34 優しいまなざし
夕食を待つ「ほろ酔い亭」の炬燵。台所から「いけない、塩が切れた!」と女主人フィオーナの悲鳴が上がる。
……塩を買いに行くのか?
気になった私は、思わずフィオーナの後を追った。
フィオーナはサンダルをカランカランと鳴らしながら、銛を担いで駆けていく。夕食の材料の調達方法としては、持ち物がやや攻撃的だ。向かった先は、のどかな商店街――ではなく、どろりと煮えくり返る溶岩の海の波止場だった。
小柄な彼女は、鎖を担ぎ、慣れた手つきで溶岩の海へ銛を投げる。
狙いは背中に塩の結晶を纏った「ソルトサラマンダー」。
ドワーフにとって、塩とは「獲る」ものだったのだ。
獲物を肩に担ぎ、「さあ、ご飯にしましょう」と笑う彼女を見つめながら。
私は無意識に「母」という言葉を再定義する。
宿の食堂へ通されると、溶岩が育む美食――豪快で、抗いがたい料理が並んでいた。
湯気だけで空腹が騒ぎ出す。
溶岩イグアナの香草焼き:パリパリの表面と、対照的にほろほろと解ける柔らかい身。
火晶サソリと熔岩茸の鉱夫鍋:ハーブの香りと絶妙な痺れが、滋養となって体に染み渡る。
石窯根菜のファイヤーフラワーの蜜かけ:スパイシーな蜜が、野菜の甘みを極限まで引き立てている。
そして先ほど狩った、ソルトサラマンダーの姿焼き。味付け不要で、子どもが溶岩で焼いて食べるおやつだそうだ。
私は味覚データを刻むべく黙々と食べ、ルルカスは「おいしー!」と永久に口を動かしている。
店主フィオーナの夫・ガンズは遠洋漁業で不在だが、今日は息子のバンズが獲ってきた食材を彼女が仕上げたという。荒々しい食材ながら、随所に繊細な工夫が光り、一口ごとに笑みがこぼれる。
楽しみは食事だけではない。自家製エールの飲み比べが始まった。生野菜が乏しいこの地では、ハーブと乾燥果実を漬け込んだエールが貴重なビタミン源である。アルコール抜きのものは子供も嗜むという。
酒は思考の処理速度を落とし、代謝に影響を及ぼす。つまり、合理的ではない。しかし、琥珀色の液体を前にすると、その警告灯はあっさりと接触不良を起こす。つまり、私は酒が好きだ。
「……この香りは薬草で使うボア草だな。酸味は乾燥リンゴ、微量のラズベリー、しかし、このほろ苦さだけは、わからん」
フィオーナは目を丸くして笑った。
「そこまで感じ取れたなら、あとは好みの世界よ」
「わたしはおいしーのはわかりますよー!」
ルルカスが陽気に笑い、場を和ませる。
フィオーナも一緒に飲むことになった。グラスを空ければ、絶妙なタイミングでジョッキが届く。バンズは母の重厚すぎるエプロンを磨いていた。そんな息子の背中を見ながらグッと酒を飲むフィオーナ。
確実に繋がっている関係性がそこにはあった。琥珀色のエールが喉を滑り落ちるたび、香草の爽やかさと麦芽の甘みが広がり、笑い声が絶えない。小さな宿「ほろ良い亭」の一角は、優しさと幸福な空気が満ちていた。
***
食後、部屋に戻ると、ルルカスが小さな箱を差し出してきた。「師匠! プレゼントですー」
中には、鈍く、けれど気高く光るミスリルの鉱石。
「買ったのか?」
「うーん、買った……ことになると思います」
ルルカスの説明はこうだ。宝石商の店で「いわくつきの(悪い魔力が込められた)ミスリル」を見つけ、彼女はその魔力を「普通のミスリルになってね」と語りかけてすべて祓ったのだという。
技術を秘匿するドワーフの宝石商は、彼女の類まれな力を目の当たりにし、口外しないことを条件に、代金を受け取らずにそのミスリルを譲ってくれたのだ。
私は鉱石を手のひらで転がしながら、思わず顔がほころぶのを止められない。
ルルカスの力が露見した不安よりも、胸の奥からせり上がる温かさが勝っていた。
いつの間にか、見守られる側になっていたのだな。
これが、誰かに支えられるということなのか。
宝石商から「何に使うんだ?」と問われたルルカスは、「師匠へのプレゼントにするんですー」と満面の笑みで答えたそうだ。ドワーフの主人は二カッと笑い、「おまけだ」ともう一つのミスリルを手渡し、二つの石をネックレスに仕立ててくれたという。
「師匠とおそろいですよー!」
ルルカスが私の首にネックレスをかけた。
その瞬間、パリンと小気味よい音を立てて、希少金属であるはずのミスリルが砕け散った。
!?
「あ、強くかけすぎちゃいましたかー?」
ルルカスは悪びれる様子もなく、砕けた破片にそっと手をかざす。すると、ミスリルは何事もなかったかのように元の形に戻り、私の胸元で静かに揺れた。
?
私の論理回路が、本日二度目の接触不良を起こした。希少鉱石の硬度特性も、魔法による不可逆的な破壊の概念も、彼女の「ごめんなさい」の一言でゴミ箱へ放り込まれた。
二人の胸元で、二度と壊れない(あるいは何度でも直る)ミスリルが、きらりと輝いた。
私は今日の出来事を、まだ理解できていない。




