タイペイ・ハザード ~誰も知らない台湾と林家の歴史~
これは林家に関する台湾の歴史等を紹介するような話です。
物語とともに台湾や林家の勉強をしてみてください。
志半ばで亡くなった、書きたいものが沢山ありながらも成し遂げられなかった恵美叔母に捧ぐ。
プロローグ
来生翡翠は線路の上を歩いていた。手には色とりどりの花束を抱いて。その線路から微妙に振動が聞こえる。徐々に遠くから列車の走ってくる空気が漂ってきて、彼の背中に風が吹き抜けていった。列車が迫り徐々に彼の人影を確認して警笛を鳴らす。それでも、翡翠はマイペースでゆっくりと線路の右のレールを綱渡りのように歩く。平渓鐡路という線路で平渓と瑞芳の駅を結んでいた。
列車がブレーキをかけようとした瞬間、彼はレールから降りて左に向かっていった。列車の軌道から逸れた翡翠は、ある入り口に向かって進んでいった。そこは巨大な滝が有名な公園。昔はもっと別の大通りに近いところに道があったが、その道が剥離し易い地層のために崖崩れで川に落下し、車も通れない細い道、それも途中で線路の上を歩かないといけないところに入り口を移設したのだ。
その大きな滝つぼの一番見えるところまで行き、手摺りに肘をかけて滝の飛沫を微かに浴びていた。遠くから日本の曲のようなものが、かろうじて聞こえてくる。
しばらく、物思いに耽っていた翡翠は、やがて抱えていた花束を大きく滝に向かって力強く投げ込んだ。彼にはその徒花はスローモーションとなって水面に向かって舞っていくように見えた。
ふと、翡翠は振り返った。と同時に驚愕の表情で彼は固まった。
――まさか、そんな。
そこにはいるはずのない人物が立っていた。
次の瞬間、手摺りから1人が滝つぼに向けて落下していくのを大勢の観光客が目撃することになった。
場所は『十分大瀑布遊園』といった
林家の子孫
翡翠は台北の玄関口、中正国際空港を降りて、出口から外に歩み出した。ゴールデンウィークの早朝なのに、むわっとした蒸し暑い湿気が彼を汗ばませた。スーツケースを転がしギターのソフトケースを背負い、足を進ませた。彼が台湾に来るのは、これで8度目であった。1回目は8歳の頃。次に浪人の頃。そして、就職してからは社員旅行の他に度々訪れていた。世界一の高さだが、デザインが台湾風で翡翠は気に入っていない台北101、何度も見学して小さい頃はぐずって泣いた故宮博物院、社員旅行で行った竜山寺、祖先のルーツを教わりながら行った大渓、平渓、彼の祖父母が眠る巨大な墓のある山の上の墓地、淡水、先住民博物館、数々の夜市、中正記念堂、台北駅、新しくできた新光三越、野球場のある巨大公園、228事件記念館、道教の総本山であり巨大な廟のある木柵の指南宮、そして、林本源園邸(林家花園)…。台湾の以北は観光スポットのほとんどに訪れていた。
いつもは、叔母の知り合いの王凛芝のタクシーに乗せてもらうのだが、翡翠は黄色だらけのタクシーから1台選んで、台北の士林区の天母に向かった。
いつもは、士林に住む叔母の住むアパートに向かうところだが、残念ながら親しい親戚は税金を払うためにグリーンカードを持つアメリカに行っていていない。
今回の旅行は初めての独り行動であった。ホテルの前で「感謝」と礼を言ってお金を払って外気を吸い込む。懐かしい鼻につく香りが翡翠の心を躍らせた。町並みは綺麗とは言えない。でも、それでも、よかった。
彼は台湾人だった父親と日本人の母親を持つハーフである。それも、林家花園、つまり林本源園邸で有名なかつての大富豪、当時の日本の財閥の三井、三菱と引けを取らなかった林家の子孫でもある。今は、その林家の栄光は見る影もなかった。
ただし、祖母が林家だったので、男系一族の林家では、彼は正式な子孫とは言えなかった。シャツのポケットに手を差し込む。そして、林家が150年記念に制作して子孫達に配った金貨銀貨セットの銀貨を確かめる。
それはプラスチックのケースに入っており、純銀製(鑑定書付き)の直径4cmの銀貨で上部に『林本源三落大厝園邸』、下部に『壹百伍拾週年記念』と刻まれている。中央には『本源』の文字を図案化したものがある。裏面には、林本源園邸の建物が中央に、上部には中華民国九十年、下部には2001と刻まれていた。
林家の一族について、家系図から全てが綴られている記念の本とともに、金貨、銀貨セットは一族に配られたのだ。
本来、女系には一族と見なされないために、送られることのないもの。それは祖母が彼女の弟からもらい、祖母の死後、叔母が翡翠の兄に金貨、翡翠に銀貨を持たせたのだ。
苗字、本籍は母親の実家のものを使用していた。父親も日本名に改名していた。
ふと、買い物をしようと思いつき、チェックインさえすることなく、安いスーパーに向かって歩き出した。大葉高島屋が目立つ士東路という大通りを歩いていると、ふと、ある殺気を感じた。細い路地に入り足早にコンビニの傍を横切り進んでいくと、2台の車が止まっていた。
余談だが、台湾では外国の会社は過半数の株でマーケットに参入することはできない。そこで、高島屋であったら、大葉と株を出資している。そこで、大葉高島屋というのだ。新光三越も同様である。
そして、3人のピシッとしたスーツを着た男性達が、もう一方の3人とスーツケースを交換しているところであった。翡翠はそこで立ち止まり、似たようなアパートの並びに身を隠してそれを観察していた。そこで、スーツケースの交換が終わった辺りで、その中の1人が暗がりの中なのに、どうして翡翠に気付いたのか、叫んで走ってきた。
『おい、そこにいるのは誰だ』
しかし、翡翠には、台湾語や北京語は理解できないので、彼らが何を口走っているのか分からなかった。
ここで台湾の言葉を語っておこう。
台湾語は主に17世紀初頭に大陸の福建(=閩)の南部から台湾に渡って来た人々が使っていた「閩南語」が元になっている。もう数100年も経っているので、現在の台語は今の福建の言葉と多少違いがあるが、ほぼ通じる。1番純粋な北京語と言えるだろう。
同じ福建でも、台湾北部には主に泉州から来た人々が住み、中南部には漳州から来た人々が住んだ。この2つの都市の発音「泉州音」「漳州音」は言わば方言で、所々の相違が、後の台語も台湾北部と中南部で部分的に異なる。現在では、泉州音は北部音、漳州音は中南部音と呼ばれている。
学校で教わる台湾語の発音は南部音で教科書も同様だそうだ。中南部の方が台湾語を話す人が多いので、こちらが主である。但し、度々、北部音も教えてくれるという。
台湾の公用語は『國語』と呼ばれる北京語で、公の場や学校、初対面の人同士の会話等で使用されているが、実際に台湾で話されている言語は次の通り様々である。
漢語系は 閩南語は総人口の75%、客家語は総人口の13%、様々な漢語方言は総人口の10%である。
また、原住民諸語も未だ存在し、総人口の2%である。 アタヤル語 、セデック(タロコ)語 、サイシャット語 、ツォウ語 、カナカナブ語 、サアロア語 、ルカイ語 、パイワン語 、プユマ語 、アミ語 、ブヌン語 、ヤミ(タオ)語 である。
以上のように台湾で話されている言語は多数あり、広義の意味として台湾で話されている言語を台湾語という時、それらを全て指すことになる。しかし大抵は、台湾語は閩南語のことを示し、北京語、台湾語、原住民語と大きく3つに分けることができる。
それは、歴史的経過を踏まえた上、狭義の意味で大多数の人々が話す福建語の一つである「閩南語」をルーツとする言語のことを台湾語として取り上げることは自然である。
また台湾語(閩南語)は場合によって福佬語、河洛語、鶴佬語等と表記され、ホーロー語と呼ばれることもあるが、ここでは、台湾語、台語と呼ぶ。
本省人の母語である台湾語は、福建省南部の言葉、閩南語と同じである。台湾語は、もともと表記法のない言葉で、文法も北京語とは全く違う。
現在の台湾では、意味と発音が近い漢字を各音節に当て、表記する方法をとっているが、ある音節にどの漢字を当てるか、規則が複数と難点があり、ほとんど実用されていないという。台湾語は事実上、会話だけの口語である。
それを、蒋介石率いる国民党がにわか北京語を雑に1年でマスターさせようとしたために、今の台湾の人の言葉は、様々な言葉の入り混じったものになっている。台湾語は崩れた北京語というべきだろう。
翡翠の父親、叔父、叔母は台湾語、英語、日本語を混合して会話をする。
小さな頃から、意味の分からぬ台湾語を身近で話されていたために、翡翠は人の心、意図を感じ取ることが少々できるようになっていた。それでも、日本語しか教わっていないので、日本語以外は分からないのだが。
話は戻るが、早朝の薄暗い中、翡翠は逃げると、数人の男性が追ってきて銃声が閑静なアパートに埋め尽くされた街中に響いた。流石に体中汗ばむのも気にせずに必死に足を動かして士東路に戻り、大きな公園の中に飛び込んだ。男性達は銃を構えながらさらにしつこく追ってくる。
中には散歩やテニスコートでテニスをする若者、マラソンをしている人達がいる。もう、駄目だと諦めかけたその時、彼の手を引いて建物の影に引き入れた者がいた。と、同時に大勢の人影が物影から一斉に現れて、追ってきた男性達と銃の撃ち合いをする。悲鳴があちこちに響き、人々は逃げ去っていった。
気付くと、男性達は翡翠を助けた仲間に取り押さえられていた。それが、台湾の台北県警の麻薬捜査班だと言うことに気付くのに、あまり時間を要しなかった。
彼は劉金宏と名乗って、仲間がこぞってやってくるのを見て、すぐに別の方向に去っていった。
警察署でギターケースを傍に置いてスーツケースの取っ手を握り絞めながら、翡翠は取調室で事情聴取を受けるはめになった。しかし、生憎、日本語を話せる者がいなかった。
眼鏡を人差し指で上げる長身痩躯の李彦森警部は、困惑の表情で全員の顔を窺った。中肉中背の中年、張潤東は首を横に振って嘆いた。
『まさか、あいつに頼む訳にもいかんしな。でも、主犯の顔と取引現場を目撃しているし、事情を聞きたい。しかも、奴らに命を狙われる可能性もあるしな』
『厄介なことになった。もっと、早く取引現場を押さえるべきだったんだ』
李警部がそう強く文句を言うと、尹維新が不服そうに言い返す。
『まさか、民間人の、しかも日本人観光客があんな場所に来るなんて、誰が想像できますか』
その強い口調に全員が閉口すると、大きな声の女性が警察署の刑事課に入ってきた。
『ただいまぁ。…皆、どうしたの?』
姿を現したのは、派手な私服警官の周美玲が好奇心旺盛に飛び込み翡翠を見た。李警部は手を顔に当てて項垂れた。そして、仕方なく事情を話すと、彼女は胸を張って自信満々に言った。
『彼のお守りは私に任せてよ』
全員の警官は顔を俯かせて首を横に振った。彼女はその言動から厄介者として扱われていた。スタンドプレイ、勝気でポジティブ、楽天家で気分屋。誰かに従うことも命令されて制約されることも嫌う、管理する側には最も扱いにくいタイプであった。
美玲は長い髪を掻き上げて翡翠のいるデスクの向かいに腰を下ろして、頬杖をつきながら彼を観察するように眺めた。そんな美玲を見て、翡翠は女優が入ってきたのかと思った。それほど彼女は華麗で愛らしい顔立ちであった。目がぱっちりして、薄化粧にも関わらず肌も透き通るように綺麗であった。
「あのう…、日本語話せますか?」
彼女は微笑んで子供のように頷いた。周りの人達の反応が戸惑っているように見えるので、彼女は見かけと中身にギャップがあるのだろうということは、翡翠でも想像することができた。
彼は台湾人と日本人のハーフであるにも関わらず、台湾語は教わっていなかった。
それで台湾語と英語しか話せない親戚もいたので、父親や親戚達は台湾語で彼の前でも話をするので、彼には内緒話をされているように感じていた。
そういう環境が長く続いたので、理解できない言葉でもその人の仕草や態度、反応で大体の心中を察することができるようになっていた。
厄介であろう相手に対して、警戒気味に翡翠は彼女の質問を待った。美玲は微笑んで興味深げにやっと口を開いた。
「貴方、名前は?」
「来生翡翠です」
「へぇ、日本人の中でも珍しい名前ね。翡翠って、あの宝石の?」
翡翠は頷くと彼女はぱっと表情を明るくして袖を捲った。そこには翡翠のブレスレットをしていた。
「私、翡翠って大好きなの」
本題になかなか入らない美玲に戸惑いながら、翡翠はとりあえず話を合わせることにした。
「僕の祖母も翡翠が好きでした」
「やっぱり、翡翠って綺麗で上品でいいよね」
そこで李警部が割って入った。
『美玲、楽しそうに話しているけど、本題に入っていないんじゃないか?脱線もいい加減にしろよ。いつも、調子に乗るんだから』
台湾では、目上の人は苗字で、目下の人には名前で呼ぶのが常識であった。
『はいはい。李警部は日本語を本当は分かるじゃないですか?』
少し膨れ面を李警部に見せて、すぐに親しげな表情を翡翠に向けた。
「でも、災難よね。麻薬の取引現場に出くわすなんて。で、どうして、そんな裏路地を歩いていたの?」
「僕は林家の子孫で、亡くなった祖母のアパートが近くにあるんです。今は叔父夫婦が暮らしています。それで、何回も来ていたので、あの辺りは大体分かるんです。それで、その先のスーパーに向かって近道をして歩いていたんです」
「林家?林って、あの林家花園の?」
「知っていますか?林本源のこと」
「えっ、ただ、林家花園は観光地だってことくらいしか…」
「そうですよね。最近の台湾の若者はその程度の知識ですよ。でも、知り合いの台湾人が学校の教科書に載っていて、財閥だって教わったらしいですけどね」
そこで、彼女が言った林家花園、翡翠の先祖である林家の屋敷の1つであった林本源園邸について彼は語り出した。
林家花園。翡翠の祖先の林家が3代かけて完成させた台北県第2級古蹟である。そこで、林家花園の説明資料を元に紹介することにする。
正式には、板橋の林本源園邸といって、現在、台湾が最も完備している建築様式をわずかに残している。かつての権勢のある家柄の豪商の林家が、居住のために享受して、精致な林家花園の建築が政府関係者や商売の付き合いの大金持ちの接待に利用するために、よく膨大な資本をいとわないで、精致で優美な庭園の花や木のある庭を建設した。
しかし、日本統治から戦後、蒋介石率いる国民党による戦乱のため、小作人政策が行われて小作人にも土地を分けて、収穫の2.58割しか利益も得ることができなくなってしまった。そして、台湾コンクリート株等の各会社の株を与えられ、国民党に広大な土地を奪われたのだ(コンクリート会社が成功したために収入はかろうじて何とかなったのだが)。
これらの中国式(古い中国南部、福建省)の林家花園が、その国民党の住みかとして荒らされ、金目の物を奪われて、かなり大規模に破損して、あるものはとっくに消えてなくなって、文人の文章、歴史が記録する中でわずかに残した。
幸いにも、板橋の林本源園邸は、台湾の日本統治開放後から破壊に何度も遭って日に日に傾き崩れてしまったが、数名の文化財の専門家の考証によって、何度も整えて建造して、今昔の部分の古い容貌を修復されていた。
板橋の林本源園邸について言うことができるのは、台湾の祖先の残した貴重な歴史の遺産で、1基の認識として台湾の歴史と伝統の建物の宝庫だ。
このために、台北県政府の文化局は特に林家花園に訪れる者のために林家を詳しく述べる林本源園邸の資料を作って導引し、CD-ROMを見ることができるようにした。この1枚が主に古跡の教育のために作った数名の仮定により導かれており、システムを見ることによって数名の文化財の専門家としてしばしば研究し、主な目的が学生のために林本源園邸を訪問する時、補助性の人文の情報として提供して、園邸の基礎認識を学生に与えることを目的として、古跡が尊敬の態度を生むことに対して、そして実際に園邸を見学する時、更に注意深く観察することができて、綿密に古跡の知識を体得できるようになっている。
その林本源園邸はどうやって出来たのか。まず、林家一族が台湾に来た歴史から述べることにする。
乾隆43年(西暦1778年)、林応寅(翡翠の8代上の祖先)は中国の福建漳州の竜渓から台湾~淡水、新庄廳(今の台北の新庄)に来て、帳簿を弟子に授けて、帰郷して教職に従事する。そして乾隆50年(西暦1785年)に再び福建の竜渓に戻る。専門家の考証によると、林応寅は林家の最初の台湾に渡った先祖のはずといわれる。
次男の林平侯(翡翠の7代上の祖先)は16歳の時に(乾隆47年)は台湾に渡って父を訪ねて、そして、父の教えを受けて米商と鄭谷の家を雇う。
林平侯はきわめて商業を営む知恵があって、鄭谷は資金を与えることに感慨深く、彼の創業を助けて、当時台北淡水河の水上運輸は順調に進行して、稲を運送し販売して貿易の大口になって、林平侯は運米を業にして、また林爽文の事変に遭って、稲の価格は高まって、林平侯は米商で、運米の業の上できわめて手厚い利潤を獲得した。
それから林平侯と竹堀の林紹賢は共に台湾の塩業を取り扱い、更に多くの財産に累積した。その時の林平侯の年はすでに40歳、そこで故郷に錦を飾って、中国に戻って金銭で官位を買って、共に7年広西柳州の府知事を担当する。
後に林平侯は故意に仕事に出なくなって、そこで嘉慶21年(西暦1816年)辞職して台湾に帰って定住する。
しかしその時、台北の淡水は深刻な漳州人、泉州人の武器による戦いの事件があって、災いを避けるため、林平侯は嘉慶23往年にあって、大嵙崁(今の桃園の大渓)の三層(今の福安里)に引っ越して、定住する。
そして、巨大な屋敷を建設する。大嵙崁のトーチカ(鉄筋コンクリートで円形・方形・六角形などに作り、機関銃・火砲などを備えた堅固な防御陣地。特火点)を築いて被災者を非難させて、田畑を開墾して、水路灌漑を築いて、田畑にかかる税金の収入は大いに増加した。
林平侯はそれ以後、何度も封建の官吏に人民の乱の平定に協力して、そして、朝廷が淡水城を建設することに援助を求める。道光27年(西暦1847年)、林家は小作料を収めるために便利なので、枋橋(今の板橋)で補佐の益館を建築する。これは林家の板橋地区での屋敷の最初の建築である。
林平侯が生んで5人の子がいて、上から林國棟、林國仁、林國華(翡翠の6代上の祖先)、林國英、林國芳で、それぞれ林家の5つの家号(店号)を管理する。その5つの家号、飲記、水記、本記、思記、源記は台湾の諺、「水本飲源思(水本を飲んで源を思い慕う)」を意味して、そして、「本源」を総括的な家号にする。
ちなみに、國棟、國英は妾の子供である。國仁は実に優秀な長男であったが、惜しくも若くして亡くなった。だから、残った実子の國華、國芳が林家花園を継いだという推論もできる。このことは家系図も載っている林家の人物の全てを記した林家の子孫に配られた、林家一族によって作られた書籍によって見ることができる。
また、林家はその年代によって名前に同じ漢字を含む。國棟の年代は、兄弟は勿論、他の親戚全て『國』の文字が付く。國芳の子(國華より譲ってもらった子)の維源や養子の維得、國華の子、維讓(翡翠の5代上の祖先)のように、國華達の下の年代は『維』の文字が名前に付く。維讓の子は爾康(翡翠の4代上の祖先)、爾昌のように『爾』の文字、その子達の年代は、熊徴、熊祥(翡翠の曽祖父)、熊光のように『熊』の文字を付けている。その子達は『衝』の文字が主に付いている。
