、できあがった原稿を貰って来てくれないかなあ」

「え? これからですか?」

「う、うん、そうなんだ。ご覧のとおり、ほかに誰も手が空いていないんだよ。たった今、加納京子から電話が入ったところなんだよ。原稿ができたから、取りに来てくれないかって」

「いやあ、今晩はご勘弁を。ちょっと、早く帰らなければならない用事があるもんすから……」もちろん、それは嘘と言えば嘘だし、嘘でないと言えば嘘ではない、どうにでも後付けのできる口実だった。

「本間さんも加納京子はよく知った相手だったよね。君が何かと忙しいのはわかってるんだけど、そこを曲げて頼むよ。今度埋め合わせするからさあ……」

 篠端は、本当は本間が暇なことなんかお見通しだったが、そんなこと、おくびにも出さずに、すがるようなふりをして言った。加納京子ねえ。今どきはパソコンで原稿書くんだから、メールで送ってくれれば簡単にすむのに……。

「ほら、加納京子がこの調子で売れっ子に育ってくれりゃ、うちだって儲かって、みんなのボーナスアップだって期待できるだろうしねえ」

近くの女子事務員が、デスクの上で肘をついた両手の指を組んで、祈りを捧げるように、うんうんと深く頷く。

「今、うちの社運はこの新人さんにかかってるんだな、アハハハハ……」

 大切なことも冗談めかして言うのが、篠端の癖になっている。

「そんな大役、この私なんかよりも、社長が直々に行かれた方が、よくないっすかあ」

「それがさあ、僕は、今晩、ほら君も知ってる木下先生にどうしても引受けてもらわなきゃいけない企画があってね、その打ち合わせで行かなくちゃならなくて……」ま、仕方ないか、そこまで拝み倒されちゃ。社長だったしな。

「はいはい、じゃあ、わかりました。行ってきますよ。行って参りますよ」

本間は、四十年以上にわたり、この小さな出版社に勤めてきた。およそ出世とは縁のない、万年平社員のまま、部下のひとりも持つこともなく底辺に生きて来た。二十年前にローンでやっと手に入れた中古マンションで、妻と一人息子とでつましく暮らしてきた。息子は昨年の三月に高専を出ると、下町の部品工場に通い始めて、そのうちに家を出て行った。本間が、皿の上の鯵の干物を突っつく。

「いつかはこうなると思ってはいたけれど、あの子が独立してやれやれだけど、やっぱりちょっとはさびしいと言うか……」妻は三人暮らしのころを懐かしそうにして、ご飯を口に入れた。無言のまま本間もご飯をひと口、まだ鯵の入ったままの口の中に放り込んだ。

 本間が篠端に折れたのには、ちょっとした事情があった。原稿を受け取ることなんか事務的なことだし、本間にはどうでもいいことだった。それよりも、赤羽という土地に、漠然とした興味が湧いた。

赤羽か……。

 そこは、その昔、今から十年前に死んだ父親の生家があったところだった。本間には、今からもう半世紀以上も以前の遠い昔、暑い夏と正月に、母親に連れられて、幾度か遊びに来た記憶があった。

