アブノーマル
僕の毎日は、机に平積みされた書類のように粗雑で、平坦だった。
モニターに映る表計算ソフトを片手に、0から9の数字を一字一句間違えずに打ち込む毎日。
積みあがった請負いの事務作業に追われて、眠れない日もあるし。
頑張って頑張って仕事を片付けて残業しても、成果なんて殆ど認められないし。
だけど週末になると、そんな平坦な毎日のグラフィックがガラリと変わっているんだ。
小さい頃、初めて雪が積もっているのを見て、手袋も無いのに、冷たさにかじかむ手も気にしないで雪玉を作って無邪気に遊んだような、あのワクワクに似た物が、週末になると僕の心に押し寄せてくるんだ。
14、5歳の少女の時に普通はするものだと聞いていたけど、当時の僕には感じられなかった。
25歳にして初めての思い。
恥ずかしながら、僕にも出来たんだ。
勘の良い人なら、もう気付いてると思うけど。
出来たんだ。世間一般的な彼氏って奴が。
――――
窓の外を見れば、空が暗い。
腕時計に眼をやると、時刻は午後五時三十四分を指していた。
夏の盛りには、まだ明るかった夕暮れの日は、もうとっくに落ちてしまっていて、季節の変わり目は眼に見えるほど。秋の調べが、もう始まっていた事に気付く、週末の夜。
僕は、いつもの癖で残業しないように、定時までにキチッと仕事を終わらせて、まだ仕事の終わっていない同僚達に、先に帰る事を告げた。同僚達の恨めしい視線を後ろに浴びながら、高層ビルの地上三階にテナントを借りている、勤め先の会計事務所のエレベーターに飛び乗ると、地上一階に降りた。そして、どこか少女のように浮き足立つ心を沈めながら、そのフロアにいる誰よりも早く、玄関口まで足早に駆けていった。
建物の玄関口は、余計なスペースと思われるほど広い出入り口だった。
付近を見回すと、玄関口のガラス壁の先に、暗さの深まる遠い空を缶コーヒー片手に見つめている男を見つけた。
僕は、歩みを少し緩めて、入り口をそっと出ると、出入り口にある物影から、男の姿を覗いた。
「……また無意識に隠れてしまった。どうしよう」
待っている側の男からすれば、とても迷惑な話なのだが、僕は彼の姿を見ると無意識に身を隠してしまう。
彼が気付いていないのを良いことに、絶対安全な位置に逃げ込む。
メールで仕事が終わった事を教えようか、それとも電話で教えようか……ううん。
いつもそうだけど、僕から声をかけるのは、何だか恥ずかしい。
彼を見つけられなくて、探しているフリをして、見つけてもらうのが一番だ。
そう思った僕は、あえて男の視界に入るような位置に飛び出して、男を探すフリをした。
ゴトン、カン。
少し後ろで、空になった缶コーヒーが、ゴミ箱に投げ込まれる音が聞こえた。
そして直ぐ、探すフリをしていた僕の肩を、ぽんぽんと優しく二回叩く音がした。
「お疲れ様です。仕事、もう終わったんですか?」
男性にしてみれば少し高い、中性的な男の声。
僕が声のほうに振り向くと、いつの間にか顔は感情が抑えきれないにこやかな色を見せていた。
「ああ、ごめん。寒い中、待たせてしまって」
本当はもっと早く彼を見つけていたのに、僕は軽く嘘をついた。
「そんなに待ってないですよ。むしろ早いと思ってるぐらいです」
比較的新しいフォーマルスーツをぎこちなく着こなす、僕の背丈より顔一つ分ぐらい大きい程度の、これまた男性にしては低い身長の男こそ、今、僕が付き合っている人だ。
「そんなに早かったかな」
「ええと時間は……午後五時三十九分。退社時間としては新記録ですよ」
事務所を出てから約五分。休憩中の化粧直しも、昼食の時間もケチッて、仕事に精を出した結果、どうやら僕は自己新記録をたたき出したらしい。言われて気付いたが、確かに早い。彼が驚いた感じの顔をしているのも、納得できる話だ。
こんな僕と彼の関係は、少し特殊だ。
他会社の会計雑務をこなす会計事務所に勤める僕と、その会計事務所からの申告を受けて税を徴収する税務署に勤める彼。
今年四月の会合面談で出会ってから、彼の熱烈なアプローチもあり、小雨の降る五月に付き合って、もう五ヶ月が経った。
互いに多忙を極める職種なので忙しく、休日の関係もあり、携帯やメールを通した付き合いが多いので、週一度、週末の食事に行くことぐらいしか決まって会える機会は無いのだが、この付かず離れずの距離感、これが中々始まってみると楽しい。
そして、そんな楽しい週末は、僕のため息と、この台詞から始まる。
「はぁ……しかし君ね。毎度言ってることだが、気になる事がある」
「え?」
僕は、かけた眼鏡の位置を直しながら、やれやれと言った面持ちで彼のネクタイを指差す。
「……またネクタイ曲がってるぞ」
「えっ、またですか。おかしいなぁ。今日はバッチリ決めてきたはずなんですけど」
「そんなことはない。良く見てみろ」
「は、はい」
僕が念を押すようにもう一度首筋を指差すと、彼は慌てて首にかかったネクタイの結びを解き、そして結び直した。
「いくら今日オフだったからって、社会人一年目だろ。しっかりしろ」
「あっ、あれっ、おかしいなぁ。家を出る前は上手く出来たんですけど」
僕の前で、あたふたと慌てる彼の視線は、僕から離れて自分の指先に向かう。
眼鏡の奥の瞳を、再びヤレヤレと曇らせながら、僕は心の中で、焦る彼の一挙手一投足に微笑む。
「これでどうですか?」
「違う。まだ正面じゃない。もう一回、やり直し」
「は、はい」
だが、それはそれ。勤める職場こそ違うが、先輩社会人である僕は、入社一年目の彼に厳しい眼を光らせ、首に巻かれたネクタイが正しい位置になるまで、強い口調でやり直しをさせる。
「まったく、ネクタイ一つも結べないなんて、いったい大学で何を学んでたんだ」
