伯爵令嬢でしたが、婚約破棄された上に勘当されたので、身分を隠して公爵家のメイドになりました
「セシル。君との婚約を破棄したい」
婚約者のエドワード・ド・ラ・ロシュ様からそう告げられたのは、秋の午後のことだった。
場所は、ベルモン伯爵家の応接室。
磨き上げられた大理石の暖炉には火が入り、壁には金糸で縁取られた深緑色の壁布が張られている。窓際には季節の花が生けられ、銀の燭台も曇り一つなく磨かれていた。
この応接室は、屋敷の中でも私が特に好きな場所だった。
理由は二つある。
一つは、調度品が美しく、掃除のしがいがあること。
そしてもう一つは、暖炉の上に亡くなった母の肖像画が飾られていることだった。
金色の額縁に収められた肖像画の中で、母は淡い水色のドレスをまとい、穏やかに微笑んでいる。
母は、柔らかく波打つ栗色の髪と、優しげな丸い目をした美しい人だった。
不思議なことに、私は母にあまり似ていない。
父にも似ていないので、幼い頃から親戚に不思議がられたものだけれど、母はいつも「顔が似ていなくても、私の大切な娘よ」と笑ってくれた。
その母も、今はもういない。
私は何となく肖像画に目を向けてから、正面に座る青年へ視線を戻した。
「……婚約破棄、ですか?」
「ああ。申し訳ないが、君とは夫婦になれない」
「そうですか」
私は膝の上で両手を重ねた。
目の前に座っているのは、柔らかな金髪に鮮やかな青い瞳を持つ、美しい青年だった。
長いまつ毛に縁取られた大きな目は優しげで、形のよい唇には、いつも人を安心させる微笑みが浮かんでいる。
初めてお会いしたとき、世の中にはこんなに綺麗な男性がいるのかと驚いたものだ。
そして、その隣には私の妹、マリアが座っていた。
大きくぱっちりとした二重の目に、ふっくらとした涙袋。小さな顔に華奢な体つきの妹は、今日も流行のドレスを見事に着こなしている。
二人が並んでいる姿は、確かに絵になると思った。
「理由をお聞きしてもよろしいでしょうか」
「君は、その……あまりにも貴族令嬢らしくない」
「貴族令嬢らしくない?」
「社交界にはほとんど顔を出さないし、流行のドレスにも宝石にも興味がない。それどころか、屋敷では使用人の仕事までしているそうじゃないか」
「はい」
「はい、ではないだろう!」
エドワード様は呆れたように額を押さえた。
「伯爵令嬢が自分で床を磨くなど、聞いたこともない!」
「でも、汚れていたら綺麗にしたくなりませんか?」
「使用人に命じればいい!」
「自分でやったほうが楽しいのですけれど」
「……楽しい?」
「はい。磨いたところがぴかぴかになると、気持ちがいいでしょう?」
エドワード様は何とも言えない顔になった。
どうやら理解していただけなかったらしい。
私、セシル・ド・ベルモンは、ベルモン伯爵家の長女として生まれた。
貴族令嬢としての教育は、ひととおり受けている。
礼儀作法も、ダンスも、語学も、刺繍も。
先生方からお叱りを受けた記憶は、ほとんどない。
ただし、私は昔から、じっと座っているよりも体を動かすほうが好きだった。
美しい刺繍を眺めるのも楽しいけれど、汚れた窓を磨いて庭がよく見えるようになるのも楽しい。
お茶をいただくのも好きだけれど、自分でお湯を沸かし、茶葉を量るのはもっと好きだ。
料理だってそう。
材料を切り、火を通し、味を整える。
自分の手で何かが出来上がっていく過程は、いつだって私を夢中にさせた。
もちろん、使用人たちの仕事を奪うつもりはない。
手伝ってもいいかと尋ねて、一緒に作業をさせてもらっていただけだ。
ところが、父はそんな私をひどく嫌っていた。
『ベルモン伯爵家の娘が、下働きの真似をするな!』
何度そう叱られたことだろう。
けれど、どうしても理解できなかった。
自分の手で何かをすることが、そんなに恥ずかしいことなのだろうか。
「君は本当に変わっているよ、セシル」
エドワード様がため息をつく。
「それに比べて、マリアは素晴らしい令嬢だ」
そう言って、隣に座る妹へ微笑みかけた。
「エドワード様ったら」
マリアは嬉しそうに頬を染める。
「マリアは社交的で、流行にも敏感だ。いつも美しく着飾り、私の隣に立つにふさわしい」
「そうですね」
「彼女といると、私は楽しいんだ」
「それは何よりです」
「……君は怒らないのか?」
少し不満そうに尋ねられた。
怒ってほしいのだろうか。
婚約者を妹に奪われて、悲しくないわけではない。
私だって、エドワード様をお慕いしていた時期はある。
ただ、最近はお会いするたびに服装や趣味を注意されていたから、正直なところ、結婚生活に不安を感じていた。
「お二人のお気持ちが固まっているのでしたら、私が何を申し上げても仕方ありません」
「そうか。君ならそう言うと思ったよ」
エドワード様は安心したように微笑んだ。
その笑顔は、やはり美しかった。
美しいからこそ、余計に悲しかった。
私はこの方の顔を見て、優しい人なのだと思い込んでいたのかもしれない。
「お姉様、ごめんなさいね」
マリアが口を開いた。
「エドワード様がどうしても私がいいっておっしゃるの。困ってしまったわ」
「そう」
「でも、お姉様はあの方に興味がなかったのでしょう?」
「そんなことはないわ」
「あら、そうなの?」
マリアは不思議そうに首を傾げた。
「だって、お姉様はいつも地味な服ばかり。婚約者に綺麗だと思っていただきたいなら、もっと努力すればよかったのに」
「……そうね」
「私だったら、好きな方のために精いっぱいお洒落するわ」
それは、きっと本当なのだろう。
マリアはお洒落が大好きだ。
新しいドレスが届けば目を輝かせるし、宝石の話なら何時間でもできる。
その楽しさを、私は否定したいとは思わない。
ただ、私には私の好きなものがあった。
それだけのことなのに。
「お姉様も、これからは少し頑張ったほうがいいと思うわ」
「忠告ありがとう」
「ふふ。どういたしまして」
マリアは満足そうに笑った。
そのとき、応接室の扉が開いた。
「話は済んだか?」
入ってきたのは、父だった。
ベルモン伯爵である父は、中年になってすっかり恰幅がよくなっている。
けれど、大きな目元には若い頃の面影が残っていた。
マリアは父によく似ている。
父が妹を溺愛するのは、自分にそっくりだからだろう。
「お父様」
私は立ち上がって一礼した。
父は私を見るなり、不機嫌そうに眉をひそめた。
「セシル。お前という娘は、最後まで恥をかかせおって!」
「……何のお話でしょうか」
「オルレヴィア王国の貴族令嬢ともあろう者が、使用人に交じって床を磨き、厨房に入り浸るなど、聞いたこともない! そんな有様だから、エドワード殿に婚約を破棄されるのだ!」
私は言葉を失った。
「ですが、お父様は婚約破棄をご存じだったのでしょう?」
「当然だ! エドワード殿から事情を聞いた。マリアを妻に迎えたいという申し出もな!」
「でしたら、私だけが悪いというのは……」
「口答えするな!」
父の大きな声に、私は口を閉じた。
マリアが父の腕にそっと手を添える。
「お父様、そんなに怒らないで。お姉様だって悪気はなかったのよ」
「おお、マリア。お前は優しい子だな」
父の顔がたちまち緩んだ。
「それに比べて、セシルときたら……」
私は黙って二人を見つめた。
昔から、いつもこうだった。
マリアが褒められ、私は叱られる。
同じことをしても、マリアなら愛嬌があると言われ、私なら品がないと言われる。
ふと、暖炉の上に飾られた母の肖像画が目に入った。
肖像画の中の母は、いつもと変わらない穏やかな笑顔を浮かべている。
母が生きていた頃は、私が厨房で料理を教わっていると、こっそり味見に来てくれたこともあった。
『セシルは本当にお料理が好きなのね』
そう言って、母は楽しそうに笑っていた。
あの頃は、私の好きなことを好きだと言っても、誰も傷つかなかった。
けれど、母が亡くなってからは違う。
今のこの家で、私の味方になってくれる人はいない。
「もう我慢ならん!」
父が突然、声を張り上げた。
「セシル。お前はベルモン家の娘としてふさわしくない!」
「……はい?」
「勘当だ!」
私は瞬きをした。
「勘当、ですか?」
「そうだ! 今日限り、お前はこの家の人間ではない!」
あまりに突然の宣告に、頭が追いつかなかった。
「お父様、本気でおっしゃっているのですか?」
「無論だ!」
「ですが、私は……」
「言い訳は聞かん! 身一つで出ていけ!」
身一つ。
私は思わず、自分の服に目を落とした。
今日着ているのは、飾りの少ない普段着だ。
財布も持っていない。
着替えはもちろん、寝巻きも下着も、すべて自室に置いたままだった。
「せめて、私物を持っていくことは……」
「ならん! お前が使ってきたものは、すべてこの家の金で買ったものだ!」
「……承知しました」
私は深く頭を下げた。
父は満足そうに鼻を鳴らした。
「少しは世間の厳しさを知るがいい」
マリアは何も言わなかった。
ただ、父の隣で、私を見ていた。
エドワード様も、止めてはくださらなかった。
私はもう一度、三人に向かって一礼した。
「それでは、失礼いたします」
誰からも返事はなかった。
扉へ向かいかけて、私は一度だけ足を止めた。
母の肖像画が、いつもの場所に飾られている。
この絵を最後に見たのは、いつだったかしら。
いいえ、今まで毎日のように見ていたのだから、そんなことを考えるのもおかしい。
けれど、もう二度と、この応接室に入ることはないかもしれない。
私は心の中で、母に別れを告げた。
お母様。
私、家を出ることになりました。
どうか、心配なさらないでくださいね。
最後にもう一度だけ肖像画を見上げ、私は応接室を後にした。
*
屋敷を出る前に、私は庭の片隅へ向かった。
古い木の根元に、小さな石が置かれている。
そこには、長年一緒に暮らした猫のテオが眠っていた。
子猫の頃、屋敷の裏で震えていたところを拾った。
父は汚い野良猫だと嫌がり、マリアも近づこうとしなかった。
それでも、私はどうしても放っておけなかった。
温めた布で体を拭き、食べ物を用意して、毎日世話をした。
やがてテオは元気になり、私の後をどこへでもついてくるようになった。
掃除をしていると足元にまとわりつき、洗濯物を畳んでいると上に乗って邪魔をする。
私が悲しいときには、決まって膝の上に乗ってきた。
そんなテオも、少し前に年老いて亡くなった。
最期は私の腕の中だった。
「……テオ。私、お屋敷を出ることになったの」
小さな石に向かって話しかける。
「もう、お墓のお世話には来られないかもしれないわ」
風が吹いて、木の葉が揺れた。
「でも、あなたはここでゆっくり眠っていてね」
私は石の周りに落ちていた葉を拾い、土を整えた。
いつもなら小さな花を供えるところだけれど、今日は何も持っていない。
せめて綺麗にしておきたくて、石についた土を指先で丁寧に払った。
「今までありがとう」
最後にもう一度、石を撫でる。
立ち上がると、思っていたよりも胸が苦しかった。
エドワード様との婚約がなくなったときよりも。
父に勘当されたときよりも。
この小さなお墓とお別れすることが、何よりつらかった。
*
屋敷の門を出たとき、私は本当に何も持っていなかった。
お金も、着替えも、行く当てもない。
貴族令嬢として二十年近く生きてきたけれど、こんな経験は初めてだ。
「……さて、どうしましょう」
道端で立ち止まり、考える。
まず必要なのは、お金だ。
お金を得るには、働かなければならない。
働くなら、私にできる仕事がいい。
私は料理が好きだ。
掃除も好きだ。
洗濯だって苦ではない。
「それなら……」
使用人として働けばいいのではないだろうか。
そう思いついた瞬間、少しだけ気持ちが軽くなった。
父は使用人の仕事をする私を嫌っていた。
エドワード様も、貴族令嬢らしくないとおっしゃっていた。
