17 執務室での困惑
《ブルナグム視点》
執務室の扉を開けて、俺は脱力を覚えた。
執務机の椅子に収まっているロワクレスに当然のように膝抱っこされたシュンがいる。
既にそこはシュン君の定位置っすか?
なんかシュン君も諦めちゃっているみたいに妙に落ち着いて見えるっす。
机の前に移動して隊長に向き合うと、隊長の無表情な氷鉄の顔と一緒に、同じように表情を押さえたシュンの顔が向けられた。
まるで腹話術師と人形みたいっす。
ロワ隊長とは隊長が騎士隊に入隊してきた時からの長いお付き合いだが、俺は今、隊長が判らない。
あれほど人を拒絶し無関心を通してきた男が、急にどうしたものか? シュン限定で好意を持ったということなんだろうが、それにしても度が過ぎていやしないか?
あれか? いろんな意味で経験皆無だから、免疫ができていないってことか? それにしても周りを気にしなさ過ぎるだろ?
――あー、なんてめんどくさくて、傍迷惑な男っすか!
その構図はともかく、隊長はシュンと真剣に話し合っていた。
「そうだ。昼夜ぶっ通して馬を走らせても一番早くて五日はかかる」
「今、そんな余裕はないだろう?」
「何の話なんすか?」
「王都へセネルスの愚策と失敗を伝える話だ。この証拠を直接届ける必要がある」
机の上には、隊長がセネルス軍キャンプ地跡から押収してきた書類が乗っていた。手に取って見ると、指令書の他に魔法陣の設置図まであって、動かぬ証拠として十分なものだ。なるほど、これは人伝手には託せない。
「陛下を動かすためにも、高位魔術師の派遣を要請するにも、私自身が行く必要がある」
往復最低十日、王城へ上がったり会議に出たりすれば、さらに日数を取られる。少なくとも二十日はここを留守にすることになる。隊長がそんなに砦を空けている余裕は確かにない。
「何度も言っているが、俺は馬に乗ったこともない。それほど長い距離を乗馬することは無理だからな」
「……ん?」
「だからと言って、何日もシュンを私の側から離して置くことなどできない。一日も、一分一秒も手放したくないのだ!」
――問題点ってそれっすか? それが揉めてる原因なんすか?
俺が呆れかえっている目の前で、ロワクレスは名案を得たというようにシュンの顔を覗き込んだ。
「シュン。お前のテレポーテーションで移動するのはどうだ? あれなら、一瞬で着くのではないか?」
「知らない場所にテレポートするのは慎重を期する必要があるんだ。現れた姿を人に目撃されるのもまずいし。王都へテレポートすることはできない」
「だが、この砦にいる人員であの魔法陣を破ることは無理だ。結界すら難しいだろう。応援は必要だ」
「あの、隊長。魔術師に転移魔法陣を頼んでみたら? それなら王都に一瞬で着くっすよ」
「今、リーガンたちは森の結界施術に全力を使っているだろう。さらに転移魔法を展開する余裕があるだろうか? 私が使えればいいのだが、私には転移魔術はできない」
「とりあえず、相談してみまっす。リーガン師のとこ行ってきやっす」
俺は魔術師がいる東棟へ走って行って、リーガンとその補佐をしている男も引きずるようにして連れてきた。
「お、王都へ移動ですか?」
リーガンがぜいぜい息を切らしながら訊いてきた。引きこもりのインドア派が多い魔術師は俺たち騎士より体力がない。その上高齢だ。駆け足はきつかったかもしれない。
「転移魔法陣を展開してもらいたいのだが」
「転移ですか。今、うちのところは結界張りで目一杯でして。そうですね。送るだけでしたら、何とか。魔法陣を何日もずっと維持できるような固定術式の展開は無理です」
「行くだけか」
「なあ、ロワ。あの結界を破るには、どれくらいの魔力が必要なんだ? 例えばリーガン魔術師やロワが何人ぐらい揃えば破れるんだ?」
リーガンが初めて気づいたと言う顔で膝抱っこのシュンを見た。さすが古強者の魔術師。顔色一つ変えずにスル―した。
