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嘘を重ねた夜に、君だけが本当だった

作者: あーちゃん
掲載日:2026/06/04

人は、間違いだと分かっているものほど、優しく感じてしまう瞬間がある。


誰かを裏切るつもりなんてなかった。

家庭を壊したかったわけでもない。

ただ、「寂しい」と言えなかった人間が、偶然再会してしまっただけだ。


これは、正しくない恋の話です。


けれど、正しくないからこそ、誰よりも本気で誰かを愛してしまった二人の物語でもあります。


もしあなたにも、

「出会うタイミングが違えば」と思った相手がいるなら――

きっと、この物語の痛みを知っている。

雨の匂いが、街に残っていた。


 夜十時を過ぎた駅前は、人もまばらで、濡れたアスファルトが街灯をぼんやり映している。柏木紗季は、閉店間際のコンビニで買った缶コーヒーを片手に、小さく息を吐いた。


 三十二歳。出版社勤務。既婚。


 誰かに説明するなら、それだけで十分だった。


 仕事は順調。夫は優しい。子どもはいないが、夫婦仲も悪くない。友人たちからは「安定してて羨ましい」と言われる。


 でも時々、自分が透明になっていく気がした。


 毎朝同じ時間に起き、同じ駅を歩き、同じように笑う。


 感情を動かさないことに慣れてしまったのは、いつからだろう。


 スマートフォンが震えた。


『今日も遅い?』


 夫からのメッセージだった。


『うん、校了前だから』


 慣れた嘘を返す。


 本当は、もう仕事は終わっている。


 紗季は送信ボタンを押したあと、静かに画面を閉じた。


 その瞬間、背後から聞き覚えのある声がした。


「柏木……紗季?」


 時間が止まった気がした。


 振り返ると、そこにいたのは榊蓮だった。


 大学時代、一度だけ、本気で好きになった男。


 けれど互いに気持ちを言えないまま、卒業と同時に離れてしまった人。


「……蓮?」


 名前を口にした瞬間、胸の奥に埋めたはずの記憶が、ゆっくり息を吹き返した。


 蓮は少し驚いたように笑った。


「うわ、本当に紗季だ。何年ぶり?」


「……十年くらい?」


「そんなになるか」


 彼は昔より少し痩せて、大人の疲れをまとっていた。それでも笑った時の目元は、大学時代と何も変わらなかった。


 その日、二人は駅前の喫茶店で一時間だけ話した。


 本当に、それだけだった。


 互いの仕事の話。結婚したこと。最近読んだ本。


 当たり障りのない会話なのに、不思議なくらい心が軽かった。


 蓮は高校教師になっていた。


「毎日うるさいよ、生徒が」


「でも向いてそう」


「そう?」


「うん。蓮、昔からちゃんと人の話聞いてたから」


 そう言うと、彼は少しだけ黙った。


「……紗季は変わらないな」


「そんなことないよ」


「いや、変わった。でも根っこは変わってない」


 その言葉が、胸に刺さった。


 夫からはもう長いこと、そんな風に見つめられていなかった。


 帰宅すると、夫はリビングで眠っていた。


 テーブルにはコンビニ弁当の空き容器。


 テレビだけがついている。


「……ただいま」


 返事はない。


 紗季は夫に毛布をかけ、その横顔を見つめた。


 優しい人だと思う。


 怒鳴らない。暴力もない。浮気もしない。


 だけど、会話がなくなっていた。


「今日どうだった?」


 その一言さえ、いつからか消えてしまった。


 自分たちは、夫婦というより“生活共同体”になっている。


 そんなことを思ってしまう自分が嫌だった。


 最低だと思った。


 それでも数日後、紗季はまた蓮に会っていた。


『近くまで来た』


 たったそれだけのメッセージ。


 断ろうと思えば断れた。


 でも、会いたかった。


 仕事帰りに小さなバーへ入る。


 照明の暗い店内で、蓮は先にグラスを傾けていた。


「お疲れ」


「……お疲れ」


 その声だけで安心してしまう自分がいた。


 二人は恋人のようなことは何もしなかった。


 手も繋がない。


 キスもしない。


 ただ話した。


 仕事の愚痴。眠れない夜のこと。学生時代に好きだった映画。


 どうでもいい会話ばかりだった。


 なのに、その時間だけ、自分がちゃんと生きている気がした。


「紗季さ」


「ん?」


「幸せ?」


 不意に聞かれ、息が止まる。


「……どうして?」


「いや、なんとなく」


 嘘をつこうと思った。


 幸せだよ、と。


 でも言えなかった。


 その代わり、小さく笑ってごまかした。


 蓮はそれ以上聞かなかった。


 優しい沈黙だった。


 帰り道、駅まで並んで歩いた。


 雨が降り始めていた。


 蓮が自分の傘を少し傾ける。


 肩が触れそうになる距離。


「……会わない方がいいんだろうね」


 紗季が呟くと、蓮は苦く笑った。


「今さらだよな」


「既婚者同士で、こんなの」


「うん」


「最低」


「そうだな」


 なのに、どちらも離れなかった。


 それから二人は、月に数回会うようになった。


 食事をして、話をして、終電前に別れる。


 それだけの関係。


 それなのに、紗季は少しずつ壊れていった。


 夫に触れられるたび、罪悪感で息が詰まる。


「最近、疲れてる?」


 ある夜、夫が言った。


「顔色悪いよ」


「……うん、仕事かな」


「無理するなよ」