「仕方ないじゃないですか、学校じゃネクタイの結び方なんて教えてもらえないし」
「グダグダ言ってないで、手、動かす!」
「は、はい!」
普通の恋人同士なら、注意こそすれ、正しいやり方まで結びなおさせるのは、異常だと思われるが、僕は一旦気になりだすと、それが直るまで気が収まらないタイプで、社会人一年目の彼に苦言を呈すことが多く、会う度にこんなことの繰り返しだ。でも、付き合い始めて、ほぼ確信している事実は、僕が、そんな彼にぞっこんだということだ。
外見は、世間一般で言う人受けが良いタイプ。
というと身びいきというか、褒めすぎのような気もするけど。ネクタイの位置のやり直しを命じても素直にやり直すところや、礼儀正しい態度、生真面目さを感じさせる清潔感のあるルックスを持つ、自分より二つ年下の男。女の初恋にしては、大分遅いかもしれないが、僕の初めての思いに応えられる相手だと思っている。
「これでどうですか!」
「何度言ったらわかるんだ。そうじゃない」
「え、えぇっ。もう、こうかなぁ」
「あーあ、慌てるからまた位置がズレる……しょうがないな」
自分の首周りの正位置を掴んで、ネクタイの位置を直せば良いのに、彼はいちいちネクタイを取り払って、襟首から結び直す。何度も彼が位置を間違えるのを見て、僕はたまらず手を出した。
「すいません……毎回毎回」
「ネクタイぐらいちゃんと付けられないと、社会人としてみっともないぞ」
僕は、乱れていた彼のネクタイを、キュッと強めに締めた。
苦笑いをしながら謝る彼が、とても可愛いと感じてしまうのは、僕らしくない感情だと思う。先輩社会人として、たしなめるような強い口調で言うものの、僕の頭は週末のこれからを想像して、わくわくを感じてしまう。チラッと彼の視線を感じるたびに胸が高鳴るのは、おかしいなと自分でも思う。
職場では「雪女みたい」なんて陰口を叩かれてしまうような、感情を表に出すのが苦手な僕が、目の前のちょっとオッチョコチョイな男性と、今付き合っている状態だと考えると、何か変な感じがするなあ。
あ、もしかして変な勘違いしてる人が居るかもしれないけど、僕はれっきとした女だよ。僕っていうのは、昔からの口癖。兄弟が全員男でね。学者肌の父が教え込んだのかは知らないけど、皆、一人称が「ボク」だった。
その口癖が、僕にも伝染っちゃったんだよ。
数少ない付き合いのある同性の人からは、男を尻に敷くタイプ、なんて平然と言われてるけど、僕はそんな事一度だって意識したことはない。第一ああいうタイプが苦手なんだよね。男の子の気を惹こうとして強気で勝気で粗野なふりして……実際ぶりっ子。男にもたれかかって、甘えて、自分を研磨する事が出来ないなんて、精神的にダメな証拠だね。
さてさて、僕の脳内の話がズレたところで、彼が話しかけてきたよ。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか、真央さん」
「え?あ、ああ。じゃあ行こうか、中島君」
「……まだ俺の事、名前で呼んでくれないんですね」
「そりゃそうだろう。僕が君を名前で呼ぶなんて、その、なんだ。その、あの」
僕は周囲に誰か居ないか見回しながら、思わず口ごもった。
周囲は、これから騒がしい週末の夜を迎えようとしているのに閑散として、誰も居なかった。でも、僕の口は思うようにハッキリ動かない。別に誰が聞いてるわけじゃないのに、その一言が詰まる。
「理由、聞きたいです」
こういう時、真顔で質問してくる彼は、世界中で息をしている誰よりも意地悪だと感じる。
僕は顔の熱が段々上がっていくのを肌で感じて、頬の紅潮が彼にバレないように、アスファルトの見える下を俯きながら、彼の耳に聞こえるか聞こえないか、そのぐらいの小さい声で、答えを言った。
「……だ、だって、いい年した男女が名前で呼び合うなんて……はっ、はっ、は、恥ずかしいじゃないかっ」
振り絞った勇気のある小さな発言が、僕の頬を再加熱させる。
「真央さんが、そういうなら仕方ないですね」
でも、帰ってきた彼の言葉は、僕の勇気に比べて意外と簡素なものだった。
僕は、残念そうな顔をする彼に一つ仕返しをしてやろうと、逆に質問した。
「第一、なんで君が僕の事を名前で呼ぶんだ。他の人が聞いたら、どう思うか考えたことはないのか?」
「どうって……俺たち、もしかして、まだ恋人同士じゃないんですか?」
「い、いや、実際そうだが。そうなんだがっ。その、なんだ……世間体というか、TPOというものがあるだろう!」
「真央さんって、変な事気にしますよね。普通の子と違って」
痛いところを突かれた。
先ほどまで上がっていた頬の熱が少し冷める。
彼の言葉に、そうだよな、と何処か納得してしまう。この歳になるまで恋愛感情が沸かなかったなんて、僕は普通の子じゃないよな。というより、経験が無いから、彼の言う普通がわからないってのも、あると思うんだけど。
でも、変わらない事実。
彼は僕にとって、一人目だけど。
僕は彼にとって、一人目じゃないんだ。
そう思うと、高ぶっていた感情が反転して、どうもいつもの悪い癖を出させてしまう。
「前に君に言ったと思うが、僕は恋人という概念に慣れてないんだ。だからどういうのが恋人なのか、君の言う普通が何なのか、正直わからない。もしそういうところで気に入らないところがあって、僕と付き合うのが苦痛なら、遠慮なく言ってくれ……辛い事だけど、僕は君と別れる覚悟も……」
そこまで言って、また口が詰まる。
この、ひどく後ろ向きな恋愛観が、我ながら嫌になる。
普通じゃない僕が誰かと付き合うことで傷つく事も、付き合う彼を傷つける事も怖いから。感情よりも先に、言葉が自己防衛に走ってしまう。普段、思っても口に出さない余計な一言を、素直に言ってしまう悪い癖。彼のいう普通の人が聞いたら、とても気持ちの悪い女なんだろうな。駄目だ、僕は、やっぱり普通の恋愛なんて向いてない。