今、あのあたりは、どんなふうになってるんだろう。小さいころに行ったきりだから、もう、かれこれ五十年以上になるか。すっかり、変わったんだろうな。

本間は、ずいぶん長い間訪ねたことのない父親の生家に、何となく懐かしさを感じると、ふと、訪ねてみたい気持ちになった。

「なるべく早く戻りますが、何時になるかわかりませんよ。いいっすか」

 本間は念を押すように、篠端に訊き返した。

「もちろんだよ、恩に着るよ」篠端はこう言ってから、すぐに付け加えた。

「今、ハイヤーを呼ぼう」本間は平の社員だからハイヤーなんか使える身分ではなかったが、原稿を心配した篠端は、気を使ってこう言った。

 長いこと近寄ることもなかった土地に行ってみる。本間の興味はもうそっちに移ってしまい、気もそぞろになりかけた。

「いや、行きは電車でいきます。帰りは、安全のため、タクシーを使わせてもらいますよ」

そして、篠端が、

「加納京子のところからタクシーを呼んでよ」と言うので、本間は、

「いや、大丈夫っすよ。通りで拾いますから」

 と返事して、ちょっと篠端の表情を窺った。明らかに原稿を紛失しないか心配しているような顔色だ。

「私はいつも、鞄のベルトをたすき掛けにしてるんで、社長。第一、原稿を盗もうとする奴がいるなら、今この中にいる誰かですよ。そうでなきゃ、私をつけ狙う奴なんかいないし、この鞄を奪うなんて、できないっしょ」

 本間がこれ見よがしに、雑然としている営業スペース内を見回すと、篠端も何気なく周囲に視線を向けた。タバコを我慢しながら何か書いている者や企画書を前にして打ち合わせをしている者もいれば、カウンター越しに業者と打ち合わせをしている者、ただ忙しなく動き回っている者もいて、夕暮れ近くの営業スペースはざわついている。篠端は、

「僕は、心配性なのかなあ」と、わざとらしく言ってから、

「じゃあ、帰りタクシーに乗ったら僕の携帯に、一応これちょうだいよ」

 こう言って、親指と小指で受話器をつくって、自分の耳のそばで軽く振って見せた。

こっちの都合もあるのに。たまには、向こうから持って来てくれても、ばちなんか当たらないもんだがなあ……。

 そう思いながら、この歳で新年早々、こんな真冬の夕方から原稿を取りに行くなんて、正直、面倒くさいと思った。

本間がエレベーターで降りると、一階は照明もついていなくて真っ暗で、軽トラックも営業車も人影もなく、ガランとしていた。

会社の建物から外の通りに出ると、少し身震いした本間はコートの襟を立てて、首元を押さえた。


 本間は、夕方五時前に神田駅から京浜東北線に乗車した。さすがに座ることはかなわなかったが、車内はまだ、さほど混みあってはおらず、本間は吊革につかまった。

 本間の前には帰宅途中の子供ら数人が陣取っていて、ふざけあっていた。

本間は、何を見るわけでもなく、ただぼんやりと、吊革につかまりながら車窓から夕暮れに染まり始めた街を眺めた。子供らのふざけあっているさまが本間に思い出させたのか、昔の自分の幼少のころの原風景が目の前の夕暮れの風景に重なって浮かんだ。

 ……あの頃、確かに、機関銃を乱射するような激しい轟音があの頃住んでた団地一帯に頻繁に鳴り響いていたよな。あれはやっぱり、本当に機関銃の音だったよなあ。

本間が子供の頃、団地群の南側の境界線には金網と有刺鉄線が左右にどこまでも伸びていた。その向こうには隘路でボコボコした道路が走っていて、大型のダンプが埃を巻き上げて行き来していた。誰が開けたか知らないが、金網には子供が一人通れるくらいの穴が開いていて、そこをくぐりぬけて道路を走って渡り、反対側にもある金網をよじ登って向こう側に下りると、そこには広大な荒れ地が広がっていた。  

……あの頃はお袋からも、近所のおばさん連中からも、

「危ないよ。行ったら承知しませんよ」なんて、よく叱られたっけ。そんなの、わんぱくのオレたちが言うことを聞くわけがない。あそこにみんなで入ると、駄菓子屋で買った銀玉鉄砲でいつも日が暮れるまで戦争ごっこをやったな。

子供の本間は、一人で探検することもあった。荒れ地には、アルファベット文字が大きく書かれた黄色い錆だらけのスクールバスが捨ててあった。それから、薬莢のようなものがいくつも見つかった。

……今思っても、本当に、夢のような不思議な場所だったな。

 そんなことを思い出していると、今度は、ふざけあっている子供らの隣の座席に、デパートの手提げ袋を抱えて座っている中年の女の姿が、本間の目に入ってきた。

 ……お袋に手を引かれて池袋駅からデパートに行く途中じゃ、今思えばあれは帰還兵だったんだろう、道端でそんな光景を見かけたな。一人は両腕とも義手で地面を突き、その傍らで別の帰還兵がアコーディオンを弾いていた。行き来する人々の中には小銭を放るのもいたが、大概の人はかまうことなく通りすぎて行った。オレがお袋に、

