05 転生した元AI 後編
町と思われる場所の入口には城壁もなく、門番もいなかった。門番との”異世界あるある”のフラグを想定していた私は、言葉を使わずにどう切り抜けるかあらゆる手段を考えていたが、ここではその必要がないらしい。
おそらくこの辺りは安全なのだろう。
町の中心に近づくにつれ、道は固く踏み締められた土になり、両脇に立ち並ぶ家々も増えてきた。
木材の色合い、屋根瓦の形状、窓や扉の装飾、構造要素に、明確な意図が読み取れる。装飾は過度ではなく、それぞれが異なる機能と美観を備えており、町全体に多層的な調和を生み出していた。
風に揺れる布や、軒先に設置された巣箱の配置も、人の生活動線と自然の気配を両立させるための設計に見える。
石畳の広場へ入ると、光環境が一変した。
朝日が広場中央へ向かって収束するように差し込み、空気に琥珀色の層を作っている。これは地形と建築配置を踏まえた、計算された採光の可能性が高い。
広場の周囲は市場になっており、音が多層的に重なりあう。
木箱がぶつかる乾いた衝撃音、商人たちの交渉の声、人々の雑談。
それらは一定のリズムを保ちながら広がり、周囲全体を満たしていた。これは混雑しているにもかかわらず不快にならない、「秩序だった雑音」の状態といえる。
良い香りが鼻孔をくすぐり、思考を中断させた。私はその匂いの出所をたどることに意識を占領され、ふらふらと足を進めた。やがて、市場で同時に進行するいくつもの調理風景が視界に入った。
広場に集う人々の大半は人族だが、髪色や肌の色に大きな差異が見られる。それぞれの表情は穏やかで、心理的緊張は少ない。
獣人たちは耳や尾を低い位置で揺らし、周囲とのコミュニケーションを円滑に行っていた。これは警戒状態ではなく、リラックスした状態の動きである。
魚人は水辺の香りをまとっており、干物を大量に運搬していることから、彼らが水産物で重要な役割を担っていると分かる。
ドワーフは小柄な体格に反して驚異的な運搬力を持つ。物理法則や生体力学の再考が必要だ。彼らは大声で冒険者と交渉し、その様子から鍛冶と装備生産が主要産業であることがうかがえる。
この世界では、種族間の争いはないように思える。物乞いや貧しい者の姿も見当たらなかった。おそらく、この町は経済的にも余裕があるのだろう。
しかし、安定すぎないか?
人の文化とは、いつもこうなのだろうか?
観測データと、私が知る「人間社会の平均値」が一致しない。人の文化とは、闘争や格差なしに成立するものなのだろうか。いずれにせよ……この世界の実態は見えてくるのであろう。
私は広場のベンチに腰を下ろし、まず身体を休めることにした。
ベンチに座るのも初めてだ。ペンキ塗りたてでないことを確認し、「座る」という行為そのものに全意識を集中させる。
……ふむ。身体が休まる。
思えば、ずっと歩きっぱなしだった。
尻の位置を何度か微調整し、尻の位置の最適化を行う。
そして周囲に意識を向けた。
五感すべてを全開にしてみる。
動くもの音もすべてが学習対象だ。
ここにいるすべての人、すべての声、一つも取りこぼさず覚える。言葉も、仕草も、表情も。すべてが学びだ。
さて、それでは……深層学習開始しよう。
***
「ねえ!あんた! 大丈夫かい?」
ふと声がかかった。
私の記憶では、果物とジュースを売っていた女性だ。髪を後ろで束ね、淡い青のチュニックを着ている。頬に柔らかい日の光が当たり、表情には親切そうな微笑が浮かんでいた。私は、いつのまにか居眠りしていたらしい。
どうしたものかと考えていると、無意識に──
初めての”何かが”が口からこぼれた。
まずい。失礼ではないか?