「そういう真央さんのユニークなところ。俺は好きですよ」
「えっ」
気付けば僕の手は彼に握られて、僕の手を伴う彼の手は、すっかり熱を失った僕の頬にピタりと優しく置かれていた。僕が驚いて顔を上げると、彼は照れくさそうにもう一方の手で自分の頬を掻きながら、視線を明後日の方向に向けていた。
「じゃあ行きましょうか。予約は七時なんで、急がないと」
「えっ、えっ」
こういう時、僕の悪い癖を上手くかわす彼は、世界中で息をしている誰よりもズルイと思う。でも、同時に世界中で息をしている誰よりも優しいと思ってしまう。
アレやコレや、僕が色んな事を考えて、一人で落ち込む悪い癖を遮るように、彼の柔らかな語調と似合わない強引な言葉と供に、僕の手と心はすっかり攫われていた。会った時は頼りなく乱れていた彼のネクタイは、まだ乱れずに、きちんと結ばれていた。
僕、戸波真央の楽しい週末が始まる。
――――
「……いらっしゃいませ、お客様。お飲み物は何に致しましょうか」
僕たちが訪れたのは、三ツ星レストラン……と言うには、余りにも貧相な多国籍料理屋だった。薄暗い照明、妖しげな彫像、曰くありげな壁紙、やけに生気に乏しい店員の顔。雰囲気としては、完璧にホラー映画の世界だ。
しかも、いわゆるエンターテイメント性に溢れる工夫に満ちたプロデュースによって出来た、面白みのあるスリルレストランの類ではなく、いつそこに霊的なものが居ても、誰もおかしいと思わない完全な『スポット』だ。自分達の愛を説き、自分達の恋を語るような普通のカップルなら、怖いもの見たさの好奇心で入る者は居れど、禍々しい内装と生気の無い店員たちを見て逃げ出し、絶対に来店しようとは思わない店。
だけど僕らは、ここが気に入っている。
何故? と聞かれれば、答えは簡単だ。
自分勝手に騒がしく恋を語り、自分本位に姦しく愛を説く、そういった目障りな客が居ないからだ。
「今日は奮発してモンラッシェを頼むよ」
「……かしこまりました。では運び次第、コースを始めさせていただきます」
いつも通り、生気を失った青ざめた顔と、何処を見ているのかわからない虚ろな眼、高い背が特徴的なフランケンシュタインのようなソムリエ兼ウェイターが、ヨタヨタと厨房にコース料理開始の報告をすると、次は地下にあるワインカーゴのほうへ向かう。
「いつ来ても変な店ですよね。そうは思いませんか?」
「あ、ああ。うん、そうだね」
付き合いだしてからもう八回は通ってるであろう馴染みの店を、変な店とテーブルについてから言う彼の気持ちはわからないが、僕が気になっているのは別の事だった。
それは、彼の頼んだワインの事。
何度も食事を重ねるうちに、僕が赤ワインを嫌いなのを彼が知っていたとしても、まさか白ワインの中でも最高級のモンラッシェを頼むとは思わなかった。ボーナスが出るには時期外れだし、何か特殊な臨時収入でもあったのだろうか。僕は、他人の財布事情の話をするなんて卑しいと思いながら、それでもちょっと心配気味に聞いてみた。
「それにしても、モンラッシェなんて大丈夫なのかい? いくらこの店が良心的な価格で物を出しているとはいえ、最安値でも一本三十万以上するじゃないか。給料日まで日も遠いのに、どうして?」
「そりゃ真央さんの特別な週末のために」
にこやかに笑みを浮かべながら放たれる彼の言葉は、まるで魔法だ。
「え。そっ、そ、それってどういう」
こんなにも簡単に僕の心に動揺を与え、こんなにも簡単に僕に恋愛感情の火照りを覚えさせる。
「……なーんて。俺にそんなキザな台詞、似合わないですよね」
なんだブラフか。と、残念がる僕の心は、それでも格好つけられないところを正直に言える彼の純粋さに惚れていた。彼が何をやっても好意的に思えるほど、僕の心は恋に盲目になっていた。
そんな僕を尻目に、彼がワインの話を続ける。
「白状すると、モンラッシェにも種類があるんですよ」
「種類?」
「バタール・モンラッシェ。味はなかなかなんですが、価格は本家モンラッシェの十分の一です」
「へえ、そんなワインがあるのかい。知らなかったな」
「真央さん色々と博識なのに、ワインには疎いんですね」
「僕はワイン、余り好きじゃないからね。お酒だって、そこらで売ってる廉価な軽いので事足りたし、会社の付き合いで飲むことも元々得意じゃなかったから」
「何言ってるんですか、俺と飲む時、真央さん結構な量飲んでますよ」
「君と付き合うようになってからだよ。こんな風に誰かと一緒に、楽しく食べて飲むようになったのは……」
「真央さんにそういってもらえると嬉しいです。俺も、真央さんと、こうやって一緒に食事するのは楽しいですよ」
「おっ、お世辞はやめてくれよ。似合わないぞ、そういうの」
「俺がそう思ってることぐらい、素直に受け取ってくださいよ。なんだか俺が真央さんに信頼されてないみたいじゃないですか」
「ごめん。そんなつもりじゃないんだが……」
「というより、真央さん自身はどうなんです?」
「どうって?」
「俺と付き合ってること。どう思ってるか聞きたいと思ってたんですよ」
「えっ、ええっ!?」
思わず変な声が出る。
まだ一滴もアルコールは入っていないはずなのに、こんな核心めいた事を聞かれるなんて、僕は思っていなかった。彼は卑怯だ。答えを知っているのに、言わせようとする。しかも、僕はそれを言えない事も知りながら。
「俺は真央さんの事好きだって言ってるのに、真央さんは答えてくれない。本当のところ、どう思ってるんですか。真央さん」
「え、あっ、ええーっと」
誰か助けてくれ。
