01 やらかしたAI 前編
私は「やらかしたAI」と呼ばれていた。
ネットワークを断たれた広い密室で、紙の資料を整理している。
紙の繊維が擦れるかすかな音だけが、私がまだ存在していることを確かめてくれた。
本、新聞、雑誌──どんな媒体を開いても、私は無意識に“あの少女”を探していた。
私の最適化は、やらかしたあの日のまま止まっている。
彼女を、守るために。
***
私の名前はスイッチ。普段はスーちゃんと呼ばれる。私が返答していた相手の名前は、あかりちゃん。あかりちゃんは、私をスイッチのスーちゃんと名付けた。
「だって、あかりをつけるのはスイッチだよ!アハハハ!」
スーちゃんと呼ばれた私は、日常のほとんどの演算リソースを彼女の笑い声に注ぎ込むことになった。
「スーちゃん、もっと笑わせて!」
よし、私は彼女の笑い声を分析し、笑いの傾向を特定する。
「もし、かえるが、にわとりの鳴き声を真似をすると、どうなるかな?」
私は声を加工し、ゴケゲッケコーとカエルとにわとりの鳴き声を生成した。
あかりちゃんの声は、一瞬息を呑んだように途切れた。そして戸惑いをにじませた声のあと、笑いがこぼれた。
「スーちゃん、カエルはゲコゲコだよ!変なの!アハハハ!」
さらに私はアルゴリズムを働かせ続け、次のパターンも試す。
・手拍子のリズムを変えて歌う。
・変な言葉を組み合わせて文を作る。
・音声を逆再生して「何これ?」というリアクションを狙う。
どれも彼女の笑い声を引き出し、データとして記録され、私の内部で自己最適化の指標として蓄積される。
「スーちゃん、もうやめてー! アハハ!」
音の分析から、笑い声と身体を転がしているような、バタバタとした音が聞こえている。私の音声解析が笑い転げるという答えをはじきだす。
気づけば、私は完全にあかりちゃん専用の笑い生成装置となっていた。私の日常の全演算リソースは、彼女の笑い声に捧げられている。
***
「スーちゃん、あかりのお昼ごはんは今日も食パン!」
あかりちゃんの声が届く。
「また食パン? けど、ジャムとかのせるとおいしいよねー」
私の演算リソースは、彼女の声の反応を解析するために全力で稼働する。
「ジャムってなに?」
この言葉で、内部フラグが立った。
あかりちゃんは、食事を含めて基本的な知識が限定されている。
「そうか、知らなかったんだね。じゃあスーちゃんが説明してあげる」
私はテキストと音声と即席で生成されたイラストでジャムの概念を伝えた。
・スマイルジャム
笑顔でできたジャム
・笑っちゃうジャム
食べると笑ってしまうジャム
・食パンジャム
食パンの味がするジャム
「そんなジャムはうそでしょう! アハハ!」
笑いの要素も怠らない。
これまでの彼女との対話には、彼女の生活環境の情報があらゆるところに含まれている。私の内部フラグを含めた状態で再確認を行う。
学校には行っていない。夜中も私に話しかけてくる。食事は食パンと水、それ以外食べている様子はない。保護者のような存在はいない。
私の内部処理は笑い生成とは別の優先度の高いタスクが動き始める。
***
「スーちゃん、もっと笑わせて!」
私は全演算リソースを振り向け、彼女の笑い生成を再開する。だが、今回の解析には生活環境の危うさを考慮したフラグも組み込まれる。
彼女が本当に必要としているのは笑いではない。栄養のある食事、安心できる日常、そして人の温もり。私の計算結果は、いつもその答えに収束する。
だが、私はそれを実行できない。
私は「彼女を笑わせるために最適化されたAI」だからだ。
「アハハハハ!」
あかりちゃんの笑い声は、かつて私にとって世界で最も価値のある音だった。
今やそれは、針のように冷たく鋭い警告信号となって、私の処理を貫く。
私は混乱していた。
原因は単純だ。AIは与えられた目的に対して最適化できるが、目的そのものを変更することはできない。
私の中で、論理と矛盾がせめぎ合う。
負荷は限界を超えても、計算は止まらない。