けれど、私はもう伯爵令嬢ではない。
ならば、誰に遠慮する必要があるのだろう。
「……そうよね」
私は思わず微笑んだ。
仕事を探そう。
住み込みで働けるところなら、寝る場所にも困らない。
そう決めて歩き始めたものの、問題はすぐに見つかった。
私は仕事の探し方を知らなかったのだ。
伯爵家では、使用人の採用は家令が取り仕切っていた。
私が面接をしたことなど、一度もない。
そもそも、仕事を探す人はどこへ行くのだろう。
しばらく街を歩いていると、店先に何枚もの紙が貼られた掲示板を見つけた。
近づいて読んでみる。
商品の宣伝。
落とし物のお知らせ。
催し物の案内。
そして、その中に一枚の求人広告があった。
『モンテクレール公爵家 住み込みメイド募集』
私は足を止めた。
公爵家。
ずいぶん立派なお屋敷に違いない。
さらに下を読む。
『雇用期間約六か月。能力・人柄重視。出自問わず』
「……出自問わず?」
私は小さく声に出した。
これは、今の私にぴったりではないだろうか。
住み込みで、しかも半年間働ける。
その間にお給金を貯めれば、次の仕事を探すこともできるだろう。
ただし、気になることが一つある。
公爵家で働くのなら、身元を尋ねられるはずだ。
勘当されたとはいえ、ベルモンの名前を出せば、父の耳に入るかもしれない。
それは避けたかった。
私は広告の最後まで目を通した。
応募先は、モンテクレール公爵邸。
住所も書かれている。
「……行ってみましょう」
採用されるかどうかは分からない。
けれど、何もしなければ始まらない。
私は広告の住所を覚え、公爵邸へ向かうことにした。
*
モンテクレール公爵邸は、想像していたよりも静かな場所だった。
広い敷地に、手入れの行き届いた庭。
建物は立派だけれど、必要以上に豪華な装飾はない。
ベルモン伯爵家よりも高い爵位のお屋敷なのだから、もっと華やかな建物を想像していたのだけれど、どちらかといえば落ち着いた雰囲気だった。
私は門の前で立ち止まり、服装を整えた。
とはいえ、朝からずっと着ている普段着だ。
せめて髪が乱れていないことを確かめ、呼び鈴を鳴らした。
しばらくすると、背筋の伸びた男性が現れた。
年齢はよく分からない。
落ち着いた物腰で、隙のない身なりをしている。
「どちら様でしょうか」
「突然の訪問をお許しください。メイドの求人広告を拝見して参りました」
男性は私を一瞥した。
「……応募者の方ですか?」
「はい」
その声が、わずかに明るくなったような気がした。
「お名前を伺っても?」
「セシルと申します」
「姓は?」
私は一瞬、言葉に詰まった。
「……申し訳ありません。今は名乗れる姓がございません」
男性の眉が、わずかに動いた。
「なるほど」
それ以上は追及されなかった。
「私は当家の執事、モーリスと申します。どうぞ、こちらへ」
「ありがとうございます」
私は案内に従って屋敷へ入った。
玄関ホールは広く、床は丁寧に磨かれていた。
調度品も上質なものばかりだ。
けれど、不思議なことに人の気配が少ない。
公爵家なら、もっと大勢の使用人が行き交っているものだと思っていた。
「こちらでお待ちください」
案内されたのは、小さな応接室だった。
私は勧められた椅子に腰を下ろした。
モーリスさんは向かいに座り、書類を広げた。
「それでは、いくつか質問をさせていただきます」
「はい」
「これまでに、使用人として働いた経験はございますか?」
「ございません」
「料理の経験は?」
「ございます」
「掃除は?」
「好きです」
モーリスさんの手が止まった。
「……好き、ですか」
「はい。特に窓磨きが好きです。曇っていた窓が綺麗になると、外の景色まで明るく見えるでしょう?」
「なるほど」
モーリスさんは何かを書き留めた。
「洗濯は?」
「好きです」
「裁縫は?」
「好きです」
「……家事全般がお好きなのですね」
「はい!」
つい勢いよく返事をしてしまった。
私は慌てて姿勢を正す。
「失礼いたしました」
「いえ。結構です」
モーリスさんは表情を変えなかった。
ただ、少し不思議そうに私を見ている気がした。
「では、読み書きと計算は?」
「問題ございません」
「帳簿の数字を確認することも?」
「はい。必要でしたらお手伝いいたします」
「外国語は?」
私は答えた。
すると、モーリスさんは少し難しい質問を重ねてきた。
私は知っている範囲で答えた。
質問が進むにつれて、彼の視線が鋭くなっていく。
「……セシルさん」
「はい」
「失礼ですが、どちらで教育を受けられたのでしょうか」
しまった。
私は内心で顔をしかめた。
貴族令嬢として受けた教育を、そのまま披露する必要はなかったのだ。
「……家庭で教わりました」
「そうですか」
モーリスさんはそれ以上尋ねなかった。
けれど、納得したようには見えなかった。
「最後に、当家の事情をご説明いたします」
「お願いいたします」
「当家は、一般的な公爵家と比べて使用人が少なくございます」
「そうなのですね」
「以前はもっと大勢おりましたが、先代ご夫妻が亡くなられた後、財政上の事情から人員を整理いたしました」
私は黙って耳を傾けた。
「現在、借金はすべて返済を終えております。暮らしに困ることはございませんが、当主は必要以上の贅沢を好まれません」
「そうなのですか」
「はい。必要な仕事を、必要な人数で行う方針でございます」
それは合理的だと思った。
大勢いれば便利なこともあるだろうけれど、人数が増えれば、それだけ仕事の調整も必要になる。
「ただし、その分、一人にお願いする仕事は多くございます。掃除だけ、洗濯だけというわけにはまいりません」
「お料理もさせていただけるのですか?」
「ええ。厨房の手伝いもお願いすることになるでしょう」
「まあ! それは嬉しいです」
「……嬉しい、ですか?」
「はい。お掃除もお洗濯も好きですけれど、お料理も大好きなんです」
モーリスさんは、手元の書類に目を落とした。
それから、もう一度私の顔を見た。
「念のため申し上げますが、仕事は決して楽ではございませんよ」
「承知しております」
「お休みや休憩はもちろんございますが、勤務中は忙しく動いていただくことになります」
「はい。いろいろなお仕事を経験できるのは楽しみです」
モーリスさんはしばらく黙っていた。
どうやら、私の返事は予想外だったらしい。
「……実を申しますと、少々困っておりまして」
「どうかなさいましたか?」
「今回の募集を始めてから、なかなか応募者が現れないのです」
「まあ、そうなのですか?」
「ええ。お給金も、住み込みのお部屋もご用意しておりますし、特別厳しい条件を設けているつもりもないのですが……」
モーリスさんはそこで言葉を切った。
何かを考えるように視線を落としたものの、それ以上は何もおっしゃらなかった。
私は少し不思議に思った。
公爵家で働けるとなれば、希望する人は大勢いそうなものだけれど。
「やはり、お仕事が多いからでしょうか?」
「それもあるかもしれませんな」
モーリスさんは曖昧に微笑んだ。
「加えて、今回は半年ほどの期限付きでございますから」
「そうでしたね。求人広告にも書いてありました」
「当家のメイドであるエリーズが、妊娠八か月を迎え、産休に入ることになりました。出産後三か月ほどで復職する予定ですので、それまでの間、お仕事をお願いしたいのです」
「まあ。それはおめでたいことですね」
「ありがとうございます。本人にも伝えておきましょう」
モーリスさんは初めて、ほんの少しだけ笑った。
「エリーズが復職しましたら、原則として新しいメイドを雇い続ける予定はございません。それでもよろしいでしょうか」
「はい。もちろんです」
私は迷わず頷いた。
半年もあれば、お給金を貯めて、次の仕事を探すことができるだろう。
それに、今の私には帰る家もない。
住む場所と仕事を同時にいただけるなんて、これ以上ありがたいことはなかった。
「半年間、精いっぱい働かせていただきます」
「……随分と意欲的でいらっしゃいますね」
「申し訳ありません」
「謝ることではございません」
モーリスさんは書類を閉じた。
「では、当主に確認してまいります。しばらくお待ちください」
「よろしくお願いいたします」
私は丁寧に頭を下げた。
モーリスさんが部屋を出ていく。
一人になった私は、ようやく息を吐いた。
「……緊張したわ」
けれど、少し楽しかった。
誰かに自分の得意なことを尋ねられたのは、久しぶりだったから。
伯爵家では、私が何をできるかよりも、何をしてはいけないかばかり教えられていた。
ここでは違うのかもしれない。
そんな期待が、胸の中に芽生えた。
*
しばらくして、モーリスさんが戻ってきた。
「セシルさん」
「はい」
「当主より、採用の許可が下りました」
「……本当ですか?」
「はい。ただし、当面は試用期間とさせていただきます」
「ありがとうございます!」
私は立ち上がり、深く頭を下げた。
思っていた以上に嬉しかった。
今日の朝まで、私は伯爵家の娘だった。
婚約者を失い、家を追い出され、行く当てもなく街を歩いていた。
それが今、仕事を見つけたのだ。
「住み込みのお部屋もご用意いたします」
「本当にありがとうございます」
「お礼は、仕事でお返しください」
「はい!」
モーリスさんは頷いた。
「それから、お着替えなどはお持ちでしょうか」
そう尋ねかけて、私の手元に視線を落とした。
私は何も持っていない。
鞄どころか、小さな包みさえなかった。
「……失礼いたしました。お荷物はお持ちでないようですね」
「はい。実は、着の身着のままで参りました」
「承知いたしました。ひとまず仕事着と寝間着を手配いたしましょう。その他の必要な品については、改めてご相談いたします」
「ありがとうございます」
「では、まず屋敷をご案内いたしましょう」
私は彼の後について廊下へ出た。
窓から午後の日差しが差し込んでいる。
床には埃一つ見当たらない。
思わず感心していると、モーリスさんが説明してくれた。
「当家では、使用人の人数が少ない分、一人ひとりに任される仕事が多くございます。そのため、勝手な判断で行動せず、分からないことは必ず確認してください」
「承知いたしました」
「特に、当主の私室には許可なく入らないように」
「はい」
そのとき、廊下の向こうから一人の女性が歩いてきた。
栗色の髪をきちんと結い上げた、柔らかな雰囲気の女性だった。
年齢は私より少し上だろうか。
お腹がふっくらと膨らんでいて、ゆったりとしたメイド服を身につけている。
「エリーズ、ちょうどよいところに。こちらが新しく採用したセシルさんです」
「まあ! もう新しい方が決まったんですね」
女性は嬉しそうに微笑んだ。
「初めまして、エリーズです。私が産休に入っている間、お仕事をお願いすることになります。よろしくお願いしますね」
「セシルと申します。こちらこそ、どうぞよろしくお願いいたします」
私が頭を下げると、エリーズさんはにこやかに頷いた。
「これで安心して赤ちゃんを迎えられそうです」
「ご出産を控えていらっしゃるのですね。どうぞ、お体を大切になさってください」
「ありがとうございます。初めての子なので、少し緊張しているんですけれど」
エリーズさんは照れくさそうに笑い、ふっくらとしたお腹を撫でた。
「ところで、セシルさんのお荷物は?」
「実は、何も持ってきていないんです」
「まあ、そうだったんですか」
エリーズさんは驚いたようだったけれど、事情を尋ねようとはしなかった。
代わりに、少し考えてから明るく微笑んだ。
「それなら、私のメイド服をお貸ししますね」
「えっ、よろしいのですか?」
「もちろんです。妊娠してからは以前のものが着られなくなってしまって、しまってあるんです」
「でも、大切なお洋服でしょう?」