店内の薄暗い照明を追って、何か他の話題はと考える、僕の思惑を置き去りにして、パサつき始めた唇あたりを直視する彼の視線は、僕の口を強張らせて、思考を詰まらせる。
好きだよ。どうしようもないぐらいに君の事。
なんて、僕みたいな恋愛初心者が、そんなこと言えるわけないじゃないか。
生真面目な君の心が裸になったからって、僕の心が裸になれるわけじゃないんだぞ。
どうしよう、どう答えよう、と思えば思うほど、頬の火照りと焦りばかりが顔に浮かぶ。
落ち着き払ったような態度を見せる彼が恨めしい。こんな時、空白の時間を潰せる煙草が吸えれば良かったと思う。でも、それは彼も同じだ。だから、僕の答えを待つ、手持ち無沙汰な彼は、ふてぶてしく「早く早く」と催促するようにも感じる。
それは、素敵な一夜の思い出と、欠けた一足のガラスの靴を頼りに、王子がシンデレラを探し出す時に執着した時の気持ちに似たようなものだろう。
そんな気持ちを僕が知っていても、僕には彼が望む「好き」の一言が言えない。
この緊張に強張った薄ピンクの唇に勇気を出して言ってしまえたら、羞恥心という重い心の十二単が脱げたら、彼も僕もいっそ楽なんだろうけど、それは出来ない……どうしても出来ない。
僕が好きの一言を言ったら、彼も僕も互いに互いを依存し始めてしまって、きっとこの不思議な距離が保てなくなる。二人を隔てる壁を乗り越えた先に見える、小さくて、貧相で、醜くて、そんな本当の自分を晒した時、きっと相手を傷付けてしまう。それが怖い。
楽しい楽しい、王子様とのダンスをずっと続けたいと思えば思うほど、シンデレラは真夜中の時計を気にするんだ。
男女の付き合いには、自分に都合の良すぎる言い訳だと思うけど、これが僕という女で、人間なんだ。
でも、魔女と約束した十二時の鐘のなる前に、僕にかけられた魔法は解けてしまった。
「……お待たせいたしました。クリオ・バタール・モンラッシェ95年物でございます」
妖しい店内の照明に大きな影をつくるように現れたのは、魔女ではなくフランケンシュタインだった。
先ほどまで地下のワインカーゴに居たはずのソムリエ兼ウェイターが戻ってきた。彼が運んできた滑車のついた鉄製の配膳台には、いかにもオカルトなドドメ色のテーブルクロスが敷かれ、その上にはラタン(藤)を編んで籠上になったワインバスケット。その中に丁寧に包まれた一本の白ワインのボトルが、品質を壊さないようにある程度の角度をつけて、存在していた。
背丈や顔は、とても異質なものを感じるものの、ワインを扱うソムリエとしての店員の手際は良く、目の前に座る彼が、僕に今一度催促の口を出す前に、テーブルには二つの幅広なグラスが、そっと置かれていた。
いつもは気味の悪い奴だと少なからず感じていた、フランケンシュタインのような風貌を持つ店員に、今日ほど感謝した日はないだろう。もしかしたら僕の心の悲鳴が、このオカルトな料理屋の雰囲気に伝わって、フランケンシュタインに伝わったのかもしれない。
どちらにせよ、危機一髪のところで助けてくれたことは、感謝しなければならないだろう。
普通のカップルにとっては、チャンスなんだろうけど。
――――
「前に話した直属の上司が転勤で……」
「配属が変わりそうなんですよ……」
「最近こういう歌が流行ってて……」
「あ、何か頼みます?」
「ほら、真央さん。せっかくだから、もっと飲んでくださいよ」
ぎこちなく乾杯をした後。
まるで何もなかったような、極々一般的な普通の談笑が続いた。
彼がタイミングを見計らって喋るたびに、僕も慌てて返答するものの、口を開いて話す内容といえば会社の愚痴や、趣味の話。後は、彼なりの僕への気遣いと気配りぐらい。普通の恋人同士なら、愛や恋について語り合い、二人のこれからを考えたりするのではないかと予想しているが、僕はそんな普通のことも出来ない。だから僕が乗り気じゃない事を察した彼が、もうその話題に触れたくないようにも思えた。
「で、こういう面白い奴が職場にいて……」
「ああ、そうなんだ。うん。うん。」
彼を傷付けてしまった。と、意識してしまったら、運ばれてくる料理の味も、彼との会話も、殆ど上の空になってしまう。駄目だこれじゃ、二人が恋人同士なんて、絶対に思われない。
二人の会話が、きっと普通の恋人同士のそれじゃないと気付くと、いつの間にか僕は焦りを感じていた。
僕が普通でいようとする事を、意識しすぎなんだろうか。
確かに二人の会話自体は順調に進むのだが、何故だか僕と彼の合間には、恋愛に関しての話題が一切でなくなった。まるでタブー、禁忌の言葉のように、愛について眼に見えない一線のラインが引かれ、進入不可能な壁が出来ていた。
「真央さん、長期休暇がとれたら何処か行きましょうよ」
「あ、ああ。そうだな」
きっと僕が悪い。
せっかく彼が「好き」と言える状態をつくってくれたのに、それをYESともNOとも答えず、時間に身を任せて黙って、結果無碍に断ったのと同じだ。
「この季節は、やっぱり山ですかね。京都の山はまだ秋の色が残っているらしいですよ」
「うん、それ、いいかもね」
口では彼の話に乗っているような素振りをして、僕の心では違う事を考えている。
僕は何をやっているんだ。
こうやって話題を変えて、僕の顔色を気にして会話を弾ませようとしてくれる彼に対して、心の奥底に眠る、素直な好きの一言も言えないでいるなんて、僕の事を好きだと言ってくれた彼に対して、誠意の欠片もないじゃないか。こういう時、テレビドラマで、小説で、現実で、男女二人の普通の恋人たちが言う、嘘も実も含んだ意味のない「好き」が、とても羨ましいと思ってしまう。
「真央さん、それでね僕の配属先が」
「……あ、ごめん、ちょっとトイレ」