「あの人たち、どうしたの?」と話しかけると、お袋は「見ちゃいけませんよ」と強い調子で囁いて、俺の手をしっかり引いて速い足取りでその前を通りすぎたな。その後の彼らの人生はどんなだったんだろう。 

 車内放送が、まもなく秋葉原に到着することを告げた。

 赤羽か。赤羽駅を東口に出てすぐ左方向から線路沿いに続く狭い歩道、勝手口の引き戸とすぐのガラス戸の玄関、上がり框から上がってすぐ右手にある広い調理場、その奥にある二畳ぐらいの帳場……。そんな情景が思い出された。

電車が秋葉原に着くと、乗車して来た人々の中に、ひとりのみすぼらしい老婆が何となく視界に入ってくるのを感じた。

 その小柄な老婆は、穴のあいた古着を身につけ、よれよれの紐をその古着の上から腰のあたりに縛り、梳くこともなく肩まで伸びた白髪を振り乱しながら、人々の合間をくぐって、どこか席は空いていないか、探している様子だった。

 老婆は、空いている席などないし、誰も譲ってくれそうにないことを見てとると、今度は、来た方向に向かって、人々の間をくぐった。

その老婆の動きは不思議なもので、止まったかと思うと瞬間移動したり、また、ゆっくりとした動きであったりした。するりと、人々の隙間を抜ける風のようだった。

 本間は、自分の背中を老婆の風が触れていくのを感じた。

冬のことだから、すぐに夜の帳が下りて、車窓から見える街全体が暗くなる。本間は、窓ガラスに映る車内の様子をぼんやりと見ているうちに、そこに加納京子の姿が映っていることに気がついた。あれ? 加納京子? そう思って、何気なしに横を見ると、そこには、いつの間にか加納京子が吊革につかまって、突っ立っていた。本間が声をかけるより早く、京子の方から声をかけて来た。

「あら、本間さんじゃありません? ああ、やっぱりそうだわ。こんばんは」本間は驚いて、なぜこんなところで? 時間的に会うはずもないのにと思ったが、口の方が勝手に話し始めていた。

「あ、どうも、加納さんかあ、いや驚いたなあ。……なんで、加納さんは、この電車に?」本間は、少し心が弾んだ。

「あたしは、本間さんがうちに来られるというので、上野までお茶うけの和菓子を買いに行って、今、その帰りなんです」本間は加納京子の飾らない普段着の一面を垣間見たような気がして、久々に嬉しくなった。

 急に、加納京子の顔の奥深いところで両目が放つ青い光が、目眩ましのように本間の面前いっぱいに広がった。その瞬間に、加納京子の姿は消えた。

やがて電車が田端駅に着いた時、本間は、何故かそこで降車した。そのまま乗車していれば赤羽駅に運んでくれたものを、何か不思議な力が働いて、気がつくと、本間は田端駅のホームに立っていた。乗っていた電車は、すぐに田端駅から滑り出すように走り出した。ドアガラスの内側からは、加納京子が、ホームに降り立った本間を冷たく見つめている。

ああ、行っちゃった。ま、すぐに来るからいいか。そう思って、次の電車を待つことにした。

 その時、本間は、どうもあたりの様子が変なことに気がついた。田端駅って、こんな裏さびしい駅だったろうか。第一、ホームの屋根はずいぶんと古臭く背丈もなく、今にも落ちてきそうじゃないか。いくつか見える柱にしたって木製で、やけに古びている。おまけに、ホームには、これも古い外灯がいくつか、ぼんやりと淡い明かりを灯しているだけだし、冬の夜空にしては、ホームから見える星もやけにくっきり見える。普段見る、煌煌と明るい高いビルやネオンの狂おしいばかりの輝きはどこにもなく、冬の風の吹きすさぶホームが、ぽつんと真冬の夜空に晒されている。

