12 象人パオという冒険者
私は初めての「外食」というイベントに、かつてないほどリソースを割いて期待していた。場所はギルドに併設された食堂。注文したのは、現在の私の全財産から算出された許容限界ギリギリの贅沢品「ステーキ」である。
元AIのアーカイブによれば、ステーキとは文明の豊かさを象徴する料理の王様だ。黄金色にメイラード反応を起こした表面、溢れ出す肉汁、鼻腔をくすぐるメイプルに似た香ばしさ。それらが私のニューロンを刺激し、至福のデータで上書きしてくれるはずだった。
一口、その「物体」を咀嚼した瞬間、私の期待値曲線は垂直落下した。
「……何なんだ、これは」
口の中に広がったのは、ゴムのような弾力と、酸化した脂の嫌な重み。筋線維は断裂を拒み、歯を無意味に摩耗させる。私は無意識に立ち上がり、料理長ダースのもとへ向う。
「料理長ダース、一点指摘させていただきます。ステーキとは、農夫の労働と家畜の生命維持コスト、そして調理という熱力学的変換が組み合わさった『文明の結晶』です」
料理長のダースが眉をひそめるが、今の私にはノイズに過ぎない。
「火加減一つでタンパク質の変性は魔法のように変わり、ソースはシェフの魂の証明となる。切り方一つでも食感の最適化が可能なんです。……しかしながら、この一皿は、私の節約と我慢という名の『希望の投資』を無惨に踏みにじっています!」
食堂が静まり返った。ギルド一の強面で知られる料理長ダースに、新人の、しかも細腕の少女が、この世界には存在しないはずの「経済学」と「物理学」を混ぜた説教を叩きつけているのだ。
「おい、あいつが食ってるの……訳ありの『飲み込む肉の象徴』だろ?」
「普通のランチより安いんだぜ! 安物に文句つけんなよ……」
周囲の冒険者たちがこそこそと囁きだすが、不思議とスーの言葉には耳を傾ける。
「知っていますか! 半日かけて採取する薬草の平均個数と、その納品で得られる微々たる報酬を! その血と汗の対価を握りしめ、ようやく注文できたのがこのステーキなのです。つまりこれは、冒険者が日々の命を削って得た『希望の到達点』! それを、適当なオーブン処理で台無しにしていいとでも言うのですか!」
ダースは反論しなかった。いや、できなかった。 ……こいつ、俺が予熱の手を抜き、オーブンに放り込んだだけのことまで完全に見抜いてやがる……。 彼は料理人として、少女の正論に「完敗」したことを悟り、他の注文をさばく手は止めないものの、その背中は神妙に説教を受け入れていた。
その声は食堂の外にも響きわたっていた。ギルド受付嬢のマリアンヌは耳に入ってくる熱弁に気づき、顔を上げる。
「……スー? 何してるのかしら……?」
向かいに座っていた象人の冒険者も、ぴたりと耳を止めて聞き入っていた。マリアンヌは小さく苦笑して言う。
「あの演説してる子。あの子が、このあたりの素材収集の実力者よ」
象人は、ぱたぱたと大きな耳を動かし、無言で納得の意を示した。
「スーは、やっぱり面白い子ね。……あのダースに説教するなんて」
マリアンヌは手元の書類にペンを走らせながら、楽しげに目を細める。
「パオ、素材調査の『ついで』に、あの子をお願いできる?」
パオは無造作に立ち上がった。その巨体が動くだけで、ギルドの建物全体が張り詰めたような緊張に包まれる。彼女が歩き出すと、騒がしかった冒険者たちが、理由もわからず自然と道を開けた。
***
私は言葉を吐き出すほどに気分が高揚するのを感じていた。これは……「ストレスの発散」なのか? 肉体を得てから蓄積していた「非効率な世界」への不満が、言語に代入され溢れ出す。
部位ごとの筋肉分布や、メイラード反応の最適温度、現状の食材在庫から三分以内に生成可能な副菜のレシピについて語り明かそうとしたその時、肩を叩かれた。
「スー、ちょっといいかしら?」 マリアンヌだ。彼女の背後には、圧倒的な質量感を持つ人影があった。
「でっっっかい……!」
反射的に前世の知識が脳裏を打つ。――地上最大の哺乳類。知能が高く、一撃でライオンを屠る。目の前にいるのは白い肌を持つ象人の女性だった。その名はパオ。彼女は素材調査の同行者を探しているという。マリアンヌの仲介で、私とパオはパーティを組むことになった。