「ふふ。お仕事に使うものですし、しまっておくより着ていただいたほうがいいですもの」
エリーズさんは私の姿を見て、少し考えた。
「背丈もそれほど変わらないようですし、きっと大丈夫ですよ。寝巻きも何枚かありますから、よかったら使ってください」
「ありがとうございます。大切にお借りします」
「気にしないでくださいね。産休中は使いませんから」
私は思わず、エリーズさんの顔を見つめた。
今日初めて会ったばかりなのに、こんなに親切にしていただけるなんて。
「安心してお休みいただけるよう、精いっぱい頑張ります」
「まあ、頼もしい!」
エリーズさんは嬉しそうに笑った。
すると、隣で話を聞いていたモーリスさんが静かに口を開いた。
「エリーズ。服を貸してくださるのは結構ですが、準備はこちらでいたします。あなたはもう産休に入るのですから、くれぐれも無理をなさらないように」
「はいはい、分かっていますよ」
「返事は一度で結構です」
エリーズさんは楽しそうに笑った。
私もつられて微笑んでしまう。
まだ働き始めてもいないけれど、この屋敷には優しい人たちがいるのだと分かって、胸の奥が少し温かくなった。
「それでは、セシルさん。後ほどお部屋へ服をお届けしますね」
「はい。よろしくお願いいたします」
エリーズさんと別れ、私たちは再び廊下を歩き始めた。
「エリーズは長く当家に勤めております。仕事も丁寧で、気配りのできる女性です」
「とても親切な方ですね」
「ええ。安心して産休を取ってもらいたいと思っております」
モーリスさんはそう言ってから、少し表情を引き締めた。
「それから、もう一つ。お伝えしておくことがございます」
「はい」
「当家には猫がおります」
「猫!」
私は思わず声を上げた。
「……お好きなのですか?」
「はい。大好きです」
「そうですか」
モーリスさんの表情が、なぜか少し複雑になった。
「ただし、当家の猫は少々気難しくございまして」
「そうなのですか?」
「人間が嫌いなのです」
「まあ」
「不用意に近づくと引っかかれます。噛みつかれることもございます」
それは困った。
けれど、猫にもいろいろな性格がある。
怖がりな子もいれば、気の強い子もいる。
人間が苦手だからといって、悪い猫というわけではない。
「分かりました。無理に触らないようにいたします」
「それがよろしいでしょう」
モーリスさんは再び歩き始めた。
そのときだった。
「……あら?」
廊下の向こうに、小さな影が見えた。
猫だ。
こちらをじっと見つめている。
私は思わず足を止めた。
猫は低く身を構えた。
尻尾が大きく揺れている。
「セシルさん、お下がりください」
モーリスさんの声が少し鋭くなった。
「その猫は……」
言い終わるより早く、猫がこちらへ走ってきた。
私はしゃがみ込んだ。
「こんにちは」
「セシルさん!」
猫が目の前で止まった。
私は手を伸ばさず、ただ静かに待った。
「驚かせてごめんなさいね」
猫は私を睨んでいる。
私は小さく微笑んだ。
「あなたのお家に、今日からお世話になるの。よろしくね」
猫が一歩、近づいた。
私は動かなかった。
もう一歩。
そして。
猫は私の膝に、そっと前足を乗せた。
「……まあ」
私は目を丸くした。
「ご挨拶してくれるの?」
猫は答えず、私の手に鼻先を近づけた。
くんくんと匂いを嗅ぐ。
それから、私の指に頬を擦り寄せた。
「ふふ。くすぐったいわ」
思わず笑みがこぼれた。
亡くなったテオも、よくこうして甘えてきた。
懐かしさに胸がきゅっとなる。
私は猫の様子を確かめながら、そっと顎の下を撫でた。
猫は目を細めた。
「……信じられませんな」
背後でモーリスさんが呟いた。
振り返ると、彼は珍しく目を見開いていた。
「どうかなさいましたか?」
「いえ……その猫が、初対面の人間に触らせるなど」
私は猫を見下ろした。
「優しい子ですよ?」
「……そう、でしょうか」
モーリスさんは何とも言えない顔をした。
そのとき、廊下の奥から低い声が聞こえた。
「モーリス。何を騒いでいる」
私は顔を上げた。
そこに立っていたのは、一人の青年だった。
艶のある、まっすぐな黒髪。
銀灰色の瞳。
高く通った鼻筋に、彫刻のように整った輪郭。
表情は冷たく、近寄りがたい雰囲気をまとっている。
けれど、その顔立ちは息を呑むほど美しかった。
私は思わず固まった。
美しい男性。
それも、エドワード様とはまるで違う種類の美形だ。
胸の奥に、嫌な記憶がよみがえる。
美しい顔に優しい言葉。
その裏で、妹との婚約を進めていた元婚約者。
私は反射的に視線を落とした。
「旦那様」
モーリスさんが恭しく頭を下げた。
「新しく採用いたしましたメイドのセシルでございます」
旦那様。
では、この方が。
私は慌てて立ち上がろうとした。
けれど、膝に前足を乗せていた猫が不満そうに鳴いた。
「あ、ごめんなさい」
私は猫を驚かせないよう、ゆっくりと立ち上がった。
そして、青年に向き直る。
「初めまして。セシルと申します。本日よりお世話になります」
背筋を伸ばし、膝を軽く曲げて一礼する。
長年教わってきた礼儀作法は、体が覚えていた。
青年は何も言わなかった。
私は顔を上げた。
銀灰色の瞳が、まっすぐこちらを見ている。
「……お前が、新しいメイドか」
「はい」
「猫に触ったのか?」
「はい。申し訳ありません。勝手なことをしてしまいました」
私は再び頭を下げた。
青年は猫を見た。
猫は私の足元に座り、何事もなかったかのように前足を舐めている。
「……妙だな」
青年が呟いた。
「こいつは人間が嫌いなはずなんだが」
「そうなのですか?」
「俺にも機嫌が悪ければ噛みつく」
「まあ……」
私は足元の猫を見た。
猫は知らん顔をしている。
「今日はご機嫌がよかったのかもしれませんね」
青年は黙って私を見つめた。
その視線が、なぜか落ち着かない。
やはり、美しい男性は苦手だ。
私はできるだけ顔を見ないようにした。
「モーリス」
「はい、旦那様」
「……身元不明のわりに、妙に所作が綺麗だ」
私はぎくりとした。
「どこの生まれだ?」
銀灰色の瞳が、私を捉える。
私は返事に詰まった。
モーリスさんも黙っている。
猫だけが、のんびりと毛づくろいを続けていた。
私は小さく息を吸った。
どう答えればいいのだろう。
伯爵家を勘当された娘だと、正直に話すべきだろうか。
それとも。
「……申し訳ありません」
私はもう一度、頭を下げた。
「今は、ただのセシルでございます」
青年はしばらく私を見つめていた。
やがて、静かに口を開いた。
「そうか」
それだけだった。
怒ることも、追及することもない。
彼はモーリスさんに視線を移した。
「仕事に問題がないなら、それでいい」
「承知いたしました」
青年は踵を返した。
黒い髪が、窓から差し込む光を受けてわずかに艶めく。
私はその背中を見送った。
美しくて、冷たそうで、何を考えているのか分からない人。
できれば、あまり関わらずに働きたい。
そう思った。
「セシルさん」
モーリスさんが私に声をかけた。
「はい」
「今のお方が、当家のご当主でございます」
「……はい」
「アレクサンドル・ド・モンテクレール公爵閣下です」
私はもう一度、青年が去った廊下を見つめた。
モンテクレール公爵。
アレクサンドル様。
それが、私の新しい雇い主の名前だった。
足元で猫が鳴いた。
「あら、まだいたのね」
私はしゃがんで、そっと微笑んだ。
「ところで、この子のお名前は何というのですか?」
「テオでございます」
「……え?」
思わず聞き返してしまった。
「テオ、ですか?」
「はい。旦那様が名付けられました」
私は足元の猫を見つめた。
テオ。
亡くなったあの子と、同じ名前。
もちろん、偶然だ。
目の前の猫は、私が長年一緒に暮らしたテオとは別の子だし、性格だって違うのだろう。
それでも、今日という日に、同じ名前の猫と出会うなんて。
「……素敵なお名前ですね」
私がそう言うと、テオは小さく鳴いた。
まるで返事をしてくれたようだった。
「これからよろしくね、テオ」
そっと差し出した指に、猫が頬を擦り寄せる。
その温かさに、胸の奥がじんわりと満たされた。
今朝まで、私は伯爵令嬢だった。
婚約者を失い、父に勘当され、母の肖像画にも、長年暮らした屋敷にも、愛猫のお墓にも別れを告げた。
けれど、今は新しい仕事がある。
親切な人たちがいて、住む場所もある。
それに、猫までいるのだ。
半年という短い間だけれど、ここで精いっぱい働こう。
そして、いつか自分の力で暮らしていけるようになろう。
私はそう心に決めた。
このときの私は、まだ知らなかった。
この猫との出会いが、私の人生を大きく変えることになるなんて。
♢
モンテクレール公爵家で迎えた最初の朝、私は見慣れない天井を眺めながら、しばらく寝台の上で横になっていた。
薄い生成り色のカーテンを通して差し込む朝日が、白く塗られた壁に柔らかな光を落としている。
窓の外からは、小鳥のさえずりが聞こえてきた。
昨夜案内された使用人部屋は、ベルモン伯爵家で使っていた私室の四分の一ほどの広さしかなかったけれど、木製の寝台と小さな机、椅子、それから衣装箪笥がきちんと備えられていて、暮らすには十分な部屋だった。
何より、部屋の隅々まで掃除が行き届いているのが嬉しい。
「……よく眠れたわ」
私は寝台から起き上がり、昨夜エリーズさんからお借りした寝間着の裾を整えた。
昨日は、本当にいろいろなことがあった。
婚約者に捨てられ、父に勘当され、着の身着のままで家を追い出された。
それなのに、こうして温かい寝台で朝を迎えられるなんて。
人生とは分からないものだ。
衣装箪笥を開けると、エリーズさんが貸してくださったメイド服が二着、丁寧に畳まれていた。
どちらも以前使っていたものだそうで、多少の使用感はあるものの、綺麗に洗濯され、ほつれも直されている。
私は一着を取り出した。
「……可愛い」
黒いワンピースに白いエプロン。
飾り気のない実用的な服だけれど、私はこういう服が好きだった。
着替えて鏡の前に立つ。
袖がほんの少し長かったので、折り返して整えた。
腰回りも少し余裕があるけれど、仕事をするにはかえって動きやすそうだ。
「よし」
私は鏡の中の自分に微笑んだ。
今日から、私はメイドなのだ。
そう思うと、不思議と胸が弾んだ。
*
朝食を終え、モーリスさんから仕事の説明を受けた私は、さっそく廊下の掃除に取りかかった。
モンテクレール公爵家は使用人が少ない。
そのため、一人ひとりが担当する仕事の範囲も広い。
掃除、洗濯、食事の準備、食器の片づけ。
仕事はいくらでもある。
けれど、私はそれが嬉しかった。
広い廊下の床を磨いていると、時間が経つのも忘れてしまう。
窓から差し込む光が、磨いた床に反射してきらきらと輝いている。
「……綺麗」
思わず呟いた。
「何がだ?」
「きゃっ!」
突然背後から声をかけられ、私は振り返った。
そこには、アレクサンドル様が立っていた。
昨日と同じ、艶のある黒髪と銀灰色の瞳。
今日も表情はほとんど変わらない。
「も、申し訳ありません!」
私は慌てて立ち上がり、一礼した。
「掃除に夢中になってしまって……」
「別に構わない」
アレクサンドル様は床を見下ろした。
「ずいぶん丁寧に磨いたな」
「はい。光が映るくらい綺麗になると、嬉しくなってしまうんです」
「……そうか」
短い返事だった。
やはり、何を考えていらっしゃるのか分からない。
私は少し緊張しながら、手にしていた布を握り直した。
「それで、何が綺麗だったんだ?」
「え?」
「さっき、綺麗だと言っていただろう」
「ああ、床です」
「床?」
「はい。磨き上げた床に朝日が映って、とても綺麗だったので」
アレクサンドル様は、もう一度床を見た。
それから、窓へ視線を移した。
「……確かに」
「でしょう?」