本間が、ホームの上から少し遠くに目をやると、暗闇の中に真っ黒な鉄の貨車が休んでいた。あたりに漂っているのは、黒光りした石炭の、鼻を突く強い匂いだ。お袋、この匂いだよ。この匂い、懐かしいよね。本間はこう、心の中で母親に話しかけながら、あの頃を思い出した。

そんな昔の一時の光景を見た本間が、何気なしにホームを眺め渡すと、遠くに、あの老婆の姿が見えた。

「あ、あのおばあさん」と思いかけた次の瞬間、老婆は本間の目の前にいた。

「どこまで、行きなさるのかえ?」老婆は、ひどくしゃがれた声を喉の奥から絞り出して、本間の顔を見上げた。

「赤羽までです」すると、老婆はこう言った。

「わしもな、赤羽まで行く途中なんじゃよ」すっかり歯が抜け落ちてなくなった口をあけて、老婆はこう言うと、ニッと人なつっこそうに笑った。本間は、老婆の皺だらけの表情に、自分の何かが見透されているような気がして、少し背筋が寒くなった。老婆の顔は干からびていて、両方の目が顔の奥の方で、小さく笑っていた。

「あのう、私も田端駅で降りて気がついたことなんですけど、あのまま乗っていれば今ごろはもう、赤羽駅に着いていたんです。二人とも、間違っちゃったみたいですね」と本間が老婆に言うと、老婆の方は自信ありげに答えた。

「違うさ、赤羽に行くにはここで乗り換えなんじゃよ。いつもそうしてる、いつもそうしてる」老婆は、ブツブツとそう言った。本間は一瞬、

あれ? 俺が間違っているのか、ちょっと勘違いしそうになったが、近くの柱に貼ってあった停車駅の案内図を見て確認すると、あのまま電車に乗っているのがよかったと言った自分が、やっぱり正しかったと思った。けれども、もう降りてしまったのだし、次の電車に乗るのだから、老婆に調子を合わせて、

「じゃあ、次の電車が来るのを、この辺で待ちましょう」と言った。それにしても、停車駅の案内図といい、貼ってある柱といい、ずいぶんと古いのが心のどこかに引っかかった。

電車を待っている間、老婆は嬉しそうに、しげしげと本間のことを見上げ、本間はそれに気がついていないふりをしていた。

次の電車がすぐに来ると思っていたら、ずいぶん本間と老婆はホームで待たされ、しばらくして、ようやく、次の電車がゆっくりと入ってきた。

「おばあさん、やっと電車が来ましたよ」本間は、ちゃんと電車を見るでもなく、こう言った。

 するするっとホームに入ってきたのは、ひどく古びたチョコレート色の車両だった。

「さあ、乗り換えるんですよ、幸ちゃん」老婆はこう言うと、本間より先に、さっさと電車の中に乗り込んで行った。幸ちゃん? このおばあさん、まさか今、俺の名前を言ったんだろうか? 本間は、きょとんとした顔つきになったが、気のせいかと思った。

本間と老婆は、電車に乗り込むと席に並んで腰かけた。本間が何気なしに天井を見上げると、そこには、白色の蛍光灯ではなく、温かな黄色の車内灯が灯り、柔らかな光の球体を描いていた。車窓の窓枠は木造りだった。車内の床は、泥とワックスとが混じっていて、あたりには油のにおいが漂っている。本間はすぐに、ずいぶん古臭い電車だなぁ。それに、ほかに誰も乗って来ないじゃないか。車両には本間と老婆以外には誰も乗っていないことに気がついた。