林家の5人の子の中で、林國華と林國芳の2人は最も賢明であり、トーチカを築いて被災者を防御して、田畑を開墾し、水路灌漑を築き、田畑にかかる税金の収入は大いに増加した。それで、両人は跡継ぎになり、勇敢に専門を開拓した。
この時、漳州、泉州人の武器による戦いの事変は依然として静まることなく、災いを避けるため、兄弟の2人は枋橋の漳州の籍居民の招待の下で、林家は咸豐元年(西暦1851年)枋橋で益館を補佐する側に三落大厝を建設して、そして、咸豊3年に落成した後に家全体で引っ越して、咸豊5年初期は、板橋城を計画して建設して泉州人の乱を防ぎ止める。
ほどなく、林家は三落大厝落成後、庭園の花や木のある庭を建設して、しかも文人の呂西村に、琯樵などの名士に礼を言って西席(つまり家庭教師)を担当するように招聘して、台湾北部のために多くの文化の息を持ってくる。林家の第3世代の林維源、林維讓(翡翠の5代上の先祖)が跡継ぎする前に2世代の展開、ごく短い3世代以内で台湾でも巨万の富を生み、林維源はしかも中仏戦争の後で、強力に台湾の民政・軍政長官の劉銘傳と界の拓殖を行うように協力する。地方の実業の普及を行って、開墾制度を推進させた。
今日の観光客の心ゆくまで遊覧する林本源園邸は、このように代わる経営のもとで最高峰に成長するのだ。
最初に林家は新庄に住み着いた時に、林邸宅を切り開く以外、同じく並行してトーチカ(今の板橋)の開墾をつなぐ。およそ道光25年~27年間に、林家は板橋で益館を建設して、主として田畑にかかる税金の所得のみを1つ1つ調べて受け取るための、益館の場所にある約150坪を収める、1基の簡単な四合院(旧式の家)である。
後に泉州人の武器による戦いを避けるため、咸豊3年に古い大厝(即ち、三落大厝)を建設。この大厝は構築方式が特殊で、北方に向かって、表門を設けないで左右の2つを設けて、そして銃を支える場所を備え、今、容貌になる防御性の高い鉄砲のための穴がある。建築材料は中国から台湾現地では貴重で高級な材木を持ってきて使用し、装飾は非常に立派で堂々としていて、その時の台湾の最優秀建物である。
光緒4年(西暦1878年)初期、林家は住宅を拡張するので、新しく大厝(また五落大厝という)の建設着工を始めて、1200強坪の広さを有し、その時珍しい大規模の建物である。当時、これは林家の社会の地位の象徴を示すための建設であった。
当時、林家の庭園の建設する能力があることは、官庁以外、社会的声望と地位の高官を持つことを示していた。
居住する生活を求めるために享受し、この精致な林家花園建築をお上や商売相手の大金持ちの接待の利用するために、しばしば巨万の出資をいとわないで、精致で優美な庭園の花や木のある庭を建設する。
台湾南北の各地に優美な庭園を造り、その中でも、台南の呉園、新竹の北郭園、板橋の林本源園邸、霧峰の莱園が最も有名で、そして「台湾の4大名園」を誇っている。
林本源園邸は時間をかけて建設して、そして現在も何1つ、最も精確な証拠を出す考証がない。普通は、林本源園邸は林の家長に従って建設して続々と大厝を竣工していった。
時間をかけて建設して、およそ光緒初年、光緒14年に増築して、光緒19年までにすべてを竣工したと台湾大学の土木学部の報告によって指摘している。
林本源園邸の設計者は一体誰なのか。斬新で珍しい中国式の伝統建築の造る職人という大名で後世に広く伝わっているが、伝統の建物の概念、設計、工事は大部分が下記の4組の人士(地位のある者)が貢献した。1.主人、2.文化人、3.風水先生、4.職人で建築した。
修園に費やした金額となると、当然、小額ではない。数名の専門家の考証によると、林本源園邸の建設費用は少なくとも30万両はかかり、学者は更に大胆におして推測して50万両になる。これはかなり驚異的な1筆の金銭である。
中日の日清戦争で中国は敗戦して、台湾を日本に割譲して、板橋の林家は避難するため、林維源らは内陸に引っ越して、それから更に台湾に帰っていないで、林家の妾一族の彭寿、祖寿だけが台湾に帰り屋敷や財産を管理させた。日本統治初期、日本の管理のもとですべて元のままだったが、しかし、後に園邸は破壊を被り始めることになる。
西暦1949年、中国、台湾ともに内戦(中国では蒋介石率いる国民党と毛沢東率いる共産党、台湾では国民党による228事件)が起こり、難民として台湾に来る人士は多くて、多くの人(毛沢東に負けた蒋介石率いる国民党)が林家を選んでしばらく生息する地として、後から本省籍の人士が次々と入って居住した。
記録するによってその時居住した者は1千数人いて、3百数戸、政府が特に1つの行政管理の区画を編んだが「諸侯を中に残す」である。
居住者の違法建築の行為で思うままに建て替えて、内部が壊されるのが更に深刻で、そのため、国内外の人士が保存を呼びかける行動を巻き起こして、そして居住所帯が現れ始めて、修繕することと資金調達などの問題の解決の道を守ることに移すことを図る。
東海大学は西暦1971年に林家に対して計画を行うことを県政府に頼まれて、修復するが、居住所帯に隣り合っていて反対にあい取りやめる。西暦1977年、林本源は公の業に祭りを営んで林家花園の財産権を台北県政府に寄付して、そして新台幣の1100万元の寄付行為により経費を出して修繕する。
台北県政府は直ちに侯の中で、残っていた住民を外に移り出すように取り扱って、翌年、台湾大学の土木工事関係の部署すべての計算室(台湾大学の都市、農村建築部署の前身)に、旧観の復旧を行う測量と製図と修復の計画の仕事を依頼した。土木工事は内外の教師と学生を動員して現場で測量して、敷地の位置、面積、形、建築構造、装飾、建物の細部、寸法、花園を描写して物の位置、分類に現存して、および隣り合っている敷地の環境の分析、各種の図案を完成した後に、経費を、工事施工を参考にして見積もった。
修復の方法は原則的に、その時の跡形の保存は、少しずつ修繕してオリジナルに復元するように修復する間に、学界と各関係部門、甚だしきに至っては普通の社会の大衆は一部の観点上の開きに位置して、その時『跡形の保存の不完全な美感は比較的に易引が古を思う奥ゆかしい感情が湧いて歴史を思う』と思った。
オリジナルに修復して、比較的に感の文化の要求を豊かにすることで、旧観を修復することを行う測量と製図と修復の計画の仕事をして、土木工事は内外の教師と学生を動員して現場で測量することで、台湾の伝統の欠乏の社会を肌で感じた。
最後に漢寶德先生、林衡道先生、王國墦先生、洪文雄先生、吳基瑞先生、馬以工女史のなどの会議の結論を通じて、いくつかの基本的な観念を出している。林家花園の当時の現状をよく考慮して、できるだけオリジナルに近く修復して、もとの様子に回復することを原則にした。
今になって、古跡の保存の観念と原則は更に1歩進める発展があって、本体の価値を造る以外、特に統合性保存の重要さを強調して、歴史の時代を区分する問題について更に備えて力を収容する。それでも、林家花園は保存と修復を経験して、台湾の古跡が運動の意義を保存する上にその一定の地位を示した。西暦1982年末、花園の修復工事は始まって、4年末、修復が終わった。修復の経費合計は新台幣の1億5643万3218元もかかり、それぞれ文建会、内政部、交通省の観光局、台湾省政府と台北県政府から共に負担した。1百年庭園は社会と政府の各部門の集団の努力の下で、今日保存する成果を得たのだ。
翡翠が最初に林家花園に来た時は、まだ修理中の場所も多く、観覧できる場所は限られていた。しかし、通常、日本人観光客が入ることができぬ林家私有地の三落大厝に入ることができた。年に1度林家一族が集まると言われる、先祖の写真が多く飾られる由緒正しき場所に。
林家について、長々と説明していた翡翠は、欠伸をして明らかに気分を害している美玲に恐縮して、話を変えることにした。
「日本語がうまいですね」
「まぁね。お祖母ちゃんが日本統治時代に教わった日本語を私に教えてくれたし、最近は日本ブームで日本語を学ぶ若者も台湾には多いのよ。日本語学校も多くできたし、すぐそこの学校もそうよ」
「確かに、『的』という文字を平仮名の『の』に変えて書くのが、一昔前に流行ったし、今は日本語の店の看板を出すのが流行ったりしていますね。日本のCDの海賊版も普通にCDショップに売られていますしね。…それにしても、日本語が流暢ですよ」
「リュウチョウ…?上手ってことね。感謝。私も日本が好きだから。これでも、上流階級なのよ。医師の多い一族で、全員日本に留学しているの(台湾では、日本の大学を卒業することはステータスになっていた。現在でも、それは変わりない)。私は日本には行ったことないんだけどね。せいぜい、たまにNHKを見るくらい(台北ではNHKを見ることができる)。日本のアニメやドラマもこっちでやっているしね。日本統治時代には、上流階級で日本に貢献した台湾人には寛大で、待遇も大変よかったし。それに戦後の蒋介石率いる国民党が来た時に、大陸の同族の漢民族として歓迎したのに酷い扱いをした228事件がかえって日本統治を美化したのよね。だから、祖母も母も日本贔屓で、それが影響しているのよねぇ」
228事件。ここで、228事件について228事件記念館の資料を元に説明することにする。
日本が統治していたときは、支那人、原住民、疫病からの護衛、文化の発展を見ると台湾に貢献して台湾には感謝されるべき存在であるようにも思えるが、そうではない、という意見もあった。
1945年8月6日、9日のアメリカ連合軍の原爆投下により、1週間後ポツダム宣言を受諾し、日本の無条件降伏で第2次世界大戦は終焉を迎えた。ここで、半世紀にも及ぶ台湾統治は終わりを告げ、台湾人は50年の暗い重圧から解放され、台湾語で次のように歌われた。
『李鴻章が下関で調印したばかりに・台湾は日本に割譲され・清朝は台湾を見捨て・住民は50年、苦しさを余儀なくされた』
この50年の植民地統治下、台湾人民の苦痛は長かったとされている。
(蒋介石の策略により、日本統治は残虐な苦しさを与えた植民当地を与えたと偽ったが、これも影響しているのかもしれない)
半世紀の日本統治期間を通じ、台湾人民の連続した抗日民族運動と政治運動が、早期より行われてきたからである。
(確かに、政治、選挙権、権利は台湾人にはなく、初期は抗日台湾人との抗争があったが、日本の新総統、台湾人のある人物により、台湾に寛大になり、近代化などの力を貸していた。確かに、後期は日本の文化を押し付けたが。それでも、蒋介石のような台湾語の禁止や台湾文化の否定はしなかった)
1920年以降、社会運動、政治運動は、方式も内容も異なっていたが、台湾人民が日本統治に不満を抱いているという点で一致していた。日本の高圧的支配下で、多くの台湾人はごく自然に、その感情を「祖国」に抱いた。
(日本の台湾貢献に親日的な人民も多かったし、日本に協力的な人は功績を称えられた)
事実、日本の投降した相手は中華民国でなく、アメリカ連合軍であり、最高指揮官のマ
ッカーサーは、中国戦区最高指揮官の蒋介石に対し、中国戦区内にある日本軍の投降を受けることを委託したのだ。台湾はこういう条件下で、蒋介石が兵員を派遣して接収したのであって、あくまでそれは一時的な軍事占領であったのを、当時の台湾人は「祖国復帰」一途に信じたのだ。
祖国への憧れ、祖国復帰、同じ漢民族である国民党政府を大々的に歓迎をした。熱狂的な祖国復帰を歓迎したのだ。
台湾社会が最も安定した50日の過渡的期間後、台湾人の熱狂的歓迎気分の中に、祖国の役人と軍隊(蒋介石率いる国民党)が台湾に上陸した。当時の台湾人が祖国から来た接収関係者を迎えた心理は、作家の呉濁流の表現では、英雄を迎えるに似たものがあった。
新しい時代の出発にあたり、台湾民衆は多大な期待と憧れを抱いた。
1946年2月上旬、台湾省に公民の宣誓登記と公職立候補者の資格審査が行われた。
これは台湾省に各級の民意機関設立の前奏であり、1945年12月26日に公布された台湾省各級民意機関成立法案に基づいた。公職立候補者に対する資格審査の結果、合格者は36968人に達した。
この中公民宣誓登記と立候補資格審査に合格した郷鎮市の民意代表は、2,3月相ついで、無記名投票方式によって、全省で選出された地方代表は、その7078人に達した。
それと同時に各郷鎮区民代表と職業団体(各農業会を主とした)から、3,4月の間に合計523名の県市参議院を選出した。
4月15日、さらに一歩進んで30名の省参議院を選挙し、全省での立候補者は、1180人に達した。その中でも台南県の例を見ると、481人が立候補したが、選挙の結果当選者は僅かに4名という激しさであった。こうした激しさは人類選挙史上、他になく、当時の有識者達の政治によせた情熱と期待を窺うことができる。
その高い理想、期待を台湾民衆は新来の祖国政府に寄せたにもかかわらず、一抹の疑惑を感じ得ない現象も散見された。
日本統治の総督府主計課長、塩見俊三は1945年9月13日の終戦日記の中に、次のように記載している。
『台湾本島人の有力者徐坤泉、陳逸松、駱水源とその他幾人かの台湾人は、高橋知事と会談したが、意外なことに意気消沈していた。それでは、台湾の将来に対し、中国政府の方針はまるで理解されていないように感じられた』
日本時代の親日有力者、辜振甫(台灣皇民奉公會實踐部長)、許丙(日本貴族院議員)、林熊詳(台灣總督府評議員・翡翠の曽祖父)達は、1945年8月16日に、日本軍参謀の台湾独立計画に参加する計画を立てていた。
敗戦時の台湾には、陸軍12万8千人、海軍6万2千人の計19万人余りが駐屯し、少数の少壮軍人は天皇の終戦放送後も、台湾で、玉砕覚悟で、辜振甫、許丙、林熊詳、簡朗山(日本貴族院議員)、徐坤(日本憲兵隊專員)等と連絡をとって台湾独立を考えていたが、安藤利吉の反対で取り止めた。国民政府は台湾を接収すると、1946年3月辜振甫を捕らえ、1947年7月29日に裁判をし、判決を下した。
判決文の主文。
『辜振甫は、共同して国土を盗み取る陰謀を働いた罪により、有期徒刑2年2ヶ月、許丙、林熊詳は同じく1年10ヶ月の実刑、簡朗、徐坤は無罪にする』
判決が確定したのは、1947年7月30日で、すでに228事件は過ぎていた。
(翡翠の叔母の話では、彼らは独立運動するような勇気はなく、逮捕されることで悲惨な情況から逃れようとしたと翡翠に話している)
新政府についての記述をすることにする。
1943年11月に開かれたカイロ会談以後、台湾は中国の版図に入られ、国民政府は1944年4月17日、戦時中政治経済の計画審議の最高機構として国防最高委員会の下に属している中央設計局内に『台湾調査委員会』を成立、台湾接収の準備をした。
そして、かつて福建省主席を8年勤めた陳儀を、その主任委員会とし、一切の台湾接収に関する計画・準備を命じた。
このメンバーの中には、台湾人で国民党の党と軍に勤める台湾人-いわゆる半山-も含まれていたが、運営の実験は陳儀と同郷の浙江省出身者と、8年在職した福建省時代の人脈が占めていた。従って、台湾出身者が、行政機関に当たって多くの台湾人を登用することを建議しても、採用されなかった。
1944年12月25、重慶で台湾調査委員会は、中央訓練団主宰中心に台湾行政幹部訓練班が設立され、翌1945年2月、蒋介石委員長はその班に対し、訓辞を行った。
「日本人は多年にわたり台湾を統治し、その功績は極めて良好。もし、われわれが台湾の政治を日本人に代わって引き継いだ場合、日本人に及ばないとなれば、この上ない恥辱になる。それは、この班の勉学の目的にも違反し、引いては国家民族に対して申し訳がない」
この談話は国民政府を接収するにあたっての基本理念を示し、日本人に代わって統治者の地位に付く場合、その民主政治の第一歩は地方自治にあること、地方行政は地方に任せ、台湾のことは台湾人の自己管理に委ねることを示した。
(当時、国民党などの外省人は日本の文化に対して著しく劣っており、医学、都市計画、その他の学問にも劣っていた。日本によって整備された鉄道、下水道、その他の設備に対して始めてみるものが多かった。
その中で、次のような逸話がある。ある外省人が水道を見て、水栓より水が出ることに驚き、壁から水栓を外し他の壁に取り付けたが、蛇口のハンドルを回しても水が出ないと激怒して台湾人に乱暴を働いたという)
しかし、実際には、中国政府は統治者の態度で台湾を治めたのだ。当時重慶には、俗称半山(中国人べったりの台湾人に対する蔑称)と呼ばれた台湾出身者もいた。
この半山達は蒋介石に、早期に台湾省の憲法を制定して、地方自治を実行するよう進言した。だが、その声は蒋介石の耳には届かず、対戦が末期に近付くと蒋介石は前に組織した台湾調査委員会の比較的穏当な計画を放棄し、台湾省行政長官公署の制度を実現させた。
この制度は中国内各省と全く異なるもので、今で言う『一国両制』と合致する。日本投降後2週間、8月29日国民政府は陳儀を台湾省行政長官に任命。31日事態切迫を理由に立法手続きを無視して、国防最高委員会の名で、台湾省行政長官公署組織大網と国民政府訓令を公布し、9月1日重慶に台湾省行政長官公署、台湾省警備総司令部の臨時公所を開設し、9月7日陳儀は軽微総司令をも兼任し、9月20日国民政府は、正式に台湾省行政長官公署組織条令を公布した。
この条文は、台湾の行政長官公署は、中国大陸各省の合議制とは異なり、行政長官に大幅な独裁制を与えていることになるのだ。台湾行政長官は。台湾省内で絶大な委員立法権を持つだけでなく、行政、司法の絶対的な指揮監督権を具備し、その上警備総司令を兼ねた。これは行政、司法、立法、軍事の大権を一心に集め、日本時代の軍人総督の権力は到底その足元にも及ばなかった。
半山人でさえ、ある連震東さえ、この制度は台湾同胞に総督政治の復活の錯覚を与え、植民地統治の再現を思わせると警告した。
皮肉にも、行政長官公署が台湾に現れると、多くの台湾人はこれを新総督府と呼んでこれをからかった。
この新総督府は、台湾の政治、経済、社会的資源に関する一切の計画を独占したのだ。
その新総督府の悪行は次のようである。
1.大陸人の地位襲断
2.親戚を引っ張り込む
3.接収より没収への転向
4.統制経済の名による搾取
民衆は不安を徐々に募らせていくのも無理はなかった。民衆の凋落、軍警の裏表、そして、経済の不振と民生の凋落は、戦後の台湾内に盗賊は横行し、あらゆる悪事を働く社会を作った。一方、それを取り締まる役目の軍警の散在が、なおその現象を激化させてしまった。
228事件の前年の1946年にも、台湾社会の3大事件が発生していた。
1.布袋事件:台南県の布袋嘴は米砂糖の集散地であり、多くの人が出入りしていたが、終戦後半年もたたない中、コレラが大流行した。当局はここを封鎖隔離し、伝染病予防のために警官を派遣し、機関銃をすえて全布袋嘴を取り囲み、交通は遮断された。賄賂次第で町の出入りができたが、一部の民衆はそれを不服として、警戒線を突破して射撃を受けて負傷者を出した。
