30 残念な天才
「……あうぅ、頭が痛いですぅ……」
へっぽこは青白い顔で額を押さえ、幽霊のようにふらふらと揺れている。 完全に、昨夜の酒に魂を抜かれていた。
一方で、私はといえば。 日の出とともにパチリと完璧な覚醒を遂げた。
床で寝ていたという客観的事実を冷静に処理し、顔を洗い、身を清める。
転がっている宴会の残骸(料理人たちとへっぽこ)を等しく叩き起こし、胃に優しい軽食とハーブティーを振る舞ってやった。
つまり。私は、一分の隙もなく、正常だ。
記憶が途切れは単なる「記録の欠損」に過ぎない。 へっぽこの誕生日を祝い、酒を飲み、眠くなったので床で眠った。それだけのことだ。
喉の奥にまだ残る、あの竜殺しの熱。
次は、記録が途切れるコンマ一秒前までを、より詳細に観測してやろうではないか。
***
収穫は上々だった。このあたりには薬草を採る者がいないのだろう。
見つけた群生地で無心に指を動かしているうちに、収集袋はパンパンに膨れ上がった。
……なるほど。酒を飲んで「絶好調」とは、この状態を指すのか。
昼休憩。私は食堂で作ったサンドイッチをへっぽこに与え、お茶を沸かした。 咀嚼しながら、ふと気になっていたことを口にする。
「そういえば、魔法が使えるのだよな?」
「はい、いちおう使えますよー」
「なら、少し見せてもらえるか?」
休憩を終えると、へっぽこは杖を握り、胸を張って詠唱を始めた。
「炎よ、我が手に宿り、敵を焼き尽くせ! ファイヤーボール!」
杖の先から、人の頭ほどもある火の玉が産声を上げる。
それは猛烈な勢いで射出された。
――真上に。
太陽へ挑むように昇った火球は、重力に従い、私に導かれるように落下した。
「わあああっ!」
私は全力で地面を転がって回避し、すぐにやかんの残りをぶちまけた。
火力を物理的に圧殺するべく、一心不乱に地面を踏みしめる。
「すいませーん。わたし、コントロール悪いんですー」
森の近くで火魔法を撃たせた、私の配慮不足だ。
森林地帯ならば、風魔法の方が環境に適している。
「次は風だ。風魔法を試してみろ」
私は念のため、十分な距離を取る。
彼女は再び杖を掲げた。
「風よ、刃となりて、敵を切り裂け! ウインドカッター!」
可視できるほどの空気の刃が形成され、放たれる。
今度は逸れなかった。まっすぐ、一点の曇りもなく――私の首を狙った。
「ッ!!!」
私は反射的に身を沈める。鼓膜を震わせる風切り音。
頭の上をかすめた空気の礫が、背後の巨木をスパリと削ぎ落とした。
***
ガサ……ガサガサッ。
森の奥から、落ち葉を乱暴に踏みしめる音が響く。
私は反射的に左手で杖を握り、右手で鞭を構えた。
「へっぽこ!戦闘だ。武器に魔力を通して、首だけを狙え!」
「は、はいーっ!」
茂みを乱雑にかき分け、ゴブリンの群れが飛び出してきた。
「数が多いな」
私は鞭をしならせる。空気を切り裂く乾いた音が響き、先頭の首を正確に捉え、そのまま地面へと叩き伏せた。二体目、三体目。
だが、妙だ。いつもなら血走った眼で襲いかかってくるはずの奴らに、狂気がない。吠えもせず、唾を飛ばすこともなく、彼らはただ――必死な形相で、私の脇を「走り抜けて」いく。
その時、一匹と目が合った。
そのゴブリンは、裂けた口を耳元まで歪めて私に笑いかけた。
「……ゴブリンでしたねー。でも、なんだかこちらを襲う気、全然なさそうでしたよ?」
ルルカスが緊張感のない動作で腰を落とし、死骸から魔石を抜こうとする。
私は鞭を鋭く払い、先端に付着した不浄な血を振り落とした。
「ルルカス、魔石はいい。離れろ」
ゴブリンが戦うことを放棄した”相手”が、すぐそこまで来ている。
***
ギルドの古い資料、冒険者の連続失踪事件。
それはこの森が冬を迎える前に、起きた事件だ。
