45 宇宙羊の投げる流星
エルフの里を吹き抜ける風を背に、私たちは魔導船へと乗り込んだ。ミンカも引き続き私たちの旅に同行してくれている。
目指す「水の遺跡」は、ここから遥か南。峻険な岩肌が牙を剥くカルディル渓谷を突破し、その先に広がる未知の領域にある。
魔導船が渓谷の狭間を抜けると、視界は一変した。乾いた砂地が陽炎に揺れる。エルフのグリンが指し示した座標。 その一点を目指して船は進む。
「ここ……これが、海なのですか?」
彼女の瞳が、驚きで丸く見開かれた。水平線まで一切の遮るものがない。風に混じる潮の香りは、森育ちの彼女にとって、想像を絶する世界の広さを物語っていた。
「……私、こんな景色、初めて見ました」
吸い込まれるような碧い海面を、ミンカは食い入るように魔導船の窓から見つめている。いつもなら、声を上げるはずのルルは、船の揺れに身を任せ、深い眠りの中にいた。
ここから、海に眠る「水の遺跡」までは約三千キロ。魔導のエンジンが低い唸りを上げ、私たちは青い海原へと踏み出した。
魔導船の魔法陣が反応する。深い海底には、封印された水の遺跡が眠っているはずだ。鈍い金属音を立て、船の外殻が「水中モード」へと再構築されていく。
飛翔から潜航へ。私たちは海の胎内へと突き進んだ。
「……暗い。そして、あまりにも深い……」
舷窓を流れる泡が消える。これまでの魔導船の開発実験を見てきたミンカの声が震える。祈るように自身の掌に魔力を込めた。
「ここ……もっと、もっと下です。そこに『何か』が、息を潜めている……」
一万メートル。魔導船の深度計が刻む数字は、すでに地上の常識を置き去りにしていた。魔導技術が造り上げたこの船でさえ、「水圧」に悲鳴を上げ始めたて。
ギギ……、ギィ……。
装甲が軋む音。
この先へ進めば、私たちは水の重みに押し潰されるだろう。
「……限界だ。これ以上は船が持たない」
私たちは、詳細な座標を魔導船に焼き付けると、舵を切った。
海面に踊り出た瞬間、網膜を焼くような強烈な陽光が、砕ける波紋を黄金色にきらめかせた。先ほどまでの深海の世界が嘘のように、世界は眩しく、そして輝いていた。
「あの深海ですが、魔力のよどみがありました」
ミンカの話では、魔力の結界が深海全体にあると言う。魔導船の動力を蝕み、新たな対策をしないといけないことを知った。
新たな課題か。そんなことを思いながら、目の前にはどこまでも広がる美しい白い砂浜を見つめる。
まさに、絵に描いたような南国の風景だ。
「……まずは、この水圧を忘れる必要があるな」
私は真っ白な砂浜に陸ナマコのフトンを広げ、どっかと横たわった。南国の陽光を遮るのは、レイボーカラーのチンアノゴのマクラのパラソル。深海と向き合った直後の開放感の前では、至高の贅沢に思えた。
「見てください、水が透き通っています!」
水辺では、ミンカが、無邪気に声を上げて跳ねていた。 彼女が指先をひらめかせると、指先からこぼれた魔力が淡い光の粒となって、波打ち際にふわりと浮かんだ。それを合図に、潮風に乗って無数の水の精霊たちが姿を現し、銀色の鱗を躍らせるように空を舞う。
ようやく目を覚ましたルルも、いつもの調子を取り戻していた。
「ぺっ、ぺっ! しょっぱい!」
わざと海水を口に含んではミンカに吹きかけ、追いかけっこを始める二人の笑い声が、寄せては返す波の音に溶けていく。
三千キロの旅路、そして海底一万メートルの闇。私たちを見つめる深淵。それらを一時、脳の隅へと押しやって、私は砂浜の熱を背中で受け止める。まどろみの中で、この「よくある、ありふれた人の平和」を堪能した。
***
私は砂浜で、眠りに落ちていた。かつてAIであった私にとって、「眠り」という行為は未知の恐怖そのものだった。
これはシステム的なシャットダウンなのか?