2.新営事件:日本時代の皇民化運動の影響を受け、中国の土俗信仰、廟、屋台劇など禁止されていた。戦後、廟活動は復活し、1946年中元節に台南県新営鎮では盛大な『普渡戯』を演じた。観衆がその芝居を見ているとき、突如2人の拳銃を持った警察官が舞台に上がり、「今、コレラが流行っているので、こんな大勢集まることは許されない」と叫び民衆を解散させた。民衆は口文に『三字経』(汚い罵声)を浴びせ、下駄、石等を投げて講義したが、台上の警察官は民衆2発砲して数人を負傷させた。怒った民衆は台南警察署に殺到したが、事情を知らない局員は殴られ、警察の窓と机等は破壊された。幸い、当時の台南県長袁国鉄(福建人)と台南県参議会の陳華宗議長が夜道駆けつけて処理をして、ようやく収まった。
3.員林事件:やくざ出身の鹿港警察所刑事組長巫重力(彰化渓湖人)は、鹿港の名医施江西に対して暴力を振るって傷害を与えたということで、施江西から訴えられ、台中地方法院は何度も呼び出したが、巫は出廷しなかった。当時、巫重力は既に員林の台中警察局に転勤。事件当日法警54名が員林の台中警察局に赴き、局長の江嵐に逮捕状を示して、巫重力の引渡しを要求した。江局長は、法警に対し警察局2階の講堂に休息させる一方、督察長陳伝芳は秘に北斗警察局長林世民に電話して、総局の2階講堂に強盗が侵入したので、即刻保安隊を率いて救援に来るように命令した。林世民が部下を率いて、員林総局の2階に来ると、講堂の電気を消して強盗へ発砲を命じた。3人は即死してしまった。
この出鱈目なやり方は、法治になじんで来た台湾人を不安に落とし入れ、各新聞も大々的に報道した。
以上の3大事件後も、類似の小事件は数限りなく起こった。これらの事件の続発は、228事件直前の『山雨まさに至らんとして、風楼に満つ』という情景であった。1947年2月27日、延平北路で発生した殺人事件は、当時一連の社会不安の1つであった。ただ、事件が発生した地点が、全台湾随一の都市であり、228件の導火線として口火を切ったのだ。
ここで簡単に228事件を一通り記述することにする。
1947年、台湾人に忘れることのできない血で染められた歴史的事件である。その真相は今も明らかになっておらず、台湾現代史の空白の1ページとして残っている。
その台湾史上、もっとも大きな傷跡を残した228事件の背景には、第2次世界大戦後に台湾が旧政府に接収されたことで、中国大陸と台湾の長年の隔絶をもたらした文化的軋轢が表面化したことが挙げられる。
この悲劇の経緯は、民の対立、軍隊による鎮圧、旧政府の一般人の摘発と弾圧、この3段階に分けることができる。
この事件の導火線となったのは闇タバコの取り締まりによる市民殺傷事件である。旧政府はすでに抑えきれなくなっていた民間の不満の深刻さを理解できず、曖昧なままで政府改革を引き伸ばし、電波塔で台湾全土にこの事件を広めた。たった、数日で民間弾圧が行われたのは、それが原因である。
結局、旧政府は支援部隊による武力的解決を図ったのだ。1947年3月8日、中国大陸より支援部隊が台湾に到着し、北から南まで都市部、田舎までもいたるところで軍隊による非人道的かつ残虐的な一般人鎮圧が始まった。年貢の高額な徴収、その他の言い表せないような残虐な行為。これが、次第にエスカレートして、反旧政府勢力の摘発と弾圧へと発展していった。林茂生、施江南、王育霖、呉鴻麒、王添灯、阮朝日、呉金錬、宗斐如、李瑞峰、林旭屏、徐春卿、李仁貴…といった知識人がこうした摘発により強制連行され、いつ、どこで、誰の手でどうのように死んでいったか明らかにされぬまま、現在でも行方不明とされている人もいる。
旧政府は静粛を図るため引き続き反旧政府勢力を一掃するための弾圧強化と戒厳令による白色テロを実行した。こうして40年にも及ぶ長い暗黒時代の幕が切って落とされたのだ。詩人、呉瀛濤は「あそこに/路上で息が絶えたように/我も倒れ/太陽にわが命が焼き尽くされ/夜の寒さに魂は凍りつき/ああ、あの時/確かに私は一度死んだのであった」と死者の冤罪を叫びと生き残った者のかつて味わった魂の死を表現している。
1947年生まれの学者陳芳明は「1947年、海に囲まれたこの島で/重々しい響きのなか私は生まれた/後の父の回想では/あれは春雷ではなかった/出棺の挽歌だった/春の耕作は未だ始まることなく/墓場の草だけが生い茂っていた/ああ、凶作の1947年/ただ死のみが豊作であった」と当時の様子を克明に描写している。
冤罪による計り知れない数の死者と弾圧を受けた当事者の苦しみは言葉には語りつくせないほど大きなものであったが、最大の被害者は家族崩壊され、ばらばらにされた家族だろう。息子を失った親、夫を失った妻、父を失った子供達。その多くが悲しみをぶつけるすべもなく心に大きな傷を残したまま行き続けなければならないのである。台湾社会全体が黒いベールで包まれたように沈黙し、真実は闇に葬り去られたのだ。
(罪もない反乱の頭となりうる知識人、文化人(医師・ジャーナリスト・弁護士等)は、無実の罪で捕まり、足に太い針金でつながれて海まで連れて行かれ、1人ずつ銃殺されていった。その中の1人が奇跡的に生き残り、この残虐な光景を証言している。中には国際法で禁止されているダムダム弾(体に当たると小さな欠片になって散る銃弾)さえ使われていたという)
この旧政府と戦えたのは、日本人から習った戦法と銃器、日本刀があったからである。日本統治時代は武器を保持することを許されていたのだ。
今は国家の所有なので所持は許されるべきではないという意見がある。
被害者の冤罪は晴れ、その家族に春が訪れるまでには、4、50年もの月日が費やされたのだ。その間の台湾人の死者は1万人から数万人と言われているが定かではない。この、台湾の人々に嫌われた国民党政府と一緒にやってきた役人や軍人らと、その家族が「外省人」と呼ばれる人々で、現在の台湾の人口(約2200万人)の13%を占める。
ここで「外省人」と、以前から台湾に住んでいる「本省人」という区別が登場する。国民党政府は建前上、中国大陸全土を領土としており、共産党との内戦で形成が不利になり、やむなく今は台湾に避難している、という筋書きになっていた。そのため国民党政府は、人々が中国大陸の、どの省の出身であるかという「省籍」を重視し、各自の身分証明書に記入した。
そして「本省」とは「台湾省」を指し、「外省」はそれ以外の場所、つまり大陸を指していた。1980年代に政治の民主化(本島化)が始まるまで、外省人は台湾の行政、知識面でのエリート階級、支配層であり、官僚はほとんど外省人だった。今もその傾向は強く、たとえば台湾の新聞記者の大半は外省人である。外省人の母語は、大陸の標準語である「北京語」で、台湾ではこれを「国語」と呼んでいる。
当然、人口の85%を占める本省人は、外省人に対して、良い感情を持てなかった。民主化が始まるまで、台湾の学校では、国語会話を奨励するために、台湾語を話すことが禁止され、うっかり台湾語を喋った生徒は、次に別の生徒が台湾語をうっかり喋るまで、首から「国語を話しましょう」と書かれた札をぶら下げている、などという懲罰もあった。(日本統治時代には「日本語を話しましょう」という札だったそうだが) テレビ番組も、ほとんどすべて北京語で、台湾語の放送時間は短く制限されていた(北京語を教えていた者も北京語を即席に覚えた者が中途半端に教えたものなので、台湾人に浸透した北京語は完全なものではない) 。
80年代に入って進んだ民主化で、最初に出てきた新しい勢力は、国民党独裁時代に、反政府の主張を掲げ、獄中生活や海外亡命を強いられていた本省人たちが結集して作った「民主進歩党」(民進党)だった。民進党は、台湾語を公的な場で使うことや、台湾が中国大陸とは別の国として独立するといった「台湾化」を掲げ、勢力を広げた。
一方、「民主」や「自由」が重視されるようになった冷戦後の世界での生き残りを画策する与党・国民党でも、1988年に死去するまで総統を務めた蒋介石の息子、蒋経国が、副総統に本省人の李登輝を抜擢し、自らの死後、憲法の規定によって自動的に、李登輝が初の本省人総統に昇格するよう仕組んだ(蒋経国の死は突然だった)。
蒋経国は遺言で、李登輝が総統だけでなく、国民党主席も兼務するよう命じていた。外省人が主流である国民党内には、本省人の李登輝を拒もうとする勢力が大きかったが、それを阻止するための遺言だった。これにより、台湾の政府だけでなく与党でも、台湾化が進んだ。実は台湾化は、本省人が嫌う外省人の頭領だった蒋経国の決意によって、実現したのだった。
しかし、皮肉にも李登輝が総統になることで、蒋介石親子の悪夢から解放されて、台湾は初めて自治権を手にして、権利を得ることができた。今までの統治下の歴史に終止符を打つことができたのだ。
2004年現在も総統選挙が行われているが、両者の考えは、台湾は独立すべき、という意見と台湾は中国の一部だという意見の2極がだいたい50%に分かれているのは、皮肉と言えるだろう。これは、今までの経緯が台湾人の人々の心に大きく影響を及ぼしているのだろう。
この選挙で論点なのは、陳水扁の台湾人アイデンティティの主張である。これは世界的に難しい問題であり、逆を言うと陳陣営ではない方では、その主張の反対を支持しているといっても過言ではないということである。
288事件があり、外国統治の歴史を持つ台湾人にも、中国に属するという台湾人アイデンティティに反する意見を持つ者達が、同じ漢民族ということでこれだけいたということである。これは、民族的に平安を保った日本人の自分には、複雑な思考と想いを受けることになった。
そして、2度目の陳水扁の勝利は、台湾にアイデンティティを与える結果になり、世界に大きな影響を与えた。
話は戻る。
美玲は視線をギターケースに向けた。
「それ、ギターでしょ?」
「ええ、ZO ‐(ー)Ⅲ(さん)というアンプ内臓のエレキギターで、ここで路上ライブできたらと思いまして」
「凄いじゃない。よく、飛行機で持ってきたね。後で聞かせてよ」
「遠慮します」
「あ、そう」
翡翠はそれから、事件で犯人の人物像と彼らのしたことを一通り話して帰されることになった。
「じゃあ、私が送ってあげる」
美玲は上司達に半ば強引な了承を得て、翡翠の手を引いて取り調べ室を後にした。
無言のまま外に出ると、駐車場のけして綺麗とは言えない車の傍に行き、翡翠からスーツケースとギターを奪うとトランクに入れた。そして、日本とは反対の右側の運転席に颯爽と乗り込んだ。翡翠は唖然としながらも、後部座席のドアを開けようとしたら、美玲がウインドウを開けて叫んだ。
「どうして、後ろに乗るの?こっちに来なさいよ」
「はぁ」
翡翠は意外な言葉に戸惑いながら、助手席に乗り込んだ。
エンジンを掛けると同時に後ろを見ながら、バックで急発進をして向かい側のパトカーにぶつかりそうになって止まった。そして、思い切り右にハンドルを切るとタコメーターが一気に5の数字まで来るほど、急発進して横目で翡翠に言った。
「本当はもっといい車がいいのよ。これって、加速が今一だし、タイヤのグリップも物足りないし新車のスポーツカーが欲しいわね」
翡翠はそんな車にしたら、絶対、美玲は事故を起こすと思った。その表情を読み取って美玲はむすっとして言った。
「何か言いたそうね」
彼は無言で必死に首を横に振った。
しばらく、警察署から出て走っているが、高速に乗ってどうも天母の方向ではない、見慣れない道、方角を進んでいることに気付いた。恐る恐る視線だけを美玲に向けて、重い口を開いた。
「どこに行くんですか?南下していますけど」
すると、彼女は悪戯っ子のような表情でにっと笑った。
「板橋よ。…いいじゃない、元々観光に来たんでしょ。板橋の林家花園に行きましょう」
「仕事はいいんですか?」
「好、好。いいの、いいの」
彼女は乱暴な運転で多すぎるスクーターの波を縫って、とても日本人には運転は危険すぎる車の列の道路を進む。見慣れた町並みを眺めながら、翡翠は林本源園邸について想いを巡らせた。
すると、ぼけっとしている翡翠に美玲は話しかけた。
「林家の子孫ってことは、貴方は林家の子孫なのに、どうして日本国籍で日本語しか話せないの?」
「僕は台湾人の父親と日本人の母親から生まれたからです。父親が日本に来て大学院を出て母親と結婚して、兄と僕が生まれたときは、まだ台湾国籍だったんで、僕は昔、台湾国籍だったんです。でも、日本でかつて統治していたということで台湾人に一時期短期間、日本人に帰化し易くした時期がありまして、そこで、父親、兄、そして僕は無国籍になり、日本国籍を取得しました。もっとも、戸籍には、引越しを多くしているので、その事実は後ろの方に行ってしまい、記載されてはいないので誰も知ることはないんですけどね」
「へぇ、じゃあ、昔は私と同じ国籍だったんだね」
「でも、赤ちゃんの頃の話ですよ。今からでも台湾のパスポートを取ることが出来るらしいですけどね」
「ねぇ、元財閥だったら、貴方はお金持ちなんでしょ」
そこで、もう林家の資産はなきに等しく裕福ではないことを説明した。
彼の叔母の話では、現在、公開されている庭園は、本来はもっと広かったが、税金を払えるほどの資金はすでに林家にはなかったので(林家はかつての資金、栄光は失せているとのこと)、切り売りして今の規模になっているとのことだ。私有地を少し残すばかりである。しかも、復元していると言われているが、実は池を埋め立てたりして形を変えている。それは、彼の今は亡き祖母の家に掛かるかつての林本源園邸の水墨画と現在の情況の違いや、叔母達の記憶からも証明されている。
日本統治から解放された時は、彼の父親は4歳、叔母は7歳であった。叔母の話では、すでに林本源園邸には住んではいなかったという。それでも、林家の栄光の欠片は残っており、代々、林家に使える使用人を抱えており、彼の父親は靴下でさえ使用人に履かせていたそうだ。
今では、その資金も底をつき、一部の林家の子孫だけ以外は林家の遺産は残ってはいなかった。
また、林家の保有する土地は、現在は850を超える土地謄本から見ても分かるとおり、まだ、残っていて、それは約9億円以上の価格である。しかしそこは、耕地は蒋介石による政策により小作人に与えてしまったので、残った灌漑設備であったり、公道や政府の建物のある土地であったり、他人の家の建つ土地であったりして、簡単に売ることもできない。また、全ての林家保有の土地を把握し、その価格を判明させることも困難を極めていた。
当時の林家保有の土地は、国民党侵入により不明確になっていたのだ。翡翠の祖母の兄弟の1人が、彼の曽祖父の遺産を判明させて相続税(遺産の1/2)を払い相続するということに積極的に活動していたが、長年かけていてもそれが上記の原因よりうまく進むこともなく、現在は翡翠の2番目の伯父の知り合いの弁護士に依頼している。
その中で一番大きな土地は林家の共同所有であり、相続放棄していく子孫の中で20数人が所有していることになった。(税金がかかり、土地をどうすることもできないので、相続放棄する林家の子孫が続出していったのだ)
売れる土地も灌漑設備の場所は、利用価値がなくうりにくく、他人の家が建つ場所も立ち退きができないため売れない。強いて言うと、公的な土地になっているところは、台湾政府より売買できるとのことで、それを優先的に処分することで何とか進めていき相続税を払っていこうとしていた。
10数億円を20数名で分けるとすると、もし、この厄介な情況を解決できるとそれなりの相続が祖母にも下り、翡翠の祖母も3年前に他界して、その子供の伯父3人、叔母1人(もう1人の叔母は亡くなっている)に相続される。叔母は相続放棄しているので、翡翠の父親に数千万円を相続できることになるのだが、それもいつのことになるのだろうか。
全ての林家の遺産を処理できるのは、もしかしたら翡翠さえこの世にいなくなった後かもしれない。
「残念だね」
「別に遺産を欲しいとは思わないので、そうでもないですよ。親戚、両親の相続も放棄するつもりですしね」
美玲は徐々にこの不思議な日本人、翡翠に興味が湧いてきていた。元々、好奇心旺盛な彼女には彼は格好のターゲットであった。
「ところで劉金宏という刑事を知っていますか?」
その質問に美玲は妙な表情で翡翠の顔を覗き込んだ。
「そんな人、いないわよ」
「おかしいなぁ。僕を助けてくれた人がそう名乗ったんだけど」
板橋に入り近くの駐車場に止めて、しばらく歩いて林家花園の入り口まで来た。彼が浪人時代に来た時はまだ修理中の場所もあり、それから数年後にはすでに完成して、来青閣(かつて周囲の田んぼを監視する建物)の前の広場では、市が催すイベントで市民が踊りを披露していた。
その林家花園は、見慣れた姿を彼らに見せていた。
次に林家花園。ここで、日本で紹介されているガイドブックやインターネットのサイトでの記載されている内容を紹介する。
パンフレット資料より、上記と重複してしまうが紹介することにする。
林本源園邸の始まり
林氏来台の始祖は、林應寅である。清乾隆43年(1778年)福建省漳州府の龍渓より台湾に遷移したのが、全ての始まりであった。
最初は、淡水廰の新莊(台北縣新莊)に居住することになる。彼の子供、平侯が一緒に来台して米商に僱はれ、後に自分で経営して、台湾、福建を往来経商して、数年後ついに巨万の富を得ることになった。
再び竹塹の林紹賢と前台湾の塩務を合劺辛した。財富が里増し、平侯は年がすでに40歳なので錦を飾り故郷へ帰り献金し、官位を受けた。
その後、務めの意志がなく官職を辞して台湾に帰る。当時は道光年間台北盆地で漳泉の械門は頻繁なので、平侯は淡水河の上流大嵙崁(現在の桃園大渓)を選択して巨宅建築、周囲四方城壁で防御を固めた。
道光27年(1847年)収租の便をはかるため、枯橋(現在の板橋)に弼益館を建てた。これから林家板橋に大宅園を建造する始まりになった。
平侯の5人の子供の屋号をことわざの『飲水本思源』から付けて、下記の5つの屋号となった。
飲記・水記・本記・思記・源記の本記・源記から、林本源の名が付いた。その中で、実子で長男の國仁の若き死を除いた、國華・國芳が最も賢能で父の作風を継承し、拓展に勇めた。兄弟2人は清咸豐元年(1851年)に合力して弼益館の右側に3つの大宅を建造し、落成後、ここに遷居した。
間もなく、宅後國林営建し、名士呂西村と謝琯樵を礼聘し、西席に担任地、林維讓・林維源兄弟を教導した。
その後、光緒年間の林維源が3つの大宅の南に土木を大興し、5つの大宅を新建して、庭園を廣建し、日後の規模を築いたのだ。
林氏3代の力量で、清代台湾の鉅富になって、邸宅園林を興築して、劉銘博が台湾巡撫を担任している時は林家と密接な関係を建立している。
ここで板橋の林本源家族が近百多年来楚史上非常に重要の地位へと具へていることが見られる。
ガイドブックに紹介されている内容。
その1