私の思考に呼応するように、木々の影が爆ぜた。 湿った土を蹴り、巨躯が突進してくる。
オーガ。
身体強化を持たぬ私では、掠めただけで肉塊に変えられるだろう。
私は「見て」いない。網膜が捉えるより速く、脳内では数千通りの予測。
「――ッ!」
鞭を握る右手が、最適解として導き出された。
鞭の先端がオーガの顎を跳ね上げた。
巨体が宙で静止する。手首を返し、次の行動へと遷移する。
二撃目。刃を持たぬはずの鞭。しかし、チンアナゴの「マクラ」が、その質量で肉を抉り取る。左から右へ。右から左へ。 首筋を交差するように削り裂き、血管を断つ。
「射出!」
左手の杖、そこに張り付く陸ナマコの「フトン」が、圧縮された石弾を吐き出した。 無防備な喉を弾丸が貫き、オーガは仰け反って沈む。
呼吸を整える暇はない。私の視線は「へっぽこ」を探す。
――まずい。
別個体のオーガが、狂乱の咆哮とともに彼女へ肉薄している。 再演算。 回避、迎撃、妨害。思考の網を広げるが、間に合わない。
その、刹那だった。
スパッ。
涼やかな風が鳴き、オーガの首が宙を舞った。
そこに、彼女は立っていた。手には、濃密な魔力の刃を纏わせた杖。
「え……今の、私……?」
戸惑い、自分の手を見つめる彼女。
彼女が望んだとおり、杖は魔力の刃となり、完璧にオーガの首を落としていた。
「へっぽこ! あと三体来る!」
私は叫び、彼女の前に立ち塞がる。杖を地に突き、先端に張り付くマクラを限界まで引き絞った。
――ダン、ダン、ダンッ!
前方の空気が濁り、閃光が弾ける。 特製の「目つぶし玉」が炸裂し、突進する三体の視界を奪う。私は杖を構え弾丸を切り替える。フトンに装填したのは、岩盤すら穿つ貫通弾。
シュ、シュ、シュッ。
乾いた音が三度。 盲目となったオーガたちの眉間を、正確に撃ち抜いた。
巨体が、地響きとともに崩れ落ちた。
***
オーガの死体を確認する。角や牙が異常に発達している。魔力を持つ冒険者たちを捕食し、その力を取り込んだ結果か。奪ったのであろう武器や防具を帯びた個体までいた。
……さて。この素材、ギルドでどれほどの値が付くか。輸送手段はどうする?解体すべきか? 思考が加速する。
「よく触れますねー」
へっぽこの呑気な声に、我に返った。 そうだった、言うべきことがあった。
「よくやった、偉いぞ。おまえがいたから安心して戦えた。……ありがとう」
「ダメな子」は褒める。そして感謝を示す。
人間関係を円滑にする最適解としてそう学習している。
……だが。同時に思い出す。
森を焼きかけた高火力の火球。喉笛を掠めた真空の刃。
「武器に魔力を通せ」――あの一言がなければ、私は彼女の魔法で殺されていたか、さもなくばオーガに食い殺されていた。不確定要素の塊である彼女のおかげで、現に私は生存している。
「それにしてもスー、めちゃくちゃ強いじゃないですかー!」
能天気な声を上げるへっぽこを背に、私は倒したオーガの処理を考える。
「ギルドに運びましょう! がっぽりですよ、がっぽり!」
へっぽこはニヘラと締まりのない笑みを浮かべて言った。
組み上がった「そり」は、急ごしらえにしては上出来だった。
「ほいっ……と」
へっぽこがそりに手をかざした。
刹那、数トンの重量物がふわりと浮き上がる。ただの紐を引くだけで、それは驚くほど低い流体抵抗で滑り出した。
「……ホバークラフトか?」
口から思わず、転生前の単語が漏れた。
反重力か、あるいは慣性制御か。……訳がわからない。こいつ、まさか「天才」の類なのか?
へっぽこは得意げに、薄い胸を張る。
「すごいでしょー? こうやっていつも荷物運んでたんですよー!」
「人の天才」は、往々にして理解の範疇を超える。
その不合理な合理を理解することもまた、今の私の学習範囲となった。