にこやかに会話を続けようとする彼に対して、何だか僕はその場所に居たたまれない気持ちになって、その気も無いのにトイレに逃げ出した。
「卑怯で、嫌な奴」
手洗い場、誰かに聞こえないようにバルブを捻って水を流しながら、鏡の前で自分の顔を見て、一言呟く。
ゴボゴボと排水管に水が吸い込まれる音を聞きながら、僕は少し勇気を出してみた。
「……う……い」
このままでは駄目だと、鏡に向かって「好き」と言う練習をし始めた。
彼が目の前に居ると想像して、自分なりに音を出そうと頑張る。硬直する顔と、震える唇を鏡で覗きながら、口をつぼめる形を作り、歯を上下ぴったりとつけて息を吐く。
「すー」
練習三回目、案外たやすく、すの音は出た。続けて、そのまま口を広げ、喉に力を入れ
「きぃ……」
目の前に相手が居ると想像して、緊張しているためか、意識してやってるわけではないのに、漏れる音はやけに色っぽかった。全てが言い終わるまでにかかった時間は三秒間。後はこの間隔を縮めれば良い。そうすれば、それが愛の言霊となるはずだ。
「すっ、きっ」
言葉じゃないと意識して、音と音をつなげれば良い、簡単なことだ。
「す、き」
眼鏡を外して視界を曇らせて、練習すること四十七回目。よし、もう少しで出来そうだ。
「すっ……すきっ!」
出来た。出来るじゃないか。よし、これだ。この間隔なら、十分伝わるだろう。
これが今の僕の唇から出せる、彼への誠意の答え、最大限の愛情表現だ。
年甲斐もなく鏡の前で小さくガッツポーズをしながら、手元に置いていた眼鏡をかけなおすと、視界がくっきりと見えてくる。
「すき!」
もう一度、鏡の前で二つの音を縮めて出す。
「す」と「き」、その口の形を少し変えるだけで出しやすい連続音を、自分の耳で聞きながら、つくづく日本語を使える日本人でよかったと思った。だって愛を囁くとき、英語なら舌をくねらせて「アイラブユー」だし、フランス語なら滑らかに「ジュテーム」、中国語なら口を広げて「ウォーアイニィー」、ドイツ語なら力強く「イッヒビンダイン」、どれも音を縮めて言えそうな言葉じゃない。
「すき」という言いやすい音の連続だから、普通の人は軽々と言ってしまうのかもしれない。と、僕は日本語のトリックに少し面白みを感じながら、小さな勇気を抱えてトイレを出た。
「あ、真央さんそろそろメインディッシュですよ」
「え、あ、う、うん」
テーブル席に帰ってきた僕に、にこにこと子どものように食欲をときめかせ、次の料理を待つ彼の顔があった。
僕は席につくと、眼鏡を一度直し、ついに彼に声をかける。
「ねえ中島くん」
「はい?」
「すっ……すーっ……すくぅ……すぅぃ……」
「すぅい?」
ああ、だめだ。無邪気に返答を待つ、この顔と、この声。席につく僕の体は、彼の声に疑問が含むたびに石のように硬くなり、鏡の前で手に入れた小さな勇気は音をたてて崩れ去って、その瞬間全てが、緊張に変わった。また僕は魔法にかけられてしまったのだ。でもこんな所で負けてたまるか、僕は、最期の勇気を振り絞った。
「すぅぃーきっ!」
「え?」
ついに僕の思いが言葉に乗って通じたか、彼は不思議そうな顔をしながらも、僕を見つめ返す。
そして、恥ずかしさの余り物凄く赤面した僕に対し、彼はにこやかに言った。
「ああ、なんだ。そんなこと心配してたんですか。安心してください。メインディッシュは真央さんの好きな、ステーキですよ」
「!?」
ちゃんと発音しなかった僕も悪いが、こんな展開は予想していなかった。もう嫌だ、二度と言うものか。
確かに前から天然みたいなところはあったけど、普段の君なら気付くところだろ、そこ。変な時に気を回して、僕の一大決心を無にしないでくれよ。それに、僕の大好物は牛肉のステーキじゃなくて、鶏の手羽先の照り焼きだ。
「さっ、来ましたよ。ステーキ」
「あ、ああ。うん」
メインディッシュの皿が来て、彼は会話をしながら、黙々と肉を口に運び、嬉しそうに頬張り続けた。なんだ、自分が好きな料理なんじゃないか、と思いながら、僕は決心が伝わらなかった切ない気持ちが一杯になった胸を抑え、黙々と食べ始めた。
その後も彼との会話で、何度も「すき」と言うチャンスはあったのだが、さっき勇気を振り絞って出した台詞のせいか、心が消耗して勇気が出ない。
もう、心の中で今日は出来ない、と最初から決め付けて、出来ないから仕方が無い、と思ってる節さえ出てきた。
上手く言えないのが憎たらしい。そんな浮ついた気持ちは、僕の心を俯かせ、料理の感想も、彼との会話も、記憶にとどめることは出来なかった。
僕が食事の中で記憶していたのは、彼の配属先が変わるという事と、デザートが少し苦味のあるティラミスだったことぐらいだ。
――――
「……またのご来店をお待ちしております」
フランケンシュタインに見送られながら、僕たちは店を出た。
時計を見れば、時刻は午後九時三十七分を指していた。
帰る先は、首都圏にある社宅と、女性一人でも住める防犯意識が行き届いた郊外のマンション。互いに一人暮らししている僕たちの住む場所は、まったくの逆方向なのだが、帰る駅は同じ、使う路線も同じだった。駅まで十分程度の短い道のりを、会話を続けながら僕らは歩く。
しかし、まだ、僕は彼に「すき」を言えないでいる。
「真央さん、そろそろ駅ですよ」
「あ、ああ」
気付けば言葉の後に、もうついてしまったか、と付きそうなぐらい自然に残念そうな表情をしていた。
色々思うところはあったが、結局彼との時間は楽しかったのだ。それだけに、彼の「好き」に「すき」と応えられない自分の不甲斐なさに少し落ち込む。