板橋市 林本源園邸 (Ban-gyou chi Rin-bun-gwan) ⇒板橋市西門街。
板橋市の中心部、西門街に面して林家花園(俗称)が開かれている。林家の先代は、福建省漳州から、1778年(乾隆43)、台湾に移住し、やがて巨富を積むにいたった。そこで1847年(道光27)、この地に邸宅をかまえた。以来3代にわたって、つぎつぎに壮麗な楼閣を築きあげていった。
楼閣につづいては花園の造成にかかり、5年の歳月をついやして、1893年(光緒19年)に落成した。造成のための建築士や工匠、また彫刻をはじめとする建築材料は、故郷の福建からもとめた。総工費は50万両を要したという。台湾府城の工費が20万両であったことと比較すれば、その豪壮さがしのばれるであろう。
この大邸宅のなかで林家の一族は栄華をほこったが、一方では事業の発展にともなってアジア各地に進出するものも多かった。しかしも第2次世界大戦が終わり、台湾が光復すると、戦後の混乱に乗じて、居住者の少なくなった邸内に、無断で入居するものがあいついだ。そのため、さしもの華麗な建築も庭園も、荒廃するばかりとなった。
台湾県政府は、由緒ある古蹟を保存するため、無断の入居者を立ちのかせるとともに、復元の工事に当たったのである。修復は6年半をついやして1986年12月に完了した。そこで1987年1月から『古蹟林本源庭園』として、一般に公開するにいたる。なお林本源とは、林家の屋号である。敷地の総面積は約4万2900㎡(約1万3千坪)、建築面積は約1万2210㎡(3700坪)におよんでいる。
その2
林本源邸園
台湾の大財閥、林本源邸は台北郊外の板橋にあり、約200年前中国福建省から台湾に来て巨万の富を得た人物。17000坪の大邸宅と3700坪の広大な福建式建築を見学できる。戦後の混乱期に不法居住者が占拠していたものを整備して、1987年より一般公開されている。往時の大富豪の豪奢な生活を窺い知ることが出来る。貴賓室の「定静堂」や書斎の「汲古書屋」などみどころの多い中国古典邸宅です。
その3
板橋市
板橋はその台北縣にあって、台北縣の県庁所在地でもある、行政・文化・商業の中心地だ。人口も台北縣で一番多い。そこに住む人はほとんどが台湾の他の地方から移り住んだ住人だ。ここに住み、台北市まで通勤・通学する人が実に多い。東京でいえば、多摩、町田あたりに相当するだろうか。
そんな板橋にも歴史や見所はある。もともとこのあたりの公館渓にかかっていた木の橋が地名の由来だというが今は残っていない。一番有名な歴史建築は「林家花園」(林本源邸)だろう。もともと桃園縣の大渓にいた大富豪・林氏が1893年、板橋の西門街に中国式の一大庭園を構築した。その名残が今日の林家花園である。園内(有料)は邸宅、大小さまざまな屋敷、書斎、茶室などが点在し、池や築山、そして四季をとわず咲き誇る花が自慢の郊外屈指の観光名所。
インターネットでのサイトの紹介例
その1
林家花園はただの庭園でなく、れっきとした清の時代の大富豪が建てた歴史ある豪邸である。二級古跡にも指定されているという林家花園。
台北市内より車で約20分ほどである。その豪邸は、今年「2004年台湾ランタン・フェスティバル」が開催された板橋市にあり、観光スポットとしても有名である。清の乾隆49年(1784年)に中国大陸は福建漳州から移民してきた林一族は、台湾で事業を成功させ巨大な富を築きあげました。2代目1847年には板橋に豪邸が建てられ、3代目の1893年にはその豪邸の傍らに庭園が作られました。この庭園が現在の林家花園の前身です。計40年以上、銀50万両もの歳月と費用をかけて建設されたこの豪邸は、伝統的な中国建築美のエッセンスが各所に散りばめられていて、建物と庭園が一体となった美しさはまさにため息ものである。
6054坪にもおよぶ広大な敷地の中には隅々まで中国建築美を堪能できるポイントが多数ある。書屋やお堂、楼や閣など敷地内の建築物は中国伝統の園林建築と呼ばれるスタイルで、華やかな造りの中にも文人的で雅な雰囲気が感じられるものばかりだ。外観の優雅さにこだわりのあるスタイルで、随所にたたずむ東屋も三角、四角、梅の花、八角とバリエーション豊かである。石造りの壁に開けられた飾り窓も、蝶や花瓶の形をかたどっていたりと、すみずみまでの気配りが感じられる。また園林スタイルを構成する大事な要素が建築、庭山、池、庭木の組合せ。自然の雄大さと美しさを表す庭山と庭木、各所に作られている池とその水面に映し出される建築物の美しさ、この4つの要素が素晴らしく融合されている。
細かな細工の施された彫刻が印象的な書屋やお堂、池にかかる中華風の橋や石造りの壁の飾り窓など昔の大富豪になったつもりで回廊を歩いてみると半日はたっぷりと楽しめてしまうこと間違いなしである。
【板橋 林家花園(林本源園邸)】
住所:台北縣板橋市西門街9號
電話:(02)2965-3061
開放時間:9:00~17:00(チケット販売は16:00まで)
入場料:大人100元、子供・学生50元
定休日:清明節、旧正月(大晦日から1月2日まで)、毎年夏休み&冬休み前の15日間
交通:三重客運9路、307、310番のバスに乗り「北門街」バス停にて下車。そこから徒歩約5分。
その2
台湾唯一の林園古跡「林家花園」の修復作業が完成
国の重要文化財(2級古跡)として指定された台北県板橋市にある「林本源園邸」(清朝時代の実業家・林氏一族の邸宅、通常「林家花園」と呼ばれている)は、約1年の修復工事を終えて、去る8月9日に再オープンした。1853年に建設された林家花園の建物3軒とその周辺花園は、台湾の古い住宅の典型として台湾建築史の重要建造物であるのみならず、人文的要素の強い観光名園の中では、台湾唯一の林園古跡としても有名。
なお、同花園のオープン時間は、毎日9:00~17:00迄(但し休日の翌日は定休日)。入場料は、大人100元、小人(12才未満)50元。
再び中歴に戻って列車に乗る。まだ時間は早いので小人国でミニチュアを見かけた林本源園邸へ出かけてみることにする。板橋はちょうど台北までの帰り道にあるので都合がいい。
板橋站から市場のそばを通って林本源園邸に到着する。ここは福建省中南部のスタイルの庭園なのだそうである。順路に従って歩くとここのオーナーであった林維源が読書をしたりお客を招き入れたりしたという方鑑斎、月を眺めたという池など、老朽化はしているためかどことなく風流な感じがする。また、この庭園は壁に造られた窓が有名なようで、ひし形、円形はもちろん桃、魚、とっくり、蝶など、様々な形の窓が見られた。
次は、台北長者番付に名前を連ねる「林本源園邸」を訪れた。合計52個もの部屋があり、一番面積が広い貴賓室はもとより、中には月見の部屋なんてものもあり、豪邸ならではの工夫の数々に目を見張った。
道路まで使用人専用道路や、男性・女性の各専用道路まである。
門柱にしても、必ず「いわれ」があり、縁起をかつぐのは世界共通なのだと思ったことである。
その3
『林家花園』が再オープン(庭園に加え清朝の建物も解放)
台北県板橋市の県2級史跡「林家花園」(林本源園邸)が1年にわたる修復工事を終え、8月9日再オープンした。従来より開放されていた庭園に加えて、清朝末期の1853年に建てられ、林家一族の住まいとなっていた「三落大厝」も全面的に修復され、初めて公開されることになった。
戦後、林家の広大な邸宅は、庭園が百戸余りの違法建築に占拠され、建物も荒れ果てていた。林家は1976年、邸宅を台北県に寄付するとともに、違法建築住居の撤去や住人への補償に当てる費用1千3百万元(約4千6百万円)を提供した。さらに96年に県が
「三落大厝」を修復した際には、総費用の半分の5千万元(約1億8千万円)を負担した。
こうした文化財保護への貢献が高く評価され、林家には最近、行政院文化建設委員会から「文馨奨」が授与されている。今回開放される庭園および「三落大厝」の面積は2ヘクタールに及ぶ。開放時間は午前9時から午後5時まで(入場は午後4時まで)で、「三落大厝」の見学は定員制を採り、専門のガイドが解説する。「林家花園」は、台鉄の板橋駅から徒歩20分の場所にあり、台北からちょっと足を伸ばすのに便利だ。
その4
板橋林家花園
台湾北部一の名園、「板橋林家花園」は、もともと「林本源庭園」、「板橋別墅」と呼ばれていた。「林本源」というのは人名ではなく、その昔、林家の二代目当主である林平侯氏が五人の息子に財産分与をする際に、それぞれに「飲、水、本、思、源」という名をつけたものの、長男、四男は養子だったことから、次男は若くして死亡、実の息子である三男と五男の屋号である、「本」と「源」の字を用い、それぞれの邸宅名としたのがその名の由来である。
1888年から1893年にかけて建てられた「板橋林家花園」は国内唯一の庭園遺跡で、昔ながらの面貌が保たれている清代の庭園および邸宅の古典的な建築を代表する建物である。中国山水庭園の真髄ともいわれる江南風の庭園で風雅にあふれ、第2級の国家遺産にも指定されており、台北一の庭園の名が高い。わざわざ大陸福建省の漳州から一部の建材を取り寄せたり建築師も呼び寄せたりするなど、当時ではまれな大掛かりな建設工事となった。庭園建設だけでなく、150年の長い歳月を経ている「三落大厝」の修復工事も完了し、私たちの目の前に新たな姿を現した。外壁にはレンガのかけらで花が形作られるなど大変手がかけられている。
入り口の広間の「三通五瓜」と呼ばれる建築作品や仏間の廊下前に置かれた飾り棚には精工な彫刻細工が施されており、独特な風格を持つ窓格子がはめられるなど、どれをとっても台湾ではめったにお目にかかれないものばかりで、至るところに中国の伝統建築の美があふれている。
以上の紹介の中で、事実とは異なる点があることに気付くが、それはあえて触れないことにする。
注目すべき点は、壁はほとんどが修復されているので、昔の復元としても元来のものでないということである。知っている人には、一見ではその違いを知りえないので分からないだろう。荒廃前の記憶を持つ叔母から翡翠は聞いて分かっていた。
翡翠は入り口で右を向き、三落大厝のある塀を眺めた。
「こっちから入る?」
「いいえ、入れませんよ」
三落大厝は私有地であり、観覧することは本来個別で来た観光客は入れないのだが、浪人時代に来た時は、叔母や祖母の兄弟もいたこともあり、特別に入って観覧することができた。そこは、林家先祖の写真が掲げられて、林家の子孫が年に1度、そこに集まって集会を開いていた。
そのことを説明して、受付で観覧料金を払って日本語用のパンフレットを受け取ると細長い道を進んでいった。
「昔は、僕は林家の子孫ということで、無料で入れたんですけどね。今は祖母の兄弟が一緒じゃないので無理ですね」
「あの入り口の大きな門凄い彫刻だね」
「中の建物の装飾も芸術ものですよ。あの門は丁番が使われていなく、扉に付いた棒を枠の穴に差し込んで開閉できるようにしてあるんです」
「流石、林家の子孫ね。何でも知っているのね」
「そうでもないですよ。中に売店があるので、よかったら林家花園の詳細の書かれた本が売っているので、興味があるなら買って行くといいですよ。装飾の写真と説明だけの本も売っていますし」
「じゃあ、ポストカードとかも買っちゃおうかな」
すると、呆れた顔をあからさまに見せて翡翠は先を急いだ。
「どうしたの?」
美玲はすぐに早足で追って彼の顔を覗き込んだ。翡翠は照れて距離を保って言った。
「本当に仕事中だと自覚しているんですか?」
「勿論」
「いつも、こうなんですね。まぁ、いいですけど」
翡翠はそのまま左の廊下に入り池の前に出た。そこには小さい舞台があり、手前と奥に東屋があった。そのベンチに腰掛けて池の中の鯉を見ながら、翡翠は溜息をついた。
美玲はそんな心中の分からぬ彼の隣に座った。回りは若い恋人達が多い。彼らのどこのくらいが、この庭園の意味を知っているのだろうかと翡翠はノスタルジックに近い感情を抱いた。
何回か来ているこの歴史的な場所で、修復されたとはいえ、かつての形とは違うその事実を知っている人は何人いるのだろうと、感慨にふけった。実際、蒋介石率いる国民党による荒廃の前の立派な姿を知っている叔母の話では、池が埋め立てられているなど、実際に学者による研究で修復された姿が違うことを聞いていたのだ。政府に寄付している関係上、林家はその修復に口を挟まなかったのだろう。
「ねぇ、お腹空かない?」
彼女はそう言うと、お土産を買いに売店に向かっていった。翡翠もとぼとぼとそれについて行き、30分の買い物の間、外を眺めていた。美玲の買い物が終わって笑顔で翡翠の元に来ると、彼はさりげなくその荷物を持った。
「結構、買いましたね」
「友達にもお土産にと思ってね。地元人の観光地でもあるからね。でも、私の荷物を持ってくれるなんて、紳士的なのね」
「当然の行為ですよ」
2人は車に戻ると、北上して翡翠の泊まろうとしていたホテルに向けて、あの危ない運転が始まった。翡翠は右手でドアの取っ手に掴まり、シートベルトを左手で掴んだ。
しばらくして、ホテル前のところまでくると、小声で慎重に翡翠が言った。
「このまま、ホテルを通り過ぎて」
「どうして?」
横目でホテル前に止まる白い日本車を見ながら、翡翠は真剣な面持ちになった。
「奴らです。今朝、掴まったのは僕を追ってきた下っ端で、取引していたのはあの車の連中です。生憎、ボスらしき人物はいなかったので、僕が帰ってくるのを待ち伏せている見張りでしょうね」
そこで、美玲が指を差そうとしたので、翡翠がそれを慌てて制した。
「あっちを向かずに、気付いていない振りをして」
そのまま、大通りを進み信号に掴まって止まった。そこで、翡翠は呟いた。
「あいつら、本当に県警が追っている麻薬の売人だったのかな?」
「どうして?」
「いや、何となく。これでも、第6感は鋭い方なんですよ」
「第6…かん?」
面倒なので、その言葉の説明をあえてしなかった。翡翠はそこで、腕を組んで顔を伏せた。
「…とにかく、彼らは何かいわくつきの宝物を手に入れて、闇ルートに高値で売ろうとしていたのかもしれませんね」
「何故、そう思うの?」
「彼らから邪悪な霊的なものを感じたので」
「霊感があるんだあ。そういえば、台湾で変な噂が広まっているんだけど」
「それは、どんな?」
「黄金の屋根飾りを手にした人が次々に亡くなっているっていう呪い」
すると、美玲は微笑んで彼の肩を叩いた。
「どっちにしても、噂だもの。あんまり考えすぎない方がいいよ」
「あなたが本当に楽天的ですね」
その皮肉にも、さらっと彼女は流して髪をかき上げた。
「早く、本部に奴らのことを通報して。でも、あそこはもう奴らに目をつけられているので行けないし、これからどうしよう。空いているホテルがあれば…」
すると、愛らしい表情を翡翠に向けて美玲が言った。
「私の家にくればいいわ。父親は単身赴任で高雄に行っていて、母親と2人暮らしなんだけどね」
「こんな見ず知らずの日本人の男性を自分の家に泊めて平気なんですか?」
すると、彼女は微笑んで言った。
「貴方は来生翡翠。日本人と台湾人のダブル。観光客で麻薬取引を目撃して犯人グループに狙われている。林家の子孫。パスポートも調書も署で見せてもらったわ。これでも見ず知らずかしら?平気だから、気にしないで」
美玲はハンドルを左に切ってバスと並行に走り、頭上の鉄道を見ながら彼女のアパートに向かう。翡翠は溜息をついて窓外の後ろに流れる台湾市街の景色を見ていた。すると、サイドミラーに視線を移し、瞳を細めた。
道路に駐車すると、アパートの中に入りエレベーターで3階に着いた。ごつい鍵を取り出すと回して開けた。そこは土間があり、日本と同じように靴を脱ぐようになっていた。
内ドアを開けるとダイニング、その奥にリビングが広がり、さらに先にはベランダがあり観葉植物が所狭しと陣取っていた。
「明日からどうするの?」
彼女がそう訊くと、翡翠はリビングに向かい、荷物を下ろしながら振り返らずに言った。
「アメリカの叔母に電話して、祖母の兄弟の運転手にどこか観光地に連れて行ってもらうよ。いつも、彼か、叔母の知り合いのタクシーの運転手達に色々連れていってもらっていたし」
「その必要はないわ。迂闊に外出して狙われても損でしょ。明日、署で休みを取って私が観光に付き合ってあげるから」
そこに美玲の母親、麗宜がキッチンから姿を現して、翡翠を見て言った。
『あら、お客さん?』
美玲は簡単に説明して、彼をダイニングの席に座らせた。
「林家?あ、貴方のお祖母様のお葬式、テレビで見たわよ。貴方もそういえば出ていたわね」
彼の祖母の葬式はテレビが一部始終撮影していたのだ。胸に喪章の布が日本と違って不思議な感じだったのを翡翠は覚えている。葬式は日本と似たものであった。火葬をしてお骨を壷に箸で入れる。そして、翌日、巨大な墓の下を砕いて中に骨壷を入れてセメントで封印をしたのだ。
麗宜は翡翠と話が弾み、それが何故か美玲の機嫌を損ねていた。すぐにキッチンから沢山の果物を持っていた美玲は、笑顔でこう言った。
「日本にはない果物で珍しいでしょ。どうぞ」
すると、礼を言ってパパイヤを食べながら翡翠は言う。
「実はこれらの果物や台湾の食べ物は小さい頃から食べ慣れているんで、珍しくないんですよ」
釈迦頭、スターフルーツ、ライチ、長細いスイカ、ココナッツのジュース、パパイヤ、果物だけでなくビーフン、黒ゼリー、牛粉、高雄のからすみ等の飲食物は日常で食卓に出ていた。毎回、台北に来るたびにお土産にパイナップルのパイのお菓子やお茶、月餅を買ってくるのも習慣になっていた。それらも食べ飽きるほど、食べている。
釈迦頭、スターフルーツ等を目の前にして彼が何気なく言った言葉が美玲の機嫌を損ねた。そのうち、麗宜は食事の準備を始めた。
キッチンで麗宜は翡翠と話しをする。その2人の会話を他所に美玲はリビングでテレビをぼんやりと見ていた。翡翠はそれに気付き、果物を頬張って台湾茶を飲み干してから、ダイニングからリビングに移った。
美玲は横目で翡翠を見ながら言う。
「明日はどこに行く?署に寄った後にどこにでも連れて行ってあげるわよ」
「じゃあ、木柵の指南宮がいいな。道教の総本山で、最大の廟だから」
廟というのは、仏教でいうところのお寺を意味し、道教は台湾において最大の宗教で、そのほとんどの人が信仰していた。
指南宮。台北市南部の山の上にあり、俗に仙公廟とも呼ばれる。本殿を始め、凌霄宝殿、大雄宝殿の壮麗な建築が立ち並び、本殿には主神として、道教の神として孚佑帝君とあがめられる呂洞賓である。
呂洞賓は唐の時代末期に実在したと考えられ、道教の修行により仙人(道教でいう神様)になり、秘薬を作って民衆を病気から救った。その売り上げで貧民を助けたという。他にも様々な逸話が伝えられ、呂仙祖と呼ばれる。
彼の霊は光緒8年(西暦1882年)に大陸より分霊されて1891年にこの地に廟が建てられた。
凌霄宝殿には玉皇大帝、三宮大帝および三天尊をまつる。6階建て、宮殿と見まがう殿舎で、1階に祈夢堂と名づけられ、600人も宿泊することができる。3階に道教の祖と崇められる老子、4階には古代の聖天子と伝えられる中国の神、堯・舜・禹、そして、5、6階に主神が奉祀している。