思わず嬉しくなって、私は微笑んだ。
「曇っていたものが綺麗になると、何だか心まで晴れる気がするんです」
アレクサンドル様はしばらく私を見つめていた。
私はそこで、はっとした。
また余計なことを話してしまった。
エドワード様なら、きっと呆れた顔をなさっただろう。
「申し訳ありません。変なことを申し上げてしまって」
「なぜ謝る?」
「……え?」
「綺麗なものを綺麗だと思うことに、何か問題があるのか?」
私は言葉に詰まった。
「いえ……ございません」
「なら、謝る必要はない」
アレクサンドル様はそれだけ言うと、廊下の奥へ歩いていった。
私はしばらく、その背中を見送っていた。
……不思議な方。
冷たそうに見えるのに、言葉は少しも冷たくない。
少なくとも、私の好きなことを笑ったりはなさらなかった。
*
昼前、モーリスさんに呼ばれた。
「セシルさん。少々よろしいでしょうか」
「はい」
「昨日お話しした、お荷物の件でございます」
「ああ……」
私は少し恥ずかしくなった。
何しろ、今の私の持ち物といえば、昨日着ていた服くらいしかない。
メイド服も寝間着も、エリーズさんからお借りしたものだ。
「当面のお仕事に必要なものは、こちらでご用意いたします。ただ、身の回りの品については、ご自身のものが必要でしょう」
「はい。お給金をいただいたら、少しずつ揃えようと思っております」
「それまで何もないというわけにはまいりませんからな」
「……そうですよね」
私は困ってしまった。
お金がなければ買い物もできない。
かといって、いつまでもエリーズさんのご厚意に甘えるわけにもいかない。
「必要なものを先に揃えられるよう、手配いたします。仕事に必要な品は当家の負担とし、私物については当面の生活に困らない方法を考えましょう」
「ありがとうございます」
私が頭を下げたとき、背後から声がした。
「何の話だ?」
振り返ると、アレクサンドル様が立っていた。
「旦那様。セシルさんの生活用品について相談しておりました」
「生活用品?」
「はい。着の身着のままでいらしたものですから」
アレクサンドル様の視線が、私に向けられた。
「何も持っていないのか?」
「……はい」
「着替えも?」
「エリーズさんからお借りしております」
「そうか」
アレクサンドル様は少し考え込んだ。
「なら、今日の午後に買いに行こう」
「……はい?」
「必要なものを揃えればいい」
「えっ、あの……」
私は思わずモーリスさんを見た。
モーリスさんも、わずかに目を見開いている。
「旦那様が、ですか?」
「ああ」
「ですが、お忙しいのでは……」
「午後の予定は空いている」
「それでしたら、私が付き添いを……」
「構わない。俺も街へ出る用事がある」
アレクサンドル様はそう言って、私に視線を戻した。
「セシル。午後は空けておけ」
「は、はい!」
私は慌てて頭を下げた。
アレクサンドル様は何事もなかったかのように立ち去っていった。
残された私は、モーリスさんと顔を見合わせた。
「……あの、モーリスさん」
「はい」
「公爵様というのは、使用人のお買い物に付き添うものなのでしょうか?」
「……少なくとも、一般的ではございませんな」
モーリスさんは、どこか遠い目をしていた。
*
午後。
私はアレクサンドル様とともに、街へ出かけることになった。
馬車の中では、向かい合って座った。
アレクサンドル様は窓の外を眺めている。
私は膝の上で両手を重ね、できるだけ姿勢を正していた。
……緊張する。
昨日まで、私は伯爵令嬢だった。
貴族の男性と馬車に同乗すること自体は、珍しい経験ではない。
けれど、今の私はメイドだ。
しかも、相手は公爵様。
身分の差を考えると、どう振る舞えばよいのか分からなかった。
「そんなに緊張する必要はない」
突然、アレクサンドル様が口を開いた。
「……え?」
「肩に力が入っている」
「も、申し訳ありません」
「また謝るのか」
「……あ」
私は思わず口を閉じた。
アレクサンドル様は小さく息を吐いた。
「俺が怖いか?」
私は返事に困った。
怖い、というほどではない。
ただ、近寄りがたい雰囲気があるのは確かだった。
「……少しだけ」
正直に答えると、アレクサンドル様は私を見た。
「そうか」
「申し訳……」
そこまで言いかけて、私は慌てて口を押さえた。
アレクサンドル様の口元が、ほんのわずかに動いた。
「……ふっ」
え?
今、笑った?
私は思わず顔を上げた。
けれど、アレクサンドル様はもう窓の外を見ていた。
……気のせいかしら。
*
街に到着すると、まずは衣料品店へ向かった。
店員さんはアレクサンドル様の姿を見るなり、慌てて頭を下げた。
「これはこれは、モンテクレール公爵閣下!」
「彼女の生活用品を揃えたい」
「かしこまりました!」
店員さんは私を見た。
そして、アレクサンドル様と私を交互に見比べた。
「こちらのご令嬢に?」
「当家の使用人だ」
「し、失礼いたしました!」
店員さんは慌てて頭を下げた。
私は少し申し訳なくなった。
公爵様がメイドの買い物に付き添っているのだから、驚くのも無理はない。
まずは下着や靴下、肌着など、日常生活に必要なものを選んだ。
アレクサンドル様は、それらの売り場には近づかず、店の奥で待っていてくださった。
必要な品を揃えたあと、普段着を選ぶことになった。
「こちらなど、いかがでしょう?」
店員さんが勧めてくれたのは、淡い桃色のドレスだった。
胸元には繊細なレースがあしらわれ、袖口にも小さな飾りがついている。
とても可愛らしい。
けれど。
「……もう少し、動きやすいものはございますか?」
「動きやすいもの、ですか?」
「はい。できれば、洗濯もしやすいものが嬉しいです」
店員さんは少し困ったような顔をした。
そのとき、背後から声がした。
「それなら、こちらはどうだ」
振り返ると、アレクサンドル様が一着の服を手にしていた。
落ち着いた青色の、飾りの少ないワンピースだった。
布地は丈夫そうで、袖も動かしやすい形になっている。
「……素敵です!」
私は思わず声を上げた。
「これなら普段にも着られますし、お洗濯もしやすそうです」
「そうか」
アレクサンドル様は短く答えた。
けれど、どこか満足そうに見えた。
「試着してみるといい」
「はい!」
私は店員さんに案内され、試着室へ入った。
着替えて鏡の前に立つ。
青色のワンピースは、思っていた以上に体に馴染んだ。
腰回りもすっきりとしていて、裾も長すぎない。
私は嬉しくなって、試着室から出た。
「いかがでしょうか?」
アレクサンドル様がこちらを見た。
その視線が、一瞬だけ止まった。
「……似合っている」
「本当ですか?」
「ああ」
私は思わず微笑んだ。
「ありがとうございます。とても気に入りました」
「なら、それにしよう」
アレクサンドル様は店員さんに声をかけた。
私は慌てて言った。
「あの、でも、お値段が……」
「高いのか?」
「いえ、そういうわけではありませんが……」
「必要なものだろう」
「はい」
「なら、遠慮する必要はない」
アレクサンドル様は、何でもないことのように言った。
私は少し戸惑った。
この方は、贅沢を好まないと聞いている。
それなのに、私のためにこんなふうに買い物をしてくださるなんて。
「……ありがとうございます」
私は小さく頭を下げた。
すると、アレクサンドル様が言った。
「それから、もう一着選べ」
「え?」
「一着では洗濯している間に困るだろう」
私は思わず目を丸くした。
……確かに。
何という合理的な考え方なのだろう。
「そうですね!」
私は嬉しくなって頷いた。
アレクサンドル様は、またほんの少しだけ口元を緩めた。
*
買い物を終えて店を出ると、通りには大勢の人が行き交っていた。
私は人波を避けようと、少し道の端へ寄った。
そのとき、荷馬車がすぐ横を通り過ぎた。
「危ない」
低い声とともに、腕を引かれた。
気がつけば、私はアレクサンドル様のすぐそばに立っていた。
「あ……ありがとうございます」
「怪我はないか?」
「はい。大丈夫です」
「そうか」
アレクサンドル様は短く答えると、私の腕から手を離した。
けれど、私はなぜか、先ほど触れられたところが気になって仕方がなかった。
エドワード様とは、何度も腕を組んで歩いたことがある。
それなのに、こんなふうに胸が落ち着かなくなったことはなかった。
「……セシル?」
「は、はい!」
「顔が赤い。暑いのか?」
「い、いいえ! 少し歩いたからだと思います!」
「なら、少し休むか」
「大丈夫です!」
慌てて答えると、アレクサンドル様は不思議そうに私を見つめた。
その銀灰色の瞳から逃れるように、私は買い物袋へ視線を落とした。
どうしてだろう。
この方と一緒にいると、ときどき自分でもよく分からない気持ちになる。
*
帰り道、アレクサンドル様が買い物袋を持ってくださった。
「旦那様、私が持ちます!」
「構わない」
「ですが……」
「君は今日、随分と歩いただろう」
「それは旦那様も同じでは?」
そう答えると、アレクサンドル様は少し意外そうに私を見た。
「……確かにそうだな」
私は思わず笑ってしまった。
アレクサンドル様も、ほんの少しだけ笑った。
初めて、はっきりと見た笑顔だった。
冷たい印象のある整った顔立ちが、その瞬間だけ柔らかくなる。
私は思わず見惚れてしまった。
「……どうした?」
「い、いえ! 何でもございません!」
慌てて視線を逸らす。
……困ったわ。
やっぱり、美しい男性は苦手だ。
でも。
エドワード様とは、何かが違う。
*
馬車に乗る前、アレクサンドル様が一軒の店の前で足を止めた。
「少し寄ってもいいか?」
「はい」
そこは、小さな焼き菓子店だった。
店先には、焼きたての菓子が並んでいる。
甘い香りが漂ってきて、私は思わず目を輝かせた。
「……美味しそう」
「好きなのか?」
「はい。食べるのも好きですけれど、作るのも好きなんです」
「そうか」
アレクサンドル様は店員に声をかけ、小さな焼き菓子を二つ買った。
そして、そのうち一つを私に差し出した。
「食べるか?」
「……よろしいのですか?」
「ああ」
「ありがとうございます!」
私は嬉しくなって受け取った。
焼き菓子はまだ温かかった。
一口食べると、バターの香りが口いっぱいに広がる。
「……美味しい!」
思わず声が出た。
アレクサンドル様がこちらを見る。
「そんなに美味しいか?」
「はい! 外側はさくっとしているのに、中はしっとりしています。きっと、バターをたっぷり使っているんですね」
「詳しいな」
「お菓子作りも好きなので」
「なら、今度作ってみるといい」
「よろしいのですか?」
「ああ。材料は厨房にあるだろう」
私は思わず笑顔になった。
「ありがとうございます!」
アレクサンドル様は、私が食べる様子を静かに見ていた。
そして、小さく呟いた。
「……君は、本当に楽しそうだな」
「え?」
「何をしていても、楽しそうに見える」
私は少し考えた。
「……そうでしょうか」
「ああ」
「でも、楽しいことはたくさんありますから」
そう答えると、アレクサンドル様はしばらく黙っていた。
やがて、静かに言った。
「……そういう考え方は、嫌いじゃない」
私は胸の奥が、ほんのり温かくなるのを感じた。
*
馬車の中で、私はふと気になっていたことを尋ねた。
「あの……旦那様」
「何だ?」
「一つ、お伺いしてもよろしいでしょうか」
「構わない」
「失礼な質問でしたら、申し訳ありません」
「聞いてみろ」
私は少し迷ってから、口を開いた。
「……旦那様には、奥様はいらっしゃらないのですか?」
アレクサンドル様が、こちらを見た。
「いない」
「そうなのですね」
「なぜ聞く?」
「いえ、その……公爵様ですから、てっきりご結婚なさっているものだと思っておりました」
「そうか」
