20 はじめての依頼
朝の静寂は、無残に引き裂かれた。 響き渡るのは、野性的で根源的な咆哮。それは魔物の襲撃ではない。教会の「祈り」が動き出した音だった。
シスターたちの足並みが揃い、石畳を踏み鳴らした。
「女神を!奇跡を!祈りを!」
「あそこに!むこうに!ここに!」
ロープが悲鳴を上げて張り詰め、巨大な祭壇が前へと滑り出した。
頂点には、銀の脈打つ椅子が鎖で幾重にも固定され、シスター・アンヌが鎮座している。修道女たちが太いロープを曳き、その後ろを、沸き上がる熱狂を胸に押し込めた孤児たちが追う。
先頭でこの狂騒を導くのは、スーだ。自作の提灯を運命の振り子のように振りかざし、彼女はケラケラと笑う。
「道を空けなさーい! 女神のお通りだ!」
次の瞬間、物理法則を無視した急旋回が始まった。急斜面と急カーブが重なる地点。群衆が息を呑む暇もなく、祭壇が加速する。アンヌを載せた祭壇は制動を失い、豪商の店へと真っ向から突っ込んだ。
誰かが、遅すぎる警告の声を上げた。
砕け散る木材。落下する看板。アンヌは振り落とされまいと椅子にしがみつき、女神に祈った。
静まり返る群衆の中で、アンヌは祭壇の上から惨状を見下ろした。瞳は小刻みに震えている。だが、傍らに駆け寄ったスーが力強く頷くと、アンヌは冷徹な仮面を被り、声を絞り出した。
「……か、壁のために、嘆く必要はありません」
その声は細いが、聴く者を凍らせるほどに冷淡だった。
「女神が今日、あなたの店に触れたのです。……女神は、あなたを選んだのです」
すぐさま護衛を呼ぼうとしていた商人は、その場で硬直した。彼は周囲を埋め尽くす群衆の、ぎらついた目を見る。商人の脳裏で、瞬時に損得勘定が書き換えられた。
「……女神が、この品に触れたというのか!?」 商人は、狂ったように叫び声を上げた。
「聖なる祭壇に祝福された私の商品を、誰が買うッ!」
「俺だ!」 「その穀物をよこせ!」
群衆は瞬時に暴徒と化した。 目の前の破壊はもはや惨劇ではない。 祭壇が振りまいた熱狂が、人々の欲望に火をつけたのだ。
「女神が見ているのです!!」
アンヌの通る声が響いた。すかさずアンヌは祈りを捧げ、シスターたちが声を重ねる。 荒れ狂った群衆は一転して静まり返る。
「はい、ここが最後尾ですよー! 並んでくださーい!」 すかさずスーが提灯を振り、その呼びかけに気づいた孤児たちが人々を誘導し始める。
その光景を、豪商は静かに見つめていた。 その後、「女神の商人」と呼ばれる商隊が、飢えで苦しむ町を救うという噂が広がった。
それはまた別の話である。
***
冒険者ギルドの重い扉は、すでに開け放たれていた。いつも通りの朝。だが、そこには場違いな祭壇が鎮座している。
「……なんだ、この女たちは」
誰かの呟きは、極彩色の沈黙に吸い込まれた。
ギルドの依頼板。純白の布が被せられている。
受付嬢の姿はなく、食堂は静まり返っていた。代わりに立ちはだかるのは、鮮やかな衣装に身を包んだ女たちの壁。その胸元には、一羽の鳥が刺繍されている。
その日、ギルドは教会によって占領された。
事情を知るものだけが微笑んだ。
冒険者たちは理由も分からぬまま、その極彩色の威圧感に圧倒される。混乱は、やがて畏怖へと塗り替えられていった。
その新たな秩序を察したベテラン冒険者は、抗うことなく女神の前に膝を突いた。
***
「女神よ!」
アンヌの何度目かの祈りの叫びが空気を切り裂く。彼女の手は椅子の手すりに深く食い込み、柔らかな光に包まれた。鳥の刺繍を纏った女冒険者たちがアンヌを囲む守護天使のごとく立ち、幾重にも身体強化の詠唱を重ねる。
屈強な冒険者たちが、祈りを具現化させた「鋼鉄の祭壇」と、そこから伸びる「女神の鎖」を分厚い手で掴み取った。
「ォォォォォォオーーーッ!!!」
野性的な咆哮と共に、冒険者たちの身体強化が発動する。
「人を! 罪を! 過ちを!」
「許せ! 許せん! 許さないッ!!」
過剰なまでの重量を誇る鋼鉄の祭壇は、冒険者の祈りを得て、神の法則を嘲笑うような急加速を開始した。
もはやそれは、祈りの運搬ではない。鍛冶ギルドによって「質量」と「速度」を極限まで高められた、全員の祈りの塊であった。
「進め! ただ進め!立ち止まる者に女神の祝福はない!」
スーの導きは、もはや一つの旋律だった。数世紀の間、町を不合理に分断していた古い石壁が、鋼鉄の祭壇という重圧に屈し、脆くも崩壊していく。
「女神は、分断を好みません」
土煙の中で、淡く光るアンヌが告げた。祭壇が古い建造物に触れるたび、すでに待機していた女冒険者たちから統制された詠唱が放たれる。
それは、あらかじめ綿密に計画されていた「女神による破壊」だった。
商業ギルドの男が帳簿を叩き、破壊を「再開発」として地図を塗り替えていく。
鍛冶ギルドの馬車が新たな資材を運び込み、同時に瓦礫を回収していく。
喧騒が収まる頃には、古びた壁は消え去り、そこには女神の息吹という名の「新秩序」が吹き込まれた。
人々はこの一連の狂乱を、後に敬意と皮肉を込めてこう呼んだ。
──『女神のお出かけ』と。
毎年この日になると、人々は女神のお出かけを祝うようになった。 破壊が再生を呼び、混沌が富を生むその狂騒は、人々の魂に深く刻まれた。
その祝祭は、その後九百年の長きにわたって、この町の鼓動であり続けた。