間違って、回送電車にでも乗っちゃったのかなと思った。でも変だな、回送電車ならドアなんか開くはずないのに。

「あの、おばあさん、僕たち、またしても乗る電車、間違っちゃったみたいですよ」本間が老婆にこう言うと、老婆はやけに自信ありげに、

「この電車でいいんだよ。間違いないよ」と言う。老婆は、乗り込んだ電車が無人なことに全く気がついていないようだった。

本間は、慌てた。早く車掌に言って、降ろしてもらわないと。でも、もう遅かった。その古臭い電車は、静かに動き出していた。まあ、なんとかなるだろう。仕方ない。本間はあきらめた。どこ行きだか知らないが、このまま、おばあさんと一緒に乗ってみることにしよう。

「あの、おばあさん、おばあさんは赤羽に何の用で行くんですか?」

 本間は手持無沙汰ついでに、雑談のつもりでこう老婆に訊いた。

「僕はその、仕事の用事があって、行くところなんです」すると、老婆はこんなことを言った。

「何言ってんの、幸ちゃんは。お父さんの生まれたうちに行くんじゃないの」本間が顔を上げると、老婆は、姿はそのままだが、声は、いつの間にか中年女の張りのある声になっていた。

俺は夢でも見ているのか? 本間は、不思議な面持ちに襲われた。このおばあさん、やっぱり俺のことを幸ちゃんと呼んだよなあ、さっきは空耳かと思ったが……。

「幸ちゃん、あとふたつだよ」王子駅を出たところで、老婆は本間にこう言った。今度は、老婆は間違いなく、俺のことを幸ちゃんと呼んだ。

「え? 幸ちゃんって誰ですか?」本間は訊き返した。

「あら、何言ってんの、この子ったら、やだよう他人行儀で」今度は、はっきりと聞こえた。そして、本間は心の半分では気味悪くなったが、あと半分は、まるで言いようのない懐かしさに同質したような、自然な心地よさを感じた。車内に灯っていた、温かな黄色い車内灯の明かりは、優しく、車内いっぱいに広がって行った。

 やがて、本間と老婆が乗った電車は、赤羽駅のホームに入った。そして、そのころには、車内も駅舎も駅前も、いや、駅前に広がるこの街全体が、黄色い明かりに、温かくすっぽりと包み込まれていた。

幸太郎は半袖の白い開襟シャツに半ズボン、かあさんは白い絣の着物を着ている。季節も夏の盛りの盆を迎えている。幸太郎は、かあさんに手を引かれて電車から降りると、

「さあ、おとうさんの実家に行きましょう」と合図するかあさんに、

「おかあさん……」と、甘えた声で、ホームの売店で約束のお菓子をねだった。かあさんは、しかたがないわねぇと思いながら、キャラメルを一箱買って、わが子に与えた。

赤羽駅の駅前では、チンドン屋が商店街の宣伝をしていた。露天が出るビラを通行する人々に配っている。かあさんは、一枚、それをもらった。

どこからともなく、真夏の夕方の涼しい風が静かに吹き抜けた。その夕風に乗って、商店街の方から、惣菜や煎じたお茶の香りが漂って来る。それは、母と子を商店街へ誘うようだった。

 とうさんの生まれた料理屋は、線路沿いに歩道を行くのが近道だった。幸太郎がかあさんの手を引いて、そちらの方の歩道へ行こうとすると、かあさんは立ち止ったまま、行こうとしない。幸太郎の小さな手が、かあさんの手から解ける。

「こっちじゃないの? おかあさん」すると、かあさんは、

「今夜は露天も出るみたいだから、商店街の中を通って行きましょう」

 そう言って、幼いわが子の手を取って、涼しい夏の夕空の下、賑わう商店街を目指して歩き始めた。

高い空に、ポッカリと白い月が出ている。

「ほら、幸ちゃん。あんなところに月が見えますよ」

「うん、ほんとだね。きれいだなあ」かあさんにとって、幸太郎はわが子であり、幼き恋人だった。

 商店街に入ると、両側にはいろいろな店が軒を並べている。夏の夕暮れで、あたりはうす暗くなって来ていた。どの店も、天井からぶら下がった裸電球が、店の中を明るく照らし、その照明は店先にも柔らかな明りを届けていた。