本殿右側に大雄宝殿(仏教の金堂のようなもの)が建てられ、ここにタイより寄贈された釈迦如来像が安置されている。全身が漆黒の尊貴な姿である。
この指南宮北方には動物園が開設されている。
台湾での宗教の最も信仰されているのが、その道教であった。日本にも大きな影響を与えている。占星術、陰陽五行説、陰陽道、仙道。仏教にも影響を与えている。
では、道教とはどんな宗教なのか。それを述べることにする。
中国では、土地信仰、中国神話、大乗仏教、小乗仏教などもあるが、主に、道教、孔子の教えの儒教が一般的である。
台湾も例外ではなく、廟も多く入ってきているが、道教の教えが数多く反映されている。もっとも、林家では自分の1つ前より4,5代まで遡りキリスト教を信仰している。
道教とは何か。
道教は中国の代表的民族宗教である。
1949年に成立した中華人民共和国が、宗教教団の自由な活動を禁止したため、現在の中国では道教は衰退している。それ以前の時代に中国人に最も慕われた宗教といえば、やはり、道教においてほかにないだろう。このことからも、台湾に多く広がっていると言える。このことは、『西遊記』や『水滸伝』といった民衆に親しまれた通俗小説を読めばすぐに分かる。
『西遊記』では冒頭から玉皇上帝はじめ数多くの神々が登場するが、これらはみな道教の神々である。主人公の孫悟空(斉天大聖)自体、後の時代には道教の神として祀られている。
『水滸伝』には神はあまり登場せず、梁山泊の守護神ともいえる九天玄女が目立つくらいだが、その代わり、道士と呼ばれる道教術を学んだ者達がかなり登場する。梁山泊に集まった108人の豪傑の中にも、公孫勝という偉大な道士がいて、信じられない魔法使って大活躍をする。
中国本土の衰退に対し、台湾、香港、マレーシア、シンガポール、タイといった中国民族が盛んに信仰されている。こうしたことから、道教という宗教が中国の民衆の中にしっかりと根付いていたことが分かる。
道教の定義は難しいことは容易に想像できる。そこには元始天尊のような教義的に作られた神もいるにはいるが、金儲けの神(五家之神など)、病気治癒の神(保生大帝など)、子宝を恵む神(子孫娘娘など)のように、かなり俗っぽい神も数多くいる。
また、過去の偉人で神になった者(関聖帝君など)もいるし、自然現象が神になったもの(雹神など)もいる。黄帝や炎帝(神農)のように、もとは神話中の神だったのが、道教に取り入れられてしまったものも多い。ほかに、人間でありながら不老長寿を手に入れた神仙・仙人(八仙など)なども重要な神とされている。
ここまででも、種々雑多で、なんでもありの印象がある。とはいえ、定義が難しいということをあまり否定的に受け取るのではなく、もっと積極的に、それが道教なのだと受け取ることができそうである。
そもそも道教はキリスト教やイスラム教、仏教などと異なり、1人の人物により創始されたとは言えない宗教である。
道教にも始まりがあり、最初の宗教教団が誕生したのが2世紀前半で、それ以降に宗教としての体裁が整えられたといわれている。しかし、以前の数多くの宗教を否定することなく吸収し、体系化することで宗教になったものといえるものなのである。
個人的には、道教は中国古代のアニメスティックな様々な民間宗教の信仰を基盤とし、神仙思想を中心に、道家、易、陰陽、五行、緯書、医学、占星などの説や巫の信仰を加え、仏教の組織や体制にならってまとめられた、不老長寿を主な目的とする呪術教的傾向の強い、現世利益的な自然宗教だと考えられる。
その証拠に、道教で庶民に有名なのは、占い、まじない等であり、主に、陰陽五行説、中国特有の占星術 がその概念の基本の1つである。
ゆえに、道教の神々が多種多様なのも、そこに神仙が含まれていることまでが、明解に納得できるのである。
教団と成立過程について。
道教とは、過去に存在した多種多様な信仰を吸収することでできあがった、極めて雑種的な宗教といえる。とはいえ、宗教なので教義もあれば教団もある。このあたりで歴史を語ることにする。
まず、始めに取り上げるべく、一般的に原始道教教団と呼ばれる『太平道教団』・ 『(「)五斗米道(天師道)教団』である。
後漢末期、河北省の張角という人物が『黄老の道(神仙道。黄は黄帝、老は老子を表す)』を修め、これを『太平道』と名づけると、自ら大賢良師を名乗った。この教団が人気を得た。信者の数は10数年で数10万に上り、長江以北の広大な土地に広がった。
やがて、教団は農民革命軍になり、霊帝の中平元年(184年)、張角は「蒼天(漢時代)はすでに死んだ。黄天(新しい政権)がまさに樹立される」と宣言し、反乱を起こした。これが有名な黄巾の乱である。張角が軍中で病死したため、黄巾の乱は数ヶ月で鎮圧されたが、これによって漢帝国の滅亡が早まった
ところで、この教団は神仙道とつながりがあるといっても、活動の中心は病気の治癒であり、太平道教団は、病気の原因は当人の罪過にあるとし、初めにその罪を告白させた。
その後に霊力のある符を入れた水を飲ませるのである。したがって、神仙道が信仰の中心とはいえず、このために原始道教教団といわれるのだ。
太平道教団に少し遅れて西方の蜀、漢中に拠点を構えた五斗米道教団も、内容的には類似したもので、活動の中心も病気の治癒であった。また、信者達に『老子道徳経』(老子)を習わせた点で神仙思想につながりもあった。この教団は後々まで続き、道教の基礎を築くことになる。ちなみに、五斗米道教団は張陵(張道陵)によって興され、2代、張衡、3代の張魯と続く20数年間に、陝西から四川に広がる一大宗教王国を築いたことで知られる。また、教主のことを天師と呼ぶことから天師道とも呼ばれる。
こうして最初の道教教団が誕生した訳だが、これらは原始道教教団と呼ばれるように、未だ本格的な道教教団ではない。では、仏教教団などにも対抗できるような立派な体裁を整えた道教教団はいつできたかということになると、やはり寇謙之(365~448年)の興した『新天師道』からということになるだろう。
寇謙之は若くから張魯の天師道を学び、10数年の修行を経た後、呪術宗教的なこれまでの道教を改める必要を痛感し、新天師道を興した。これはすでに教団としての体裁を整えた仏教に習い、儀式や祭壇まで祈祷法などを制度化し、組織体裁を整えた、これまでにない立派な道教教団とはいえた。このため一般的にも、新天師道において道教は大成されたと認められる。そのためか、北魏の太武帝(在位423~452年)の信仰を獲得し、北魏の国家宗教になったほどである。
ところで、道教の確立のためには、教団だけでなく理論や神学の発展も重要になる。この点で特筆される人物として、最後に葛洪(283~343年)と陶弘景(456~536年)を紹介する。
葛洪は神仙思想の集大成といえる『抱朴子』の著者で知られる。その内容は神仙になるための仙薬の製造法や服用法、補助的な仙術などを詳述したもので、これを道教が採用することによって、初めて道教の教学が体系化された。
陶弘景は南斉の下級官吏で、神仙道を志し、道教経典を整備したことで知られるが、特に『真霊位業図』を編纂したことをあげる。これは道教の神々の位階位表で、ここで初めて道教神格の最高位に元始天尊が置かれ、道教の基本的神学の確立になる。
さて、この宗教が道教と呼ばれるようになったのも、陶弘景の時代から間もなくのことである。そもそも『道教』とは『道の教え』という幅広い意味なので、5世紀頃は儒教も仏教も『道教』と呼ぶことがあった。これに対し、現在での『道教』は、『神仙』『黄老』などと呼ばれていたという。それが6世紀頃から現在の道教を『道教』と呼ぶようになった。この時代に道教が名実ともに確立したことがわかる。
蛇足だが、台湾人のお守り飾り、赤いものを縁起物として扱うこと、お呪い、迷信をしんじること、鏡、風水、お札などは道教の良い例である。
翡翠も叔母より、様々な占い、まじないを教わったが、これはまじないの効果上、人に口外できないので割愛することにする。
そのことを前提に翡翠がその指南宮のことを口にすると、怪訝そうに美玲は露骨に彼を睨んだ。
「あそこは、カップルが行くと別れると言われているのよ」
指南宮は主神の呂洞賓が嫉妬して恋人同士でいくと、別れさせると言われているのだ。
「僕達は別に恋人同士じゃないし」
すると、ますます機嫌が悪くなり、美玲は口を利かなくなってしまった。
麗宜はダイニングに料理を並べ始めて、2人を呼んで食事が始まった。
台湾風の1皿に皆で食べる方式に、翡翠は未だに慣れなかった。遠慮しがちに食べていると、甲斐甲斐しく美玲は彼の皿にどんどん取り分けていった。
邪悪な空気を肌で感じながら、これからのことを思案に暮れた。
黙々と食事が進み、その日は宛がわれた客間に通された翡翠は、気疲れのためにすぐに眠りについてしまいました。
囮としての旅行
翌日、署に着いた翡翠は、美玲と別の場所に連れていかれて、制服警官に厚いベストを着せられた。それが防弾チョッキということは、分からない言葉を理解しなくても察しがついた。
美玲は李警部に呼ばれて、神妙な面持ちの彼にこう言われた。
『彼は必ず、張孝天に狙われる。お前は彼にくっついて、ガードと狙ってくる張を捕らえるんだ』
『李警部は翡翠を囮にしようと言うのですか?』
『今、絶好のチャンスなんだ』
『私は反対です』
『これはお願いではない。命令だ。頼んだぞ』
歯軋りしながらも、美玲は李警部を睨みつけながら物凄い勢いで足を踏み鳴らして部屋を後にした。それを見届けると、溜息をついて椅子に倒れ込む李警部に台湾茶のカップを持ってきながら、甘いマスクの若手刑事、尹は慰めるように声を掛けた。
『よく、あのじゃじゃ馬娘に言ってやりましたね。たぶん、あの青年がいなかったら、いつものように暴れていたでしょうね。でも、今回の件は仕方ないですよ』
『私もできれば、翡翠君を危険に晒したくないのだが』
『美玲以外は、全員分かっていますよ』
そう彼が言うと、周りの刑事は一斉に頷いた。李警部はお茶を啜りながら苦笑してみせた。
エントランスで待っていた翡翠は、奥から響く激しい足音で美玲がやってきたことに気付いた。立ち上がり手を軽く振ると、彼女は元気のない笑顔を見せた。
「どうしたんですか?」
すると、機嫌の悪い美玲はすくっと立ち止まると、さっと翡翠の方に顔を向けて厳しい口調で言った。
「私の方が年下なんだから、敬語はやめましょう。日本語の悪いところよ」
「そ、そう…」
彼女の勢いに負けて、翡翠は面食らっていた。そのまま、車を署に残してバス停まで歩き始めた。
「車は?」
「どうせなら、メトロに乗せてあげようと思ってね。それに運転していると、おしゃべりに集中できないし」
「仕事は?」
「休暇を取るつもりだったけど、貴方の警護になったわ。まぁ、私にはどちらでも変わらないけどね」
「何か、あったの?怒っているようだけど」
すると、また立ち止まって、すくっと翡翠を睨んだ。
「翡翠は質問が多いわね。私はいつもこうなの」
バス停に着くと、バスを待つ間、会話がなくなり翡翠はさらに気まずくなった。そこで、自分の知っている台湾の知識に話題を持っていこうと言葉を無理やり吐いた。
「台湾では、『君』とか『さん』って、人の名前に付けないんだよね」
すると、遠い目で貧乏揺すりしていた美玲が気のない風に答えた。
「そうね。でも、『ちゃん』は名前の最初に『小』とか『阿』とか付けるけどね」
「小さな子に付ける奴だね」
「これから、私を小美玲って呼んだら?」
「そこまで若くないだろう」
「若くない、って言わないでよ。これでも20歳なんだから。確かに『小』を付けるほどじゃないけどさ」
そして、会話に少し間が空いて、その沈黙を無理やり破るように翡翠は言葉を放ち始める。
「でも、海外旅行は地元の人間に案内してもらうに限るよ。通訳になってもらえるし、困った時には特に助かる。ガイド本は定番しか書かないし、ある程度、ツアー会社の都合のいいことしか書かない。時々、信用のないことが書かれているときがあって、地元の人に見せると笑われる場合もある。
ツアーなんて、もっての他。日本人用の高い店にどんどん連れて行くしね。街中の店なら、もっと質のいい多い安いものが買えるのに。社員旅行で来たときに連れて行かれた店の品物は、街中で買う値段の10倍もしていたんだから。それにやたら、売り子が押し売りに付くし。ツアーに参加する人はその店に地元の人が何人いるか、良く見てほしい。観光地も定番しか行かない。地元の観光客が行ったり、もっと、ツアーで行かない、ガイド本に載らない良いところも沢山あるんだしね。
アメリカで叔父と連れられると、『ここが日本人ツアー客の来るところ』とか『ここはいいところだよ』とかよく説明されながら観光したものだよ。もっとも、彼らは父親の姉と違い、英語と台湾語、北京語しか話せないから、英語で会話するんだけど。長くアメリカで叔父のところで過ごすと、多少は英語の会話に慣れる。どうしても通じない時は、漢字の筆談をすることになるけど。
1人で気ままに旅行する方がまし。1人で不安なら、地元の知り合いを作ればいい。今はネットが発達しているんだし」
急に饒舌になった翡翠を美玲は面白そうに見つめた。
「貴方は台湾人の血が半分入っているのに、全然、中華民国人の気質が見られないわね。生粋の日本人みたい」
「僕は林家の特質も持っていないし、父親やその性格を継いだ兄や妹とも、日本人の母親ともかなり異なった性質を持っている。それは叔母が証明してくれるさ。叔母いわく、隔世遺伝で、僕と同じような性質の人間が親戚にいるみたいだけどね」
そこで、バスが到着して翡翠は胸を撫で下ろした。バスは前のドアしか開閉しなく、料金は後払いであった。日本のバスより雑な印象を受けた。
バスに揺られながら翡翠はぶすっとしていると、美玲が突然彼の顔を覗き込んだ。
「ねぇ、翡翠。貴方、今回の来台はただの観光じゃないでしょ」
そこで、彼は少し躊躇して答えた。
「…正確には、取材旅行かな。今は会社に就職しているけど、小説家を目指しているんだ」
すると、身を乗り出して美玲は顔を明るくした。
「じゃあ、何か作品を読ませてよ」
彼はあまりその話題に触れて欲しくないように、無表情のままで言った。
「今は持ってきていないけど、5冊出版しているから、ネットで買えるよ」
「へぇ、出版までしているんだ」
「まぁ、大したことじゃないさ。素人でも日本では出版できるから」
そこで、台北駅に着き、コインを払って駅の中に進んでいく。そして、メトロの入り口に足を向けた。
メトロ。イタリアから取り入れた地下鉄は、翡翠にヨーロッパを思い出させる。自動販売機でテレホンカードのような切符を買う。それを改札のスロットに入れて3本の金属のバーを回転させてホームに入る。
階段を下りると、ホームが伸び、そこには不思議なオブジェが並んでいた。列車が来ると、すぐに乗り込んで美玲は席に陣取るが翡翠はその傍に佇んだ。彼女は翡翠の方を向き隣の席を叩く。しかし、彼は首を横に振った。
「僕は人に譲るのが苦手だから、いつも座らないんだ」
すると、美玲は形相を険しくして言った。
「いいから、座って」
溜息をついて、翡翠は彼女の隣に座った。確かに列車の中は空いている。譲る心配はないだろう。列車の中なのにプラスチックの席に腰を下ろしているのが、奇妙な感じがした。
日本から持ってきたガイドブックどおりに1回乗り換えをして木柵駅に下りると、そこは廃れていてバス停を見つけたが、指南宮へ行くバスは1時間に2本なのだ。そこで、美玲が言った。
「2つ前の萬芳医院駅だったら、もっとバスが出ているよ。道教の総本山へのルートがこんな寂れている訳ないじゃない」
すると、翡翠は膨れて美玲を睨んだ。
「そういうことはもっと早く言ってくれない?」
「貴方が訊かなかっただけじゃない。まぁ、いいわ。実は私も指南宮は始めてだし」
タクシーを捕まえると、そのまま、山に向かい駐車場に着いた。傍には素朴な屋根のあるバスの待合所があり、その奥に商店街が並んでいた。その細い通りはアーケードの屋根があり、素朴な土産屋が軒を連ねている。ノスタルジック、というには、情緒のない感じで、ジュースとお菓子を買って胃袋を満たした。
沢山の巨大な廟があり、そこには彫刻など目を見張るものが多くあった。階段通路を上り、山から見下ろした景色に2人は見とれていると、翡翠はデジカメを取り出して手摺りの上に置いてオートフォーカスで撮った。
何回かシャッターを切りながら歩き、観光を続けた。楽しいひと時に、翡翠は時折鋭い視線をあらぬ方に向けることがあったが、美玲は気付くよしもなかった。お賽銭に200園札を入れて、2人は願い事をした。彼は眼を開けて横を見るが、美玲はまだ祈っていた。
「何を祈っていたんだい?」
すると、彼女は愛らしい笑顔で後ろに下がりながら言った。
「教えない」
「そう言うと思った。じゃあ、僕も内緒」
「内緒にしないと、願いは叶わないの」
彼女は手を後ろに組んでそう言うと楽しそうに神(仙人)の像の前から去っていった。沢山の廟の建物を訪れて、長い線香から翡翠の好きな香りと煙が漂い空気に溶けていく。紅い蝋燭の多さに眼を見張った。
一番奥の大きな廟でおみくじを引くことにした。翡翠は初めてだったので、美玲の真似をすることにした。まず、紅い三日月状の木製のものを床に転がした。1つが表で1つが裏になると、長い竹の棒を引いて、それに書かれている文字と同じおみくじを傍にいたおじいさんに渡された。
彼の文字は『申庚』。『夏秋作事只尋常 冬色臨門大吉昌 千里好音通遠望 弟兄友愛天倫中』と記載されていた。
それを美玲に見せて訳をさせると、
「夏秋には物事は極普通で、冬先には大吉がやってくる。吉報は遠方より来て、親戚と仲良く団欒をする。こんなところかな」
「それ、本当に合っている?まぁ、いいや。今はゴールデンウィークだから、その占いは外れ、というところかな。で、君のは?」
「教えない」
「あ、そう。別にいいけどね」
すぐに翡翠が引き下がったので、美玲は彼の顔を覗き込んで言った。
「気にならない?」
「別に」
「教えてあげてもいいけど」
彼はそのまま、おみくじをポケットに仕舞うと彼女から距離を置いて歩き始めた。
彼女はすぐに追いつき、腕を組んで言った。
「私に恋人ができるって。それで、近い将来、結婚できるんだって」
翡翠は腕を振り解くと、すぐに立ち止まって言った。
「君は僕のボディガードだろう?君が観光を楽しんでいないかい?」
「いいじゃない。こういうのを、ええと、日本語でや、役…」
「役得」
「そう、それじゃない」
大体、美玲の性格を推測できているので、それ以上追及はしなかった。憂鬱な気持ちだったが、翡翠はそんな美玲と観光を楽しむことにした。その美玲の子供のような天真爛漫の性格も直に慣れるだろうと、翡翠は高を括って広大な指南宮の中を見て回った。まだ、工事中の場所もあったが、大体の場所を回り写真も沢山撮った。
それはまるで恋人同士のようであった。