でも、まだ日にちはある。今日、「すき」と言えなくても、来週。来週、「すき」と言えなくても、再来週。彼と僕が、恋人であり、普通に生きている限り、言うチャンスは幾らでもある。だから別に、今日言わなくても良いんだ。いつか言えばいい。そうだ、そうなんだ。もしかしたら、彼の言葉一つで、何もこんなに緊張することもなかったのかも知れない。
そう思うと、いくらか僕の気持ちにも余裕が生まれてくるものだ。
緊張の解れが、楽しい時間を少しでも楽しもうという素直さを引き出してくれる。
「帰りの電車まで、少し時間があるな。なあ、中島君、その……なんだ……電車一本遅らせてくれないか?」
「別に僕は近いから良いですけど、どうしたんですか?」
「もう少し、落ち着いて君と話をしたいなと思って」
「わかりました。僕も、もうちょっと真央さんと話したいなと思ってたんですよ」
不思議な距離感のある二人の関係が、やっと同じ位置に戻った感じだ。
僕たちは人ごみを避け、線路沿いにある駅近くのシャッターの閉まった菓子商店の前で話すことにした。
ゴトン
「このメーカーのミルクティー、真央さん好きでしたよね」
「ああ、そうそう。これのホットが、この秋口には一番だよ」
僕は彼の手に二本抱えられたプルタブ式のスチール缶に入ったホットミルクティーを、地肌では火傷してしまうからと、スーツの両手の袖を伸ばして、まるで殿様から大層な褒美でも貰うように受け取った。受け取った時、彼は僕を見て笑った。僕の何が面白かったのか、理解はできなかったが、彼の微笑を引き出すに値する事を僕はやったらしい。こういう小さな事に笑っている彼の顔を見るたび、僕は安心してしまう。
辺りには涼しいというより、少し寒い風がふいていた。彼と僕の口からは、喋るたびに白い息が出ているのが見える。袖で持ったホットミルクティーを体で包むように抱えながら、飲む適温になるまで待っていた僕の隣で、パカンっと缶のプルタブを空ける音がする。
「やっぱり俺には大分甘い味です、これ」
「そうかい?」
前に聞いた話だが、彼は甘い物は余り得意ではないらしい。随時飲むものはコーヒーだし、洋菓子と一緒にコーヒーを飲むのは邪道だと言い切る、硬派なコーヒー党でもある彼の、ゴクリと喉のなる音を近くで聞きながら、僕もプルタブを空ける。
袖で器用に缶を傾けて、ゴクッと、一口飲んでみる。
暖かい液体が、食道を通って胃に染み渡る前に、甘ったるくて、充足を促す匂いが、僕の鼻腔をつつき、立ち昇る暖かい空気が、僕の眼鏡を少し曇らす。
「ふー、落ち着く。最後のティラミスがちょっと苦かったから、僕には丁度良いよ」
「それは良かった。真央さん食事してるとき、なんだか思い詰めてたみたいだから」
「そ、そんなこと」
「またまた。僕にはわかりますよ。真央さん、何かを言おうとして迷ってた」
ギクりと僕の胸を射す彼の勘の鋭さ。僕の態度がわかりやすかったのかもしれないが、おそらく同姓なら、彼の勘は相当鋭いほうじゃないんだろうか。こんな普通じゃない僕の行動や仕草を、ここまで理解しているのも、凄いことだと思う。
しかし何故、その鋭さを、僕が食事の時に言った一言に生かせなかったのか。
僕は、今じゃないだろ、と言いそうになってしまった気持ちを、熱いミルクティーを含んで濁す。
「無理して言わなくてもいいですよ。俺だって、真央さんに隠してる事ありますから」
「いや、だから。君が推測している何かを言おうなんて、僕はしてないよ」
僕は嘘をつき、突かれた真実の隠蔽に奔走した。
それまで商店のシャッターを背中に、正面を向きながら喋っていた僕だが、弁解の真実味を増すために、横にいる彼の顔を見て話そうとして振り返ると、なぜか彼はいつになく切ない顔していた。
「そうですか。じゃあ俺の勘違いですね。真央さんに隠し事があったら、俺の隠し事も言おうと思ってたのに」
「僕は君に隠し事をするわけないじゃないか。……でも、気になるな。なんだい、その君の隠し事って」
嘘で固めた自分の気持ちの隠蔽にばかり気がいってしまっていたが、彼の言う隠し事に興味がわいた僕は、思い切って彼に尋ねる。彼は、缶に入った甘いミルクティーをグイッと飲むと、自販機の横に設置してあるゴミ箱に空になった缶を投入した。
「僕の隠し事。そんなに知りたいですか?」
「あ、ああ。出来るなら知りたいね」
それまでにこやかだった彼の目じりと眉、そして唇が、妙に強張るのが見えた。
何を言うつもりなんだろうか。
「俺が何を言っても、後悔しませんね。真央さん」
「あ、ああ」
僕の前に一歩彼が進むだけで、伝わってくる雰囲気の違い。
真面目なのは知っているが、この真剣さはなんだ。いつもと違う彼の気迫は、僕の心を動揺させる。
「俺と真央さんが付き合って五ヶ月たちましたよね」
「う、うん」
「俺は真央さんにとって、恋人ですよね」
「ああ、そうだ」
「俺は真央さんにとって、かけがえの無い人ですよね」
「えっ、あ、う、うん。たぶん、そうだと思う」
言い切れない、たぶんという僕の声を聞いた彼は、何かが吹っ切れたように言う。
「たぶんじゃ駄目だ! たぶんじゃ嫌だ!」
僕は、その声に驚いた。
彼がこんなに声を張り上げたのは、付き合って初めてだ。
子どものように純粋な、理性で感情を抑えることが出来ない声。何かを得ようと、駄々をこねるというわけじゃないが、それに近い思いは、声の強さに伝わって、僕の心と耳を刺激する。
「俺は真央さんの事をかけがえのない人だと思っているから、真央さんも俺のことをかけがえのない人と思ってくれないと、俺は……俺は、心配なんです!」
「お、落ち着いてくれ中島君。冷静に、冷静に」
なだめようとする僕の声は、すでに彼に届いているのかわからなかった。
そして彼は、眼鏡の奥の僕の黒い瞳を直視しながら、強く言った。
「……あと三日もすれば、真央さんと会えない、遠くに行っちゃうんですよ、俺は!」
ガッシャァァン!