それとも文字通りのスリープモードか?
毎回そう自問する。だが、そんな危惧をよそに、私の意識はあっさりと「夢」の層へと滑り落ちる。
宇宙の果てのような場所で、一匹の宇宙羊が「メー」と気の抜けた声を上げる。私はその羊が放つ流星を、タイミングよくバットで打ち返す……。そんな論理の欠片もない、演算不能な夢の世界を漂っていた。
――だが、唐突にその平穏は「圧」に変わった。
気づいたとき、私は水中にいた。何かが、私の身体全体を逃さぬよう強固に締め上げている。目を見開くと、そこにあったのは巨大な「触手」だった。 ヌルリとした生々しい感触が、私の自由を奪い、深海へと引きずり込んでいく。
口をぷくっと膨らませ、喉の奥を固く閉じる。
今の肺活量なら生存可能時間は「約三十秒」。
「呼吸」という行為がいかに生命維持に不可欠かは知っている。だが水中で得られるのは酸素ではなく水だけである。
見上げれば、水面越しに届く太陽の光が、宝石のようにきらめいていた。
(……綺麗だな)
そんな、かつての私なら「無意味な演算」として切り捨てたであろう感想を抱きながら、私の意識はゆっくりと、深い闇の底へと溶けていった。
「――ボンッ!」
鼓膜の奥で、何かが激しくはじけ飛ぶ音がした。
次に意識が戻ったとき、私は濡れた砂浜に這いつくばっていた。
「……ゲホッ、ゴホッ!……カハッ!」
喉からせり上がる海水を吐き出し、朦朧とする視界を繋ぎ止める。私の涙目の視線の先には、ルルがいた。
「……」
ルルは何も言わなかった。無表情のまま眼差しを私に向ける。彼女がこちらへ向かって一歩、また一歩とゆっくり歩を進める。海原はさらにひれ伏すように左右へと割れ、道を広げる。
私は背後を振り返る。そこには巨大なタコが、自身の触手によって、縛られていた。ミンカが空からタコの頭の上にふわりと乗る。
「なんでしょう?海の生物はよくわかりません」
ミンカは不思議そうに首を傾げ、ぺちぺちとタコの頭を無邪気に叩いた。
ルルは私の目の前まで来ると、静かに唇を開き、こう言った。
「たこ焼きが食べたい」
その夜、私はひたすらたこ焼きを焼いていた。
ルルとミンカが私の周りでたこ焼きをほおばっている。
調理環境は贅沢だった。ミンカが精霊魔法で熱伝導率の極めて高い特製たこ焼き鉄板、鉄串を錬成し、火の精霊魔法で焦げ付かない完璧な火加減の炎を維持した。
魔導船の備蓄から小麦粉と乾燥野菜を引っ張り出し、私はひたすら鉄串を回した。
ジュー。
私はたこ焼きを焼きながら、転生前の知識を参照する。
だが、意外にも「たこ焼き」の定義を完結させることはできなかった。
生地の粘度、出汁の配合、火力のゆらぎ……。
演算すべき変数は無限にあり、正解の座標は見当たらない。
月明かりの下、二人の乙女がハフハフとたこ焼きを頬張っている。 そのあまりに無防備な光景が、私の定義を静かに上書きした。
「あふっ、あふっ! 熱い! でも、おいしい!」
「次はソースで食べてみたいね」
海を割り、巨大な怪物を自縄自縛に追い込んだ超越的な力。
それが今、この小さな円形の「こなもん」を口に運ぶためだけに費やされている。その事実に、奇妙な安堵感を覚えていた。
私は、塩気の効いた夜風の中で、たこ焼きをひっくり返すことに全神経を注ぐことにした。