入り口の商店の並びまで来ると、バスを探した。しかし、止まっているものが1台あるが、それは誰も乗っていなくひっそりとしていた。
バスの待合所に行く。まだ、バスが来るのが先であった。屋根の下のベンチで隣り合った2人は沈黙を保っていた。すると、黒塗りの車が目の前の駐車場に止まって2人の軽装の男性が近付いてきた。
すると、その男性の1人が急に苦しみ出して倒れた。
『おい、どうした?』
そう言って、彼は背の低い小太りの男性は相棒の体を揺さぶる。しかし、彼は泡を吹いてそのまま動かなくなった。美玲はすぐに駆け寄って、脈をみるがすでに絶命していた。相棒が急に化け物から逃げるように指南宮の方に走り出すが、美玲がすぐに追って背負い投げをして取り押さえた。
『あんた、事情を話しなさい』
『刑事か、お前』
今度は小太りの男性は、震えながらそう訊いた。
すると、翡翠は怯むことなく絶命した男性の持ち物を探ったが、目当ての物はなかった。
―――そう、呪いをもたらす、ある宝物が。
『俺は何も知らない』
そして、彼は真顔で翡翠を三白眼で睨みつけながら、さらに続ける。
『何もしていないだろう、放せよ』
そう言って、彼らは去っていった。黒い車が見えなくなると、見知らぬ男性を目の前にして、冷静に美玲は本部と救急に連絡をした。
「彼は、確実に呪いで死んでいる」
翡翠が手を合わせて何かを呟いて、そう言った。
「彼に霊的な空気が残っている」
「幽霊が人を殺すの?私はそんな非科学的なことは信じないわ」
それから、バスがすぐにやってきた。それに乗って萬芳医院駅まで行くと、台北駅に戻ってきた。そこで、無料の新しく出来た新光三越信義店の送迎バスに乗って、美玲がその中に入って言った。
ちなみに、新光三越信義店とは、勿論、日本の三越の台北支店であるが、台湾では日本の企業は49%しか出資してはいけないために、新光という地元企業との出資であるのだ。そこで、新光三越、という名前になっているのだ。なお、信義店はデパートである。
前述の大葉高島屋も同様で、日本の高島屋である。ちなみに、そこでは日本の本が販売されていたり、日本語のアナウンスが流れたりもする。
「ちょっと、トイレに行ってくるから待ってて」
トイレの前で腕を組んで待っている翡翠は、売り場の方に視線をやって目を細めた。そして、何かを思いついたのか、ポケットに手を差し入れて溜息をついた。
日本とは雰囲気の違うデパート。でも、外国ではどこも同じ感じの明るい雰囲気で、人手溢れている。しかし、そんな場所でさえも翡翠には暗く感じた。
明らかに、この台北で何かが起こっている。彼らが取引していた、噂の呪いの宝物とは一体なんだろうか。彼は荷物からある本を取り出して、挟んであった写真を取り出した。それには、黄金の屋根飾りが写っていた。
ハンカチで手を拭いて出てきた美玲は、明らかに化粧を直していた。そして、翡翠の顔を見て笑顔を見せると、小走りで寄って来た。
「お腹空いたね」
「僕は別にそうでもないけど、遅い昼食でも取ろうか」
「じゃあ、私の家で今度は私が腕を振るうね」
「食べられるものをお願いします」
「それ、どういう意味」
美玲は翡翠の足を思い切り踏んだ。彼は痛がりながら苦笑した。
三越を出ると少し歩いて、昨日翡翠が行こうとしていたスーパーに向かった。所狭しと並ぶ棚には日本の食べ物が多く、しかも、輸入しているので日本より当然高いので翡翠は手にすることはなかった。沢山、思いつきで買い物籠に次々に食品を放り込む美玲は、ミネラルウォーターを3本入れたのを見て、翡翠は改めて水道水を飲んだり調理に使えるのは日本だけなのだと実感した。
かなりの量になった荷物を自ら持つと言った翡翠は、手ぶらでさっさと1人で歩く美玲の後ろ姿を見ながら脳裏に色々巡らせた。振り返らずに視線だけ周囲を窺う。人の気配が彼の肌に漂ってきていた。
美玲のアパートに辿り着いた翡翠は、荷物をダイニングに陣取っているテーブルに下ろしてリビングのソファに倒れ込んだ。
「お母さん、今日から新竹の叔父さんのところに行っているから、自分のことは自分で、ついでに私のこともやってね」
キッチンから美玲の鼻に掛かった声が響いた。
「おい、結局、全て僕に推し付けるのか?」
「彼氏は彼女のために努力するものなの」
「意味分からない。僕は彼氏じゃないだろう。それに、お母さんを追い出したろう?」
「違う。叔父さんが病気で、看病のためだよ」
リビングで言葉の分からないテレビ番組を眺めていると、ダイニングからいい香りがしてきた。起き上がって視線を向けると、美玲が沢山のおかずを並べていた。
「そんなに並べて、人を呼んでパーティでも開くのかい」
「全部、翡翠のためのものよ」
そう言って、美玲はサラダとサプリメントを自分の前に用意した。翡翠は仁王立ちして手を腰に当てて、目の前の野菜炒め、鶏肉の香菜和え、豚肉の照り焼きなどを見回した。豆乳を飲んで、油っぽいおかずをご飯と一緒に口に放り込む。けして、台湾料理を嫌いではないのだが、彼女の料理はお世辞にも旨いと言えるものではなかった。
無理していると、美玲は冷たい視線で言い放つ。
「我慢して食べなくていいよ」
「いいって。食べるから」
「もう、いいよ」
彼女が1枚の皿を取り上げようとすると、翡翠はその手を掴んで真顔で言った。
「もっと、自分に自信を持ちなよ。別に食べられない訳じゃないんだから」
美玲は眼を潤ませると、そのまま座って豆乳を飲み干した。
食後に自分の部屋で何かを用意していた翡翠は、大きなスポーツバッグを持ってリビングに出てきた。そして、美玲に着替えを持っていくように言った。
「温泉に行こう」
「あの山の上の?いいね」
「でも、着替えはいつも着ないようなものを持って行くんだ」
「何故?」
「訳は後で話すよ」
そして、2人でカバンを持って午後に再び出掛けることにした。タクシーで数10分。山の上にある温泉の1つに着いた。
その温泉の建物の前には、岩に文字が刻まれていた。
『伊豆 おんせん』
明らかに日本語であり、どうして伊豆なのか、と翡翠は笑いを隠せなかった。
『御の湯』という温泉に入る。カウンターでお金を払うとラウンジを通り、個室に入っていた。個室は着替えスペースと洗い場が1つの空間になっていた。棚に着替えを脱いで置くと、空の浴槽にお湯を入れながら、その間に洗い場で体を洗っていた。屋根と壁の隙間からは心地よい風が入ってくる。
浴槽に入ると窓から遠くを覗く。下には温泉を吸い上げる巨大な貯水タンクがあり、園先に森が広がり、自然しか見えない。
「もう、温泉に入った?」
隣から美玲の声で叫んだ。
「ああ、気持ちいいな」
しかし、答えは返って来なかった。
すぐに上がると、持って来ていたタオルで体を拭き、今までジーンズにシャツの無地の白いキャップ姿にフローラル系の香水だった翡翠は、パンク系のTシャツに鎖付きの柄の格好いい黒の上着、脚部にベルト付きの文字と人物の絵のあるズボンを履いている。これらは翡翠の好きなブランドのバーニングショウのものである。ベルトは膝下まで垂れていて(バックルがなく、長く垂らすデザインなのである)、腰から鎖を垂らしている。今、日本で流行っているハンチングは好きではなかった翡翠は、デニムのキャスケットの帽子を被っている。クール系の香水をつけて、チェーンのブレスレットにクロスチェーンのネックレスから鍵型のネックレスに替えている。いずれのシルバーアクセサリーもクロムハーツのものであった。カジュアルなSwatchからスケルトンのマイナーメーカーのお洒落な自動巻きの時計に変えた。
その全ての雰囲気を変えて出てきた翡翠は、ラウンジに行き目の前に広がる山々を眺めた。すると、シャンプーの香りを漂わせて美玲が火照った頬を笑顔にしてやってきた。
彼女の格好は、ボーイッシュな格好がまた似合っていた。ブランドもののミュールにジーンズのパンツ。タイトなTシャツに緩んで腰で履いている太めのベルト。翡翠のように鎖を腰から垂らしている。胸にはハートのシルバーネックレスが輝いている。美玲の身につけているものは、全て台湾ブランドのものであった。丸いお洒落なイエローのサングラスが印象的であった。そんな美玲は、翡翠を見て目を丸くして言った。
「そうしたの?その格好」
「家でも言ったけど、変装しようと思ってね。でも、こっちが僕の普段着なんだけどね。ちょっと、ある人達を巻こうと思ってみたんだ。こっちに来て、看板に映る駐車場の車を見て」
美玲はミネラルウォーターを飲む翡翠の隣の席に座って壁に掛かる看板を見た。そこに映る背後の駐車場には車が数台止まっていて、その中の1つに2人の男性が車に乗ったままで翡翠達の方を見ていた。彼女は振り返ろうとしたが、彼はすぐに言った。
「見ちゃ駄目。気付いたことがばれるから」
そして、変装がうまくいっていることを確認してミネラルウォーターを美玲に渡して、自分のものを飲み干した。
「君はよほど信用がないんだね。僕達が麻薬密売犯と接触する時のために君の同僚が尾行しているんだよ」
すると、彼女は頬を膨らませて翡翠に顔を近付けた。
「いつから、気付いていたの?」
「昨日から。車に乗っているときに、2台後ろを同じ車がぴったりくっついているのに気付いてね」
そして、翡翠は看板から視線を美玲に向けた。
「変装がうまいな」
「これでも、刑事だから」
そして、変装した2人は別の入り口から少し早足で、2人距離を少し置いて歩き山を下り始めた。車の刑事達は彼らに気付かず、じっと温泉の入り口を見張っている。
「でも、失礼しちゃうわよね。私のボディガードが信用ないなんて」
「いや、そうじゃないと思うよ」
すると、途端に立ち止まって振り返り、青筋を立ってて強い口調で言った。
「何が言いたいの?」
「君の暴走を見張っていたんだよ」
「暴走なんてしないわよ」
「まぁまぁ。でも、腕は見込まれていると思うよ」
「でも、翡翠を囮みたいにしてごめんね」
「いいさ。気にしていないし、君のせいじゃないからね」
それを聞いて再び歩き出す美玲に、翡翠はそれ以上言葉を発しなかった。通りに出ると、タクシーに乗って沈黙のまま、淡水に向かった。
露店に沢山のおかずの入った揚げ物が売っており、拳大のそれを頬張りながら船のチケットを買った。
船着場には魚の引っ掛け釣りをしている人がいた。そのまま船の方に向かうと、下の川の引いたところにはシオマネキが沢山、海から河に水を招いていた。
船に乗り対岸に向かうそこで、頬杖しながら遠くの景色を無言で眺めている翡翠に、美玲は隣に寄り添って言った。
「金門に行かない?」
「対岸にある原住民ミュージアムを見たらね」
金門島。徴兵制のある台湾では、男性は兵士としての経験をする。その中でも、中国に一番近い金門島は軍用の島と言える。一般人が入れないところも多く、軍のための施設や軍艦なども見ることもできる。
また、徴兵の際に金門島に配属されることを台湾人は恐れるほど、一番厳しいところでもある。翡翠の叔父の1人も金門島に配属されていた。彼の時代は5年間であったが、現在は2年半で兵役を終える。
対岸に着いたところで、再び、大通りに出てタクシーで少し進むと巨大な土器型のタンクが並んで見えた。それは浄水場であり、原住民ミュージアムに隣接しているために、園形をしているのだった。
その原住民ミュージアムは、近代的で斬新な建築物であった。広く大きな階段を上り、入り口から中に入ると、台湾の歴史が紹介されていた。
台湾にどうやって人類が現れたのか。
原住民、つまり、カヌーによりやってきた東南アジア人が台湾に移住したのだ。
では、その原住民である東南アジア人が住む台湾が、漢民族国家になった訳は何故だろうか。
台湾にはもともと、現在では「原住民」と呼ばれるマレー・ポリネシア系の先住民族の人々だけが住んでいたことは前述のとおりである。そこに、16-17世紀ごろ以降、台湾海峡の向かい側にある中国大陸の福建省や広東省から、中国人が移民してくるようになった。現在、台湾の人口の約85%を占める「本省人」は、その子孫である。
当時、中国は「明」王朝の末期だったが、明は台湾を領有する価値のない、辺境の島と考えたため、領有しなかった。それは疫病と敵対する原住民、未開拓の土地のためであるからだろう。
そのため1620年代になると、オランダが台湾の南部を、そしてほぼ同時期にスペインが北部を占領し、航海上の拠点として使うようになった(後にスペインはオランダに追われて撤退する)。また、台湾西海岸の中央部は、大陸の沿岸を荒らし回る海賊たち(武装貿易商人)の巣窟となっていた。
そのころちょうど、「明」は北方の満州から攻め込んできたウルハチ率いる「清」王朝に圧され、潰れかかっていた。明王室は1628年、海賊の親分だった鄭芝龍という人物に、清と戦うよう頼み、兵力と資金を渡した。鄭芝龍は戦略の一つとして、自らの拠点である台湾西海岸を強化することを決め、大陸から台湾に、数万人の移民を渡海させるよう仕向け、開拓を進めた。彼らが「本省人」の祖先となった。
明は結局、清に追い詰められ、1644年には最後の皇帝が自害して終わる。だが、鄭芝龍の跡を継いだ息子の鄭成功は、明の王室関係者の生き残りから依頼を受け、明王室の再興を目指すことを誓い、台湾を拠点に、清に対抗し始めた。鄭成功は、さらに数万人の移民を福建省などから台湾に招くとともに、オランダを追い出して台湾を統一した。
鄭成功は、オランダの台湾支配の中心地だった南西部の町、台南を攻め落とし、そこに居を構えた。鄭成功の勢力は、その後20年ほどで崩壊し、台湾は清国の領土となった。だが、清が実際に統治したのは台湾の西海岸だけで、東海岸のほとんどは依然として、中央政府の統治が及ばない「化外の地」だった。ほとんどが未開拓の山岳地帯で、原住民が住み疫病の巣窟であったからでもあるだろう。
台南には今も、鄭成功をまつった廟がいくつもあり、人々の信仰を集めている。明が漢民族の王朝だったのに対して、明を倒した清は満州族の王朝であり、漢民族は支配される側になった。そのため鄭成功は、漢民族の英雄としてまつられたが、これははるか後世の第2次大戦後、毛沢東率いる共産党との内戦に敗れ、台湾にやってきた蒋介石の国民党政権が、自らの人気取りのために、利用するところとなった。蒋介石も、鄭成功と同じような正統性を持って、中国を再統一しようとする英雄だ、と人々に思わせようとするイメージ戦略だった。しかし、228事件が起こり、蒋介石は暴虐武人な振る舞いから、そのイメージは台湾人の地に落ちることになる。
ここで、注目したいことがある。
清国が台湾を統治したと上記に書いてあるが、この理論も賛否両論である。確かに、清国に進行していたのだが、1871年の牡丹社事件で、日本に台湾は清国とは関係ないと述べている。その3年後大日本帝国初の海外出兵をしているのだ。以降、日本人の移住が始まる。
そして、1895年日清戦争後、下関条約で日本に台湾を永久割譲している。24年前に清国とは関係ないと言っていた台湾を日本に割譲しているのだ。ここから、中国が台湾を統治していた事実はなくなる。明時代は移民があったり、台湾を把握していたが、注目さえしていなかった。清国は漢民族ほど台湾の知識のないため、よく分からず、牡丹社事件でも明らかなように台湾のことは我関せずの態度であった。
その後、日本の統治下になる。
次に原住民の移住から、台湾全体の歴史について述べることにする。
数々の原住民のルーツは、東南アジアからカヌーに乗ってやってきた。
原住民の中には、アタヤル族・セデック(タロコ)族・サイシャット族・ツォウ族・カナカナブ族・サアロア族・ルカイ族・パイワン族・プユマ族・アミ族・ブヌン族・ヤミ(タオ)族がいる。ほとんどが山奥に暮らしているが、海辺・平野に暮らす者もいる。原住民も初期は海辺に居住していたのだ。
そこから、年月を経て、原住民と命知らずの荒れる台湾海峡を越える大陸よりの商人、漢民族との貿易が数多く行われた。後に、少数の日本人とも貿易を始める。
しかし、1624年にはオランダ人(東インド会社)が通商拠点として台南一帯を占領し、安平港にゼーランジャ城を築いた。このときに、すでに日本人も台湾に百数十人移住していたという記録が残っている。
その2年後にスペイン人が北部の淡水港に築城した。
このオランダ、スペイン人の布教、統治が少しの間続いた。
明朝最後に漢民族が大勢移民をした。しかし、それまでの明朝は台湾を流刑場とされていた場合もあり、辺境の地としてあまり好意的に思われていなかった。18世紀に入り、乾隆帝の清朝時代には、漢民族が商業目的で数多く移民して、領有していた。その上、断続的に「海禁」「山禁」を敷き、渡海と開拓を禁じた。劣悪な環境のために、マラリアを始めとした風土病の伝染病が流行っており、治療する医師もいなかった。その上、台湾海峡を越えることは困難で、生存率は3%であった。
水土の悪い台湾に移民する漢族も季節労働者が主で、ほとんどが「羅漢脚仔」と言われる独身男性だったため、原住民の平埔族の女性を奪いこの島に定着していった。中には、漢族に吸収され漢化されてしまった原住民もあった。
ここからは、日本と台湾の深いつながりが原因となる時代が来る。
清朝統治の時代が終わる。そのきっかけは明治維新直後の明治4年(1871年)に起こった「牡丹社事件」である。
これは、宮古島の朝貢船が暴風に流され、遠く台湾東南部の八瑶湾に漂着したことから始まる。そこには、原住民のパイワン族が住み、彼らは日頃から略奪、虐殺を繰り返す支那人を目の敵にしていた。そこへ琉球人が漂着したため、彼らは支那人と間違えて襲い掛かり、54人も殺してしまったのだ。
生き残った12名は、命からがら逃れ、漢人集落から福州へ移されて、翌年の明治5年6月に、那覇に送り返されたのだ。
この事件を知った、天津駐在公使であった柳原前光(大正天皇の生母・柳原愛子の兄)は、本国の外務省へ詳報を送った。その報を耳にした鹿児島県参事の大山綱良は、非常に憤慨して政府に海外派兵を具申したのだった。
明治6年8月23日、樺山資紀陸軍少佐は、児玉平輔大尉他2名とともに原住民の情況偵察のため、台湾北東部の蘇澳にあるブトウ社でタイヤル族の首長と会見をした。樺山らは一時、花蓮港平野を占領するという構想を持っていたが、後に計画を変更して牡丹社討伐軍に加わることにした。
牡丹社出兵をめぐり、当時の政府内部で意見は分かれたが、木戸孝允、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通、井上馨、渋沢栄一などの外遊帰国組は非戦論を説き、大隈重信、板垣退助、桐野利秋、副島種臣らの主戦論を説いて、征台論で朝野が騒然となった。
この件で明治天皇は副島種臣に全権を委ねて、柳原前光を副使に任命すると決定を下し、清国政府との交渉に当たらせた。
副島全権大使は、同治帝との国書奉呈の謁見をめぐり清国の総理衙門(軍機大臣)とちょっとしたトラブルを起こした。清国側は、日本は中国と同文同種であるから、肯定の前に出たいなら中国人同様に、まず「跪拝の礼」(ひざまずいて礼をする)をしてから用件を述べるべきと要求した。
