第6話:伝説の鍛冶師の敗北〜百均の包丁が国宝を超える時〜
星も凍るような漆黒の夜。
デスバレーの荒れ果てた死の大地に、突如としてドスドスと重く、しかしどこか千鳥足のような不規則な足音が響き渡った。
俺は昨日作りたての、マナの光で淡く輝くヒノキの露天風呂の縁から身を乗り出し、湯煙の奥へと視線を凝らした。
「あれ、誰かいるのかな?」
絶対防壁である光の結界の外側――。 そこには、見慣れない人物がピタリと張り付いていた。
身長は俺の腰ほどだが、横幅は丸太のように太くがっしりとしている。 身の丈に合わない豪奢なマントを羽織り、もじゃもじゃの立派な白髭を蓄えた、ずんぐりむっくりとした小太りのお爺ちゃんだ。
「た、頼む……その神酒の匂いを嗅がせてくれぇぇ……。一目でいい、そいつは神の領域の酒じゃ……」
結界の光の壁にむぎゅっと顔を押し付け、情けない声を上げる老ドワーフ。
彼の鼻は、風呂の横に残していた木樽から漂うエールの香りに釘付けになってピクピクと動いている。
「迷子のお爺ちゃんかな? デスバレーは夜になると魔王の残党みたいなAランク魔物がうじゃうじゃ出てきて危ないし、とりあえず中に入りなよ」
俺は結界の設定を『指定人物の一時通行許可』に指先で書き換え、彼を庭に招き入れた。
俺の隣で湯浴み着を纏っていたセリアは、狼の耳をピンと立て、尻尾の毛を逆立てて驚愕していた。
「レ、レオン様!? ご冗談を! あの髭の編み方と、全身から漏れ出ている尋常ではないマナの波動……ただのドワーフではございません」
「あれは間違いなく、ドワーフの王族階級、それも歴史書に名を残すレベルの『神工』です! なぜそんな伝説の存在が、護衛もつけずに一人でデスバレーの最深部なんかにいるんですか!?」
「ええ? でも、ただの酒飲みのお爺ちゃんにしか見えないけど。とにかく、夜風に当たって風邪ひいちゃうから上がってもらおう。ほら、タオル使って」
俺は風呂上がりで湯冷めする方の心配が勝り、ずぶ濡れで鼻息荒いお爺ちゃんをリビングへと通した。
▽ ▽ ▽
エアコン魔導具で完璧な春の温度に保たれたリビングに通された彼は、深く息を吐いてバッカスと名乗った。
バッカスは床にひれ伏すと、血走った目で俺を見上げた。
「お主、本当に人間か……? いや、今はそんなことはどうでもいい。その琥珀色の神酒を、一口だけでいいから飲ませてくれ! この数百年、ワシの渇きを癒す酒などこの世界には存在しなかった!」
「対価として、ワシの生涯をかけて打った国宝級の短剣『竜殺し』をやる!」
そう言って彼がマントの奥から震える手で差し出したのは、柄に巨大な炎の魔石がちりばめられ、刃がうっすらと赤熱している短剣だった。
セリアが息を呑み、後ずさる。
「本物の『竜殺し』……! かつて人間の国王が国家予算の三年分を使い、ドワーフ王の前に直々に土下座をして作ってもらったという神話の逸品。ひとたび世に出れば、小国が三つは買える代物です……!」
「へえ、すごいナイフなんだね。でも別にいいよ。お酒なら裏庭の醸造樽に腐るほどいっぱい作ったから、一緒にお酒飲もう。とりあえずその物惣な短剣は、危ないからそこら辺の机に置いといて」
俺はテーブルの端に『竜殺し』をカチャンと雑に追いやり、冷酒用のジョッキになみなみと注いだ神酒を彼に振る舞った。
「おおお……!」
バッカスは震える手でそれを両手で受け取り、涙を流しながら一気に飲み干した。
その瞬間。 彼はセリアに初めてポーションスープを飲ませた時と全く同じように、背中に天使の羽が生えて空へ昇っていくような幻覚を見つめ。 至福の笑顔で「おお、酒の神よ……」と呟いて、白目を剥いて気絶した。