「私が見た感触では、リーガンクラスが10人は必要だな」
それを聞いて、リーガンが目を見張る。
「な、なんと、それほど強固な結界が?」
「そればかりではない。さらに魔法陣のほうは、30人でも難しいかもしれない」
「! それほど強大な?」
「強大なばかりではなく、今も稼動しているのだ。そのため、魔法陣の抵抗が強化されている。しかも、その場から魔力を吸収する新たな魔物が出現している。あのまま放置すれば、今後どのような事態へ育っていくのか、予測不可能だ」
隊長が魔法陣の展開模式図をリーガンの前へ押しやった。それを両手で掴んで魔術師がぴきりと硬直する。
「これは……! これほどの魔法陣は見たことがありません! どこでこれを! このようなものが存在していたとは!」
補佐の魔術師と食い入るように凝視していたが、それを机の上に広げた。
「ここ! それからここも! これは古代文様です! 失われた古代文字! どこで誰がこれを見つけたのか! 今の我々には書けません! どこかの遺跡にでも記されていたのか?」
「リーガン術師。いかにもありそうです。これを偶然発見したら、魔術師ならきっと使ってみたいと思うはず。セネルスの魔術師は誘惑に負けたのかもしれません」
「実験的なものだったと? そう言うことなのか?」
問うように隊長が口を挟んだ。リーガンが唸るように声を絞った。
「あくまで可能性です。しかし、そういうことなのかもしれない。あわよくば、ついでに隣国テスニアへの打撃にでもなればと。そう唆したとしてもおかしくはない。挙句に制御を失い、自らも飲み込まれたのか……。なんと、愚かな……」
愕然とするリーガンに、シュンが静かに声をかけた。
「つまり、その魔法陣を消滅させるには非常に難しいと? そういうことなのか?」
「そうです。しかも、制御を失ったことで、この展開図にはない不測の現象も誘発されている恐れもある。現に、青紫の蔓という新しい魔物が現れているわけで。今後どうなるのか、私にもわかりません」
「これは、森の結界をさらに強化する必要がありますね」
補佐の男が焦った声を出す。
「森から街道や町へ魔獣や魔物が出てくることがないよう、あらゆる手立てを施そう」
「リーガン術師。この描かれている魔法陣の印が消えたり、地面そのものが崩れたりしたら、魔法陣は消えるのか?」
難しい顔で考えていた高位魔術師にシュンが再度質問した。
「描かれている文様が一部でも消えたり壊れたりすれば、当然、術は停止します。しかし……」
「そうか。ありがとう、リーガン術師」
そして隊長の顔を仰ぎ見た。
「ロワ。俺は準備したいことができた。王都へは転移魔法陣で一人で行ってくれ」
隊長が眉間にしわを寄せて口を開きかけたのを、押し留めるようにさらに言葉を繋ぐ。
「用が済んだら、俺を呼んでくれ。心の中で強く思ってくれればいい。どんなに遠く離れていてもきっと届く。そうしたら、俺はロワを迎えに行く。俺が迎えに行ってもいい場所で待っていてくれ。きっと行くから」
隊長がシュンをじっと見つめた。シュンも隊長の目を恐れることもなく静かに受け止めている。息をするのも憚れるような緊張した時が流れた。
やがて、隊長はふっと息を吐くと、リーガンに命じた。
「片道一回でいい。王都へ繋がる転移魔法陣を頼む。今日中に出かけたい。いつできる?」
「今、午後四時ですから、そうですね、二時間後の六時には」
「それでいい。かかってくれ」
「はい」
リーガンとその補佐が慌ただしく執務室を出て行った。
それを見送って、隊長はシュンを抱き上げたまま立ち上がった。
「聞いての通りだ。しばらく留守にする。ブル、あとは頼むぞ。それから、陛下への奏上申請を書いておいてくれ。形式的なものだから誰が書いても変わらん。私はしばらく席を外す」
「え? ええ?」
さっさと出て行く隊長の背に、俺は叫んだ。
「それはないっすよー。隊長! カムバーック!」