しかし、副島は属国が宗主国に対して行うことと拒否。そして、各国の北京駐在公使の一括謁見の前で、「跪拝の礼」を行うことなく「三楫」(立礼3回)のみをした後、国書を奉呈し賀詞を述べて退出した。
このことは、初めて清国と対等な立場で謁見した国家が現れたと、各国駐北京大使の間で賞賛された。しかし、他国ではこのような態度を取った国はなく、それ以来、各国駐北京公使との一括謁見は中止となった。
ともかく、副島との交渉に臨んだ清国政府は、「台湾東南部の生蕃(清国は反抗する台湾原住民をこう呼んだ)は化外の地の民であるため、その所業の責任を負うことはできない」と回答した。つまり、台湾問題には清国は我関せずの態度であったのだ。
交渉に当たって、柳原公使は「ならば、彼らの凶悪を懲罰し文明の征伐を図ることは開化政府の当然の義務である」と捨て台詞を残して引き揚げた。
同年4月、西郷は谷干城陸軍少佐や赤松則良海軍少将らを始め、軍艦5隻、船舶13隻、兵員3600名を率いて台湾へ赴いた。ちなみに、西郷隆盛は士官を中心にした士族300人を集めて信号隊を編成して、西郷従道の出征を支援している。また、後の三菱財閥を築いた岩崎弥太郎は御用船の手配にあたっている。
初期は、中国文化人はこぞって「反日」を煽っただけであった。
事実、台湾討伐を終結させ日清間で開かれた北京会議では、日本の台湾出兵を当時の清国政府は保守のために「義挙」として正式に讃えた。これは、「互換条款」にも明記されている史実である。
清国だけでなく、「生蕃」と対立していた漢族住民にも熱烈歓迎したのだ。「侵略」云々はもってのほかである。
1895年4月17日に李鴻章の反撃も空しく、日清戦争が終結し、日清講和条約、いわゆる下関条約が調印されて、清朝より日本に台湾、澎湖列島の割譲が行われた。
日本が海外に領有した最初の植民地(ここであえて植民地という)は台湾と澎湖列島となったが、その台湾においては『台湾民主国』の成立など、住民が日本の支配に抵抗し、その後も長期に渡って抵抗運動は繰り広げられた。
ここから、日本統治の時代が始まる。初期は、台湾人といざこざがあった。難治の民、ゲリラの抵抗の平定。大正時代に入り、デモクラシーに目覚めた民族運動や社会運動、そして山岳民族の平定の課題も加わる。だが、さらに台湾総督を悩ませたのは、新領土の原住民の反抗、抵抗だけでなかった。司法機関には、総督さえ手を出せなかった。
総統が変わり、ある台湾人のおかげで日本人は台湾に貢献するようになる。台湾と日本の平安の統治時代が訪れるのだ。
台湾の近代化、強烈で多い風土病の研究、撲滅(叔母でさえ、小さい頃はマラリアで苦しんだのだ。疫病、風土病はかなりひどく想像以上の死者を出した)、疫病の激減。清国時代の疎かな鉄道を発展させて、台湾全土に鉄道を通す。上下水道設備の完備。清国人、支那人の台湾人の残虐行為から護ったりもした。物価の安定をもたらした道路敷設。不毛の地を穀倉地帯に変えた嘉南大圳。工業化を促進した日月潭水力発電。海外への門戸、基隆港建設、近代化建築物(日本人が建設した建築物のほとんどは西洋建築であった。それは文明開化により、建築学が発展したためである)の建築。華麗なる台湾近代都市の構築。賃金の提供。治安維持(叔母は日本人憲兵は怖かったが、蒋介石の国民党に比べれば随分よかったらしい)。アヘンの撲滅。台湾医師の世界的産地にした日本の医学教育。教育の向上。
台湾人の多くが日本に留学した。勿論、林家のほとんども日本に留学し、特に明治大学を卒業した者が多い。
日本の医療を取得したものは甲種医師で、有名病院に勤められるが、それ以外は乙種医師で町医者として勤めていた。
日本統治の最後の数十年は、日本の教育の強制が行われた。教科書、教育、言語まで日本語を強要されて、天皇崇拝まで行われていたのだ。台湾人の名前も日本名を付けさせられた。戦争までも日本のために勤めなければいけなかった。しかし、台湾語を強要されたわけではなかったので、救いではある。これが、年老いた台湾人、多くの台湾人が日本語を読み書きできる、会話できる理由である。
前述のように、林家一族は台北に広大な土地を所有していたが、日本人が侵入してきたときは、恐れおののき一族の妾家族を残し、福建省に逃げ帰った。がら空きになった林家の広大な屋敷を目の当たりにした日本人は、何もしないから戻って来いと伝え、林家はようやく戻ってきたというエピソードも残っている。
確かに、日本に土地を提供したが、それでも後の蒋介石率いる国民党の略奪に比べれば、微々たるものであった。それどころか、林家は日本に多いに貢献をしたのだ。
それは『日本政府的“協力者”林熊徴――日據時期板橋林家研究之二』という、許雪姫著の中研院近史所発行の書物に記載されている。
この林熊徴は、翡翠の曽祖父であり、228事件で蒋介石率いる国民党が攻め込んだときに、台湾独立に立ち向かった3人の内の1人でもあったが、最終的に囚われの身となってしまった。
ここで、注意しておかなくてはいけない。日本が台湾について交渉した清王朝は、満民族であるという点である。それまでは、黄河流域で繁栄した漢民族国家であり、勿論、台湾の存在も熟知していた。なにしろ、台湾と貿易をして、移住しているくらいである。現在の台湾人に漢民族がほとんどなのも頷ける。
ところが、来たからの元(チンギスハン率いるモンゴル民族)、満民族、東北民族に追いやられて、漢民族は徐々に居住地を南下させていった。長江流域、それより南へと。だから、漢民族が知っていた台湾を満民族の清国はよく理解していなかった。その証拠に、台湾を領地と認識していなかったという史記もあるし、地図に台湾が載っていなかったりもした。
中国が台湾を領有していたかという問題は、それ以前の漢民族国家の頃には、台湾は中国に属していたという記述、日清戦争に勝ち、下関条約より台湾の永久割譲もあったが、様々な国家的な問題があるので、明確な言及は控えておく。
ちなみに現在、台湾を中国の一部かそうでないか、ということを世界がうやもやにしているのには原因はある。台湾は独立を宣言し(台湾人の国民党政権、中国派や外省人を除く)、中国は台湾を属国と宣言している。世界各国は、台湾海峡を通るのが日本や東アジア、東南アジアを通る近道になるので、台湾と中国が1国であると、台湾海峡が1国の領海になり(200海里問題も存在する)、1つの国の上を通過することになり、遠回りしなければいけなくなるので、台湾を中国の属国とすることを渋った。かといって、台湾を独立国とすると、台湾と中国の戦争は避けられない(その戦争問題は台湾アイデンティティの高揚のおかげで可能性は低くなっていると思われる)。なお、各国と有力大国である中国の友好関係にひびが入る。それを避けて、結局世界は曖昧にしているのだ。
日本が太平洋戦争で負けて、第2次世界大戦で無条件降伏した。統治(植民というには語弊があるので)していた台湾を手放すことになる。それをマッカーサーに任すのだが、それを蒋介石に任せてしまったのだ。ところが、蒋介石は、台湾を日本より返されたと考え、侵略を始めた。
ここで悲劇が起こる。最初、蒋介石率いる国民党を同じ漢民族として大歓迎した台湾人も、徐々に心象を変化させていく。
清国は文化的には劣っていた。台湾は日本により近代化していた。民族の性質も違っていた。島国のおっとりした性格と大陸の交戦的な騎馬民族の性格。この2つのギャップが、国民党が台湾人に残虐行為を行う原因の1つになる。
多くの住民は虐待をされ、1年で北京語を覚えさせられた。(教育者は北京語のできない者で、1夜漬けで覚えたものをそのまま下手に教育していった。なお、北京語以外の言葉、教育を禁止した。日本が30数年掛けた、しかも、台湾語を禁止しなかった日本語教育に対して、国民党はたった1年でそれを終えようとしたのだ)
数人の残った日本人も多くの台湾人も、それも優秀なエリート台湾人(文学者、医者、ジャーナリスト、弁護士、作家、教員等)も虐殺され、日本建築は壊されて、台湾に貢献した日本人の銅像でさえ壊されてしまった。
そして、口火を切ったのは228事件である。彼らは世界的に禁止されているダムダム弾を使用したり、濡れ衣の着せたものを殺し、その家族は絶えず怯えて不安な暮らしをしなければならなかった。手足に鉄のワイヤーをつなぎ1人ずつ銃で殺害していき、河に突き落としていったりもした。些細な罪(嘘をつくこと)でさえ死刑を宣告されたのだ。冤罪も数多く行われ、殺害されたことも少なくなかった。
林家も多くの財産を奪われて、屋敷には国民党がのさばって暮らすことにもなった。
結局、国民党率いる蒋介石は、共産党率いる毛沢東との戦いに負けて台湾に逃げてきたことが、そもそも事態を悪化したとも言えるだろう。
その後、蒋介石親子の独裁政権は戒厳令『人民一切の活動禁止』を施行して、この事件の真相を半世紀に渡って消滅され、公然と口に出せず、被害者との往来があれば逮捕し投獄されて、この間台湾社会は恐怖的暗黒時代に入る。
1987年7月15日に戒厳令が解除された後の1997年2月に、やっと228事件記念館が落成した。生き残った事件当時の証人として参観者に解説を勤めた。
戒厳令が解除されて、蒋総督時代が終わると、台湾は自治権を取り戻し、李登輝時代に入っていくのである。
李登輝時代になってから、政治・社会の自由化が急速に進んだ。だがそれは、国民党独裁時代に弾圧されながら民主化を推進した民進党のオリジナルメンバーたちの意図を超える急速さでもあった。その表れの一つが、台湾語より北京語を話したがる若者や、本省人なのに台湾語が話せない若者が増えたことだった。 台湾は、長らく外から来た勢力に支配されてきた。しかし、台湾人はだまってはいなかった。日本の支配が解けて代わりに中国国民党がやってきた時、台湾人は血を流して戦った。
知識人は台湾独立、国民党政府の民主化を唱え、世論の勢いは国民党政府の台湾人登用を増やし、悪名高い戒厳令を解除させてから、台湾人初の総統である李登輝が誕生してからの台湾は、劇的に民主化が進み、世界に散らばっていた台湾人を呼び戻し、経済大国としての成功も収めた。
中国との複雑な関係で、国際的な孤立感はあるものの、李登輝総統の柔軟外交によって、1997年においては世界の31カ国と正式な外交関係を持ち、正式な外交関係を持たない66カ国に95の代表機関を置くまでに至っている。
かつて、北京語は外省人の母語であり、国民党が本省人に強制する国語。台湾語は本省人の母語。そして日本語は、本省人の老人たちが、知識を吸収するために日本の本を読むための言葉であり、小集団(部族)ごとに言葉が異なっている先住民の人々の「共通語」でもあった。
さらに最近では、特に若者の間で「本省人」「外省人」という区別が、重要ではなくなってきているように見える。政治の自由化の流れの中で、身分証明書上の省籍の表示はなくなってしまい、誰が本省人で誰が外省人か、本人に会って聞かない限り、書類上から判別できなくなった。そもそも「台湾省」という存在が、「中華民国」の国家としての支配区域とほぼ重なり、屋上屋であるということで、事実上、廃止されてしまった。
代わりに、台湾の独立性を重視する人々が言い出した呼称が、台湾は中国とは違う国だと考えている「台湾人」と、台湾は中国の一部であると思っている「中国人」という区分だ。
李登輝総統が7月に初旬に述べた「中国と台湾は、特殊な国と国との関係にある」という「両国論」発言は、こうした台湾の人々の認識を汲み取って発せられたものであった。
ちなみに、内省人は明朝時代に移民した元々の漢民族の台湾人。外省人は国民党侵略後に移民してきた中国人のことである。
原住民博物館で台湾の歴史を観覧して、出てくるとすでに日は傾いていた。夜の闇が来るのを怖れるかのように、美玲は翡翠に寄り添った。淡水から再び士林に戻り、有名な夜市に向かった。彼にとっては、あらゆる台湾の夜市に訪れていたが、それでも新鮮で祭りのような高揚感を感じられた。屋台で夕食として肉そばを食べて、品物が並ぶ屋台ではしゃぐ美玲をポケットに手を差し入れて、笑顔で翡翠は見守った。
屋台で買ったシルバーのジルコニアの付いたハートの変形したネックレスを美玲に渡すと、翡翠は自分も鮮やかで斬新なデザインのシルバーの指輪を買った。彼はシルバーが特に好きだった。
黒い火山石のネックレスを買ったところで、翡翠はある気配に気付き背後を視線だけで見た。しかし、人の波でごったがえしていた。
翡翠はすぐに美玲の手を掴むと、そのまま早足でその場を去ろうとした。しかし、路地に曲がったところで、目の前に青いシャツの男性が立ちはだかった。
後ろを振り向くが、尾行をしてきたであろうもう1人の長身の男性が息を切らし、睨みつけながら行く手を塞いだ。
ここで、一般の日本人観光客であれば恐れ慄くであろうこの場で、翡翠は笑顔を見せた。
美玲は警戒をしながら、青シャツの男性に言葉を放った。
『何が目的なの?』
すると、青シャツの男性は翡翠に視線を向けて言った。
『おい、お前。あの取引の時にいた観光客だろう?』
しかし、台湾語の分からない雰囲気の翡翠に気づき、彼は日本語に変えた。
「お前、あの取引の時にいた奴だな?」
翡翠は慎重に頷く。すると、彼はサングラスを取って言葉を選んだ。
「あの時、俺達、麻薬、取引しなかった。見てただろう」
「中身までは見えなかったから、分からないけど、多分、裏ルートのアートだろう」
「…そのとおり。あれは林家花園の、昔、盗まれた屋根飾りだった」
そこで、翡翠と美玲は顔を合わせた。
「そして、今、台北で起こっている、呪いだ。騙されて、それ。手に入れてから、俺達、仲間が次々に死んでる」
「で、僕にどうしろと?」
「あれを供養しないと、呪いなくならない」
「供養の手助けを僕達に?何故?」
すると、彼が突如、苦しみだして倒れた。後ろにいた彼の仲間が尻餅をついて、そして、逃げるように消えていった。翡翠は躊躇なく目の前で変死した男性の荷物を探った。その中に入っていたのは、ある手紙と翡翠の写真であった。
内容は次のようであった。自分の友人に呪いの屋根飾りを送ってほしい。彼なら呪いを解呪してくれる、という内容であった。裏に差出人の名前があり、それを見て翡翠は顔色を変えた。
「何か分かったの?」
しかし、美玲の質問に翡翠は答えなかった。
今回も変死した男性は捜査員によって連れていかれた。その中から李警部が彼に近付いてくる。
そして、にこやかに言った。
「台湾人は昔から、よく日本人に助けられるな」
それは、かつての日本人と台湾人の歴史を皮肉っているのだが、翡翠は気にしなかった。
日本人がかつて、台湾を統治していた時代。
日本は台湾に虐待をしたのだろうか。それとも、貢献をしたのだろうか。確かに悪い行いが全くなかったとは言えない。威厳を示して制圧をしたし、不条理な行為もあった。
しかし、それは極一部のことであった。台湾に多くの貢献を与えたのだ。多くの台湾人は親日的である理由はそこにある。そこで、資料となる台湾人著書の書籍を元に、日本が台湾に与えた功績を挙げることにする。
日本が統治時代に台湾に貢献していることが多くあったので、親日的な人もいるし、日本統治での日本兵の態度により、植民地人としての反日的な人もいた。
では、日本は本当に植民地として台湾人を虐待したのだろうか。これは賛否両論があり、一概にどちらが正しいとは言えないが、親日的な人が多い理由は、台湾統治時に台湾に貢献していることが多くあったからだ。
その1つは疫病の駆除である。
日本領台前の台湾はいわゆる『荒蕪』『瘴癘』『化外』の地であり、けして移住、植民には天国でなかった。その悲惨な情況は、台湾だけでなく20世紀初頭まで、日本人の足跡のないアジアではどこも衛生状態は悪く疫病が流行っていた。
朝鮮では、20世紀初頭の日韓併合前まで、疫病が飢饉以上に蔓延していた。17世紀半ばから200年の間、平均26年に1回疫病が大流行し、年間10万人の死者発生の疫病が6回もあった。
また、1749年の全国大疫病は、死者50万人とも記録されている。朝鮮半島で最も死亡率が高い原因は疫病であり、『民乱』『倭乱』『胡乱』などの戦争や飢饉以上の命を奪った。
満州も、古来より悪疫病瘴癘の地といわれ、伝染病、地方病、寄生虫等多発した。その種は多彩で、赤痢、腸チフス、パラチフス、猩紅熱、ジフテリア、ペスト、発疹チフス、満州チフス、アメーバ赤痢、痘瘡、回帰熱、マラリア、コレラ等の病気である。
中国大陸では年々、疫病と飢饉が各地を襲い、19世紀には死者の数は1000万人を超えたことが3回もあった。水害、旱魃の後に疫病が発生することが多く、疫病の猛威は、ときには万里の長城を越え、満州に入り、朝鮮半島にまでも襲った。
戦後、中国人が大量に台湾に渡ったことで、1時期台湾は彼らとともに来たコレラ、天然痘、ペスト等に襲われ、全島に疫病は蔓延した。現在でも中国大陸には疫病は蔓延っている。台湾は中国人の持ち込んだ疫病から立ち直ったのは、1950年代に入って中国との人的交流が隔絶されてからである。
余談だが、228事件時、翡翠の叔母は9歳、父親は7歳であり、叔母はマラリアで苦しんだそうだ。
また、1980年半ば、翡翠が7,8歳の頃に家族で祖母の家に向かったときに、今はなき天然痘の予防注射を打ったことが思い出される。そのときは、注射が嫌で泣いて駄々をこねたものである。
日本は清流に恵まれ、海に囲まれ、鎖国、異国民族との文化摩擦はなく、外国との交流が極度に少なかったため、衛生面ではかなり優れていた。それは風習、精神からも垣間見ることができる。
日本人は多くの死者を出しながらも、台湾の衛生をよくし、疫病を研究、医療の発展より疫病撲滅に熱心に務めた。
これまで劣悪な環境の台湾では、それまでの平均寿命は30歳前後であったが、日本領台10年目の明治38年には、人口1000人中平均死亡者数は341人、されに明治45年には25.3人へと激減した。さらに大正15年には、20人以下という驚くべき変化を見せている。平均寿命は30歳から終戦当時60歳へと年々向上し、当時の世界では稀に見る成功例となった。
次に、日本は台湾の近代化を進めたことが挙げられる。
現在では、台湾では、今、日本がブームになっている。アーティスト、曲。『の』という平仮名。服装や格好。やはり、台湾人は日本人を好意的、近代化の祖だからか、流行を求めているようにも思える。
それは清朝時代から、日本統治に変わったときの日本がもたらしたものが原因している。
それは近代化、学問、医療、外敵よりの保守といったものがあった。
解放軍として迎えられた日本軍。戦後、『反日抗日』を銘打つ台湾史書で、日本軍という言葉の後には、たいてい『虐殺、略奪、放火、婦女暴行』などと続き、科挙試験の紋切り型の『八股文』のように、切っても切れない関係だが、歴史叙述法とは、こういった決まり文句を羅列するのが慣行であるようだ。
しかし、明治時代の日本軍は軍律が厳しく、原始資料を調べても支那人のような『虐殺、略奪、放火、婦女暴行』などの暴挙に出た記録はない。
日本軍の台北入城前後の台北城については、いくつかの記録は残っているが、それにより支那兵と日本軍のふるまいの違いが一目瞭然である。
