(五)四
平治郎はまだ何も肝心なところを聞いていない。
こたけの知る限り、当代の和嘉葉屋平治郎は慎重な男だ。脇を固めながら、わざと最後まで大事な質問を取っておくようなところがある。
ところが先に話の核心へと触れたのは寅吉の方だった。
「若旦那。明王様の祠の中身を知っているか」
平治郎の用心深さをわかっていて、わざと切り出したのかもしれない。思惑はどうであれ、まるで世間話の延長のような尋ね方で、寅吉は呑気な口調を崩さなかった。
「今はもう若様じゃないんだがね」と言いつつ、平治郎は肯首する。
「知っているよ。あの祠は空っぽだ。この町の人々が祀るものすべてが、あの中にいなければならないからだ。祈る者の心次第で、祠の中身も変わるということだろう」
祠の中には唯一、木製の札だけが置かれているが、その札には「総べての者を映す鏡である」という意味の古語が彫られている。
しかし寅吉は「違う」と首を振った。
「昔は、最初はそうだったのかもしれねえ。けど、あの祠の中にあるのはただの『鏡』だぜ。あの祠の前で祈るとき、目の前にいるのは神でも仏でもねえ。自分だよ」
平治郎は少し困ったように、顔を手で拭いながら尋ねた。
「確かにそういう考え方があることも知ってはいるが。心を映す鏡がまずあるのだろう。そこに映るものはその人の心次第で、いかなる神の姿にも成ろう、という意味ではないのか」
「心次第だとか、心の持ちようっていうのは、その通りかもしれないな。でもあれは、もっと単純なものなんじゃないか。あんたたちは難しく考えすぎで、本当にただの『鏡』なんだよ。鏡に映った自分に祈って救いを乞う。何て言葉で言えばわかるだろうなぁ。自分を神と勘違いしたまま、自分自身と知らずに祈ることは、なんとも複雑で厄介だ」
寅吉は思案するように少し黙ったが、緩慢に首を振りながら、さらに続ける。
「なんであの祠がそうなっちまったのか知らねえが、ありゃあ良くないと思うぜ。一体この先、どうなるものかね。供物番なんかも置くのをやめて、あの付近にはもう誰も近寄らせない方がいい。さわらぬ神に祟りなしなんて言うんだろう? あれは神じゃないけどな」
先ほどまで舟に打ち付ける波音がうるさかったのに、一瞬それが凪いだ。寅吉が、ひょいと舟から身を乗り出して水面を覗く。つられるように、平治郎も舟の外を覗き込んだ。
「そういえば杖を持っていないじゃないか。足元が見えるのか」
「いや、見えねえ。前の方がましだったくらいだ。でも、不思議と今のほうが歩きやすい」
そうか、と呟きながら、平治郎は佇まいを直し、忙しなく頬や額を袖で拭う。先ほどから小雨はやんでいた。
「時代の流れでね。ここ数年は供物番も置かなくなったんだ。だが寅吉、ここだけの話だ。おまえが余四郎とともに消えたのは、十二年前の大晦日だった。あの日、おまえたちがどこへ行ったのか、何があったのかを聞かせて欲しい」
ようやく腹を据えて言ったものの、平治郎は随分と顔色が悪い。それに引き換え寅吉は、表情も声音も飄々としている。
「いいけど、余四郎のことはよく知らねえよ。山で死にたくて死にたくて仕方なかったようだからな。念願叶って幸せなのかね。それはともかく、俺のことなら多少話せる」
寅吉の口から兄の名が出た瞬間、こたけは我に返った。握りしめていた櫂から片手を離し、手のひらを見る。知らず知らず力を込めすぎて、まめが破けたのだ。あちこちから血が滲んで真っ赤になっている。
血を洗うため、こたけはそっと海中に手を差し入れた。握っていた櫂の持ち手が汚れてしまったので、それも撫でるように洗い流してやる。
なるべく音を立てないように、静かに。
こたけは緊張していた。けれど、寅吉の話すことを、もう一言たりとも聞き逃したくはなかった。