51 風の遺跡に向けて
私が勝手に名付けた白き獣アルパ。この白い獣はギルマスのゼットーですら知らなかったらしい。私はアルパのモウフにまたがり、のんびりと山を進んでいた。ルル、ミンカ、ゼットーもそれぞれアルパたちに乗っている。
「師匠、あとどれくらいで山越えは終わりますか?」
「あと一週間ってところか」
険しい山道を二週間も越えてきたはずなのに、不思議と苦労している感覚が一つもない。
ゼットーが先回りして安全ルートを確保する。
ミンカとルルが山を削り道を作る。
野営はミンカが精霊魔法でドームを作る。それはもう立派な家である。アルパたちの寝床も同時に整え、精霊たちが草と水を用意した。ゼットーはいつの間にか狩りをしており、手際よく料理を始めていた。
斥候として優秀なうえ、料理も得意。ゼット―はアルパたちとも意思疎通ができるようで、天気や山道の安全なルートを聞き出しているらしい。存在感だけはあいかわらず薄いが。
ルルやミンカには魔力でゼットーの存在が分かるらしいが、私にはさっぱりだった。気づいたら火が起こされ、スープができて、気づいたら寝床が完成している。朝起きると、湯気を立てる朝食が目の前にあった。
私はやることがなかった。
昼はモウフにゆられながら気まぐれに地図を描いたり、夜はフトンの背にもたれて天体観測をした。山頂付近の星空は驚くほど澄んでおり、ルルに「師匠、久しぶりゆっくりしてますねー」と笑われるほどであった。
そんなある日、吹雪が吹き荒れた。
私は「せっかくだから観測してみよう」と思い立ち、ドームを抜けて外へ出た。雪は舞い、風は魔力を帯びているのか、私の歩を止める、ものの五分で方角を見失った。
「あれ? 帰り道は……どっちだ?」
気づけば私は、山の斜面で小さな雪像のように固まっていたらしい。モウフが鼻先で私を掘り出し、ゼットーが呆れたように私を助け出したようだ。
「師匠、遭難ってこういうのを言うんですよ」
「……ちょっと探求心が勝っただけだ」
快適すぎて暇を持て余し、つい余計なことをしてしまう山岳ツアーの客のようだった。
ルルは私のミスリルのネックレスをいじりながら何かやっていた。私がその様子を見ているとルルは作業をしながら言う。
「このミスリルに魔法陣を刻んでいます。
お守りのようなものです」
私は手元じっと見る。ルルの手元には光の粒がキラキラと輝いていた。よく見るとそれはすべて魔法陣であった。
***
山道を抜けた先、湯気が立ちのぼる谷間に出た。
「温泉ですね」
ゼットーが淡々と告げと、ためらうことなく外套を脱ぎ、湯に身を沈めた。しぶき一つあげぬ静かな動作。その姿は、戦士の鋭さも、斥候の影の薄さも感じさせず、ただ自然に溶け込んでいる。
……女だったの?
湯気の向こうでゼットーは目を閉じ、静かに休む。温泉の効果なのか、私は初めてゼットーの顔を見ることができた。その横顔には、ただ一人の女性が山の精霊に抱かれるように安らいでいるだけだった。
私は顎まで湯につかり、温泉の深みを堪能する。深い場所では水圧が違うのか、ふくらはぎがじっくりと呼吸をする。
「これは……気持ちがよい」
誰ともなく洩れた言葉は、湯気に溶けて夜空へ消えていく。アルパたちも湯に浸かり、鼻先からぷしゅうと湯気を吐き出す。その様子もまた、温泉が大自然とつながっていることを語っていた。
湯気に包まれて、ルルとミンカはまるで水遊びのようにはしゃいでいた。ちゃぷんと飛び込むミンカを追いかけながら、ルルがふと横目でゼットーを見て声をあげた。
「やっぱり、ゼットーさんって女の人だったんですね!」
「えへへ、知ってましたよ」
ミンカが得意げに頷く。
ゼットーの堂々とした立ち姿を前に、私は思わず自身の貧相な体形を湯船の下へ隠した。ルルのニヤリとした笑みが、無防備な私の自尊心を射抜く。
「ねえ師匠……ミンカと同じ土俵に立ってみて、どういうお気持ちですか?」
ルルの言葉が、逃げ場のない蒸気の中で追い打ちをかける。私はそっと天を仰ぎ、心の中で自問する。この視線に晒される気まずさを何と呼ぶべきか。
おそらく、この感情を世間では『敗北感』と呼ぶのだろう。
そんな感情がいつのまにか芽生えていた自分を不思議と思った。
湯に沈む私をルルは満足げにプッと吹き出すと、湯気を切り裂いて去っていった。
その夜、私たちはささやかな宴を開いた。山越えの間、一歩も動かず他人に甘えていた罪滅ぼしに、私が腕を振るう。温泉の熱を利用した「地獄蒸し」だ。
「この黄色いプルプル、悪魔的です」
ミンカとルルが率先してデザートを食べる。精霊がどこかから調達してくるコカトリスの卵でプリンを作ってみた。精霊たちは横からつまみ食いしていき、そしてまた卵を運んでくる。私はせっせとプリンを生産しては並べていた。
「スー、君とは結構、会っているんだよ」
不意にゼットーの声が響いた。私の目の前に、あまりにも投げやりな文字で『トロル』と書かれたお面が出現した。
その声と、記憶の隅にある「妙に存在感の薄い戦闘訓練の講師」が一致し、蒸し器を持ちながら叫んだ。
「私に読み方を教えていたあの根暗な女幽霊か!?」
「根暗な幽霊は余計だ。ちょっと傷つく」
お面は魔道具らしい。文字を書き換えるだけでゼットーの希薄な存在感を無理やり上書きできる。
前回は『オーガ』、今回は『トロル』。図体のでかいトロルのほうが効果があるらしい。
蒸し器から出来立てのプリンを取り出し、ゼットーに差し出した。彼女がお面を外すと、その姿は霧が晴れるようにふっと消えてしまう。ところが、プリンを一口食べた瞬間、彼女の姿が再び鮮やかに浮かび上がった。
「君の料理、本当においしいね……」
幸せそうに目を細めてプリンを頬張るゼットーは、驚くほどきれいなお姉さんだった。どうやら、感情が高まると、彼女の希薄な存在感は自然と補強されるらしい。
「……いろいろと調子狂うな」
私は少し照れ隠しのような独り言をこぼしながら、自分の分のプリンにスプーンを入れた。




