第16話:絶体絶命のスープ〜勇者軍、スプーンを構えよ〜
「聞け、王国軍の誇り高き精鋭たる兵士たちよ!」
「ひしゃげた武器などなくとも構わん! あの偽りだらけの虚飾の魔王を素手でもぎ倒し……」
「我らの奪われた大地とマナを取り戻すのだ!」
勇者アレクサンドの悲痛かつ自己正当化にまみれた絶叫が。 デスバレーの透き通るような青空と、巨大な光のバリアの前に虚しく響き渡った。
だが、誰一人として前に進み出ようとする兵士はいなかった。
神聖な光を放つ防壁結界の前に丸腰で立ち尽くす数千の兵士たちは。
彼らの眼前に広がる圧倒的な「超インフラ都市(天空を突くタワマンや輝く農園)」の光景と……。 そこから漂ってくる『異常なまでに食欲を刺激する香り』に完全に心を奪われ、硬直していたからだ。
「あれ? やっぱりみんな、急な遠征で迷子になってお腹空いてるみたいだね」
「セリアちゃん、バッカスおじさん、それと王国軍のみんな、ちょっと急ぎで炊き出しの準備をお願いしてもいいかな?」
レオンが本気で「ボロボロの難民の集団」だと勘違いしたまま、微笑みながら背後に指示を出す。
すると、どこからともなく現れた元・魔導騎士団のエリートたち(今は村の農作業着を着た面々)が。 手慣れた手つきで瞬時に巨大な魔導コンロを幾つも組み上げ。
数千人分はあろうかという巨大な鍋に、信じられないほどいい匂いのするスープを波立たせた。
「おうおう、さあ野営の泥水で疲れた体にはこれだ!」
「Aランク魔肉と、さっきそこで採れた世界樹のトマトを煮込んだ高濃度回復ポタージュだ! 遠慮せずに並べ並べ!」
バッカスが豪快に笑いながら。 丸腰で震える兵士たちに向かって、温かい湯気と黄金色の光を立てる木椀を次々と突き出す。
「わ、罠だ! それは幻覚だ! 我々を内側から腐らせる猛毒が入っているに決まっている!」
「決して、決して食うな! 食った者は反逆罪で八つ裂きにするぞ!」
アレクサンドが裏返った声で叫ぶが……。
数日起きに泥水をすすり、毒虫に怯えながら死の行軍を強いられてきた兵士たちにとって。 その芳醇な香りはもはや抗いようのない暴力であり、究極の救済だった。
一人の若い小隊長が、ふらふらと夢遊病者のように引き寄せられ。 震える両手で木椀を受け取り、一口すすった。
「……ッ!!!」
瞬間、若い小隊長の両目から大粒の涙が滝のように溢れ出し、彼は首から崩れ落ちて大理石の地面に突っ伏した。
「う、美味すぎる……。美味いだけじゃない」
「全身の傷の痛みが一瞬で消え、失いかけていた足の指先の感覚まで戻ってきている……」
「俺たちは……俺たちは今まであの地獄のような行軍で、こんな極上の天国を破壊しようとしていたのか……?」
元・魔導騎士団の先輩が、彼の背中を優しく叩く。
「おう、わかるぞその気持ち。俺たちも数日前まではそんな泥まみれの格好だったからな」
「ここの水は甘いぞ。俺なんて昨日、温泉に入ってからフカフカのベッドで九時間も爆睡しちまった」
「もう嫌だ! 俺はもう絶対に、王国のあの腐った泥水はすすりたくない!!」
若い小隊長のその魂の一言を皮切りに。 数千の兵士たちの王室への脆い忠誠心は、音を立てて完全に決壊した。
「俺にも! 俺にもそのスープをくれ!」
「我々を、どうかこの極上の天国たる村の末端に加えてください!」
「畑仕事でも、犬の世話でも、便所掃除でも何でもします!! 王国軍の位など喜んで捨てます!!」
彼らは一斉に武器の代わりに各々木椀とスプーンを受け取り。 レオンに向かって号泣しながら、顔を地面に擦り付けて土下座を始めたのだ。
神聖ロザリア王国の誇りであり、精鋭を集めたはずの巨大な討伐大軍勢が……。 ただの一発の「温かい炊き出し」によって文字通り全滅(完全な寝返り)した瞬間だった。
「……は? え? はあああああ!? 貴様ら、正気か!?」
「王国を、この勇者たる俺を裏切るというのか!!」
一人逃げ遅れるように取り残されたアレクサンドは。 自分の絶対的だったはずの軍隊が、剣を交えることすらなく「温かいスープ一杯」に完全敗北して寝返っていくのを見て……。
怒りと屈辱、そして理解不能な事態への恐怖で顔面をドス黒い紫に染めた。
「おのれレオン! どんな卑劣な洗脳魔法を使った!!」
「覚えていろ、必ず王都に戻り、残る王国全軍を率いて貴様らを一人残らず惨殺してやる!!」
誰も彼に注目すらしない中……。 アレクサンドは涙目になりながら、足のすくんで動かない純白の名馬の尻を狂ったように叩き。
ただ一人でおもらしをしながら無様な背中を向けて、デスバレーから逃げ帰っていくのだった。