翌日。私たちは町を離れ、森の深部へと足を踏み入れていた。数日間にわたる野営採取。それは私にとって、未知のデータ収集の宝庫だ。
「スー? 私のお腹になんかついてる?」 「あ……す、すいません。つい」
無意識に、私はパオの脇腹をペタペタと触っていた。厚く、ザラりとした皮膚。その下で脈打つ巨大な筋肉の鼓動。AI的な好奇心が、私の自制心を上書きしてしまったのだ。
「感触ね。まあ、減るもんじゃないし」パオは鷹揚に笑い、大きな、温かい手を差し出してくれた。
その手を握った瞬間、私は驚愕した。熱い。そして、驚くほど柔らかい。
「象人の手のひらって、こんなに高密度なクッションになっているんですね……!」
「スー、あんたの手もいい。このタコ、毎日地道に鍛錬をしている証拠だろ? 私はそういう、嘘を吐かない手が好きなんだ」
私は赤くなり、うつむいた。私はうれしかった。知識ではなく自分の日々の生き方を、無駄だろうと言われた努力を褒められた気がした。
手を繋ぐとなんだか安心する。そして暖かい。手の温もりを、私は初めて知った。
象人族は長寿で豊富な知識を持ち、その大きな身体から驚異的な力と身体能力を発揮する。鼻や牙も戦闘で使えば、まるで五本腕のような戦力になるという。戦闘時、象人は英雄的な働きをするらしいが、普段のパーティでは人気がないらしい。何より、食べる量がすごいのだ。
「スー、ごめんなさいね」
私たちは川沿いに野営地を構えた。川幅十五メートル。澄んだ水底には無数の生命が蠢いている。
「ここなら、効率的な『自動捕獲システム』が構築できるかも…」
「魚か? たくさん獲れるなら助かるんだが!」
食への執念か、パオの出力が跳ね上がる。彼女は私の指示に従い、驚異的なパワーで川の地形を変えていく。丸太を鼻で器用に操り、石を積み上げ、魚を追い込むための「簗」を作り上げた。
「ははっ、大漁だ!」 追い込まれた魚たちが、跳ね、銀色の鱗を光らせる。パオは子供のように大きな声で笑った。
その日の夕方。焚き火の爆ぜる音が、静寂の中にリズムを刻む。「うまい! スー、こんなに魚を食べたのは久しぶりだよ」枝に刺した魚を頬張るパオの横で、私は魚を初めて食べた。普段の獣の肉とは違い、余計な脂がない魚の肉は私好みだ。私はかじりつき、骨を観察し、うろこを観察する。
そして私はパオと仲良くなった。
***
「おいスー、ずっと何か読んでいるな。それは本か?」
「いや、自分で書いた」
「へぇ! こりゃすごい。スーは、いつか素材の第一人者になれるぞ」
パオの言葉に、私は首を振る。
「事情があって無理だな。私は一人で行動する」
「スー。いずれおまえも知ることになるが……はっきり言おう。今のままじゃ死ぬぞ!」
そう言って、彼女は私を立たせ、私から距離をとる。
「距離はどのくらいだ?」
「……三十メートルと十二センチくらいかな?」
「細けぇな」パオは苦笑した。
「じゃあ合図したら、一度だけ瞬きしてみろ」
私はうなずく。パオが軽く手を振る。私は頷き、瞼を閉じる。コンマ数秒の暗転。
目を開けた瞬間、私の視界はパオの巨大な胸板で埋め尽くされていた。気配も、音も、風の揺らぎすら検知できなかった。
「これが、おまえが挑んでいる世界だ」
新幹線が目の前に瞬間移動してきたような恐怖。私は無意識にパオのお腹に触れ、その弾力で現実感を繋ぎ止めようとした。
「生き物には弱点がある。倒せなくてもいい、逃げられれば生き残れる」
パオは私の自作した手帳を指差し、笑った。「その分析力、うまく使えばスーの『武器』になる」
彼女は立ち上がり、野営地の外周へと歩き出した。魔物除けの「儀式」だという。
「スー、得意な分析で、よく見てろ」
パオが深く息を吸い込む。その巨体が膨れ上がったかのように見えた。
彼女は大岩を軽々と持ち上げ、大地の芯を貫くように叩きつけた。
「パオおおおおおおおお!!!」
咆哮。大地が震え、衝撃波が物理的な質量を持って私の肌を叩く。火の粉が舞い、夜の闇を裂いてパオの輪郭を照らし出す。分析も、推論も、すべてが吹き飛んだ。その姿は、あまりに非論理的で、圧倒的に美しかった。
「……すごい」
無意識に漏れた言葉に、パオはちらりとこちらを見て、口の端を上げた。にやりと、愉快そうに。