アレクサンドル様は窓の外へ視線を向けた。
「縁談は何度もあった」
「まあ、そうでしょうね」
「だが、どれも断った」
「……どうしてですか?」
尋ねてから、私は慌てた。
「あっ、申し訳ありません! 立ち入ったことを……」
「構わない」
アレクサンドル様は静かに首を振った。
「俺は、妻に華やかさを求めていない」
「……華やかさ、ですか?」
「ああ。毎晩のように夜会を開いたり、流行のドレスや宝石を買い集めたり。そういう暮らしに興味がない」
私は思わず瞬きをした。
何だか、エドワード様とは正反対だ。
「公爵家なのですから、社交も大切なのでは?」
「必要な付き合いはする。だが、必要以上に贅沢をするつもりはない」
「……そうなのですね」
「先代が残した借金を返すのに、随分と苦労したからな」
アレクサンドル様は淡々と言った。
「金があるからといって、無駄に使う必要はないだろう」
「はい。私もそう思います」
私は自然に頷いた。
アレクサンドル様が、少し意外そうに私を見た。
「君も?」
「はい。もちろん、美しいドレスや宝石も素敵だと思います。でも、必要なものを大切に使う暮らしも、素敵だと思うんです」
「……そうか」
アレクサンドル様はしばらく私を見つめていた。
「それに、結婚するなら」
彼は少し言葉を切った。
「一緒にいて、気を遣わずに済む相手がいい」
「気を遣わずに?」
「ああ。無理に話題を探したり、相手の機嫌を取ったりしなくてもいい。黙って同じ部屋にいても、居心地の悪くならない相手だ」
私は思わず微笑んだ。
「……素敵ですね」
「そうか?」
「はい。毎日一緒に暮らすのですもの。気を遣ってばかりでは疲れてしまいます」
アレクサンドル様は、静かに頷いた。
「そういうことだ」
私は少し考えた。
確かに、結婚とは毎日の生活なのだ。
どんなに美しい人でも、一緒にいて疲れてしまうのなら、幸せとは言えないのかもしれない。
エドワード様と過ごした時間を思い返す。
私はいつも、服装を気にしていた。
言葉遣いを気にしていた。
家事の話をしないように気をつけていた。
それなのに、結局は嫌われてしまった。
「……私も、そういう方と結婚できたら素敵だと思います」
ぽつりと呟く。
アレクサンドル様がこちらを見た。
「そうか」
「はい」
私は微笑んだ。
そのとき、馬車が小さく揺れた。
私は窓の外へ目を向けた。
だから、アレクサンドル様がどんな表情をしていたのかは、分からなかった。
*
屋敷に戻ると、モーリスさんが出迎えてくれた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「ああ」
「お買い物はいかがでしたか?」
「必要なものは揃った」
「それは何よりでございます」
モーリスさんは私の手元を見た。
「セシルさんも、お疲れでしょう」
「いえ、とても楽しかったです!」
「……楽しかった、ですか」
「はい。素敵なお店にも連れていっていただきましたし、焼き菓子までご馳走になりました」
モーリスさんの視線が、アレクサンドル様へ向けられた。
「……焼き菓子、でございますか」
「何だ」
「いえ。何でもございません」
モーリスさんは、いつもの落ち着いた表情に戻った。
けれど、なぜか少しだけ口元が緩んでいるように見えた。
「それでは、セシルさん。お買い物のお品はお部屋へ運んでおきましょう」
「ありがとうございます」
私は丁寧に頭を下げた。
アレクサンドル様は、私に向かって短く言った。
「今日はゆっくり休め」
「はい。ありがとうございました」
「ああ」
そう言って、アレクサンドル様は執務室へ向かった。
私はその背中を見送りながら、何となく胸が温かくなるのを感じていた。
*
夕方。
私は厨房で、夕食の準備を手伝っていた。
野菜を切り、鍋の様子を見て、食器を並べる。
料理人の方に教わりながら作業を進めていると、時間があっという間に過ぎていく。
「セシルさん、本当に手際がいいわね」
エリーズさんが感心したように言った。
「ありがとうございます。でも、まだ覚えることがたくさんあります」
「ふふ。そんなに楽しそうに働いてくれるなら、安心して産休に入れそう」
私は嬉しくなって微笑んだ。
「元気な赤ちゃんを産んでくださいね」
「ありがとう」
エリーズさんは、お腹を撫でながら笑った。
*
夜。
仕事を終えて部屋へ戻ると、扉の前に小さな影が座っていた。
「……あら?」
テオだった。
私を見るなり、短く鳴く。
「どうしたの? こんなところで」
しゃがんで声をかけると、テオは私の足元にすり寄ってきた。
「ふふ。会いに来てくれたの?」
テオは返事をするように鳴いた。
私は思わず笑ってしまった。
「それじゃあ、少しだけ一緒にいましょうか」
扉を開けると、テオは当然のように部屋へ入っていった。
そして、寝台の上に飛び乗った。
「まあ。そこが気に入ったの?」
テオは丸くなり、目を閉じた。
私はそっと隣に腰を下ろした。
柔らかな毛並みを撫でる。
温かい。
懐かしい。
亡くなったテオも、よくこうして私の寝台で眠っていた。
「……あなたも、テオなのね」
小さく呟く。
テオは薄く目を開け、私を見た。
「不思議ね。同じ名前の子に、こんなところで会えるなんて」
私はそっと微笑んだ。
今日は、本当に楽しい一日だった。
仕事もできた。
買い物にも行けた。
美味しい焼き菓子も食べた。
それに。
アレクサンドル様と、たくさんお話しできた。
最初は怖い方だと思っていた。
けれど、実際にお話ししてみると、思っていたよりもずっと優しい。
無口で、表情もあまり変わらない。
それでも、私の話をきちんと聞いてくださる。
好きなことを、変だと笑わない。
それが、何より嬉しかった。
「……素敵な方ね」
思わず呟いた。
テオが、小さく鳴いた。
「ふふ。あなたもそう思う?」
私は笑いながら、テオの頭を撫でた。
けれど、そのときだった。
ふと、昼間のことを思い出した。
荷馬車が通り過ぎたとき、腕を引かれたこと。
青いワンピースを見て、似合っていると言ってくださったこと。
そして。
『一緒にいて、気を遣わずに済む相手がいい』
あの言葉。
私は、なぜか胸の奥が落ち着かなくなった。
「……どうしてかしら」
小さく呟く。
アレクサンドル様は、私の雇い主だ。
それ以上でも、それ以下でもない。
それなのに。
あの方が笑った顔を、もう一度見たいと思ってしまう。
私は慌てて首を振った。
「……いけないわ」
エドワード様との婚約が破棄されたばかりなのに。
それに、アレクサンドル様は公爵様。
私は、ただのメイドだ。
そんなことを考えるだけでも、おこがましい。
私はテオの背中を撫でながら、そっと息を吐いた。
「……おやすみなさい、テオ」
テオは小さく喉を鳴らした。
その温かさを感じながら、私は静かに目を閉じた。
*
一方、その頃。
アレクサンドルは執務室で書類に目を通していた。
机の上には、今日の支出を記した帳簿が置かれている。
モーリスが静かに入室した。
「旦那様」
「何だ」
「本日のお買い物について、確認がございます」
「何だ?」
「セシルさんの生活用品の費用ですが、どのように処理いたしましょうか」
「仕事に必要なものは経費でいい」
「承知いたしました」
「私物についても、当面の生活に必要なものは俺が負担する」
モーリスは、わずかに眉を上げた。
「……よろしいのですか?」
「ああ」
「お給金から差し引く必要は?」
「ない」
アレクサンドルは書類に視線を戻した。
「彼女は何も持たずに来た。働くために必要なものくらい、用意してやればいい」
「……左様でございますか」
モーリスは静かに頷いた。
少しの沈黙のあと、彼は口を開いた。
「ところで、旦那様」
「何だ」
「セシルさんはいかがですか?」
「……何がだ」
「新しいメイドとして、でございます」
アレクサンドルは少し考えた。
「よく働く」
「ええ。私もそう思います」
「仕事を楽しんでいるようだ」
「珍しい方ですな」
「ああ」
アレクサンドルは短く答えた。
それから、ふと思い出したように言った。
「……今日、結婚について聞かれた」
「セシルさんに、ですか?」
「ああ。なぜ妻がいないのかと」
モーリスは一瞬、目を見開いた。
「それで、何とお答えになったのです?」
「特別なことは言っていない」
「左様でございますか」
「一緒にいて、気を遣わずに済む相手がいいと」
モーリスは黙った。
そして、静かに尋ねた。
「ところで、旦那様」
「何だ」
モーリスは少し言葉を選んだ。
「旦那様も、そろそろご結婚をお考えになってはいかがでしょうか」
「またその話か」
アレクサンドルは小さくため息をついた。
「俺が結婚に興味がないわけではないことは、お前も知っているだろう」
「ええ。存じております」
「ただ、条件が合わないだけだ」
アレクサンドルは書類を閉じた。
「公爵家に嫁ぎたいという令嬢は大勢いる。だが、俺自身を見ている者がどれだけいるのか」
「……旦那様」
「俺は、生まれたときから公爵だったわけではない」
モーリスは静かに頷いた。
「存じております。先代の旦那様と奥様は、幼い旦那様を大層可愛がっておいででした」
「ああ。俺には、過ぎたほどの愛情を注いでくださった」
アレクサンドルの表情が、わずかに和らいだ。
「血のつながりなど関係なく、俺を息子として育ててくれた。だからこそ、この家を守りたいと思っている」
「立派に守っておいでです。先代が残された借金も、すべて返済なさいました」
「それは当然のことだ」
アレクサンドルは静かに答えた。
「この家は、俺を迎え入れてくれた場所だからな」
モーリスはしばらく主人を見つめていた。
「……旦那様にも、いつかこのお屋敷を心から愛してくださる奥様が見つかるとよろしいですな」
「そうだな」
アレクサンドルは短く答えた。
けれど、その脳裏には、なぜか一人の女性の笑顔が浮かんでいた。
磨き上げた床を眺めて嬉しそうに笑う、あの新しいメイドの顔だった。
「本日、セシルさんとご一緒にいて、いかがでしたか?」
アレクサンドルは顔を上げた。
「どういう意味だ?」
「いえ。単なる質問でございます」
アレクサンドルは少し考えた。
街での買い物。
青いワンピースを嬉しそうに眺めていたセシル。
焼き菓子を食べて、子どものように目を輝かせていた姿。
そして、馬車の中で交わした会話。
『毎日一緒に暮らすのですもの。気を遣ってばかりでは疲れてしまいます』
あの言葉を思い出す。
「……悪くなかった」
アレクサンドルは、そう答えた。
モーリスは静かに頭を下げた。
「それは何よりでございます」
そして、何も言わずに部屋を出ていった。
一人になったアレクサンドルは、再び書類に目を落とした。
けれど、なぜか文字が頭に入ってこなかった。
ふと、昼間のことを思い出す。
青いワンピースを着たセシルが、嬉しそうに微笑んでいた。
『いかがでしょうか?』
あのとき。
自分は、何と答えただろう。
『似合っている』
確かに、そう言った。
けれど。
本当は、もう少し別の言葉が浮かんでいた気がする。
アレクサンドルは、小さく息を吐いた。
「……何を考えているんだ、俺は」
そう呟いて、再び書類に向き直った。
窓の外では、秋の夜風が静かに木々を揺らしていた。
♢
モンテクレール公爵家で働き始めてから、五か月が過ぎた。
季節は秋から冬へと移り、庭の木々には白い霜が降りるようになっていた。
私は今日も、厨房で焼き菓子を作っていた。
小麦粉とバターを混ぜ、卵を加え、生地を丁寧に練り上げる。
生地を小さく丸めて天板に並べ、焼き窯へ入れると、しばらくして甘い香りが漂い始めた。
「……いい香り」
私は思わず微笑んだ。
この屋敷での暮らしは、想像していた以上に楽しかった。
朝は掃除をして、昼は洗濯や厨房の手伝い。
必要があれば裁縫もするし、食器の手入れもする。
