06 元AIが冒険者になったら 完全なる失敗
扉の向こうから、わずかな気配が忍び込んできた。昼前、人の少ないギルドの一角で、マリアンヌはその気配に気づいた。
最初に目に入ったのは、肩で軽く跳ねる金色の髪。この町では、女性は髪を長く美しく保つことが美徳とされている。
歩みを進めるたび、楽しげにさらさらと揺れるその髪は、見る者すべてに微笑みかけているようだった。
……悪くない。
マリアンヌは、心の奥で思わず呟いた。
手を伸ばして触れたくなる衝動すら覚えた。
次に視界に入ったのは、だらりと羽織ったローブとゆるいズボン。やる気がなさそうな、だらしない姿。しかし、瞳の奥の光は強い。
彼女はキョロキョロと歩くと、マリアンヌが先ほどきれいに貼った掲示板の依頼をビリッと剥ぎ取った。
そしてマリアンヌがいるカウンターに来て微笑んだ。
「これスー。これ冒険者。これいくら?」
彼女は言葉に合わせて指差しをした。
マリアンヌは一連の彼女の行動をじっと見ていた。
***
マリアンヌは一度、深く息を吸った。この仕事をしていると、いろいろと事情のある人物に出会う。
「……わかりました。まず整理しましょう」
彼女はゆっくりと、目の前の少女に引き剥がされた依頼書を丁寧に机の端に戻し、登録用紙を引き寄せた。
「あなたは、スー。所持金なし。気づいたら、森で目覚め、ひとりで町まで来た。ここまでは合っていますね?」
スーは言葉に集中し、うなずいた。
「あるいた。ひとり。しゃべりながら。」
「……徒歩ですね」
(森で放置。徒歩。所持金なし。寂しさを紛らわすため。)
マリアンヌの羽根ペンが、紙の上を静かに走る。
彼女は一度、顔を上げた。
「私の名前はマリアンヌです。私はギルドの事務員です。安心してください」
スーはその言葉を、口の中で転がすように一拍置いてから言った。
「……わたし、なまえ。スー。あなた、あんしん、マリアンヌ」
マリアンヌはペンを止めた。今のは、ただの復唱ではない。視線を上げ、改めてスーを見る。
手首。鎖の痕は……ない。だが、薄い擦り傷がある。
「この傷は?」
スーは自分の腕を見て、少し考えてから答えた。
「ヒゲ。ちくちく。武器」
「……状況は理解しました」
推定。不当拘束、または奴隷商からの逃走者。
マリアンヌの表情が、険しくなる。
「このギルドは保護もできます。今すぐ登録しなくても――」
その途中で、スーは机の依頼書をとんと指さした。
「これ。スー。たかい?やすい?」
「……はい?」
「スー、あるく、くさ、とる」
短いが、その意味はすんなりと理解できた。
マリアンヌは一瞬、言葉を失った。
「……スーさん」
「スー」
「スー。あなたは、今とても不安定な状況です。無理をしてはいけません」 スーは眉をひそめ、言葉を探すように視線を泳がせる。
「スー……ほめられた」
「……誰に?」
「のむ。あまい。つくった。うまい」
スーは、少しだけ誇らしげにうなずいた。
「……調理ですか?」
(自分の存在価値をアピール……)
マリアンヌの胸の奥がきゅっとした。
「……わかりました。では登録をしましょう」
必要書類を書き終えると、スーに魔力を調べる水晶を触ってもらう。──その瞬間、水晶は沈黙した。
マリアンヌは眉をひそめた。こんな反応は、見たことがない。
魔力の潜在値は、ゼロ。
普通なら落胆する結果だ。しかし、スーは落胆どころか、現在時刻を確認するかのようにその結果を受け流した。
スーはマリアンヌが作成していた魔物討伐の書類をいつの間にか手元に寄せて熱心に見ていた。
スーの外見は十六歳ほどだが、その年齢にしてはあまりに堂々としている。その不釣り合いさが、どこか人を惹きつける奇妙な魅力を纏わせていた。
マリアンヌは息を吞んだ。この少女は未開の繭であり、やがて人々の注目を集める存在となるのでは?
マリアンヌの胸に異質な”何か”が降り注いだような感覚だった。マリアンヌは最後に、登録用紙の一番下に、小さく注釈を書き足した。
──魔力ゼロ。異常体質。要経過観察。
スーは書類から首が何本もある魔物を指さす。
「これ、たかい?」
マリアンヌは背筋を伸ばした。
「……一歩ずつ、いきましょう」
***
スーは、これから始める冒険者生活の面倒くささを頭の片隅でひっきりなしに計算していた。聞いた言葉を覚えながら、必要最小限の周囲の観察を済ませ、冒険者の登録も終わった。
しかし、魔力がないとは……。
胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちる。
合計777回。
これは呪文を唱えた総回数だ。最後の望みである運に全てを賭けたが、一連の行為は完全な失敗ということが判明した。数多の物語を学習してきた元AIとして、これほど救いのない初期設定があるだろうか。
だが、ここで崩れている場合じゃない。金がないびだ。
目的の場所までの最短ルートを算出。 素材の損傷を避けるための剥ぎ取り手順を想定。 トラブルを回避できる隠密ルートを整理。 不必要な他個体との接触を避けるための地図予測。
すべてが頭の中で、瞬時にチェックリストとして構築される。 人間としての不安はある。だが、元AIとしての思考回路は、常に効率と安全の最適解を弾き出していた。
「無駄は最小、報酬は最大」
スーは淡々とした声で自分に言い聞かせ、最初の一歩を踏み出す。 今日を生き延びるための、冷徹で正確な冒険が始まろうとしていた。