かあさんと幸太郎は、夏の夕空の下で賑わう商店街の中を、いろいろな店先を覗きながら歩いた。駅前まで香りが漂って来ていた煎茶の店が、商店街に入ってすぐのところにあった。店の人が店先で、大きな釜で茶を焚いている。店の中に大きな茶箱がいくつも並んでいるのが、外から見えた。

「この香り、ほっとするね」と、静かにひと呼吸したかあさんが幸太郎に言うと、幸太郎はお茶を煎じる湯気の方を向いて、かあさんの真似をして、何回も思いっきり香りを吸ってみた。

それから、かあさんと幸太郎はボタン屋を覗いた。かあさんは、幸太郎に着せる縫いかけのシャツのボタンを探して、女店員と何やら話している。幸太郎は退屈そうにして、ボタン屋の店先で行き交う人々の流れをぼんやり眺めていた。

かあさんの用事が済んだので、今度は幸太郎がかあさんの手を引いて、おもちゃ屋に連れて行った。幸太郎はここぞとばかり、

「二丁拳銃が欲しいよぅ」とねだったが、かあさんは、

「もう少し大きくなってからね」と言う。

「大きくなってからって、じゃあ、いつ買ってくれるの?」かあさんは、少し困った顔をして、

「そうねえ、じゃあ来年になったら、幸ちゃんの誕生日に買ってあげましょう」と言って、宥めた。

 それから、なおも商店街を進んで行くと、やがて幸太郎とかあさんは、商店街が交差するところにある小さな広場に出た。

小さな広場には、露天が二つ、三つ出ていた。

お面屋があった。組み立てられた竹格子には、セルロイド製のいろいろなお面がいくつも飾ってある。

「ねえ、おかあさん、これいいなあ」と言って、幸太郎は月光仮面のお面を指差した。かあさんは、

「え? これ?」と囁いて、露天商のおじさんに、

「このお面、くださいな」月光仮面のお面を指差した。おじさんの顔が、暗闇の中からランタンの明りに照らし出されて、ぼうっと浮かび上がった。

「あいよ」お面を渡されたかあさんは、引きかえにガマ口からお金を出しておじさんに渡した。かあさんは、幸太郎に月光仮面を渡しながら、

「大事にするんですよ」と小声で言った。

それから少し行くと、黒山の人だかりに出くわした。大勢の人が何かを一心に見つめている。

「何だろうね、おかあさん。こっちこっち」幸太郎はかあさんの袖を引いて、人ごみの中にぐんぐん割り込んで入って行った。

だんだんと、なにか見えて来る。人ごみの中の真ん中ぐらいまで入って行ったところで、幸太郎の視界いっぱいに広がって見えたのは、間に合わせのように設えた、子供の膝ぐらいの高さの正方形の舞台だった。

それから、幸太郎はかあさんの手を引いて、舞台のすぐ前まで割り込んで入って行った。

見上げると、舞台の上にはランタンが四方に置かれていた。四方の中には、屋台が置かれていて、屋台の前に肌襦袢にステテコ、雪駄という勇ましい出で立ちのにいさんが立っている。にいさんの肌襦袢の隙間からは、極彩色の入れ墨が顔を覗かせている。

にいさんは、汗だくになって、熱で柔らかくした飴でいろいろなものを作っては、舞台の周りに集まった見物の人たちに披露している。

かあさんは、幸太郎の背中を自分のお腹にもたれさせて、両方の手を前に回して幸太郎を優しく抱いた。それから、しばらくの間、ふたりして舞台の上を見上げていた。

「飴細工っていうのよ」かあさんはしゃがんで、幸太郎の耳元でこう教えた。

「アメザイク? ふ~ん」幸太郎は感心して、

「粘土みたいなもん? じゃあ、何でも作れんの?」幸太郎が元気よくこう聞くと、その声は、舞台の上のにいさんにも、十分に聞こえたようだった。

「こいつぁなあ、粘土とは違うよ、そこの坊主。粘土は食えねえが、こいつは食えるんだぜ」と言った次の瞬間、

「さあさあ、いよいよ、出来上がりだよお」にいさんは、まだ少し熱い小鳥の腹に棒を下から刺して、最後の仕上げに、ちょんちょんとハサミを使って余計な飴を落とすと、

「よ~し、小鳥の完成だあッ」大声を張り上げて、夢中になって見入っているお客さん達の前に高く掲げて見せた。幸太郎には、それが夜空を飛ぶ鳥になった。飴の小鳥は、かあさんの後ろから眺めていたどこかのおじさんが買って行った。幸太郎の近くにいた知らない子供が、

