(三)三
寅吉が実の母により供物番に差し出された冬。それはちょうど、こたけが家族とともに流れ着いたこの町で、初めて迎える年の瀬であった。
寅吉はその年の大晦日の朝、誰もよりも早く起きて布団を片付けると、日の出とともに家を出て行ったらしい。母と浜は信じられない思いでそれを見届け、どこかぼんやりとしたまま一日を過ごしたそうだ。
「その日のことはよく覚えていないのよ。私たち、弟を殺したようなものじゃない。なのに誰からも責められないし、弟も本当に普段通りの顔をして出て行ってしまったの。なんだか夢みたいで、母も私も日がな一日ぼうっとしてしていたわ。でも年が明けて朝になったら、やっぱりいつも通りの顔をして、ひょっこり寅は帰って来たわ。その年は他にも二人の供物番がいたの。なのに、寅だけが帰って来たのよ」
他の二人はどうしたのかといくら聞いても、寅吉はぽかんとして答えなかったという。
寅吉は二、三日の間、魂を抜かれたようにぼんやりと過ごしていたが、その後はすっかり常の調子を取り戻したそうだ。ただ、不思議と自分が供物番に選ばれたことを、ぽっかりと忘れていた。
少し暖かくなってきた頃のことである。寅吉は遠方に住む姉夫婦から小間使いを頼まれ、珍しく数日の間家を留守にしていた。
そんな中、浜は買い物をして自宅へ戻る途中、外で家の板戸を直している余四郎を見かけ、声をかけた。
――まあ、いつもえらいわね。お母上は留守かしら。姉から綺麗な古着を貰ったんだけど、裾がつめてあるから私には半端なの。たけちゃんにどうかしらって。
浜は、ひそかに余四郎へ声をかける機をうかがっていた。
もしも寅吉が、供物番をしに出掛けたあの日に何が起きたかを打ち明けるとしたら、相手はきっとこの余四郎に違いない。そんな目算があった。
そうしてしばらく他愛ないことを話した後、浜は余四郎に弟のことを尋ねてみた。以前と比べて変わりはないか、おかしな話は聞いていないか、と。
「そうしたらね。あなたのお兄さん、こう言ったのよ。供物番とは何ですか、って。まるで何も知らないふうに、きょとんとしてね。それがなんだか、供物番に行ったことを忘れてしまった寅吉そっくりに見えたのよ」
そしてその年の最後の日、寅吉は再び供物番に選ばれ、今度こそ姿を消した。ところが、どうしてかそれと同時に、供物番ではないはずの余四郎までいなくなってしまった。隣人からそれを聞いた浜は、すぐに明王様の祠を探すよう、町の男連中に言ったそうである。
「だって私には、きっと寅吉と一緒に行ったのだと思えてならなかったのよ。大旦那様の話では、無関係の人がなぜか供物番と一緒に消えてしまうことは『神隠し』と呼ばれて、昔から稀にあるんですって。でも、それでは」
浜は貝を洗う手を止めると、思案するように黒々としたまつ毛を少し伏せた。
「供物番が消えてしまうのと神隠しって、いったい何が違うのかしら。もっとも私は最初から、神様が嘘つきや役立たずの子どもを攫っていくなんて信じていないけれど。それでも何か、供物番が消えてしまうのって不気味で恐ろしくて不思議。供物番が消える理由は、大晦日に祠へ行くからなのかしら。本当に? だとしたらなぜ、いつから? 私は、どこかで意味が違っているように思えてならないの」