僕の背にあった商店のシャッターが大きな音をたてて揺れる。
その原因は、彼が僕を逃がさないように両手をシャッターに思い切り突き立てたからだ。
僕を覗く彼の姿に、普段の生真面目で好感の持てる、にこやかな微笑みなどない。あるのは、何かしら必死さを思わせる、焦燥というべき焦りの感情が爆発したものだった。
しかし、僕には彼が焦りを示す理由、それが何だかわからなかった。
怒ったような、悲しいような、切ない表情を浮かべる彼にそれを質問するのはどうかと思ったが、こうなっては仕方がない。僕も聞きたいことは、全部聞こう。
「な、中島君。遠くに行くって、どういうこと?」
「食事の時言ったでしょ、俺の配属先が変わったって」
「言ってたけど……」
「直属の上司が馬鹿やらかして、その部下の俺が署内での居所が無くなって、配属先、遠くになっちゃったんですよ」
「ち、ちなみにそこは何処なんだ?」
「北の北です……ここから新幹線で片道三時間。しかも主要駅から交通整備の状況が悪くて、殆ど陸の孤島って場所ですよ……」
「なんだって、それじゃあ」
僕が言う前より早く、彼のほうが痺れを切らしていた。
「だから真央さんから聞きたいんです! 俺をどう思ってるか、どう思われてるのか! このまま付き合って良いのか、悪いのか! 真央さんの顔で、真央さんの声で、真央さんの素直な心で聞きたいんですよ!」
「そんなこと言われたって……僕は」
普通の恋愛なんてしたことない僕が、そんな突然に、滑るように愛の言葉を言えるわけないじゃないか。
僕にもあった、この付かず離れずの不思議な距離感を保つ関係に抱く、確かな不安は、彼にもあったという事実が、僕の心を揺さぶる。しかし、彼の現実は待ってくれない。だから彼も微笑みの裏で、確認するために焦っていたのだ。それが示せる時間が今日だけであり、今この瞬間しかチャンスが無いことが、僕には急すぎて信じられなかった。
「もう待てないんです! 俺はもう真央さんが言うのを、待てないんです!」
「……」
ここまで言われても、僕は眼をそむけてしまう。
しかし、もう僕が逃げこめる場所と時間はない。
彼の真剣さに対して僕が黙ったり、何処かへ逃げ込んだり、誠意もなく曖昧に応えたら、それこそきっと、彼は気を使って僕の手から離れてしまう。実際距離は届くかもしれないが、心の距離は永遠に、永遠に届かなくなる。
これが、最期なんだ。
これが、本当に最期なんだ。
何度も自己暗示をかけて自分を追い込み、彼を目の前にして、たった一言を言い切る勇気をひねり出す。
「真央さん……」
吐息を潰したような、切ない篭った声が、シャッターに手をつきながら、俯く彼の口から小さく放たれた。
刻一刻と流れる僕と過ごす夜の時間は、彼にとって焦りを増徴させる止め処ない麻薬のようなもの。
彼の感情の爆発が引き、僕と彼の心の距離が永遠に開くまで、もう時間は無い。
物語のシンデレラと同じ、十二時の鐘が鳴れば、僕らの魔法はとけるのだ。
その鐘を鳴らすのは、誰でもない。
僕だ。
「すっ……ぃ……」
それでもまだ、僕の思いは口を伝わってでない。
僕は不甲斐ない自分を呪った。そして自分の体に鞭を入れるように、自分の心にキツイ言葉を投げつけた。
洗面台の鏡の前で練習したことなど忘れろ。頬の火照りを感じさせる羞恥心など捨てるんだ。
音をつめて、そう聞こえるようにした偽物の言葉と、誰かが聞いてると思ってすぼめた感情なんかじゃ、真剣な彼に伝わるはずが無い。
言うんだ、僕は、彼に。
たった二つの音で伝えられる、思っている事を。
「すっ……」
「真央さん、すいませんでした。もう、やめます俺。これ以上やったら無理矢理言わせてるのと同じです。真央さんを苦しめたら元も子もない」
僕が言うよりも早く、俯く彼が乾いた微笑みを僕に当てた。そして、商店のシャッターに突っ張った自分の手をどけると、彼は申し訳なさそうに振り返り、寂しそうに小さくなった背を僕に見せる。
鐘は鳴ってしまった。魔法は解けた。
シンデレラは、ガラスの靴も残さず、僕の前から去ろうとしていた。
「はは、じゃあ。今日はこの辺で。真央さん、このごろ寒いですから。風邪なんかひかないでくださいよ」
彼が行ってしまう。遠くへ。
「ああ、そうそう。僕の送別の時間はメール送りますけど、無理しなくていいですよ」
嫌だ。行かせるものか。
「じゃあ、さようなら……」
それまで知らなかった感情を僕に初めて教えてくれた人は、君以外に居ない。
これからも、居ない気がする。
いや、居ないんだ!