「じゃあ、今度は、鶴を作ってよ」と、せがんだ。途端に、一斉に拍手が起きる。

「何? 鶴?」

「できないの?」

「てやんでぇ。お安い御用だよ。でも坊主、お代の方もお願えしやすぜ」どっと笑いが起こった。すっかり機嫌をよくしたにいさんは、幸太郎が聞いたこともない鼻歌を口ずさみながら、調子を合わせて飴とハサミを操り始めた。ヨイサ~、ヨイヨイ、ヨイショッと。すると、たちどころに、立派な鶴が出現した。最後の仕上げに、にいさんは、小鳥の時と同じように、鶴の腹に棒を刺して、広げた翼の形をハサミで整えた。そして、ひときわ大きな声を張り上げた。

「はあいッ出来ました、鶴の完成だあッ」にいさんは、出来上がった鶴をみんなの前で、夜空に向けて高く掲げた。幸太郎が、にいさんが天高く掲げた鶴をじっと見上げていると、鶴は夜空の果てを目指して羽ばたいて行った。鶴は、その子の母親がお代を払って買って行った。

幸太郎をお腹に抱いていたかあさんは、両手を幸太郎の両肩に優しく置いた。幸太郎はかあさんの両手の温もりを感じながら、鶴の飴細工を手に持ったその子と母親が暗闇に消えて行く後ろ姿を見送った。

幸太郎に見えるその子と母親は、まるで透明なガラス玉の中にいるようで、静かに消えていくように暗闇の中に吸い込まれて行った。

「あの子、いいなあ。……食べちゃうのかなあ、ねえ、おかあさん」

「鶴は縁起物だしね、しばらくは、うちのどこかに飾っておくのよ、きっとね」

露店を抜けて、賑やかな商店街が終わりかけたあたりには、右手に曲がると小学校の鉄の門があり、左手には暗黒の道があった。にぎやかさがまるで嘘のような、真っ黒な石炭の塊に似た漆黒の闇だ。

「さあ、もうすぐそこですよ」かあさんは幸太郎の手をしっかりと持って料理屋の土塀伝いに進み、表門の前を通り過ぎて敷地の角に来た。表門の前を通り過ぎた時、客の一行が入って行くのが見えた。何人もの仲居とおかみが出迎えている。あ、ばあちゃんだ。土塀伝いに行った先の角には吊り走馬灯が掛けられていて、夢のような明かりを灯し、ゆっくりと回りながら、金魚の影絵を映していた。幸太郎とかあさんは、ふと、夜空を見上げた。真夏の夜空には、小さく点滅する星がまばらに見えた。

気がつくと、本間は真冬の暗闇の中で、街灯の下にポツンと立ちつくしていた。街灯にからまった蜘蛛の巣はゆらゆらと揺れ、中では切れかかった蛍光灯が、点いたり消えたりをさびしく繰り返していた。

遠い昔にこの角地にあった屋敷跡には、灰色のコンクリートの建物が建っていた。いつからか、粉雪がしんしんと降っていた。粉雪は、本間のよれよれのコートを白く染めていった。本間は、離れた暗闇の中に、あの老婆の姿を認めた。

「あ、あのおばあさん……」本間は、小さく呟いた。老婆は振り返ると、皺だらけの顔を歪めて少しほほ笑んだ。そして何も言わず、やがて静かに降る暗闇の雪の中に消えて見えなくなった。


