(五)二
曇天のような朝靄は束の間だったのか、既に海は、少し先の岬を見渡せるほど晴れていた。代わりに小雨がしっとりと肌を濡らす。幸い、田畑が痩せてしまうほど寒くはないが、今年は本当に雨が多い。
こたけは小舟の先に立ち、自分の背丈より大きな櫂をぐいと引いて海面をかいた。この程度の小さな舟ならば、その扱いにも慣れたものだ。大岩で浅くなっている場所や、潮の流れの変わり目など、通ってはいけない路もとっくに把握している。
女を船に乗せない地域も多いというのに、この町では気にする様子もなく、むしろ使える人手を使わないことを勿体ないと感じるらしい。
浜が留守の間も、こたけは変わらず和嘉葉屋の仕事を手伝っている。いつものように朝支度をして店へ赴くと、早速、当代店主からお声がかかった。
妙に顔色の悪い平治郎に言われるまま、沖合までせっせと舟を進める。
舟には平治郎の他にもう一人、こたけには見慣れない人物が乗っていた。上背はあるが、ほっそりとした白っぽい四肢にあどけなさが残って見える。
こたけよりも年下であろうこの少年を、どうしてか平治郎は畏れているようだった。
緊張した面持ちの平治郎とは対照的に、少年は肩の力を抜いて潮風を愉しんでいるように見える。船上で身体を揺さぶられながら、時折り気持ち良さそうに目を瞑った。
こたけは平治郎から、ひと気のない沖まで行けとしか命じられていない。この辺りで良いかと尋ねると、平治郎ははっとした表情をしたあと、こくりこくりと頷いた。
「本当に遠くまで来たものだ」と、取り繕うように少し笑う。景色などろくに見ていなかったようだ。
「こたけのことを覚えているか? この娘は余四郎の妹だよ、寅吉」
寅吉。その名を聞き、思わずこたけは身を硬くする。
「へえ、妹はまだこの辺りにいたんだな。まあ、一度ここへ来ちまったら、もう他に行くあてもないか」
ほとんど見えていないという瞳を向けられ、今度は息が止まりそうになった。
こんな黄金色をした目を、どこかで見たことがある気がする。狐だったか蛇だったか、何だったかは忘れた。ただなんとなく、言葉の通じない獣に見つめられているような覚束ない心地がする。こたけは櫂に気を取られたふりをして、寅吉から目を逸らした。
寅吉。浜の弟。かつて供物番に選ばれ、一度は戻ってきた子ども。そしてその翌年、こんどこそ姿を消した。こたけの兄・余四郎とともに。
平治郎は、目の前にいるこの少年を確かに寅吉と呼んだ。きっとその通りなのだろう。平治郎の態度はややぎこちないが、二人の会話に齟齬はなく、昔何があったのか、これまでどこにいたのかと、平治郎の問いに答えれば答えるほど、彼があの寅吉に相違ないことを知らしめたのだった。
「お母が俺を煙たがったのは仕方ねえ。俺はお母に悪いことをしたとは思ってねえが、お母に俺を押し付けたお父は悪い。俺にだけ洗礼を受けさせて、ベネジクチウスと名付けたくせに。その尻拭いをしないで、俺を置いて一人で逃げた」