(四)五
――きっとおまえは、父様の言いつけどおりに山で死んでくれたんだろうな
だから俺はもう、どこででも死ねるよ。松吉郎。
きっとあの山が欲しかったのは、あと一人分だったんだろう。
おまえを最後に姉持山の神様は満足したに違いない。ありがとうな。俺はきっと、どこへでも行ける。
ありがとうな、悪かった。ありがとうな――。
所詮、人が頭で考えて判るはずがないことだから。
姉持家の掟はきっと、神や山が、人を超越した何かが決めたこと。そんなものは得てして不可解で理不尽なのだ。だから重三は自ら『掟』を改めることにした。
松吉郎が姉持家の最後の一人。山への返済が済み、呪縛は終わった。そう思い続けていれば、本当にそうとしか思えなくなってくる。妹や母が、平気な顔で浜暮らしをしているのも、まさにその証だと感じた。
そうでなければならないのだ。
山は応えてくれない。父も祖父も、もう何も教えてくれはしない。唯一不確かでないことは、重三が今生きながらえているというただ一点。親から与えられたものではなく、自分自身に従って生きてゆかねばならない。
答えを欲して決めかねている限り、ただ幻のように死んでゆくだけなのだから。
去年の暮れから、重三が転がり込む形で一緒に暮らしている女がいる。名をにをと言った。
にをの家の女は、代々近くの尼寺で小間使いをしながら産婆の仕事をするのが伝統らしい。男はというと、近くの湖で近隣の者達と網仕事をするのだそうだ。
にをの家は古く大きい。重三の育った家も立派で広かったが、あれとはちっとも似ていない。にをの家は美しい湖のほとりにある。湖の対岸には東西にかけて大小いくつもの山が連なって山脈を形成していたが、山際までは舟で行くのが最も早く、歩いて行くのは難儀だった。それほどまで広大な湖なのだ。彼女たちの住まう場所を「山麓」と呼ぶには、あまりにも遠すぎる。
「俺はこれからも、にをと暮らせそうだ。水辺のあの家で」
その祠には『明王様』などいない。重三はそれを知っている。
にも関わらず、こうべは勝手に下がり、気づけばかしずき手を合わせていた。
その格好になると、自然と祈りたくなった。消えた弟に。
両手のひらをぴたりと付けたその間に込めたのは、弟への感謝なのか、哀悼なのか、謝罪なのか、あるいは何かを求め願うような強欲な気持ちなのか、自分でもわからない。それでもしばらくそうしていた。冷たい風に身体中を叩かれても構わず、膝を折ってただ祈り続ける。
今夜だけゆっくり母と妹と過ごしたら、日の昇る前には家を発つと決めていた。にをが身重なのだ。桜の蕾がふっくらとして鱒が獲れる頃、重三は湖のほとりにあるあの平らな町で、父になれる。
――姉持山よ、おまえが松吉郎を持っていったのか。あの山のどこかに俺の弟は今もいるのか。
いや。
どこでもいいな、もう。呪いだろうが何だろうが、それは今生きている人間が背負うものだろう。
どうか、どうかまだどこかに居るなら、俺のちいさな弟の魂が、父が、兄たちが、姉たちが、苦しみもせず、腹も空かせず、ずっと幸せでいられますように。