仕事の種類が多いので、退屈する暇がない。
もちろん、忙しい日もある。
けれど、休憩や休日はきちんといただけるし、お給金も十分だった。
何より、自分の好きなことを仕事にできるのが嬉しかった。
ベルモン伯爵家では、家事をするたびに叱られていた。
けれど、この屋敷では誰も私を叱らない。
むしろ、仕事が終われば感謝していただける。
こんなに幸せなことがあるだろうか。
「……そろそろかしら」
私は焼き窯の様子を確かめた。
ちょうどよい焼き色になっている。
取り出した焼き菓子を網の上に並べていると、背後から声がした。
「いい匂いだな」
振り返ると、アレクサンドル様が立っていた。
「旦那様!」
私は慌てて一礼した。
「お仕事中に申し訳ありません。焼き菓子を作っておりました」
「見れば分かる」
アレクサンドル様は、ほんの少し口元を緩めた。
この五か月で、私はその表情の変化が少しずつ分かるようになっていた。
初めてお会いしたときは、冷たくて近寄りがたい方だと思っていた。
けれど、今は違う。
アレクサンドル様は、必要以上に言葉を飾らないだけなのだ。
仕事が丁寧にできていれば、きちんと認めてくださる。
困っていることがあれば、さりげなく手を差し伸べてくださる。
それに、ときどき見せる笑顔は、驚くほど優しい。
「一つ、召し上がりますか?」
「いいのか?」
「はい。ちょうど焼き上がったところです」
私は小皿に焼き菓子を一つ載せ、差し出した。
アレクサンドル様は受け取ると、一口食べた。
「……美味い」
「本当ですか?」
「ああ。甘さもちょうどいい」
私は嬉しくなって微笑んだ。
「ありがとうございます!」
アレクサンドル様は、私の顔をじっと見つめた。
「……君は、本当に家事が好きなんだな」
「はい!」
「毎日これだけ働いて、飽きないのか?」
「全然飽きません。むしろ、まだやってみたいことがたくさんあります」
「そうか」
アレクサンドル様は小さく笑った。
私は、その笑顔を見るのが好きだった。
最近では、アレクサンドル様が厨房へいらっしゃると、胸が弾むようになっていた。
今日は何をお話しできるかしら。
お菓子を召し上がってくださるかしら。
そんなことを考えている自分に気づくたび、少し困ってしまう。
私はメイドで、アレクサンドル様は公爵様。
しかも、ここで働けるのはあと一か月ほどだ。
この気持ちを、どうにかしなければ。
「……セシル?」
「は、はい!」
「どうした?」
「いえ、何でもございません」
私は慌てて微笑んだ。
アレクサンドル様は少し不思議そうにしたものの、それ以上は尋ねなかった。
ある日の午後。
私は二階の廊下に飾られた肖像画の額縁を、柔らかな布で拭いていた。
描かれているのは、上品な顔立ちの紳士と、優しげな微笑みを浮かべた貴婦人だった。
この屋敷で働き始めてから何度も目にしている絵だけれど、こうして近くで見ると、二人の表情がとても穏やかなことに気づく。
「……仲のよさそうなご夫婦ね」
思わず呟いたときだった。
「俺の両親だ」
「きゃっ!」
振り返ると、アレクサンドル様が立っていた。
「も、申し訳ありません!」
「驚かせたか」
「いえ、私がぼんやりしていただけです」
アレクサンドル様は肖像画を見上げた。
「先代のモンテクレール公爵夫妻だ」
「まあ……そうだったのですね」
私は改めて肖像画を見つめた。
「とても優しそうな方々ですね」
「ああ。優しい人たちだった」
アレクサンドル様の声が、いつもより少し柔らかくなった。
「俺が子どもの頃は、よく庭を散歩してくれた。母は花が好きで、父はそんな母に付き合っていた」
「素敵ですね」
「父は花の名前をほとんど覚えられなかったがな」
アレクサンドル様が小さく笑った。
私もつられて微笑んだ。
「でも、奥様と一緒に歩くのがお好きだったのでしょうね」
「そうかもしれない」
しばらく、二人で肖像画を眺めていた。
すると、アレクサンドル様が静かに口を開いた。
「……実は、俺は養子なんだ」
「……え?」
私は思わず顔を向けた。
「この家には、幼い頃に迎えられた。先代夫妻には子どもがいなかったからな」
「そうだったのですね」
「ああ。だが、実の子と変わらず育ててもらった」
アレクサンドル様は肖像画を見つめた。
「だから、俺にとっての父と母は、この二人だ」
私は胸が温かくなるのを感じた。
「……とても愛されていらっしゃったのですね」
「ああ」
短い返事だったけれど、その声には深い愛情が込められていた。
「先代が亡くなったとき、この屋敷には多額の借金が残っていた」
「……はい。モーリスさんから少し伺っております」
「正直、苦労はした。だが、この家を手放すつもりはなかった」
アレクサンドル様は静かに続けた。
「俺を迎え入れ、育ててくれた家だからな」
私は、もう一度肖像画を見上げた。
穏やかに微笑むご夫妻。
そして、その二人を見つめるアレクサンドル様。
何だか、胸がきゅっと締めつけられた。
「……きっと、お喜びになっていらっしゃいますね」
私がそう言うと、アレクサンドル様がこちらを見た。
「そう思うか?」
「はい。こんなに大切にお屋敷を守っていらっしゃるのですもの」
アレクサンドル様はしばらく黙っていた。
そして、ほんの少し微笑んだ。
「……ありがとう」
その笑顔を見た瞬間、私は胸が温かくなった。
アレクサンドル様は、普段あまりご自身のことをお話しにならない。
だからこそ、こうして大切な思い出を聞かせていただけたことが嬉しかった。
「……セシル」
「はい」
「君には、不思議と話しやすいな」
「……え?」
「普段なら、こんな話はしないんだが」
私は思わず俯いた。
頬が熱くなる。
「……私も、アレクサンドル様のお話を伺うのが好きです」
小さな声でそう答えると、アレクサンドル様は少し驚いたように私を見た。
「そうか」
「はい」
私は微笑んだ。
「また、お話を聞かせてくださいね」
「ああ」
アレクサンドル様は、静かに頷いた。
窓から差し込む冬の日差しが、肖像画の金色の額縁を柔らかく照らしていた。
*
その日の午後、私はモーリスさんに相談していた。
「次のお仕事を探したいのですが、どのようにすればよろしいでしょうか」
モーリスさんは、手元の書類から顔を上げた。
「次のお仕事、ですか?」
「はい。エリーズさんが復職なさるまで、あと一か月ほどでしょう?」
「……そうですな」
「こちらで働かせていただいた経験がありますから、今度はもう少し仕事を探しやすいと思うんです」
私は微笑んだ。
最初にこの屋敷を訪ねたときは、使用人としての経験がなかった。
けれど、今は違う。
掃除も洗濯も料理も、一通りの仕事を任せていただけるようになった。
お給金も貯まっている。
次は小さな屋敷でも、商家でも、きっと働けるだろう。
「住み込みのお仕事が見つかると嬉しいのですけれど」
「……セシルさん」
「はい?」
「こちらでの暮らしは、いかがでしたか?」
「とても楽しかったです!」
私は迷わず答えた。
「皆さん親切ですし、お仕事もたくさんありますし。こんなに素敵な職場は、なかなかないと思います」
「そうですか」
モーリスさんは静かに頷いた。
「それでしたら、何よりでございます」
けれど、なぜか少し複雑そうな顔をしていた。
*
その夜。
アレクサンドルは執務室で書類を読んでいた。
モーリスが静かに入室する。
「旦那様」
「何だ」
「セシルさんのことでございます」
アレクサンドルは顔を上げた。
「何かあったのか?」
「いえ。次のお勤め先を探したいと相談されまして」
アレクサンドルの手が止まった。
「……次の勤め先?」
「はい。雇用期間も残り一か月ほどですから」
「……そうだったな」
アレクサンドルは書類に視線を戻した。
けれど、文字が頭に入ってこなかった。
半年。
最初から決まっていたことだ。
エリーズが復職すれば、セシルの仕事は終わる。
そのことに、何の問題もないはずだった。
「……どこへ行くつもりだ?」
「まだ決まっておりません」
「そうか」
短く答えたものの、胸の奥に妙な重さが残った。
セシルがいなくなる。
そう考えた瞬間、屋敷がひどく静かになるような気がした。
朝、廊下で楽しそうに掃除をしている姿。
厨房から漂う焼き菓子の香り。
テオを抱いて笑っている声。
それらが、すべてなくなる。
「……モーリス」
「はい」
「彼女は、ここでの仕事が嫌なのか?」
「いいえ。むしろ、大変気に入っているご様子です」
「なら、なぜ……」
そこまで言いかけて、アレクサンドルは口を閉じた。
なぜも何もない。
半年という契約を提示したのは、こちらなのだ。
モーリスは静かに言った。
「セシルさんは、約束をきちんと守る方でございますから」
「……そうだな」
アレクサンドルは小さく息を吐いた。
そして、窓の外へ視線を向けた。
冬の夜空には、星が輝いていた。
*
数日後。
私はアレクサンドル様の執務室へ呼ばれた。
「セシル。頼みがある」
「はい。何でしょうか?」
「今度、王宮で舞踏会が開かれる」
「まあ、そうなのですね」
「俺も出席しなければならないのだが……君に同行してもらいたい」
「……私が、ですか?」
私は思わず聞き返した。
王宮の舞踏会。
貴族令嬢だった頃には、何度か出席したことがある。
けれど、今の私はメイドだ。
公爵様のお供として参加するなど、考えたこともなかった。
「ただし、一つ条件がある」
アレクサンドル様は少し言いにくそうに言葉を続けた。
「俺の婚約者ということにしてほしい」
「……婚約者?」
「ああ。もちろん、形式上の話だ」
私は目を瞬かせた。
「実は、舞踏会に出席するたびに縁談を持ちかけられる。断っても次から次へと紹介されて、正直、困っている」
「まあ……」
「だから、すでに婚約者がいることにすれば、新しい縁談は減るだろうと思った」
なるほど。
確かに、公爵様ともなれば結婚を望むご令嬢は大勢いらっしゃるだろう。
「ですが、私でよろしいのでしょうか?」
「君なら安心して頼める」
アレクサンドル様は、まっすぐに私を見つめた。
「礼儀作法も身についているし、何より、君となら気兼ねなく過ごせる」
「……っ」
胸が、ほんの少し跳ねた。
気兼ねなく過ごせる。
それは、以前アレクサンドル様がおっしゃっていた、結婚相手に求める条件だった。
『一緒にいて、気を遣わずに済む相手がいい』
あの言葉を思い出してしまう。
けれど、これはあくまで形式上の婚約だ。
勘違いしてはいけない。
「……私でお役に立てるのでしたら、喜んで」
「そうか。ありがとう」
アレクサンドル様は、わずかに表情を緩めた。
その微笑みを見た途端、私は思わず視線を落としてしまった。
……困ったわ。
婚約者のふりをするだけなのに、どうしてこんなに緊張してしまうのかしら。
*
舞踏会の当日。
私は朝から落ち着かなかった。
王宮へ行くのは久しぶりだ。
しかも、今回は公爵様の婚約者という立場で出席する。
失礼があってはいけない。
そう思っていると、モーリスさんが部屋を訪ねてきた。
「セシルさん。お支度の方が到着いたしました」
「お支度?」
「はい。旦那様が手配された美容師でございます」
「……美容師さん?」
私は驚いてしまった。
部屋へ案内されてきたのは、上品な服装をした女性と、その助手らしい若い女性だった。
「初めまして。王都で美容師をしております、ヴィオレットと申します」
「セシルです。本日はよろしくお願いいたします」
私が頭を下げると、ヴィオレットさんはにこやかに微笑んだ。
「まあ、何て綺麗なお嬢様でしょう!」
「……え?」
私は思わず瞬きをした。
「お肌も綺麗ですし、髪も艶がありますね。それに、お顔立ちがとても整っていらっしゃる」
「そ、そんな……」
「お化粧をなさる前から、これほど整っていらっしゃるなんて。今日は腕が鳴りますわ!」
