28 モウフ
冬が訪れる前、私は初めて山へ足を踏み出した。 この世界の生成装置を特定し、救済の手がかりを得る。それが旅の目的だ。
元AIとして転生した私に、かつての演算能力はない。リソースは人間の身体のみ。 だが、冒険者としての日々は無駄ではなかった。この身体は鍛えられ、重荷を背負っての山越えにも耐えうる。
街道は選ばない。最短距離である山道をゆく。 資金の節約、地質の調査。そして「登山」という未知の経験への興味。それらが理由だ。 一歩ごとに空気は冷たく澄み、苔と草の匂いが鼻をくすぐる。 野営のたびに地図を描き、採取した素材を記録する。
天体観測も怠らない。太陽の軌道、星の瞬き。地球とは異なる物理法則がそこにある。 歩幅は狭いが、それゆえに道中の変化や素材の手触りが、鮮明な情報として胸に刻まれる。 標高とともに羽虫が消えていく。その事実すら、今は冒険の悦びだ。
夜、星が輝く。
地図を描く指先が、わずかに熱を帯びた。
峠を越えた先で、奇妙な光景に出くわした。 黒漆喰の毛に覆われた熊型の魔物――マウントベア。それに立ち向かうのは、小柄な未知の獣だ。羊か、あるいは山羊か。何度も吹き飛ばされながら、その瞳の光は潰えていない。
吹き飛ばされた獣が、立ち上がりざまに私を見た。 口角を上げ、ニッと笑う。 「私を誘っているのか」 胸が高鳴る。その心意気、買った。
杖をライフルのように構える。 先端に張り付くフトンを、ベアの眉間へ。 さらに、垂れ下がるマクラを足で踏みつけ、反動抑制のために固定し、合図を送る。
「せい!」
それは山を震わせる低い音だった。それは山彦となり、空の端まで届くほどに。
放たれたフトンの一撃が魔物の頭蓋を穿ち、巨躯が大地を揺らして沈んだ。高揚感が、全身を焼くような熱量が、全身を駆け巡る。
「ドエーーー!」 負傷した獣が咆哮した。 木立の陰から、もう一体が姿を現す。腹が膨らんでいる。身籠っているのか。
なるほど。おまえは、その命を守るために戦っていたのだな。 計算外の熱が、胸の奥に広がるのを感じた。
背中の荷を探り、医療キットを取り出す。 「治療する。動くな」 声をかけ、私は対象を観察した。
ヤギ、羊、ラクダ。複数の特徴を混在させた未知の生物。 ギルドの資料にはない。暫定的に「アルパ」と命名する。
数種の薬草粉末を自作ワセリンに混和。即席の軟膏を作る。それを塗り込んだ大判の絆創膏を、傷口へ。 仕上げに包帯を巻き、固定を完了した。 処置の間、アルパはじっと私を凝視していた。
「ふむ。勇敢さに見合う頑丈さだ」 出血はすでに緩やかになっている。代謝効率が極めて高い。 アルパは短く鳴き、つがいの膨らんだ腹へ視線を送った。守り抜いた命の鼓動が、そこにある。
「あいつ、もらってもいいか?」 問いに、アルパが「ドエ」と応じる。承諾と判断した。
マウントベアの生態を記録し、フトンとマクラに「食べてよし」と指示を出す。 アルパたちは、静かに草を食み始めた。
メモをしまい、顔を上げた。 視界に、いつの間にかアルパの群れが形成されている。数十の瞳が、じっと私を射抜いていた。 治療した個体が歩み寄り、低く「ドエドエ」と鳴く。
同行の要求か。 だが、妊娠中の個体を放置するわけにはいかない。私のリソースで守れる範囲には限界がある。
「つがいのあの子はどうする」 私は群れ全体へ、明確に問いを投げた。
刹那、野を震わせる合唱。 「ドエエエエエエエー!!!」
目の前のアルパが、口角を吊り上げ「ニッ」と笑った。 なるほど。群れ全体で保護する、という意思表示か。
この世界の生命は、存外に賢い。 種としての結びつき、その強固なシステムを理解した。
***
馬は高価すぎて断念した。街道の馬車も合理的ではない。 だが、旅の連れがいるというのは悪くない。アルパとの歩行に、わずかな高揚――「喜び」が定義された。荷の運搬も引き受けてくれ、頼もしい限りだ。
「傷は大丈夫か」 問いに、アルパは口角を上げて応じた。
小川のほとりで足を止める。今日はここで野営だ。 焚火を熾し、アルパと火を囲む。 採取した山盛りのベリーを与え、包帯を丁寧に巻き直した。
「私はスーだ。名前が欲しいか」 低く「ドエ」と応答がある。 手触りの良い白毛、そして立派な角。思案の末、最適解を導き出した。 「モウフ。君にぴったりだ」 モウフは満足げに「ドエーーー」と鳴いた。
今後の行程を共有する。 「私はドワーフの町を目指す。その手前で山を下りるが、君との旅はそこまでだ。人里は、君にはいささか窮屈だろう」
描きかけの地図を指し、モウフに説明を続ける。 「ここが出会った地点。そしてここが私の拠点だ。冬の終わりには戻る。再会を望むなら、ここを訪ねるといい」 モウフは地図を注視している。個体としての知能レベルは極めて高い。
女神の焼き印が押された革のアクセサリーを取り出した。旅先での贈答用に用意していたものだ。 裏に小さく、文字を刻む。――『スーの友人』。
「町に着いたら、この刻印を見せろ。誰かが教会へ導いてくれるはずだ。それが私の知人である証拠になる」 首元にしっかりと結びつける。モウフは誇らしげに顎を引いた。
***
翌朝。フトン、マクラ、そしてモウフの体温に守られ、深い眠りから覚めた。
小川でモウフの包帯を解く。澄んだ水で傷を洗うと、組織の修復は既に完了していた。 直後、モウフが身震いをした。水飛沫が散り、私はずぶ濡れになる。
それから十日、私たちは山道を征った。
モウフの知性は、私の予測を遥かに上回っていた。
山の天候は気まぐれだ。突如として嵐が吹き荒れ、雷鳴が空を切り裂く。 一人であれば、予測不能な環境負荷に足がすくんでいただろう。 だが、モウフは天候急変の予兆を察知し、常に私を安全圏へと誘導した。 激しい雷光を見上げながら、かつての世界のUPS(無停電電源装置)を思い出す。
モウフは道を外さず、足場の悪い場所も避けていく。さらに、薬草の群生地や鉱石の採取ポイント、そして息をのむような絶景の場所まで教えてくれた。
私は絶景を見、それからモウフを見た。 「いいガイドだ」 私は言った。 「それとも、いい男のつもりか?」
モウフは短く「ドエ」と応えた。 それは満足げな響きのようだった。生存の保証だけでなく、心の平穏までもたらす存在。 過酷なはずの山越えは、楽しい登山という記憶に塗り替えられた。
「ここでお別れだ。群れに戻れるか」 麓の町を望む境界。モウフは力強く「ドエ!」と応じた。
私は小さく笑う。 「次に出会う時は、その立派な背を私専用の座席にさせてもらう」
「ドエドエ!」 約束を交わすような鳴き声。 私は新しい友人に背を向け、麓へ向けて歩き出した。
私の胸には、消えない余熱と、再会という名の予約だけが残った。




