10 戻ってきたシュン
《ロワクレス視点》
部屋に戻ってシュンの姿がないことを確認した私は、室内をうろうろと歩き回っていた。ソファに座っても、寝台に腰かけても落ち着けないのだ。
やはり性急過ぎたのだろうか? 彼の意思も無視して事を進めようとしたのがいけなかったのだろうか? 彼に嫌われたのかもしれない。もう、取り戻せないのかもしれないと思うと、居てもたってもいられなかった
だが、彼のあの黒い瞳を覗き込み、彼の甘い肌に手を触れたら、もう我慢できなくなってしまったのだ。劣情の熱に理性を失ってしまった。
シュンには魔力がない。魔力の片鱗も感じられない。
だが、あの力はどうだろう。
彼はテレキネシスとか言っていた。
彼の世界での異能力なのだと。
手に触れずに自在に物を動かす力。それだけでも素晴らしいのに、彼は私の目の前で空に溶け込むように消えてしまった。あれも、彼の力なのだろう。
魔獣の大群の襲撃を受けた時、私の側に突然現れたシュン。あの時もきっと同じ力を使ったのだ。
一見、転移魔法にも見える。だが、準備も詠唱もなしに、ひどく簡単に素早くやってのけた。転移魔法ではないということだ。
彼の異能の力は素晴らしいものだ。彼が留まってくれれば、これほど頼もしい味方はないだろう。魔獣の扱いを見れば、彼が戦闘に慣れているのだと判る。彼のこれまでの言動を思い返せば、戦いの場に身を置いていたのだと知れた。
だが、同時に、その経験は彼にとって酷なものであり、苦痛であったとも推察できた。そのことを語る時、彼はとても辛く悲しい目をする。
感情をほとんど出さず冷たいほどに冷静ではあるのだが、時折瞳に浮かぶ悲しみの色が、私の胸を掻き毟る。
そんな表情をさせたくない。
幸せそうに微笑ませてやりたい。
戻って来い。シュン。
私がきっと、お前を大事に守るから。
必ず幸せにするから。
ソファに脱がせて置いてあった彼の上着を手に取った。シュンには大きすぎて、紐で縛っていたものだ。
上着を握り締める。
彼は上半身裸のままで行ってしまった。
だから、きっと帰ってくる。この上着を取りに。
何の根拠もないのに、私はそう信じた。
私が他人に対し、これほどに心を乱し捉われることがあろうとは、思ってもみないことだった。
私の家は子爵で貴族としては位はさほど高くない。
父は将軍で先の戦で大きな功績をあげ続け、今では大将軍にまでになった。功を労って、今の陛下の先先代の王が第五王女を父に下賜された。
キシリア王女は眩いばかりの美女であったが、子爵の男へ嫁いだ事が不満だった。長男である私を儲けると、義務は果たしたと赤子をも見捨てて別邸に移り、二度と本邸には戻ろうとしなかった。お気に入りの男女を囲ってサロンを開き、今も贅沢三昧を続けている。
父も戦場に身を置くことを好み、家にはほとんど帰ることもなかった。気まぐれにあちこちに妾を置き、父や母の違う弟妹が増えて行った。
私は屋敷で家庭教師と剣の指南教師らの指導を受けた。高い魔力を認定されてからは魔術師も指導に訪れた。父は私に家督を継がせたいようだが、私自身は関心がない。嫉妬と妄執に囚われた家などかかわりたくもない。
早々に家を出て、騎士隊に身を置いた。王都へ帰りたいとも思わない。この砦で魔獣を相手にしていたほうがよっぽどいい。
人は私を氷鉄の騎士と呼ぶ。誰をも寄せず、切り捨てると言う。別に拒絶しているつもりではないのだ。ただ、人に関心がないだけ。心が動かないだけなのだ。
その私が。
シュンを案じ、シュンを想い、今も焦燥で心を痛める。
泡立つ心に戸惑いが隠せない。
これが唯一無二を得たゆえの感情なのだろうか?
時が刻々と過ぎていく。
砦の外がうっすらと白みかけた時。
やはり、突然だった。何の前触れもなく。
シュンが私の部屋に現れた。
見知らぬ男を連れて。
***
「怪我をしている。手当てを頼みたい」
驚いている私に、シュンはいきなり告げた。
意識のない男は頭部から血を流し、足も不自然に曲がっている。
「俺を治療した時みたいに、治療できるだろ?」
「この男はどうしたのだ? 服装を見ると、セネルス国の者のようだが」
セネルス国は、魔獣の森を挟んだ国境の相手国だ。いつもこちらを攻めようと窺っている油断ならない隣国だった。
「森の向こうで、おかしなことが起こっている。事情をこの男から知る必要がある」
「国境を越えて行って来たのか?」
私は驚いて声を上げた。あの森をたった一人で越えたというのか?
「俺はテレポーターだ。そのくらいの距離をテレポーテーションで移動するのはどうってことはない。とにかく、不穏な事態が起きている。早く治療してくれ。話を聞かねばならない」
「私には治療はできない」
今度はシュンが驚いたようだ。不審げに目を眇めてきた。
「俺を治療してくれただろ? 瀕死だった俺をたちまち治してくれたじゃないか」
私はシュンの左肩を見つめた。もう塞がりかけているが、ここから消える前にはなかった傷だ。
「私は誰の治療もできない。私の魔力は、他人の治療に向いていないのだ。シュンだけなのだ。私が治療できるのは。相性が合っているからだそうだ」
そして、私はシュンの左肩に手を当てた。すぐに手に熱が集まる。
「シュン。私の唯一無二」
手を放すと、左肩はきれいになっていた。どこにも傷の痕一つない。
私は部屋の外に出て、治癒魔術師を呼んだ。ロドと部下の魔術師がすぐに駆け付け、男を引き取って行く。治療が終わり次第、男から事情が聴けるだろう。
部屋へ戻ると、シュンは脱ぎ放っていた上着を着こんでいた。彼の裸体が隠れて、少し残念な気持ちを持つ。
「ロワ。寝ていないのか?」
シュンが振り返って訊いてきた。
「シュンを待っていたんだ。無事戻ってきたから、私も少し寝るとしよう。シュンも休むといい」
「俺はどこで寝たらいいんだ?」
シュンが部屋を見回して当惑したように訊いてきた。
「寝台は一つだ。一緒に寝ればいい。広さは十分あるだろう」
シュンが嫌そうに寝台を見る。
だが、私が防具を外し上着を脱いで寝台に横になると、諦めたように寝台に上がってきた。
「ロワ、いろいろ報告がある。ひと眠りしたら、話すよ」
疲れているのだろう。横になったシュンはたちまち眠り込んでしまった。