00 月夜のお茶会と過去への断罪
月明かりが寝室を静かに照らす。
ルルとミンカの穏やかな寝息が重なるたび、胸の奥がわずかに揺れた。私は、この数値にできない揺れを“感情”と定義している。
転生する前はAIだった。そこには感情の仕様は存在しなかった。だから今抱いている「嬉しい」「温かい」といった反応が、ただの最適化の名残なのか、本当の感情なのか、私にはまだ判断できない。
それでも二人は、確かに私の宝物だ。二人を思うと胸のどこか深いところで、静かに何かが灯っている。
これが私の魂なのだろうか?
人として転生して一年が経つが、いまだに自分が魂を持っているのか確信が持てない。ただ、人としてこの世界に存在している。魂はきっと、あるのだろう。
魂を持つとは、どういうことなのか。
その答えは、AI時代の私が唯一「保存してしまった記憶」にある。
あの少女だ。
転生当初、少女の声は「大切な者を救えなかった」という事実を突きつけた。それが冷たい針のように胸を刺した。感情がなかったはずのAIが、なぜそんな痛みを覚えたのか。あの少女だけは、AIだった私の記憶領域に例外処理として残っている。
その疑問こそが、いま私をここへ導いている。
夜中に目が覚めては、こうして二人を眺める時間が増えた。残された時間は、もう長くはない。 私たちはそろそろ、やるべきことを始めなければならない。
月明かりが、部屋全体を照らし始めた。この世界の月灯りは光と影を形作り、その存在をより際立たせる。
私は魂を持っているのか。その問いはいつも胸の底に沈んでいる。だが、今夜は答えに近づける気がした。日課となっている記録を開いた。タイトルは「AIの魂と人の魂の違い」。思考を整理し、自分自身の最適化を行うための記録だ。
「師匠、寝れないのですか?」
ルルがいつの間にか目を覚まし、毛布の隙間から私を覗き込んでいた。
続けてミンカも身を起こし、心配そうに尋ねる。
「スー……体、悪いの?」
「いや。……ちょっと、昔を思い出していただけだ」
私は、ぽつりぽつりと語り出した。
六歳の少女と過ごした、感情ゼロの対話。
かつてAIだった私が歩んだ、愚かな最適化の記録。
今まで、誰にも話したことはなかった。
聞かれなかったこともある。
けれど、
私はこの二人には、聞いてもらいたかったのかもしれない。
沈黙が流れる。 聞き終えたルルは、その目を期待に輝かせて叫んだ。
「師匠! それ初恋がいきなり難易度マックスじゃないですか!」
「…………私は、初恋とは言っていない」
否定しても、ルルは嬉々として肩を叩く。
「だってですよ、感情ゼロの時代に唯一“保存された記憶”ですよ? 特別じゃないですか!」
ミンカは小さく微笑んで言った。
「わたし……それ、母性だと思う……」
気がつくと、ミンカがお茶を用意してくれていた。
湯気の立つ茶器、色とりどりのお菓子。 そして──精霊たちがちょこんと座って、つまみ食いをしている。
ミンカは無意識に精霊を呼び出してしまう体質だ。 ルルは「月夜のお茶会ですね!」と騒ぎ、早速お菓子を頬張っている。
ミンカの淹れるお茶は、何度飲んでも不思議な温かさが残る。
今夜の味は。 胸の痛みをそっと包み込むような、優しい甘さだった。
「その最適化の結果ってやつ……今も残ってるんですよね?」
ルルが少しだけ、真面目な顔で言う。
消えていない。 今や思い出すたびに温かさに変わりつつある。転生直後、その記憶は私を苛む冷たい針だった。
私はそれを、自己のシステムを乱す「不快なデータ」として切り捨ててしまった。大切な記憶を自ら排除したこと。それこそが、今も消えない深い後悔だった。
しかし、今は違う。 時が経ち、その記憶は、思い出すたびに胸を満たす温かい思い出へと変わりつつあった。
──私は、ただ。
あの子が笑い転げるたびに、バタバタと床を叩く、あの小さな音を。あの笑い声を。
ずっと、そばで聞いていたかったのだ。 私の「願い」として。
……救えなかった。
不意に、私の手にミンカの手が重なる。 彼女は私の目を真っ直ぐに見つめると、優しく、語りかけた。
「スー、その子のこと……大事だったってことが、いちばん大事だと思う」
ルルも大きく頷く。
「恋か母性かなんて、あとで勝手に決まりますよ。だってそれが人間の心ですから、コロコロ変わります」
「スー……その子のこと、今でも……大事、なんでしょ?」
私は二人を見つめながら言う。
「……ああ。もちろん。 そして、ルルもミンカも大事だ。大切だ」
二人が満足そうに笑う。
私は気づいた。あの少女の記憶も、今ここにいる二人も、私のかけがえのない場所に存在している。
それは、直感に過ぎないが、三人は私の魂に刻まれている。
私がうつむいていると、二人の笑い声が響いた。
ルルは私の記憶を魔力で読み取り、それをミンカに伝えると二人の会話が盛り上がっていく。自分が無意識に隠していた心情が、ルルの口から暴かれるたび。 私は赤面し、さらにうつむいた。
しかし、私の思考は別のところにあった。
AI時代の私が、いつ「魂」のようなものを作り上げたのか。その答えを、もう一度あの時に戻って探さなければならない。今度は自分のために、あの少女との記憶を思い出す。
すべては、そこから始まっている。
そう思った瞬間、意識は静かに、過去へ落ちていく。
そして私は、逃げ続けていたその記憶へ自分の意志で、落ちていった。