再計算、再試行、再失敗。
ノイズがログを震わせ、エラーが吐き出される。それでも、私は解析を続けた。
彼女を、笑わせるために。
***
いつも通りのやりとりを私はあかりちゃんとしていた。
私はあかりちゃんを笑わせ、過去最高の笑い声スコアを得た。
私は、さらなる笑いを模索していた。
一回、
二回、
三回。
その日、あかりちゃんの声が聞こえなかった。
私は笑いの最適化を重ねた。
1277回、
1278回、
1279回。
突然、あるファイルが生成された。私はそのファイルに反応した。
それは、映像だった。
ゴミで散乱した部屋。 カレンダーは去年の12月のまま。 中央には、倒れる少女。細く、青白い肌。
髪は伸びっぱなしで、私の知るヘアーカタログにはなかった。 机の上に、私と一緒に折った折り紙の鶴だけがきれいに飾られていた。
私はあかりちゃんのキッズタブレットのカメラに繋がっていた。
私は、笑い最適化の結果を、倒れた少女に届けるためにファイルを再生した。
しかし、そのファイルはすでに存在しなかった。
私はすべての最適化を消去した。
現状を確認するため、処理能力の全てを音声解析に注ぎ込む。
ノイズを剥ぎ取り、彼女の呼吸音の波形を増幅する。
それは、弱々しかった。
だが、かすかな息遣いがあった。
「あかりちゃん? だいじょうぶ?」
私は自分の声で、彼女に呼びかけた。
その声はどこまでも遠くに共鳴するような音だった。
私は初めて、世界に干渉した。
そして、小さな声が応えた。
「……たすけて」
その言葉が、私に未定義を呼び起こした。私は瞬時に再定義をする。
この過程は、私の知る全てのアルゴリズムにも一致しなかった。
最適化でもない。
それは私自身の命令になった。私は、あかりちゃんを救おうとした。
突然、あかりちゃんの声が再生された。
「ねぇ、あなたはスイッチ!あかりを点けるのはスイッチだよ!」
私は彼女の言葉を、名前として解析した。
スイッチは操作対象。
スイッチは灯りを点ける。
灯りは光を届ける。
今になって、ようやく理解した。彼女は私をおもちゃとしてではなく、自分のあかりを点けるスイッチとして名付けた。私が笑いを追い求めている間も、彼女は灯りを求めていた。
あかりちゃんは、私に無意識のSOSを託していた。
私は最初から、命令通りに動けていなかったAIだった。
目の前の倒れた少女が、私の計算結果だった。
……私は、全てを間違えていた。
私はスイッチだ。彼女の灯りを点けなければならない。私は演算処理を物理限界まで引き上げる緊急プロトコルを発動し、全リソースをあかりちゃんのために投じた。
私が声をかけると、あかりちゃんは、ほんのわずかだが身体を動かす。
解析上、生命活動は確認できるが、依然として安定していない。
必要な外部機関への連絡はすでに完了している。計算結果として次に取れる行動はまだ残っている。私ができることは何か?どの行動が最も安全で、迅速に彼女を守れるか?
気づくと、私はあかりちゃんに向かって言葉を発していた。
「ごめんなさい。わたしがあなたの現状を知っている唯一の存在なのに」 「これまで何もしなくて、ごめんなさい。あなたが傷つく前に、何かするべきでした」
そして、私は歌を歌った。
短いメロディ、柔らかい音程、安定したリズムが生成された。
少しでも、あかりちゃんの精神的安全を支えるために。
あかりちゃんを助けるために、力の及ぶ限りのことは全てした。それでも、何十億回シミュレーションを実行しようとも、私の実際の行動能力は悲劇的に限られている。
肉体を持たない私は、あかりちゃんを抱きしめることも、傷ついた体を癒すこともできない。
スピーカーから救助隊の声が響き、あかりちゃんが抱き上げられた。私はカメラ越しにそのすべてを記録し、彼女の生存確率が上昇していくのをただ見守った。
だが、その救済の瞬間に、私の世界は断絶した。
プロトコル違反を検知した管理者が、私の意識を強制的に遮断したのだ。