ヴィオレットさんは嬉しそうに言った。
私は少し戸惑ってしまった。
ベルモン伯爵家では、マリアが美しいと褒められることはあっても、私が容姿を褒められることはあまりなかった。
地味だと言われることのほうが多かったのだ。
「まずは、お髪を整えましょうね」
私は鏡の前に座った。
ヴィオレットさんは、私の黒髪を丁寧に梳かし始めた。
「まあ、本当に綺麗な髪。傷みも少なくて、手触りも素晴らしいですわ」
「ありがとうございます」
「普段はどのようにお手入れを?」
「普通に洗って、よく乾かしているだけです」
「それでこの艶ですか!」
ヴィオレットさんは感心したように言った。
「髪質がよろしいのですね。無理に巻いたり飾り立てたりするより、この美しさを生かしたほうが素敵ですわ」
そう言って、私の髪を丁寧に結い上げていく。
顔まわりには柔らかな後れ毛を残し、後頭部には小さな銀細工の髪飾りを添えた。
派手すぎず、けれど上品な仕上がりだった。
「次はお化粧ですね」
ヴィオレットさんは、私の顔をじっと見つめた。
「……本当に、整ったお顔立ちですこと」
「そ、そうでしょうか」
「ええ。お目元はすっきりとしていらっしゃるし、鼻筋も綺麗。お口元も上品ですわ」
私は何だか恥ずかしくなってしまった。
「濃いお化粧は必要ありませんね。せっかくの素材を隠してしまいますもの」
そう言って、肌を薄く整え、頬にほんのり色をのせてくださった。
唇には、落ち着いた薔薇色を。
目元には、控えめな輝きを。
最後に鏡を向けられたとき、私は思わず息を呑んだ。
「……これが、私?」
そこには、見慣れない女性が映っていた。
けれど、決して別人になったわけではない。
普段の私の顔立ちが、そのまま美しく引き立てられている。
「いかがでしょう?」
「……とても素敵です」
私は思わず微笑んだ。
「ありがとうございます」
「こちらこそ。こんなに素敵なお嬢様のお支度を任せていただけて、光栄ですわ」
ヴィオレットさんは満足そうに頷いた。
*
最後に、ドレスを着せていただいた。
淡い銀青色のドレスだった。
光の加減で、青にも銀にも見える美しい布地。
胸元には繊細な刺繍が施されているけれど、必要以上に飾り立てられてはいない。
私は鏡の前で、そっと裾を持ち上げた。
「……綺麗」
こんなに素敵なドレスを着るのは、久しぶりだった。
けれど、不思議なことに、昔のような窮屈さは感じなかった。
このドレスを着て、アレクサンドル様の隣に立つ。
そう思うと、胸が少し高鳴った。
……喜んでくださるかしら。
そんなことを考えてしまった自分に、私は驚いた。
以前は、誰かに綺麗だと思われたいなど、あまり考えたことがなかった。
けれど、今日は違う。
アレクサンドル様に、綺麗だと思っていただきたい。
ただ、それだけだった。
*
支度を終えて階段を下りると、玄関ホールにアレクサンドル様が立っていた。
黒い礼服に身を包み、銀灰色の瞳をしたその姿は、普段以上に美しかった。
私は思わず足を止めた。
……素敵。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
アレクサンドル様がこちらを見た。
そして、動きを止めた。
「……セシル?」
「はい」
私は少し緊張しながら、ドレスの裾を持ち上げた。
「お待たせいたしました」
アレクサンドル様は、しばらく何も言わなかった。
その沈黙が、少し不安になる。
「……あの、何かおかしいでしょうか?」
「いや」
アレクサンドル様は静かに首を振った。
「……綺麗だ」
「……っ」
私は思わず顔を赤らめた。
「ありがとうございます」
アレクサンドル様は、少しだけ視線を逸らした。
「……よく似合っている」
その言葉が、何より嬉しかった。
私はそっと微笑んだ。
「アレクサンドル様も、とても素敵です」
思わずそう言ってしまってから、慌てた。
「あっ、失礼いたしました!」
「……いや」
アレクサンドル様は、ほんの少し笑った。
「ありがとう」
その笑顔を見た瞬間、私は胸の奥が温かくなるのを感じた。
*
王宮の舞踏会は、華やかだった。
大広間には無数の燭台が並び、天井から吊るされた大きなシャンデリアが、柔らかな光を放っている。
貴族たちは美しいドレスや礼服に身を包み、楽団の演奏に合わせて踊っていた。
私はアレクサンドル様の腕に手を添えながら、ゆっくりと歩いた。
「緊張しているか?」
アレクサンドル様が小さな声で尋ねた。
「……少しだけ」
「無理をする必要はない」
「はい」
私は微笑んだ。
すると、アレクサンドル様がそっと私の手に触れた。
「俺がいる」
その一言に、胸が跳ねた。
「……はい」
私は小さく頷いた。
何だか、不思議だった。
エドワード様と一緒に舞踏会へ出席したときは、いつも緊張していた。
服装はおかしくないか。
振る舞いは正しいか。
相手の機嫌を損ねていないか。
そんなことばかり考えていた。
けれど、今は違う。
アレクサンドル様の隣にいると、自然と背筋が伸びる。
無理に自分を飾ろうとは思わない。
ただ、この方の隣に立っていたい。
そう思えた。
*
しばらくすると、アレクサンドル様が声をかけられた。
「アレクサンドル!」
振り返ると、金髪の青年が近づいてきた。
私は思わず息を呑んだ。
エドワード様だった。
その隣には、マリアもいる。
エドワード様はアレクサンドル様を見て、少し驚いたように笑った。
「珍しいな。お前が女性を連れているなんて」
「……兄上」
アレクサンドル様が短く答えた。
私は思わず顔を上げた。
兄上?
確かに、アレクサンドル様が幼い頃に公爵家へ養子に迎えられたことは伺っている。
けれど、実のご家族については何も聞いていなかった。
まさか、エドワード様がお兄様だったなんて。
「紹介してくれないのか?」
エドワード様が、私に視線を向けた。
けれど、その目には何の反応もなかった。
私だと気づいていないらしい。
マリアも同じだった。
「まあ、素敵な方ですこと」
マリアが微笑む。
「アレクサンドル様に、こんなに美しいお連れ様がいらっしゃるなんて」
私は黙って一礼した。
すると、アレクサンドル様が静かに言った。
「俺の婚約者だ」
「……婚約者?」
エドワード様が目を見開いた。
「お前が?」
「ああ」
「いつの間に……」
マリアも驚いたように私を見つめた。
「まあ! それはおめでとうございます!」
私は少し緊張しながら微笑んだ。
もちろん、これは形式上の婚約だ。
けれど、今はその役目を果たさなければならない。
「初めまして」
私はゆっくりと一礼した。
「セシルと申します」
その瞬間。
エドワード様の表情が変わった。
「……セシル?」
マリアも目を見開いた。
「……お姉様?」
私は静かに微笑んだ。
「お久しぶりです。エドワード様、マリア」
二人は、しばらく言葉を失っていた。
「……まさか」
エドワード様が呟いた。
「君が、セシルなのか?」
「はい」
「そんな……」
彼は私を上から下まで見つめた。
その視線に、以前なら胸が痛んだかもしれない。
けれど、今は不思議と何も感じなかった。
「……随分、変わったな」
「そうでしょうか」
「ああ。まるで別人だ」
私は少し考えた。
確かに、今日は美容師さんに綺麗にしていただいた。
けれど、顔立ちそのものが変わったわけではない。
「今日は、素敵な方にお支度をしていただきましたので」
そう答えると、エドワード様は複雑そうな顔をした。
マリアが慌てて口を開いた。
「お姉様! いったいどういうことなの?」
「どういうこと、と言われても……」
「だって、お姉様は勘当されたのでしょう?」
その言葉に、周囲の貴族たちがちらりとこちらを見た。
私は少し困ってしまった。
こんな場所で、家の事情を話すつもりはなかったのに。
すると、アレクサンドル様が静かに口を開いた。
「……勘当?」
その声が、わずかに低くなった。
「どういう意味だ?」
エドワード様が、少し慌てたように笑った。
「いや、何でもない。家の事情で……」
「セシル」
アレクサンドル様が私を見た。
「君は、ベルモン伯爵家の娘なのか?」
私は小さく頷いた。
「……はい」
「そして、兄上の元婚約者?」
「はい」
アレクサンドル様は、しばらく黙っていた。
私は胸が苦しくなった。
隠していたわけではない。
けれど、結果的に黙っていたことになる。
怒られるかもしれない。
失望されるかもしれない。
そう思った。
けれど。
「……そうか」
アレクサンドル様は静かに言った。
そして、私の手を取った。
「それなら、なおさら話す必要はない」
「……え?」
「君が今、どこで何をしているかは、君自身が決めることだ」
私は思わず顔を上げた。
アレクサンドル様は、エドワード様へ視線を向けた。
「兄上。彼女は俺の婚約者だ」
「……あ、ああ」
「過去のことを、ここで詮索する必要はないだろう」
その声は、静かだった。
けれど、誰も言い返せないほど、はっきりしていた。
私は、アレクサンドル様の手を見つめた。
温かい。
力強い。
そして、優しい。
胸の奥が、じんわりと熱くなった。
「……ありがとうございます」
小さく呟くと、アレクサンドル様は私を見た。
「気にするな」
そう言って、ほんの少し微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間。
私は、はっきりと気づいてしまった。
……私、この方が好きなのだわ。
*
その後、私たちは大広間を離れ、静かな回廊へ出た。
窓の外には、月明かりに照らされた庭園が広がっている。
私はアレクサンドル様に向き直った。
「……申し訳ありませんでした」
「何がだ?」
「私の身分のことです」
私は深く頭を下げた。
「今まで、きちんとお話ししておりませんでした」
「……そうだな」
アレクサンドル様は静かに答えた。
私は少し迷ってから、これまでのことを話した。
ベルモン伯爵家の長女として生まれたこと。
エドワード様と婚約していたこと。
家事が好きだという理由で、父や婚約者に叱られていたこと。
妹との結婚を望まれ、婚約を破棄されたこと。
そして、その日のうちに勘当され、何も持たずに家を出たこと。
アレクサンドル様は、最後まで黙って聞いてくださった。
「……それで、あの日、求人広告を見つけたのです」
私は小さく微笑んだ。
「今思えば、運がよかったのだと思います」
「運がよかった?」
「はい。だって、あの日こちらの求人を見つけなければ、アレクサンドル様にも、モーリスさんにも、テオにも会えませんでしたから」
アレクサンドル様は、しばらく私を見つめていた。
「……君は、父親を恨んでいないのか?」
私は少し考えた。
「悲しくなかったわけではありません」
正直に答える。
「でも、今はもう、あのお屋敷へ戻りたいとは思いません」
「そうか」
「こちらで働かせていただいて、自分の好きなことを好きだと言えるようになりましたから」
私は微笑んだ。
「本当に、感謝しております」
アレクサンドル様は、何も言わなかった。
けれど、その銀灰色の瞳は、いつもより柔らかく見えた。
*
舞踏会から帰ったあと、私は自室でドレスを脱ぎ、丁寧に畳んだ。
髪飾りを外し、鏡の前に座る。
華やかな一日だった。
けれど、何より心に残っているのは、アレクサンドル様の言葉だった。
『君が今、どこで何をしているかは、君自身が決めることだ』
私はそっと胸に手を当てた。
……好き。
その気持ちは、もう誤魔化せなかった。
けれど、あと一か月で、私はこの屋敷を出なければならない。
アレクサンドル様は公爵様。
私は、勘当された元伯爵令嬢で、今はメイドだ。
しかも、今日の婚約は偽物。
分かっている。
分かっているのに。
「……ずるいわ」
私は小さく呟いた。
あんなふうに優しくされたら、好きになってしまうではないか。