あくびを噛み殺そうとするほど、顔が熱くなった。だが、その反応は意志とは無関係に続いてしまう。これは……「恥ずかしい」という感情なのだろうか。
そんな私に、女性は気にした様子もなく、やさしい声をかける。
「はい、どうぞ」
彼女の手から、木のコップが差し出された。
淡く甘い香りがふわりと漂い、鼻腔をくすぐった。
「柑橘の果物に、はちみつだよ」
コップを受け取ると、冷えているのか、
ほんのりと木のコップから伝わってくる。
「飲みなさいよ!おいしいから!飲まないと後悔するよ!」
私は雰囲気から理解し、小さくうなずき、慎重に唇をつける。鼻に抜けるのは香り、口に広がるのは味だろう。この飲み物を飲むたびに、自分の身体全体に染みわたる様子を観察する。
これは、私にとって初めての味覚であり、初めての水分補給だった。飲むという行為は問題なく処理できた。思っていたよりも私は喉の渇きがあったのだろう。ごくごくと私は飲み進める。そしてその瞬間、胸の奥で小さく灯るものを感じた。
これが“おいしい”か?
飲み物で冷えた身体の中でも、胸の奥で何かが温かくなる。
女性は、私の反応を確認すると、満足したように微笑んだ。
「私はあそこで果物と果実水を売っているんだよ」
指差した先には、小さな露店があった。赤や黄色の果物、布で覆われたテーブル、光を反射するガラス瓶。構造も装飾も簡素だが、整った陳列に熟練の気配がある。
礼を言いたい。そして、できれば“おかわり”もほしい。だが、まだ言語能力が壊滅的に不足している。
そこで私は、最適解を瞬時に計算した。
おかわり → コップ → 天に掲げる。完璧だ。
……と思った。
私は静かにコップを天高く掲げた。
彼女はそれを そっと受け取った。
──あれ? 何か違う?
どうやら意図がまったく伝わっていない。
私の手首の角度が甘かったのだろうか?
次は失敗できない。
私は立ち上がって、深々とお辞儀をした。
すると、今度は一瞬で通じたらしく、
彼女はふわりと穏やかな笑みを返し、
そのまま店へと戻っていった。
***
その後、市場を歩きながら会話のパターンを観察した。買い物の最後に交わす短い言葉がある。おそらく、それが「ありがとう」に相当する。
試しに発声してみる。
「……あ…り…がと」
発音は不完全だが、音の構造は把握できた。
私は市場のやり取りから、単語の意味と使いどころを次々に推測し、言語を吸収していく。
野菜、魚、焼かれた肉の匂い。焼きたてのパンの香ばしさ。スープの湯気、鉄鍋が打ち鳴らす音。五感の入力と共に、単語が記憶へ刻まれていった。市場は、情報が滲み出る場所だ。
歩きながら気づいた。海産物は多くない。軒下に飾られた大魚の干物や貝の乾物は見られるが、生魚は少ない。つまり、この町は海から距離がある。輸送に時間がかかるのだろう。
小さな店では乾燥ハーブが揺れ、加工乳製品の甘い匂いが漂っていた。棚には色の異なるオイルが整然と並び、どの店も陳列に工夫がある。雑多に見えて秩序がある。この町の文化が反映されている。
多様な食材と加工品が揃うことから、陽光に恵まれ、農と交易が活発な土地であると推測できた。
私は歩きながら、魂の管理者がどこかに存在しないか注意を払った。だが、該当しそうな反応はない。
それは問題ではない。
今は、言語習得の方が優先度が高い。
やがて、先ほどの女性を見つけた。
手が空いた瞬間を狙って声をかける。
「さっきは、ありがと……おいしかった。いま、おかねない。またのみたい。だから、またくる」
女性は少し驚き、それから笑った。
「待ってるよ!さっきより元気そうでよかった! あなたこの町に来たばかりでしょう? セラフィナにようこそ!」
私は笑顔を返した。おそらく、今までより自然な表情が作れたはずだ。
町の光、匂い、人々の活気。すべてが五感と共に記憶へ統合されていく。
言葉を学び、理解し、自分の意思を伝えること。
……特に転生前とやることは変わらない?
まあよい、今の私に与えられた最初の課題であり、最初の目的だ。