明治28年(1895年)4月17日に日清戦争による下関条約が締結されると、台湾の有力者達は台湾の日本割譲に反対した。(漢民族と日本人の文化の違いが大きな問題である)
話は反れるが、下関条約で日本は清国から台湾を永久割譲されると、日本の朝野では新しい領土をどう経営していくか、または台湾を『植民地』としてみるか意見が分かれた。
結局、台湾の文化を残し、発展させることになるのだが、扱いは植民地とはいかないまでも、曖昧なままであった。沖縄のように領土扱いにする意見もあったが、結局、そうはならなかった。
話を戻すことにする。日本に割譲された際に、彼らは李鴻章の政敵であった両広総督の張之洞と連絡を取りながら、フランス海軍商工の入れ知恵も耳を傾け、窮余の策として清国の台湾巡撫・唐景崧を擁立し、『台湾民主国』を急造して抵抗したのだった。
『台湾民主国』とは、誕生以来非常に未熟な組織のため、台湾北部の澳底~上陸した北白川宮能久親王の率いる近衛師団との初戦に破れ、民主国政府は即戦意喪失してしまう。総統も将軍も夜逃げして大陸に逃げてしまった。
これに怒った兵士達は、無政府状態の台北城内で府庫に残った銀を略奪し、市民総出で糧庫、武器庫を奪い合い殺し合い、城内は地獄絵図と化した。
当時、台北城守備兵は役2万人、北部清兵は5万人に対し、一方、日本軍の前哨部隊は500人しかいなかった。所持兵器も日本に劣っていなかったが、指揮官が支那へ逃亡した以上、見放された兵士達は何もできず、その怒り不満を弱者の台湾市民にぶつけるしかなかった。
そもそも支那兵は烏合の衆で、訓練も受けていなかった。台湾に駐屯した大陸支那兵は、3年または1年の交代制で、アヘン中毒者も多かった。
唐総統の逃亡については、洪棄父の『台湾戦記』(上巻)にも記載されている。それによると、基隆守備営官の李文魁は敗兵を連れて台北に入城し、総統に出戦を迫ったが、唐総統は彼らを慰め、督戦に出ると偽り逃亡。李らは怒って府軍を略奪始める。彼らは乱民となってしまったのだ。
支那兵による略奪、放火、婦女暴行の修羅場の中で、台北城民は日本軍に支那兵追放を待ち焦がれた。そして、日本軍、当時の商会(財界)から辜顕栄が派遣され、同時にダビッドソンも10里先に布陣している日本軍の元へ急行し救援を哀願した。
こうした混乱の中、500人の先遣隊を率いて威風堂々入場したのは、近衛師団第1連隊長・小島大佐であった。そのころ、城内で暴れ回っていた支那兵は、軍服を脱ぎ捨て良民を装って淡水川に逃げた。そのとき、競って船を奪い合ったため、加重で船は沈み溺死者が多数出た。こうして、日本軍は悠然と無血入城を果たしたのだ。
船の奪い合いに勝ち、対岸に逃げ帰った支那人の末路は悲惨で、福州の報道によると、引き取り手のいない哀れな婦女は、1人8ドルで政府により売り飛ばされ、子供は棄てられた。
台湾の反日抗日の大英雄、簡大獅も、清国政府によって逮捕され、台湾総督府に引き渡されて処刑された。このように、実際に台湾で『虐殺、略奪、放火、暴行』を行ったのは『反日抗日』の支那人なのである。
清国兵の略奪は台南市民にも及び、それは台北と似ていた。総統が逃亡し台湾民主国の最高国家元首は、黒旗軍首領の劉永福であった。だが、劉も情勢不利と見るや部下に砲台視察と口実を用い、夜中に家族、側近と英国汽船テールス号でアモイに逃げた。
その翌日、首領逃亡を知った支那人は略奪を始め、危機回避のため、商会やキリスト教会長老のバークレイ博士が台南市民の代表として、乃木希典将軍の本営に救援を嘆願した。その後、日本軍は台南城に入城し支那人の略奪から市民を護ったのだ。
入城後、城内両広会館で平定祝宴が開かれた。参加者は樺山総督、高島鞆之輔副総督をはじめ台南市民代表数100人という賑やかなものである。
戦後の台湾史家は、日本人の領台初期は台湾人がいかに反日抗日に燃えたかといった、反日抗日史を多く綴っている。しかし、数日前まで王朝交替で右往左往、右顧左眄していた台北や台南城民は、いざ大勢が変わったと見ればすぐにお祭り気分で歓迎する。特にこの時代は国家や民族を云々する時代でもなかったから余計そうだっただろう。漢民族とはそういうものである。
福島資紀初代台湾総督と横浜丸に同乗し、台湾接収に来た文武百官の1行、台湾に深い関係を持ち、日本近現代史に名を残すものの1人、福島安正がいた。
彼は明治28年台湾受領後、大佐として陸軍部の台湾実地調査を行った。約2週間で淡水司政官を務め、緊急帰国して復命したが、その時記録したのが『淡水新政記』である。45歳で彼が残した記録は日本領台当時の台湾でもっとも開かれていた玄関口の淡水について、その風土民情を知る格好の資料である。
福島は上陸地点確認後、三貂湾を回り樺山総督の到着を待った。日本軍基隆占領後の6月5日に、憲兵と通訳とともに軍艦『八重山』に乗り、淡水へ向かい税関を占領した。
この日の午後、黄虎の旗にかわって日章旗が掲げられている。これ以来、淡水で2週間あまり新政を行った。
まず、清国敗残兵数千人を本土送還、市街測量、製図、戸口調査、市場開設、台北淡水間の河川にて定期船航路の開設、食料調達、衛生機構の開設、地方委員会の設立、新兵訓練、派出所設立、ゴミ捨て場の設置、公衆便所の設置、村長の任命、日章旗授与、租税調査などから手をつけ、樺山総督には逐次施政報告をした。
福島大佐は、6月25日から淡水を離れて帰国した。
スペイン人は17世紀初頭に、淡水に城を築いた。台湾最初の医学博士杜聡明の生地でもあり、日記によると当時、杜博士は3歳であった。李登輝前総統もここで生まれており、父親は巡査であった。
この日記から、市民には反日抗日の行動はなく、すぐに新政権になじんだことが分かる。
台湾総督府政治を総括したのは、第18代目の長谷川清海軍大将(在任期間1940年~1944年11月)である。その4年で、『内台一如』路線の完成に心血を注いだ。長谷川総督は、民意に従い様々な『差別』と言われる政策を改善、廃止した。
例えば、日本人は『小学校』、台湾人は『公学校』といった差別を止め、全ての小学校を『国民学校』と改称した。その背景には、教育、教科書まで日本の教育を台湾人に押し付け、日本の思想を植え付けようとした。日本語を話させ、読み書きをさせた。蒋介石のように、特に台湾語を禁止させることも、文化を禁止させることもなかったが。
また、過去に公務員の給与も違った。日本人には外地補助金が与えられ、台湾人より高い給料を払っていたが、長谷川総督はそれを改めた。皇民化運動の象徴としてよく言われる創氏改名(いわゆる、日本名を台湾人に付けさせるということである)も、住民の自由申告で許可制となった。
また、将校になった台湾人はいなかった。その中、長谷川総督は、『日台一如』という理想を実現すべく努力した。台湾人の日本国民としての軍隊への志願兵、徴兵制度の実現、帝国議会の衆議院選出方法の実現、昭和20年(1945)4月の衆議院選出を予定するまで、長谷川総督は努力した。台湾を日本の植民地ではなく、内地延長『日台一如』であるという信念を持ち、ひとつずつ理想を実現化した人物である。
(結局、台湾人には選挙権すら得ることができなかった)
台湾人達は、彼のそんな姿勢に心の中で尊敬していた、その証拠に彼の88歳の寿宴の際、台湾で白色テロ(共産党スパイ狩り)の恐怖が冷め止まぬ中、多くの台湾人が駆けつけた。
他にも、警官、医療、その他に貢献した日本人は台湾人に尊敬、歓迎、賞賛された人物も多く、銅像を立てられた者も少なくなかった。蒋介石率いる国民党が侵略し、日本人の建築した建物の破壊、銅像、モニュメント破壊のあった中、その後、再び、銅像を作り直されたものまであった。
結局、出資、極少の徴収税、前述のように何度も出てきた近代化などから、台湾人は日本人に親近感を持つ者が多いのだ。
続いて、日本兵による原住民による本省人への攻撃からの援護が挙げられる。
台湾は有史以来、強烈な植民地としての独自の歴史を歩んできたが、その本流は原住民(平埔族、高砂族)と漢民族の対立であった。台湾の漢族移民は、たいていが17世紀初頭のオランダ時代に季節労働者として中国東南沿岸地方から渡来したもので、この頃から原住民との悲劇が始まった。特に17世紀半ばの鄭成功時代より、19世紀末に日本に永久割譲されるまでの清国時代は、約240年間にわたる漢族移民による原住民の土地略奪、原住民虐殺の歴史であり、反乱と虐殺が間断なく続いた。
原住民の漢族の迫害より身を護る方法は、漢人に屈服して奴隷として使役されるか、あるいは集団移住か山谷に逃げ込むしかなかった。
鄭氏王朝と清国時代の『撫蕃』や『理蕃』(原住民の統治政策)の記述を読むと、いずれも原住民の虐殺史も同然である。台湾原住民の天敵はいつでも漢人であった。日本領台時代になって彼らはやっと解放されたのである。
日本統治にともない近代国民国家という時代になり、漢蕃両族も『文明開化』の波に洗われ近代社会の民と生まれ変わったのだ。
漢族が原住民の土地を略奪搾取するのは、集団で『蕃社』(原住民の集落)を焼き払い皆殺しにするか、騙し取ることも多かった。倭寇最後のボスであった鄭成功は、たいていは『蕃社』を焼き討ち、皆殺しにして台湾の西南平野を開墾するが、それ以外に騙し取る方法も多用した。
集団的土地占領の例として、1796年の呉沙のカバラン(宜蘭)開発、1815年の郭百年や黄林旺らの埔里社侵入などがある。
このように土地を追われた原住民は、漢人の奴隷に転落するか反抗・逆襲に打って出るしかなかった。それが、いわゆる『蕃乱』で、『出草』(首狩り)による『蕃害』であった。
19世紀に入り、漢人の侵略と迫害を受けて先祖の土地を追われた平埔族達は、台湾各地へ散った。淡水と彰化の平埔族は、中部平埔社高原へ入った。南部鳳山地方の平埔族は、台東と恒春平原へ移動。蛤仔難(宜蘭)の平埔族は、海を渡って台東のキライ平野(花連港庁)に移住した。
そして、ジャングルの優勝劣敗の法則に従い平埔族は種の滅亡に直面し、20世紀に入ってついに漢人に滅ぼされてしまった。あるいは漢族化された。
17世紀末の台湾の推定人口は、平地原住民は約30万人、漢族はその1/10である。それが19世紀末には、300万人近くに人口が膨れ上がっている。封禁の島でありながら、中国大陸東南沿岸から漢人が絶えず流入し、彼らは原住民より妻を略奪し新たな台湾社会を作ったのだ。
残された原住民の男性は『蕃人は老いて妻はなく』といった状態で、孤独な男性老人だけが『蕃社』に残り、極めて凄惨に種が滅びていったのだ。
西郷従道都督が征台した牡丹社事件と清仏戦争の刺激を受けて、台湾に山禁海禁を敷いていた清国は、台湾渡航開発禁止を解除した。これは西夷と倭夷からの脅威を防ぐため、福建の植民地であった台湾を独立させて省制を設けた。これにより、沈葆楨(欽差大臣)の開山撫蕃と劉銘伝の台湾軍事基地の建設を実現させた。
沈葆楨は、開山撫蕃のために軍事道路三路を開設しようとした。北路は宜蘭、蘇澳~台東奇莱。中路は雲林の林杞埔~台東の璞石閣、南路は鳳山の赤山庄~台東の卑南、鳳山社寮~卑南といったルートを開こうとした。しかし、実際に人が通れる程度の山道を開いても、川を渡る端は作れなかった。
沈の開山撫蕃は、激しい山岳民族の抵抗を受けて、軍路開拓の兵士は山岳民族の襲撃を受けていた。そこで、彼の軍隊は和議を申し込むふりをして山岳民族をバザールに集めたところで不意を付いて皆殺しにして蕃社を略奪していく。
あるいは、原住民を捕獲して殺し、その肉を竹篭に入れて『蕃肉』としてアモイに輸出している。アモイでは、これを漢方の『補薬』として利用したし、支那人は夷狄の肉を食す風習もあった。
漢人は自分に帰順するかしないかで台湾原住民を分けていた。いわゆる『生蕃』と『熟蕃』である。『生蕃』とは、たいてい化外の地で生活している反抗的な原住民を指し、『熟蕃』とは漢人に帰順して同化された原住民を差す。
沈葆楨の開山撫蕃の失敗から、まさに軍隊による生蕃の帰討、詐欺、虐殺史であった。たとえば、光緒元年の1874年から光緒21年に至るまで、獅頭社蕃、南渓蕃、太魯閣、奇莱社蕃、加礼宛蕃、阿眉蕃、南勢蕃、大南勢蕃、呂家社蕃、台東平埔蕃、東勢蕃の、これら全ての蕃社で『生蕃』の討伐と虐殺を行った。
しかし、劉銘伝の親征はほとんどが逆襲されて失敗に終わった。光緒12年(1886年)、劉は親兵100人、民兵9500人を率いて生蕃の掃討に出掛けたが、この前後の清軍による討伐は、清国兵士死傷死亡者は千余人も出た一方で、抵抗する原住民の首は2個しか取れなかった。
同年4月、再び三営の兵を率いて大嵙崁討伐を行った。今度は砲台を枕頭山に築いたが、やはり逆襲を受けて三営の兵士の大半を喪失してしまう。
光緒15年、劉は今度は蘇澳から陸海軍を率いて南澳蕃を討伐しようとしたが、清軍がタイヤル族の伏兵にあい全滅したといわれている。翌年、牡丹社、高士仏社(西郷軍に帰順した蕃社)のパイワン族を討伐したが、これも失敗した。
劉の軍隊は、ほとんどがアヘン中毒で、台湾平地の漢人と平埔族の『熟蕃』に対する略奪は勇猛であったが、勇猛な山岳民族に対してはほとんど歯が立たなかった。
恒春地方の18社の生蕃に1874年に清国の唐宝圭が13営を率いて討伐に来たが、清軍の死者は2000人を上回った。
しかし、その後、明治28年に守備隊長、橋本少佐から攻撃を1回受けただけで、原住民はすぐに帰順した。
山根武亮鉄道隊長は、南部鉄道探査のとき南勢湖の地で生蕃の首長に会っている。そのとき山根に対して極めて丁寧に事情を報告したという。これからも、日本人と支那人の『理蕃』の違いが良く分かる。
300年近くにわたる台湾侵入、平埔族に対する土地略奪を続けた漢人達は、それだけ長く居住しても西海岸の平野しか支配できなかった。そのため日本の領台初期、台湾の2/3の土地はまだ原住民の土地であった。
戦後は、台湾史といえば日本植民地統治下の反日抗日がまず挙げられ、佐久間左馬太総督の原住民討伐や『霧社事件』などが、日本人の植民地支配の残虐性を象徴する事件であると語られている。このような論調で、ことに霧社事件を扱った著書も多い。
『霧社事件』を語れば、自分が一躍民族の英雄や良心派になった錯覚を得られるだろう。この事件が台湾史研究の登竜門にもなっている。もちろん、台湾史の中でも一大事件であるが、その原因は様々だと指摘されている。
実際には『霧社事件』で殺されたのは、日本人とその関係者である。これに比べて日本時代以前、数百年にわたる漢族の原住民大虐殺は『霧社事件』の比ではないし、目も当てられない虐殺を漢人は数10、数100回も繰り返したのである。
また、佐久間総督の理蕃政策は、全てに賛同する訳ではないが、結果的には台湾を有史以来ひとつの政治体制下にまとめてくれた。さらに、漢族間の『械闘』(集団的私闘や殺し合い)も、『漢』『蕃』両種族の数百年に及ぶ血みどろの死闘も、日本領台期の法治社会確立によって解消されて、歓迎すべき歴史的変化と共生共存が実現したのだ。
昭和17年2月、南方出征軍軍夫が募集され、第1陣500名が『高砂挺身報国隊』として、バターン半島、コレヒドール半島の攻略戦に参加した。当時の陸軍中将、本間雅晴台湾軍司令官は、これを『高砂義勇隊』と命名している。
『高砂義勇隊』の勇猛と功績は、多くの日本国民に感動を与えた。中でも、最後まで勇敢に戦ったのは、日本軍の山岳民族討伐戦争の際に最後まで抵抗したタコロ蕃であり、大東亜戦争が始まる前には、タコロ族は日本に征服された身であった。
そのタコロ族が日本軍に帰順して、いざ日本軍とともに戦うことになったら、目覚しい活躍を果たした。最後まで最も忠実に日本軍とともに大東亜戦争を戦い抜いたのは、高砂義勇隊であったのだ。高砂族と日本人の間に『武士道精神』が通じていたとしか言いようがないところである。
逸話も多く残されている。たとえば、激戦中に切り込み隊となって忠義を尽くして抜群の功績を与えたことから、金鵄勲章を授けられた者がいた。また、弾薬や食料を背負って戦地に届けようとして、疲労困憊しても背中の食料には一切手をつけず、米袋を背負ったまま餓死した者もいた。
大戦中に、日本人の駐在警察官を慕っていたからという理由で志願し、志願兵として南方戦線に散った高砂義勇兵は実に多かった。彼らの記念碑は、現在、烏来の滝の向こうにある山上に建てられ、李登輝前総統の題詞が添えられている。
話は戻るが、その台湾への日本の貢献を翡翠が知っていると踏んで、皮肉を残して李警部は鼻で笑いながらそのまま去っていった。
翡翠に近付いて去っていく李警部の後姿に鋭い視線を刺しながら、美玲は翡翠のことを気遣った。
「気にしないで。あの人、麻薬組織が捕まえられなくて、苛々しているのよ」
「僕を囮にしてね」
翡翠を見る顔をしかめた美玲に、彼は横目で視線をやってにやりと笑ってみせた。
「さぁ、帰ろうか」
その言葉に思い切って美玲はある質問を訊いてみた。
「ねぇ、翡翠は怖いと思うことはないの?呪いで死ぬかもしれないのよ」
すると、翡翠は美玲の頭を軽く叩いて言った。
「僕は恐怖という感情が鈍いんだ。それに死ぬことができないから、大丈夫だよ。強力な守護霊が複数ついているからね。知り合いの霊能者いわく、6代前の祖先も守護霊らしいけどね」
その言葉に美玲は1歩引いて恐る恐る問う。
「もしかして、霊が見えるの?霊…」
「霊感?」
「そ、そう。霊感があるの?」
そこで彼は振り返って、夜市の方に向かって歩き出しながら言った。
「まぁね」
美玲は追って彼の背中を思い切り叩いて怒鳴った。
「私を怖がらせようと思って嘘言わないで」
背中に無理して手を回して擦りながら、翡翠は呟く。
「痛ーいなぁ。僕は嘘がつけない性格なんだって」
そのまま、2人はあんな呪いによる死を目前にしたにも拘らず、観光に戻っていった。
会社と位置付けられている。
福大の株主はほとんどが日本人だが、名簿には少数の台湾人の名前も見掛けられる。そのうち辜顕栄氏(辜振甫氏の父親)200株、林熊徴氏1000株、林熊祥氏1000株は個人名義。陳啓峰氏は新興製糖過節会社の名義で100株、台陽鉱業株式会社は台煤の顔欽賢氏。
福大の株は合わせて6万3700株。そのうち台拓が1万9409株。
辜顕栄氏の株は1941年、辜振甫、辜京生、辜偉甫、辜濂松(辜顔碧霞を代表)、辜寛敏の各氏に譲渡されている。1931年の株主総会の記録には、林熊徴、林熊祥、顔欽賢、陳啓峰、辜振甫などの各氏の名前が見られるが、慰安婦については触れていない。
海峡交流基金会董事長で台湾セメント董事長の辜振甫氏はこれについて、自分の家族はいかに落ちぶれても天に背くことはしないと語った。また、福大という会社に家族が参加しているとは聞いたことがないと強調した。
次に、林家の歴史的状況を示すことにする。これにより、日本政府に(台湾政府にも)多額の金銭を貸していたか、または、没収されたかが分かる。
続く
林家についてよくわかられたと思います。
これは公募で落ちたものでもあります。
後編を楽しみにしていて下さい。