▽ ▽ ▽
翌朝。
床の高級絨毯で完全に寝落ちしていたバッカスは、キッチンから聞こえる規則正しい「トントントン」という金属音に誘われて目を覚ました。
「おお、目覚めたかいバッカスお爺ちゃん。いま朝食の準備をしてるんだ。とりあえず顔洗っておいで」
俺は、昨日セリアが結界の外で罠にかけて狩ってきたAランク巨大魔虫の、ミスリルより硬いとされる前足の骨殻を、『包丁』でサクサクと豆腐のように千切りにしていた。
その包丁から放たれる圧倒的なマナの輝きと、一切の抵抗なく『防竜装甲』と呼ばれる硬度を切り裂く様子を見た瞬間、バッカスの顔色が変わったどころか、魂が抜けたように青ざめた。
「な、ななな……馬鹿な……!! 馬鹿な馬鹿な馬鹿な!!」
彼は腰を抜かし、へたり込みながらその包丁を凝視した。
バッカスの神工の目は、その武器の異常性をミリ単位で見抜いていた。
それは、一般的な「熱した鉄をハンマーで叩いて形を変える」という物理的な鍛冶の技術体系を、とうの昔に置き去りにしていた。
純度100%のオリハルコンを刃の核とし、神話級の自己修復と切れ味永続のエンチャントが、分子レベルで幾重にも編み込まれている。 刃こぼれという概念そのものが世界法則から書き換えられているのだ。
つまり、世界を三回は滅ぼせるレベルの、文字通りの『神造アーティファクト』だった。
「ひぃっ……その、神が直々に鍛えたごとき聖武具は……一体、古代遺跡のどの最深部で手に入れたのじゃ?」
バッカスは、もはや偉ぶる敬語すら忘れて、拝むように震える声で尋ねてきた。
「あ、これ? 昨日の夜、肉の筋を切るのにちょっと切れ味が悪かったから、元の王都で買った百均のペティナイフを、俺の錬金術でパパッと打ち直したんだよ。ほら、よく切れるでしょう?」
俺はまた、防御力絶大のAランク魔物の骨殻を、スパイクッとネギを刻むような軽快な音で切り落とす。
バッカスの脳裏に、自分が生涯をかけて打ち上げ、誇りとしてきた最高傑作『竜殺し』が浮かんだ。
王族に乞われ、三日三晩寝ずに炎と向き合い、歴史に名を残した名剣。 しかしそれは、目の前の男が「肉を切るのが面倒だから」という理由で数秒で適当に作ったあの包丁の、足元にも及ばないただのナマクラだったのだ。
バッカスはドワーフとしての数百年の誇りを完全にへし折られ、その場で勢いよく土下座した。 額が床の絨毯に深くめり込むほどの勢いだった。
「ワシを……どうかワシを弟子の末席に加えてくだされぇぇぇ!!! これからの一生、お主のもとで真の鍛冶を学ばせてくれ!」
大の字になって泣き叫ぶドワーフを見て、俺は首を傾げた。
「えぇ……おじいちゃん、昨日あんなにお酒飲んだのに朝から元気だなあ。まあいいよ、家事とかDIYの仲間が増えるのは楽しいしね」
俺は呆れつつも、弟子入りを快諾し、とりあえず朝食のオムレツの支度を続けることにした。
▽ ▽ ▽
一方その頃――。
王都から遠く離れた黒の森では。
「クソッ、なぜだ! なぜ国宝たる我が聖剣の切れ味が戻らんのだ! 誰か砥石を、それに盾の修復魔法をかけろと言っているだろうが!!」
「無理です王子! レオンがいなくなってから、我々の武具に編み込まれていた自動修復機能と鋭利化維持機能が、完全に機能不全に陥っています!」
勇者アレクサンド率いるパーティーは、ろくに手入れもできないまま補給物資が尽きかけ、かつては無傷で倒せていたBランクの魔物相手にすらジリ貧となり。 激しい苛立ちと絶望の声を上げていたのだった。