 優しい声だった。


 だから余計に苦しかった。


 最低なのは自分だ。


 夫は何も悪くない。


 それでも、蓮に会いたいと思ってしまう。


 ある冬の日だった。


 仕事帰り、蓮から電話が来た。


『今、会える?』


 声が少し震えていた。


 紗季は急いで駅へ向かった。


 蓮はベンチに座っていた。


「どうしたの?」


「……父親、倒れた」


 初めて見る弱った顔だった。


 紗季は何も言えず、ただ隣に座った。


 蓮は小さく笑う。


「情けないよな。教師なのに、生徒には偉そうなこと言ってさ」


「……そんなことない」


「怖いんだよ。誰か失うの」


 その瞬間、紗季はたまらず彼の手を握った。


 初めてだった。


 蓮は驚いたように紗季を見る。


 でも振り払わなかった。


 静かな駅のホームで、二人は長い間、何も言わずに座っていた。


 その夜を境に、関係は変わった。


 ある日、ホテルへ入った。


 どちらから誘ったのか、もう覚えていない。


 部屋に入った瞬間、紗季は泣いていた。


「……ごめん」


 何に対する謝罪なのか、自分でも分からなかった。


 蓮はそっと抱きしめる。


「泣くくらいなら、やめる?」


 優しい声。


 その優しさが、一番ずるかった。


 紗季は首を横に振った。


「……やめられない」


 その言葉で、すべてが終わった。


 体温を重ねながら、紗季はずっと泣いていた。


 幸せだった。


 だから苦しかった。


 それから嘘が増えた。


 残業。休日出勤。編集者との打ち合わせ。


 夫は疑わなかった。


 信じてくれていた。


 ある夜、帰宅すると、夫が珍しく起きていた。


「話あるんだけど」


 紗季の心臓が跳ねる。


「……なに?」


「子ども、そろそろ考えない?」


 世界が静かに崩れる音がした。


 夫は未来を見ている。


 なのに自分は、別の男を愛している。


「……ごめん」


 気づけば涙が落ちていた。


 夫は困ったように笑う。


「そんな嫌だった?」


「違う、そうじゃなくて……」


 言えなかった。


 全部。


 その夜、紗季は一睡もできなかった。


 朝方、蓮へメッセージを送る。


『もう終わりにしよう』


 すぐに返信は来なかった。


 昼休み。


 スマートフォンに短い通知が届く。


『分かった』


 それだけだった。


 たった四文字。


 なのに胸が裂けそうだった。


 それから二ヶ月、二人は会わなかった。


 紗季は夫との時間を取り戻そうとした。


 ちゃんと笑おうとした。


 でも、何をしても心が空っぽだった。


 ある夜、仕事帰りに駅を歩いていると、向こう側に蓮がいた。


 偶然だった。


 本当に偶然。


 でも、お互い立ち止まってしまった。


 蓮は少し痩せていた。


「……久しぶり」


「うん」


 沈黙。


 先に口を開いたのは蓮だった。


「元気?」


「普通」


「そっか」


 それだけ。


 本来なら、それだけで終わるはずだった。


 でも紗季は気づいてしまった。


 自分はこの人を忘れられない。


 どれだけ正しく生きようとしても、この感情だけは消えない。


「……蓮」


「ん?」


「私ね」


 声が震える。


「あなたといる時だけ、自分がちゃんと笑えてた」


 蓮は何も言わなかった。


 ただ苦しそうに目を閉じた。


「ずるいよな」


 彼が呟く。


「今さらそんなこと言うの」


「ごめん」


「俺だって同じなのに」


 その瞬間、紗季は理解した。


 二人は結ばれてはいけなかった。


 きっと、出会うのが遅すぎた。


 でも、本気だった。


 だからこそ、壊してはいけなかった。


 蓮が小さく笑う。


「帰れよ」


「……うん」


「ちゃんと幸せになれ」


「蓮も」


 涙が止まらなかった。


 でも二人とも、最後まで抱きしめなかった。


 それが最後だった。


 春になった。


 紗季は夫と小さなレストランへ来ていた。


「最近、ちゃんと笑うようになったな」


 夫が言う。


 紗季は少しだけ微笑んだ。


「そうかな」


「うん。なんか安心した」


 胸が痛む。


 きっとこの痛みは、一生消えない。


 でもそれでいいと思った。


 人を本気で好きになることは、綺麗なだけじゃない。


 誰かを傷つける。


 自分も壊れる。


 それでも、あの夜を後悔だけにはしたくなかった。


 帰り道、春の風が吹いていた。


 駅前の桜が揺れている。


 紗季は空を見上げる。


 嘘を重ねた夜の中で。


 たしかに、自分は誰かを愛していた。


 そしてその恋は、誰にも言えないまま、静かに終わった。

不倫というテーマは、決して美しいだけでは描けません。


誰かを好きになる感情は自然でも、その感情の先には必ず“誰かの痛み”が存在します。

だからこそ、この物語では「許されない恋」を単なる刺激としてではなく、“孤独”と“選択”の物語として描きました。


紗季と蓮は、運命だったのかもしれません。

けれど運命は、必ずしも人を幸せにするとは限らない。


それでも人は、たった一度でも「本当の自分」でいられる瞬間を求めてしまう。


読後、あなたの中に少しでも静かな余韻が残ったなら、嬉しく思います。

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