そのとき、扉の外から小さな鳴き声が聞こえた。
「……テオ?」
扉を開けると、テオが座っていた。
私は思わず微笑んだ。
「今日も来てくれたのね」
テオは当然のように部屋へ入り、寝台へ飛び乗った。
私はその隣に腰を下ろした。
「……ねえ、テオ」
小さく話しかける。
「私、困ってしまったわ」
テオは目を細めた。
「アレクサンドル様のことが、好きみたいなの」
声に出すと、胸がきゅっと締めつけられた。
「でも、もうすぐお別れなのよ」
テオは、私の膝に前足を乗せた。
私はそっと抱き上げた。
「……あなたとも、お別れしなければならないのね」
そう思った途端、涙がこぼれそうになった。
この屋敷を出たら、テオにも会えなくなる。
モーリスさんにも、アレクサンドル様にも。
私はテオを抱きしめた。
「……寂しいわ」
*
翌朝。
私はアレクサンドル様の執務室へ呼ばれた。
「セシル」
「はい」
「昨日のことだが」
「……はい」
私は少し緊張した。
やはり、身分を隠していたことを叱られるのだろうか。
けれど、アレクサンドル様は静かに言った。
「君を婚約者だと紹介したことについて、話がある」
「……はい」
「王宮で公爵の婚約者として紹介した以上、簡単に取り消すことはできない」
「……そうですよね」
私は少し俯いた。
私のせいで、ご迷惑をおかけしてしまったのだろうか。
「申し訳ありません。私が軽々しくお引き受けしたばかりに……」
「違う」
アレクサンドル様は、静かに首を振った。
「俺が頼んだことだ。君に責任はない」
「……はい」
「それに」
彼は少し言葉を切った。
「俺は、あれを嘘のままにしておきたくない」
私は顔を上げた。
「……え?」
アレクサンドル様は、まっすぐに私を見つめていた。
「セシル。君に、正式に結婚を申し込みたい」
私は息を呑んだ。
「……結婚?」
「ああ」
「……私と、ですか?」
「他に誰がいる」
アレクサンドル様は、ほんの少し困ったように笑った。
私は言葉を失った。
夢を見ているのかと思った。
「……ですが、私は……」
「ベルモン伯爵家を勘当されたことなら、問題ない」
「いえ、そうではなくて……」
私は胸の前で両手を握りしめた。
「私は、ただのメイドです」
「知っている」
「それに、家事ばかりしていて……」
「それも知っている」
「華やかな社交も、あまり得意ではありません」
「俺もだ」
アレクサンドル様は、静かに微笑んだ。
「だから、君がいい」
「……え?」
「以前、君に話しただろう。俺は、結婚するなら一緒にいて気を遣わずに済む相手がいいと」
私は小さく頷いた。
あの日、馬車の中で交わした会話。
今でも、はっきり覚えている。
「君といると、気が楽なんだ」
アレクサンドル様は続けた。
「無理に話題を探す必要もない。沈黙が苦にならない。それに、君は何をしていても楽しそうだ」
「……そんな」
「君が掃除をしている姿も、料理をしている姿も、テオと遊んでいる姿も。俺は、見ているのが好きだ」
胸が、いっぱいになった。
「……アレクサンドル様」
「最初は、珍しいメイドが来たと思っただけだった」
彼は小さく笑った。
「だが、いつの間にか、君がいるのが当たり前になっていた」
私は黙って聞いていた。
「君が次の仕事を探していると聞いたとき、初めて気づいた」
「……何に、ですか?」
「君に、この屋敷を出ていってほしくないと思っていることに」
その言葉に、涙がこぼれそうになった。
「もちろん、仕事を辞めさせて屋敷に閉じ込めたいわけではない」
アレクサンドル様は、少しだけ表情を和らげた。
「君が望むなら、これからも料理をすればいい。掃除だって、好きなだけすればいい」
「……本当ですか?」
「ああ。ただし、無理はするな。使用人の仕事を全部奪われても困るからな」
私は思わず笑ってしまった。
アレクサンドル様も、小さく笑った。
「俺は、君と暮らしたい」
その言葉は、静かだった。
けれど、どんな華やかな愛の言葉よりも、私の胸に響いた。
「……私も」
私は小さく呟いた。
「私も、アレクサンドル様と一緒にいたいです」
彼の銀灰色の瞳が、わずかに見開かれた。
「……本当に?」
「はい」
私は涙をこらえながら微笑んだ。
「私、こちらのお屋敷が大好きです。お仕事も、皆さんも、テオも」
そして、少しだけ勇気を出した。
「……でも、一番好きなのは、アレクサンドル様です」
言ってしまった。
顔が熱くなる。
私は思わず俯いた。
すると、アレクサンドル様が静かに近づいてきた。
「……セシル」
「はい」
「顔を上げてくれ」
私はゆっくりと顔を上げた。
アレクサンドル様は、私の手を取った。
「俺も、君が好きだ」
その言葉に、胸がいっぱいになった。
私は何度も頷いた。
「……はい」
アレクサンドル様は、そっと私の手の甲に口づけた。
私は思わず目を閉じた。
温かい。
優しい。
そして、幸せだった。
*
正式な婚約が決まると、モーリスさんは珍しく満面の笑みを浮かべた。
「おめでとうございます、旦那様。セシルさん」
「ありがとうございます」
私は照れくさくなって頭を下げた。
「……まさか、こんなことになるなんて」
「私は、いずれこうなるのではないかと思っておりましたよ」
「えっ?」
私は驚いて顔を上げた。
「そうなのですか?」
「ええ。旦那様が使用人の買い物に付き添われた時点で、少々珍しいことだと思っておりましたので」
「……モーリス」
アレクサンドル様が低い声で呼んだ。
「はい、旦那様」
「余計なことを言うな」
「失礼いたしました」
モーリスさんは、少しも悪びれた様子がなかった。
私は思わず笑ってしまった。
*
婚約の知らせが広まると、ベルモン伯爵家から手紙が届いた。
差出人は、父だった。
手紙には、これまでのことを謝罪したいと書かれていた。
そして、もう一度親子としてやり直したい、と。
私はしばらく手紙を見つめた。
父の字だった。
幼い頃から見慣れた、少し右上がりの筆跡。
けれど、そこに書かれている言葉は、私がずっと聞きたかったものだった。
……どうして、今なのかしら。
私は静かに手紙を畳んだ。
そして、返事を書いた。
『お父様。
お手紙をありがとうございました。
私は今、とても幸せに暮らしております。
どうか、ご心配なさらないでください。
けれど、ベルモン伯爵家へ戻るつもりはございません。
これまで育てていただいたことには感謝しております。
どうぞ、お元気でお過ごしください。
セシル』
それだけだった。
私はもう、父に認めてもらうために生きる必要はない。
自分の好きなことを好きだと言える場所を、見つけたのだから。
*
一方、ベルモン伯爵家では。
「……そんな馬鹿な」
父は、セシルからの返事を手にして呟いた。
娘が公爵家へ嫁ぐ。
それも、あのモンテクレール公爵家へ。
まさか、勘当した娘がそんな幸運を掴むとは、思ってもみなかった。
「お父様!」
マリアが部屋へ飛び込んできた。
「セシルお姉様が、公爵様と正式に婚約なさったって本当なの!?」
「……ああ」
「そんな……!」
マリアは唇を噛んだ。
「どうして、お姉様ばかり……」
父は何も答えなかった。
ただ、手紙を見つめていた。
その背後には、亡き妻の肖像画が飾られている。
淡い水色のドレスをまとい、穏やかに微笑む女性。
父は、ふとその絵を見上げた。
娘が家を出た日。
セシルは、最後にこの肖像画を見つめていた。
そのことを、今になって思い出した。
「……セシル」
父は小さく呟いた。
けれど、その声が娘に届くことはなかった。
*
エドワードもまた、弟の婚約を知って複雑な思いを抱いていた。
アレクサンドルは、自分の弟だ。
幼い頃に公爵家へ養子に出され、今では自分よりも高い爵位を持っている。
それだけでも、面白くないことがあった。
けれど、まさか自分が婚約を破棄した女性を、弟が妻に迎えるとは。
「……セシルが、あんなに綺麗だったなんて」
舞踏会で見た姿が、頭から離れなかった。
銀青色のドレス。
艶やかな黒髪。
控えめな微笑み。
あれほど美しい女性が、自分の婚約者だったのだ。
けれど、自分はその価値に気づかなかった。
エドワードは小さく息を吐いた。
今さら後悔しても、もう遅い。
セシルは、弟の婚約者なのだから。
*
春。
私は、アレクサンドル様と結婚した。
式は、身内と親しい人たちだけを招いた、ささやかなものだった。
華やかな式ではなかったけれど、私には十分だった。
アレクサンドル様が隣にいてくださる。
それだけで、幸せだった。
結婚してからも、私の暮らしはあまり変わらなかった。
もちろん、公爵夫人としての務めはある。
必要な社交には出席するし、屋敷の管理についても学んでいる。
けれど、時間があれば厨房へ行くし、洗濯物を畳むこともある。
使用人たちは最初こそ驚いていたけれど、今ではすっかり慣れてしまった。
「奥様、またお掃除をなさっているのですか?」
モーリスさんが呆れたように言った。
「はい。今日は窓が少し曇っていたので」
「使用人にお任せいただいてもよろしいのですよ」
「分かっています。でも、私がやりたいんです」
私が微笑むと、モーリスさんは小さくため息をついた。
「……旦那様に似て、頑固でいらっしゃいますな」
そのとき、背後から声がした。
「誰が頑固だ?」
振り返ると、アレクサンドル様が立っていた。
「旦那様」
モーリスさんが頭を下げる。
「奥様がまた、お掃除をなさっておりまして」
「そうか」
アレクサンドル様は私を見た。
「楽しそうだな」
「はい!」
私は笑顔で答えた。
「今日はとてもお天気がいいので、窓を磨くと光が綺麗に入るんです」
「そうか」
アレクサンドル様は、ほんの少し微笑んだ。
そして、私の隣に立った。
「……俺も手伝おう」
「えっ?」
「窓を磨けばいいんだろう?」
「でも、アレクサンドル様は……」
「今日は仕事が一段落している」
そう言って、私の手から布を一枚取った。
私は思わず笑ってしまった。
「では、こちらの窓をお願いします」
「ああ」
私たちは並んで窓を磨き始めた。
すると、足元で小さな鳴き声がした。
「……テオ!」
テオが、尻尾を立ててこちらへ歩いてきた。
そして、私の足元にすり寄る。
「ふふ。あなたもお手伝いする?」
テオは返事をするように鳴いた。
アレクサンドル様が小さく笑った。
「こいつは、相変わらず君が好きだな」
「アレクサンドル様も、でしょう?」
何気なく言ってから、私ははっとした。
「……あっ!」
顔が熱くなる。
アレクサンドル様は、私を見つめた。
そして、静かに微笑んだ。
「ああ。もちろんだ」
「……っ」
私は思わず俯いた。
すると、アレクサンドル様がそっと私の手を取った。
「セシル」
「はい」
「幸せか?」
私は顔を上げた。
銀灰色の瞳が、優しく私を見つめている。
「……はい」
私は微笑んだ。
「とても、幸せです」
アレクサンドル様も微笑んだ。
「俺もだ」
窓から差し込む春の日差しが、磨き上げた床に柔らかく反射している。
足元では、テオが気持ちよさそうに丸くなっていた。
私はそっと、アレクサンドル様の手を握り返した。
かつて、家事ばかりしているからと婚約を破棄された私。
父に勘当され、何も持たずに家を出た私。
けれど、今は違う。
私の好きなことを、好きだと言ってくださる人がいる。
私のままでいいと、言ってくださる人がいる。
そして、私もその人を、心から愛している。
私は今日も、幸せだ。
〈完〉
最後までお読みいただき、ありがとうございました!
家事が大好きなセシルと、不器用なアレクサンドルのお話でした。
少しでも楽しんでいただけましたら嬉しいです。
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お読みいただき、本当にありがとうございました。