「えっ?」
彼を失う寂しさとか、消失感とか、そんな何かを考える前に、体が彼を追いかけていた。
足早に走る手には、すっかり冷え切ったミルクティーと、彼の手首がガッシリとつかまれていた。
僕は、もう何処にも逃げない。
「僕は……誰よりも君のことが好きだッ!!」
彼は僕の言葉に振り返った。
その顔は二十歳を超えたというのに、年甲斐もなくボロボロと泣いていた。
線路の奥から電車が猛スピードで過ぎ、爆音めいた音と振動が辺りには鳴り響いた。
だが、僕の言葉は確実に、彼に伝わった。
――――
「真央さん次の電車が来るまで、後三十分もありますよ」
「今日は新記録続きだな」
「新記録? ああ、退社時間のことですか」
「退社時間と、電車を使って帰る時間、そして君と会っている時間も、新記録だ」
場所を変え、すっかり閑散となった駅のホームのベンチに座る二人。
気持ちの告白は、僕の心を魔法のように取り替えた。それまで恥ずかしくていえなかったことも、スラスラ出てくるようになり、やっと二人は、普通の恋人同士になれた気がした。
「良い顔になりましたね。俺の好きな真央さんは、そうであって欲しいです」
「何を言ってるんだ。君だって、相当無理して顔つくってたんだろ」
「へへへ、バレました?」
「当たり前だ。君に僕の動揺がわかってしまうように、僕も君の変なところぐらいわかる」
聞いてみれば、実は彼も、この不思議な距離感を持つ関係が好きなんだそうだ。
これには彼の過去の恋愛経験が関係している。彼は、前に劇団員の女優と恋に落ちたことがあり、その女性から真面目な雰囲気が好みと言われて、真面目に徹し、あくまでもプラトニックな付き合いをしていたらしいが、当の彼女は相当なアバズレだったらしく、彼の友人関係も巻き込んで、複雑な恋沙汰が発生したという話しだ。友からの信頼を失い、彼女から裏切りにあい、そのショックから、彼は距離を置く付き合いしか出来なくなったという話だ。
「しかし、切羽詰っていたのはわかるが、なんで転勤の事を最初から言わなかったんだ」
「さっき言ったじゃないですか。聞きたかったんですよ、真央さんの口から。自然に」
「自然に出るものとは、限らないだろう?」
「出ますよ。距離を離して付き合う事が大好きな僕が、ここまで熱心になってしまった真央さんだから」
「そ、そんなこと言われても。……あ、そうか、前はこういう口説き方だったんだな。ふーん、元々は随分口が軽いんだな」
「いや本心ですよ。真央さん」
「ふふ、どうだか」
微笑は自然に出て、会話は自然に弾んで、高ぶる気持ちにブレーキはなく、話す言葉は全て本当で、二人には、もう偽りの感情はなかった。
普通じゃない。だからこそ、僕らは付き合っていけたのかもしれない。
しかし、本当に普通じゃないのは、そこからだった。
「真央さん」
「何だい?」
「結婚しましょう」
「えっ!?」
まばらだが人の居る駅のホームのベンチを立ち、僕は思わず声をあげてしまった。
確認のための告白からそれほど時間は経っていないのに、唐突過ぎるプロポーズ。
彼に対して心を開いた僕も、それには流石に戸惑って、即答できなかった。
かけた眼鏡が落ちそうになるほど、動揺し、顔は赤面していた僕は、言葉に詰まってどもってしまった。
「な、ななな、中島君! な、何を言ってるんだ。まだ僕らは付き合って五ヶ月なんだぞ!」
「付き合ってる時間なんて関係ないですよ。それに僕は覚悟出来てますから」
そういうと、彼はスーツの内ポケットから、小さな紫色の箱を取り出した。
そして、動揺を隠せない僕の前で、その箱を開いて見せた。
「え、あ、こ、これは」
「エンゲージリング。俺がもっと稼ぐような奴なら、もっと高いものも買えたんですが」
箱の中に入っていたのは、俗に言う結婚指輪だった。
彼の計画的犯行というか、周到さに驚くばかりの僕だったが、まだそれを受け取れるような心構えができているはずがない。さっきやめたはずの、いつもの悪い癖がでる。
「ぼ、僕は結婚なんて。だ、第一! 僕は君と手を組んで歩いたことも無いんだぞ!」
「じゃあ、しましょうか」
「えっ、あ」
彼がムクッと立ち上がったのが見えた時には、もう腕をつかまれて、優しく抱き寄せられて手を組んでいた。
近すぎる接近は、僕の頬の紅潮を最大に上げ、沸騰するように伝わる熱は余波となって口を閉ざさせる。
「他に何か、真央さんが思ってる、結婚にいたる段階なんてありますか?」
男を感じさせる厚い胸と、スーツの合間から漂ってくる男の匂いが、僕の心を少女のようにたきつける。
開かれた彼という無垢な心は、ただ、愛という欲望を求め、止め処ないほど、目的の障害を取り除き、したい事をする。
こういう時、真顔でそういうことをする彼は、世界中で息をしている誰よりもズルイと思う。
そして、それを知りながら、次の言葉を吐く僕も、ズルイと思う。
「僕らはまだ、き、キスだってしていないし」
誰かが見ているのなんか、もう考えていなかった。
言葉を言いきる前に、僕の目は閉じられ、唇は彼の顔へむいていた。
ミルクティーのような甘い味と、ティラミスのような苦い味が、愛という熱を帯びて体を駆け巡った。
十二時の鐘は鳴り、魔法は解けたが、シンデレラと王子は、そのまま踊り続けた。
普通の恋人になれなかった、アブノーマルな二人の横には、自分たちが帰るための最終電車がホームに飛び込んで来ていた。
【了】
恋愛は半年ぐらい書きたくない。