 粉雪は、やがて止んだ。本間は、コートの肩の粉雪を手で払ったが、今度は凍るような寒さが靴の底から上がって来た。こんなことなら、やっぱりハイヤーを出してもらうんだった。そう思いながら本間は狭い歩道をさらに北に進み、加納京子の宅を目指して歩いた。寒さは秒刻みで厳しくなってきた。薄ガラスのような氷が歩道のところどころにはり始めていた。気をつけないとツルっと後ろに転びそうだ。こんな姿、とてもじゃないが加納京子になんか見せられないな。

 行く手の方から、閉じた傘を手にした人影がこらちに進んで来る。本間はすぐに遠くにその存在を認めたが、向こうはなかなか気がつかない。 足元をよく見ながら小幅で進んで行くと、突如、暗闇の中から向こうの顔が浮き上がった。嫌な予感の通り、ぶつかりそうになった二人は、どうにかしてよけ合いながらすれ違うことになった。

すれ違うぎりぎりになって最初に声をかけたのは、向こうの方だった。

「あらまあ、本間さん? 本間さんじゃありません?」驚いて顔を上げた本間は、最初それが誰なのか、わからなかった。

「はあ、そうですが……」本間はマジマジと相手の顔を見た。

「加納です、加納京子ですよ」不意を突かれたような驚きだった。

「ああ、加納先生……」

「あらいやだわ、本間さんったら、先生だなんて。あたし、そこのコンビニで夜食を買うとこなんです」コンビニ? 気がつかなかったか。振り返ると、店内の蛍光の明かりが暗闇の狭い歩道にこぼれ、路面が光っている。

本間は、かろうじて平静を取り戻した。

「こんなところで、加納さんに出くわすとはねえ。お宅に向かっているところなんですよ。そう、お約束の原稿をね、いただこうとね、駅から歩いて来たところなんです」すると加納京子は、

「原稿? あの、何のことでしょう」

「またあ。先生の書かれた原稿ですよ」加納京子は、まだ、本間の言っていることがわからないらしい。

「今晩取りに来てくれって、社長に電話くれたでしょ?」それを聞いた加納京子は、すっかり困ってしまった。

「あたし、電話なんかしてませんけれど?」本間は背筋が凍りついた。

「社長に電話していない? そんなバカな!」すると、加納京子は訝しげな顔つきをして、

「原稿なら、あたし昨日のお昼ごろお伺いして本間さんに直接お届けしたじゃありませんか。でも、よかったですわ。なにしろ、昨日は一日晴天でしたのに、今日は昨日の天気予報通り、こんな悪天候になってしまったんですもの」そう言って、無邪気そうに少しほほ笑むと、コンビニへは向かわずに、そのまま暗闇の中に吸い込まれるように消えて行った。

「本間さん、本間さん」昼休み、ほとんど誰もいない営業室の小さな休憩スペースで、雑誌を顔の上に乗せてうたた寝しかけていたら、自分を呼ぶ声がした。誰かと思って上半身起き上がると、カウンターの向こうに加納京子が突っ立っている。本間はソファから起き上がりサンダルを突っかけると、カウンターまで行った。

「本間さん、原稿持って来ました。これ、ハイ」

「何? 原稿?」

「前にお話ししたこと、あったじゃないですか。ちょっと怖い童話を書くつもりだって。やっとできあがったの」

「ああ、これ」本間は思い出した。そう言えば、ずいぶん前にそんなこと言っていたかな。

「篠幡さんは? いらっしゃる?」篠幡が席にいないことぐらいすぐにわかるのに、加納京子は奥の方を眺めるように、カウンターから少し身を乗り出した。

「社長なら昼飯じゃないかな」篠幡はニ、三人連れて昼に出かけていた。もうずいぶん俺とは行ってないな。でも、それはそれで面倒だし、今の俺が一番気楽じゃないか。昔なら少しは社内で偉くなりたいという欲もあったが、ある時からはそれも消え失せ、今じゃ優しさと諦めとばかばかしさが、いっしょくたになっている。

昇華している。

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